死刑を宣告されて収監された人間が生き延び、再逮捕された時、別人になっていたらどうなるか?
今回は、それが人間ではなく金魚が主人公、その運命はどうなるのか? これからが見ものです。
三重県志摩市の水族館「志摩マリンランド」で巨大金魚が見つかったというニュースには驚きました。
本来は、3センチほどの大きさで死を迎える餌用金魚が、なんと7年も逃げ延びて体長25センチ、体重360グラムの巨大金魚に育っていたのです。
以前、「獲物」という短編小説を書くために、巨大魚を人工的につくる仙台市のある研究施設を訪れて巨大金魚を見ているだけにこのニュースにはすぐ興味を持って反応しました。それにしても、祭りの夜店の金魚掬いに使われる安物で、飼育魚の餌として売られている種類の金魚です。以前、私もイワナ釣りの餌として東銀座にある淡水魚専門店から買っていましたから、なぜか身につまされます。
水族館の里中館長の談話では、この金魚は、水族館の人気魚で、アマゾン川流域に生息する世界最大の肉食淡水魚「ピラルク」のエサとして与えられた金魚の中の一匹で、「ピラルク」の水槽の排水口横の直径1センチの小さな穴に逃げ込んで脱出し、地下の浄化槽に潜伏していたそうです。その浄化槽は真っ暗闇で、潜伏7年の間に赤い色素が抜けて黄金色に輝いているとか。
どうして、こ巨大金魚が今まで発見されなかったのか?
この地下浄化槽(縦5メートル、横3メートル)は定期的に清掃しているが普段は真っ暗闇で、飼育員らは投光器を片手に作業していたため、洗浄の水流に耐えて深さ30センチしかない浄化槽の隅に身を隠していた金魚に気付かなかったのです。浄化槽の底には砂が敷きつめられていて、そこにはピラルクの水槽から栄養のいい固形エサ(金魚から変わった)の残りカスなどが流れ落ちていて食べものは豊富だったようですが、浄化槽にたまったゴミを除去する月1回程度の清掃作業で流す「逆流」と呼ぶ浄化槽の水を巻き上げて砂に溜まったゴミやピラルクの糞を外に流す水流はかなり強烈で、これを浄化槽の隅でじっと耐えていた金魚の生存意欲もかなり凄まじいものだったと考えられます。
この水族館の目玉は、世界最大の淡水魚で生きた化石で知られる古代魚「ピラルク(最大3メートル)」です。
その餌として与えられた金魚が凱旋して、その横の水槽で、善玉「黄金の巨大金魚(最大30センチ)」が悪玉「肉食魚・ピラクル」から人気を奪うのは間違いありません。
ただ、餌として他の魚に与えられ一度は殺されかけ、必死で逃げて自力で生き抜き、光もない世界で孤独に耐えた巨大金魚が、今度は同じ殺戮者の手でそこの目玉商品にされるのを潔しとするかどうか? 金魚にも武士の魂があったら何というか? こんなことを考える私がおかしいのか? 金魚の最大寿命は約20年、この巨大金魚の雌伏7年後の華やかな凱旋を横目に、私もこの鬱々とした物書きの「書きかけ未完成状態」からの脱出を図るべく「よし、生き返るぞ!」と、気合を入れたところです。
釣り人の大往生・那賀川
この1文は、以前、月刊誌「つり人」に連載していたエッセイの再掲載です。
釣り人の大往生 那賀川
「伊豆の那賀川に逝く」
花見 正樹
事件記者「熊さん」最後の舞台
かつてNHKの人気テレビ番組「事件記者」の熊さん役で親しま
れた外野村晋(とのむらしん-本名小野三郎)さんが、緑濃い樹木
に包まれた伊豆の那賀川で八十二歳の人生を閉じたのは平成六年六
月一日の午前四時、山深い清流はまだ夜の名残りをとどめていた夜
明け前のことです。多くの人々に惜しまれての人生でした。
山形県出身の外野村さんは、シャンソン歌手の芦野宏さんが会長
を務める芸能人山形県人会の副会長として会の運営を補佐してきま
した。その外野村さんは、平成二年十一月に山形市で行われた同会
の初代会長でもあった故伴淳三郎を偲ぶ会の記念誌上に、挨拶に添
えて得意の句を寄せています。
「菊晴れや アジャパア 今日の伴淳祭」
その記念誌の編集者で、会の事務局になっていた芦野事務所の責
任者でもある私の友人の藤村知弘さん(60)は、今回の取材に同行
して外野村さんを悼んでお返しの一句を詠みます。
「鮎と群れ 遊ぶや熊さん 那賀川に」
春たけなわのある日、外野村さんが逝って五年になる西伊豆那賀
川への取材の旅に出ました。大仁に立ち寄り神島橋近くに在住の、
狩野川漁協や教育委員会の仕事を歴任して伊豆の生き字引といわれ
る飯田照男さん(65)もお誘いして三人で西伊豆松崎へと向かいま
した。同行頂いた釣友の飯田さんは、地元の長岡小学校校長で教職
を去りましたが西伊豆でも教鞭をとっていたこともあり、知己も多
くどこにでも顔が利きます。
地味なバイプレ-ヤ-だった外野村さんは無類の釣り好きで、俳
優として油の乗った四十代半ばには趣味が嵩じて釣具店(小野晋平
経営・とのむら釣具店-TEL〇三-三七五七-〇二七一)を開い
ていたほどでした。子息の晋平さんも「時々は、父親と釣りに同行
したものです……」などと、藤村さんに語っています。
趣味の釣りで店を出し、好きな鮎釣りに出て逝ったその人生の幕
引きも、好きな西伊豆那賀川だったということで、ご遺族の方には
申し訳ありませんが、やはり「大往生」だったと思います。
その藤村さん、飯田さんと連れ立って西伊豆に向かうと、ちょう
ど桜の季節で、河津川の桜が満開で車が大渋滞でした。私達も海側
の土産屋の駐車場に車を入れ、飲み物片手にしばしお花見散策とし
ゃれました。それからまた移動です。
現場は、花とロマンの里・松崎町の国道一三六号線を宮野前橋か
ら那賀川を桜並木沿いに山路を数キロ上った大沢温泉地区です。
緑に包まれた渓相のいい川ですが、二日前に降った大雨でかなり
の増水があったとかで底石はきれいに洗われています。まもなく鮎
の季節で小鮎がキラキラと姿を見せていました。
川ヤナギの古木が岸辺から大きく枝を張って清流を覆っている対
岸が外野村さん終焉の地でした。
外野村さんは、この那賀川をこよなく愛していて十年ほどこの川
で鮎の解禁を迎えていた様子です。この年の解禁日前夜も親しい釣
り仲間と四人で定宿の民宿「こんや」(渡辺雄市・はつえ御夫妻経
営・TEL〇五五八-四三-〇一〇六)に泊まっています。宿の切
り盛りをする渡辺はつえさんもしんみりと懐かしみます。
「夫(雄市さん)がこの川に合った鮎の仕掛けなどを教えると素直
にそれを真似て準備していましたし、言葉少ない人でしたが冗談も
けっこう言ってましたですよ」
松崎町民宿組合連合会の会長(99年現在)として松崎温泉郷約一
八〇軒の民宿をを束ねる渡辺雄市さんも残念がります。
「鮎釣りは上手とは言えんが、とにかく釣りが好きで負けず嫌いな
ところもあり、釣りの話になると夢中でしたよ。うちに二日ほど泊
まってあまり釣れないと仲間を誘って河津川に移動して、また二日
ほど遊んで帰ったということでしたな」
鮎釣り人にとって解禁前の夜ぐらい時間の経過が遅く感じる日は
なく、多少のお酒では眠れません。午前三時、外野村さんも軽く仮
眠をとった状態で仲間と宿を出たといいます。川はまだ闇に包まれ
ている時間です。那賀川は宿のすぐ前の道を隔てた至近距離にあり
、明るくなってからでも竿は出せますが、いい苔の付いた一等地に
入るには夜の内に場所決めをしておきたいのは当然です。
外野村さん達四人は二手に別れて、懐中電灯の光を頼りに明るい
内に狙いを定めていた何カ所かの好場所を見てまわり、先客の有無
を確かめました。そして、午前四時近くなった頃、外野村さんは友
人と二人で、前述の川ヤナギの古木の下から対岸に渡ることにしま
した。対岸に腰を下ろせるほどの大石が三つほど辺地の流れに頭を
大きく出していて、その前の流心の深みに黒光りした大石が流れに
沿って沈んでいたようです。
外野村さんは、友人の肩を借りて川を渡り始めました。水深は四
〇センチほどですが流れは見た目より速く、苔の付いた底石はよく
滑りますので、オトリ函や背負い籠などのフル装備などではバラン
スを崩しやすく油断をすると足をとられます。
あとわずかで対岸という位置で友人が足を滑らせ外野村さんも一
緒に水中に倒れました。あわてて態勢を立て直した友人がすぐ外野
村さんを助け起こしましたが、その時、外野村さんの身体からはす
でに力が抜けていたそうです。友人は声をかけながら必死で岸に寄
り、外野村さんを抱き抱えたまま水辺の岩に腰を下ろし、懐中電灯
を対岸の道路側に大きく振りながら声を限りに叫び続けて救いを求
めました。錯乱した中での対策としてはせいいっぱいだったと思い
ます。その辺りにいる釣り人の目にには当然、その電灯の光は見え
ていたはずです。ところが、その光の輪は、居場所を知らせる仲間
への合図としか思われなかったようです。やがて、その懐中電灯に
気づいた人がいます。上流で新居屋という民宿(現在は廃業)を開
いていて、当時漁協(那賀川非出漁業共同組合)の副会長でもあっ
た依田猪佐美さんが、知り合いの若者と土手の上に立っていて、そ
の光の輪をおかしいと思ったそうです。
とりあえず様子を見ようと急いで駆けつけ依田さんは、その友人
の口から緊急事態であることを知らされ、仲間を集めて川から二人
を助け上げると、すぐ警察に通報しました。
しかし、外野村さんの呼吸はすでになく、救急車に乗せられたと
きも腕がだらんとしていたそうで、警察官が来たときにはすでに死
亡していたといいます。検視の結果、死因は急性心不全と判明して
います。おだやかな表情だったそうです。
外野村さんが、仲間とよく食事をしたという同地の食事どころ「
鮎の茶屋」(山本真墨経営・民宿TEL〇五五八-四三-〇二八二
)を訪ねてみました。大自然の仙境と素朴で静かな山間の茶屋と、
大輪の花が咲いたような真墨さんの明るさに外野村さんは惹かれた
のかも知れません。町役場の観光課に勤める真墨さんの夫の一司さ
んが仕留めた天城の猪の肉やイワナの塩焼き、山菜料理などを食し
ながら冷えたビ-ルを飲んでいると、外野村さんが通った奥伊豆の
豊かな旅情が伝わってきます。
「おとなしい方でしたが、フッと冗談を言ったりして……」
真墨さんが言い、外野村さんの色紙を持って来ました。
「ほどほどに釣れ ほどほど酔ひて鮎の宿」と、あります。
俳句好きで趣味も多く、テレビの熊さん役で顔の知られた外野村
さんですから、友人も沢山います。
東京釣具博物館(TEL〇三-五六八八-八八六〇水土開館)の
常見保彦館長は、
「外野村さんの鮎は、おだやかで静かな釣りでしたなあ」
週刊新潮の墓碑銘の一文に、趣味で釣りもやる作家で「事件記者
」の原作者・島田一男さんも次のようにコメントしています。
「外野村さんは、黙々と川に対して品性のある釣り方でした」
その文中によると、外野村さんと親しかった本誌発行元の「つり
人社」前社長の小口修平さんも言います。
「一番好きなことをやってる最中に死ねたのだから、幸せだったん
じゃないか。今頃は三途の川で釣りをしてるでしょう」
前述の芦野宏さんは、故人を惜しんで振り返り、
「外野村さんは、山形県人気質そのままの地味で気骨のある俳優さ
んでしたね。イベントの時には清川虹子さんを誘ってくれたり、会
(芸能人山形県人会)の運営では、いつも私を助けて裏方に徹して
くれました。俳優としても人間としても立派なバイプレ-ヤ-でし
たね。毎年、夏になると県人会の集まりがあるんですが、いつも酒
杯を傾けながら、おだやかな口調で鮎釣りの楽しみを披露されたも
のです。ご本人を失ったことも悲しいことですが、尺鮎の自慢話を
語ることもなくお亡くなりになって、多分、本人にとってもそれだ
けが心残りだったのではないでしょうか……」
展望風呂のフレ-ズに惹かれて私達が泊まった、「ヴィラ扇」(
細田栄作さん経営・TELO五五八-四二-一三六七)は”静思・
再生の宿・旅先で過ごす贅沢なコ-ヒ-タイム”などのキャッチコ
ピ-を持つ宿で、玄関を入ると、洋風のレストランにでも来たかの
ような錯覚を感じます。父親の細田義也さんが民宿のご主人とも思
えない博学の話好きであるのに比べて、経営を任された息子の栄作
さんはハンマ-投げで鍛えた体躯からは想像できないような細やか
な気配りの持ち主で寡黙、本格的にコ-ヒ-の豆を挽きます。
料理上手の栄作さんは、一級小型船舶操縦士、特殊無線技師など
の資格を持ち地元のヨットクラブの事務局を引き受ける海の男で、
これからは本格的なフランス料理をお客に提供したいという夢を持
つと聞きます。さすがに西伊豆、変わった民宿もあるものです。ぜ
ひ、立ち寄ってみてください。
取材を終えた私達は、飯田さんの案内で、浄感寺の長八記念館、
重文の岩科学校をはじめ象牙博物館などに寄り、飯田さん宅で書道
家で大正琴にも長じる奥様の手料理を堪能して帰途につきました。
それでも、鮎の季節にまだ早く、鮎にも対面せずに帰った西伊豆の
旅……やはりチョッピリ未練は残ります。
愛する那賀川の解禁を楽しみに、ほとんど眠らずに夜明けを待っ
た外野村さんの心情も、「野鮎を一尾だけでも掛けたかった」のが
本音ではないか、と、無念さを感じるのです。そこで、ふと、この
文の本当のタイトルは「少し未練の残る大往生!」かな?という思
いに駆られました。
外野村晋さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。
ここのところ、日本の世界遺産登録が続きました。
国際的な賛否両論で揉めてまで、という思いもありますが、とりあえず無事に登録出来たことを素直に喜んでいます。
ところで、それ以上に最近の国際ニュースで気になっていることがあります。
遠い他国の出来事と気にされない人が殆どですが、注意してみると驚くに違いありません。
それは、女性や子供を脅して強制的に行う自爆テロの増加です。
つい先日、イスラム過激派のボコ・ハラムが7歳の女児を使っての自爆テロで5人死亡・・・この事件は悲惨です。この子が自分から望んで犠牲になったとはとても思えません。世の中には理不尽で常識も倫理観も法律も通じない世界があって矛盾に満ちています。
昨11日(土)のニュースでも、タイ南部で爆弾テロや放火などで8か所で事件が発生、16人がケガや死亡と報じています。さらに、エジプト・カイロのイタリア領事館前で、自動車に仕掛けられた爆弾が爆発して11人が死傷しています。
つい先日も、ナイジェリア北東部のモスク(イスラム教礼拝所)付近で、2人の少女に装着された爆弾が爆発して約30人が死亡、多数のけが人が出ています。これは、イスラム過激派の犯行による自爆テロとみられています。
国連児童基金(ユニセフ)の5月末の報告書によると、今年5カ月間で確認された自爆テロは約30件で、その4分の3の事件が、女性や子どもの体に爆弾を巻き付けての自爆テロですから哀れです。
その女性と子供による一連の犯行は、6月22日、チャドの爆弾テロで23人死亡。6月4日、過激派ボコ・ハラムの犯行で市場で爆発、50人が死亡・・・いくらでも惨劇は続いています。
これからみれば日本は確かに平和です。しかし、油断はなりません。
少年少女の苛めが原因での死が、一向になくなっていないのです。
今回も相変わらずの責任逃れ苛め死が続いていて、腹立たしくてなりません。
こんな記事を見ました。
「岩手中2、いじめ自殺。少年の母、憤りと悔しさ訴え「ここまでひどいいじめとは…」「学校は『言うな』と箝口令」・・・
ことの発端はこの7月6日(月)、岩手県矢巾町(やはばちょう)の中学2年生・少年A(13)が列車に飛び込んで自殺したことから始まります。その死が苛めとみられる問題で、その母親(44)と学校側、教育委員会、マスコミ、それぞれ意見が分かれます。
<矢巾中2自殺>「もうイヤだ」悩み綴って3カ月写真 河北新報 10時5分
<岩手中2自殺>優しい子、奪われた笑顔…父いじめ解明誓う写真 毎日新聞 9時0分
<1年時も「いじめ」訴え、学校は報告せず 岩手中2死亡 朝日新聞デジタル 5時45分
<いじめ訴え、1年時も 学校、教委に伝えず 中2死亡有料 朝日新聞デジタル 5時40分
<いじめ訴え、昨春からノートに…岩手中2自殺 読売新聞 11日(土)16時52分
<岩手中2自殺 少年の母、憤りと悔しさ訴え「ここまでひどいとは」「学校は『言うな』と箝口令」産経新聞 7月11日(土)18時59分
<矢巾中2自殺>文科相が教委に徹底調査要求 河北新報 7月11日(土)10時45分 .
<いじめ訴え、昨春からノートに…岩手中2自殺 読売新聞 7月11日(土)16時52分 .
<中2死亡「手さしのべられず、心からおわび」町教育長 朝日新聞デジタル 7月10日(金)21時57分 ..
<岩手・中2死亡 町教育長「事実上いじめ一因」「心よりおわび」 産経新聞 7月11日(土)7時55分 .
ここまでの記事は見つかりましたが、まだ学校側からの正式コメントはありません。今回の事件も、過去の数多くの苛め問題と本質は何ら変わるものではありません。学校の体質はどこも同じで、生徒の命より世間的な学校の体面や校長の名誉、気弱な担任教師を庇うことに必死なのです。
これが、全国のどこかで繰り返し行われていて、一向に是正される気配はありません。
どんな事件でもて、時がたてば忘れられ、いつかまた繰り返される、これが悲しい現実です。
私はかつて婦人公論(中央公論社)での連載執筆で苛めや自殺問題を書いていました。
年配の人ならご存知の、次男が父親をなぐり殺した「金属バット殺人事件」のあの時代です。あの事件は、一流大学ら一流企業のエリート兄に比して、両親に蔑まれる落ちこぼれ二浪次男のやりきれない矛先があの事件でした。
せめて、母親だけでも「大学だけが人生じゃない」ことを身をもって教えられたら、あの事件はありませんでした。
でも、しか、たら、この三つの言葉は愚痴に過ぎませんが、それを学ぶことで自戒に役立っているような気もします。
5年前の夏、少年Aの両親は何らかの事情で離婚しました。
少年Aの姉は母が、少年Aと妹二人は父親に引き取られて東京で暮らし始めました。しかし、おばあちゃん子だった少年Aは、母より「祖母が心配」と、岩手に戻ることになります。
そして5年後のこの事件です。
事件を知って東京から駆け付けた少年Aの父親は、当然ながら別れた妻を責め、警察に行き真相究明を訴えました。
少年Aの母親は、「こんな時だけ現れて!」と、子供の死の悲しみを怒りに変えて元夫を責めます。
多分、これから先は責任のなすり合いで泥仕合を続けることでしょう。
残された少年Aのノートには、同級生からの暴力や悪口に苦悩していたことや、担任の先生には何度いじめを訴えても解決までの努力をしてもらえない苛立ち、部活で所属していたバレー部の先生にも相談したこと、そのバレー部の生徒からも苛めを受けていたことなどが書いてあるそうです。そして自殺する5時間前、NET上に自殺をほのめかすコメントを遺して駅のホームから列車に飛び込みました。
もしも、この世の中の因縁に興味がある人がいたら、この少年Aの住む町は、私が小説の舞台にと考えて何度も足繁く通った縄文遺跡の多い山間の町で、「ちゃぐちゃぐ馬っ子祭り」の町といえば納得される人もいるはずです。しかも、この事件の起きる1時間前、この町から盛岡市内の某テレビ局に通う親しい局長と、私の出演番組に関しての局内移動人事などで電話で話していたところです。
それだからこそ、この事件の成り行きが少々気がかりになっています。
落日の美学
人の命には限りがあり、どんなに長く生きたくても寿命という天意がそれを許しません。その反面、天意に逆らって本来の寿命を縮めている場合もあります。
6月27日朝、兵庫県県から大学生仲間4人で高知県四万十市西土佐に遊びに来ていた18歳の若者が、四万十川にかかる沈下橋(増水時に水面下に沈み、流木などで壊れないように欄干がない)から川に飛び込んで遊泳していて溺れて行方不明になり、地元の警察・消防隊員らの捜索で下流の川底から死体で見つかった・・・新聞でこんな記事を見つけました。この季節にこんな記事を目にすると、遭難者への冥福を祈りながらも自戒の念で複雑な思いを感じます。
私は、短編小説{魔の四万十川」で、この現場になる岩間沈下橋も渡っているだけに、この記事を目にしただけで胸騒ぎがするのです。
最後の清流といわれた四万十川は、沈下橋から川底を覗くと石間に泳ぐ鮎や小魚の姿が鮮明に見えるほど澄んで穏やかな流れです。ところが豪雨で増水した途端亜、手が付けられない暴れ川に豹変します。しかも底石が大きいだけに流れは複雑です。いくら水泳に自信があっても豪雨で増水した川の底流れに巻き込まれると平衡感覚が失われて水面に顔を出せない時がある・・・これだけは経験した者にしか分からない。川でも海でもいくら泳ぎは達者でも水難事故は紙一重、水遊びには溺れるという危険はつねに付きまとうのだ。
私の場合、日本の三大急流の一つ九州球磨川(熊本県)の激流を夏の遊び場にして鮎掛けを楽しんでいるだけに数多くの危険を体験してきています。表面の穏やかな流れに騙されて中洲に渉ろうと川に入った途端、激しい底流れに足を救われてアッという間に泳がされたことも二度や三度はありますし、胸まで浸かってやっと大鮎を掛けた瞬間、ふくらはぎから足首の筋肉が攣っての激痛に襲われ、何とか下流の岸まで泳いで獲物を仕留めたこともあります。
最近では仲間が気を使ってくれて、危ない場所には行かせて貰えませんので危険もスリルも収穫も激減しましたが、それでも多少のリスクを冒さない限りは目指す尺鮎(30.3センチ)との遭遇は有り得ません。
今年もまだ激流に耐える体力があるのか? この解答は、残り鮎を狙う晩夏の頃、早瀬に浸かればすぐ出ます。
この限界が訪れたとき、私は河原に竿を置き土手に咲く真紅の曼珠沙華を眺めて人目をはばからず号泣するのも今から予測できます。
それはまだ数年さきのこと、今年はまだ足腰は酷使に耐え得る活力を保っていると自負しています。
永井荷風翁を偲ぶ
曼珠沙華は別名を彼岸花、葬式花などともいい、人間の往生に縁のある花です。
永井荷風翁を偲ぶ
花見 正樹
私が文学に興味を持った切っ掛けは単純、近所に住んでいた妙な老人との出会いからです。その老人の名が永井荷風、初秋には真っ赤な曼珠沙華の花が咲く真間川土手での出会いでした。
「フランス物語」から「墨東奇譚」など、偏奇の美学とか退廃の文学とか言われながらも、永井荷風翁の作品は、高い文学性と幅広い人間観察の視点から巷にうごめく男女の交わりを描いた荷風文学に触れたことが、私の少年時代の文学開眼の原点になっています。
荷風翁の裏作「四畳半ふすまの下張り」を読んだ時のショックは今でも忘れられません。あの瑞々しい男女の性の機微に感じなくなっている心の老いが残念でなりません。かつては、浮世絵の大家・葛飾北斎が表芸の芝居絵を描く傍ら、男女の悦楽をあますことなく表現した素晴らしい春画の数々を後世に残したように、文学者・永井荷風の面目躍如たる作品が「四畳半ふすまの下張り」です。一時は発禁の書として取り締まりの対象になりましたが、今はもう王朝時代の性愛の書の源氏物語が、古典文学を代表する文学作品として脚光を浴びる時代です。今こそ、荷風文学にも男女交接の貴重な秘本としての光が当たってしかるべきと考えるのは私だけでしょうか?
文章は荷風、絵は北斎・・・私は、映画「北斎漫画」にもチラと登場する親蛸小蛸競演の「貴能会之故真通(きのえのこまつ)」の北斎の絵にも大きなショックを受けたことがあります。この絵には北斎の描きたかった猟奇性や娯楽性が余すことなく集約されているような気がします。
私は今でも、あの気難しく細長い老人の孤高で寂しげな風貌が目に浮かびます。昭和ニ十五年頃の遠い昔・・・私がまだ中学二年生頃の想い出です。当時、私は父親の仕事の関係で、千葉県市川市宮久保という田園地帯の中の離れ小島のような重工業工場関連の社宅に両親兄弟と住んでいました。JR(当時は国鉄)本八幡から北に徒歩三十分ほどの距離にある辺鄙な市川市のはずれにある住宅地でした。地名でいうと本八幡駅から北に、八幡、菅野、宮久保となっていて、菅野と宮久保の境界には真間川という清流がありました。
真間川は、今ではただの汚れ河川ですが、当時は水も澄み、ヤマベ(オイカワ)やタナゴ、ハヤなどが群泳していいて、なかなかの清流だったのです。菅野と宮久保の境界にかかる橋の菅野寄りの西角に、昭和女子学院(現在は昭和学院)という高校と短大を備えた学園があり、その校庭のはずれが少し小高くなった真間川の土手になっていました。
私が通っていた学校は、市川三中という宮久保よりさらに北側の曽谷という地名の高台にありましたが、私は小魚釣りが大好きでしたので、授業が終わって部活のない日は急いで帰宅してカバンを放り出し、釣り道具を抱えて一目散に真間川に向かうのを常としていたものです。私の釣り場はいつも決まっていて、県道に掛かる橋の上流、昭和女子学院裏西側の細道にかかる粗末な木橋下の左岸でした。
土手の上からでは釣りになりませんから、土手から下に降りて、自分の姿が水面からは見えない程度の草陰に座って竿を出し、釣れた魚は、木の枝に掛けて水中に垂らした網魚篭(びく)の中に入れるのですが、ヤマベ、ハヤ、タナゴ、クチボソ、フナなどが群泳していて、面白いように釣れるはずでしたが、腕も仕掛けも独学でしたから釣果はいつもイマイチでした。
その木橋を昭和女子学院側に渡ると、農村地帯の宮久保から住宅地の菅野に変わります。いつの頃からか菅野側から歩いてきた顔の長い無精ひげの七十歳ほどの麻のハットを被ったゲタ履きの老人が、ズックカバンを肩から斜めに掛けてとぼとぼと木橋を渡って、私の背後にまわって土手に腰をおろし、のんびりと釣りを眺めるようになり、ごく自然に顔見知りになりました。
私としては、一人で無心に小魚釣りを楽しみたいのに何となく気が散ります。目の前の土手上からでも私の小魚釣りなど見えるのに、
わざわざ木橋を渡り遠回りしてまで私の背後に来るということは、私の視界に入らないようにという老人の配慮かとも思ったものです。
しかし、背後からだと草やヤブが邪魔して、ウキの流れや微妙なアタリまではよく見えないはずなのです。老人は、そんな私の思惑など知らぬ気に、カバンから出した本を読んだり、食べ物を口に入れたり水筒から水か酒を飲んだり、校庭が賑やかになると立ち上がって背伸びをしたりして、適度の運動を試みているようです。
その老人は、私の釣りに対しても、「その先に大きなハヤがいるぞ!」、などと口うるさいだけでなく、私が小魚を釣り落とした時などは、私に聞こえる程度の小声で「合わせが遅いな」などと呟くのです。ギャラリーの参加など望まない私としては面白くありません。
ある日のこと、我慢には限界がありますし、その日は虫の居所が悪かったのか、何か言われてムッとした不満顔で老人を見たところ、それを待っていたかのように老人が土手を降りてきて、ズックカバンの中から「君も食べるかね?」と、乾燥イモを出して来たのです。なにしろ食べ盛りの中学生ですから食い気には勝てません。たちまち相好を崩して手を出し、小魚は釣れないのに、自分が餌に食いついて釣られてしまったのです。
それ以来、老人は得意になって「餌のミミズが長すぎる」とか「竿合わせが遅い」とか講釈をたれるのですが、時々食べ物を頂戴している手前、文句も言えません。老人は、校庭が賑やかになると必ず土手に上がって背伸びをして体操をしたりしています。
あるとき、対岸の土手を犬を散歩させていた妙齢のご婦人が、私の横に座っている老人を見て「カフウ先生! お元気ですか?」と声をかけました。私が思わず横を見ると、老人が横柄に、「ああ」と軽く頷いて立ち上がり、目を細めて「あんたも元気そうじゃな」と手を振っているのですが、それまでしょぼくれた老人としか見えなかった爺さんが急に若々しく見えたのには驚きました。
その「カフウ先生」とは、高名な文豪・永井荷風ではないか? と気づいたのは、国語の授業で川名先生という担任の先生が、「フランス物語」に触れ、この作家・永井荷風が学校からも近いい市内菅野に住んでいると言ったことでピンと来たのです。その日、帰宅するとすぐ釣り道具を持っていつもの川に走りました。やがて、老人もいつものように飄々として現れます。
「もしかして、おじさんは作家の永井荷風さん?」
「ああ・・・」
老人は素っ気なく返事して、いつも通りの不愛想な顔で横に座ってカバンからセンベイを取り出して私に手渡します。
もしかすると、この日のこの瞬間が、私の人生になにがしかの影響をもたらしているのかも知れません。
それまでの私は、講談本の真田十勇士シリーズの「猿飛佐助」「霧隠才蔵」や、学校で教材に出た川端康成の短編、古本屋で買った「無法松の一生」などしか記憶にありません。あわてて学校の図書室や書店、古本屋に入りこんで、永井荷風の著書を探して「すみだ川」や、発禁になったこともあるという「アメリカ物語」などを読み漁り、春情を高ぶらせながらも、青春や人生を文章に残すことが可能な作家という職業への淡い憧れを心の片隅に刻み込んだものです。
その想いが、人生の中盤になって女々しく形を現わしつつあるのですが・・・。
その後も、荷風翁との交流が暫くは続きましたが、秋風に枯葉舞う季節になって私も読書癖や受験向けの課外授業が増えたこともあり、小魚釣りを止めましたので翁とも会わなくなりました。愛読書も山本周五郎、吉川英冶、森鴎外と増え続けました。
それから数年を過ぎた昭和34年の晩春のある日、社会人になっていた私は新聞で永井荷風翁の死を知りました。編集者が翁の家に電話をしても連絡がつかないことを不審に思って、菅野からほど近い八幡に移り住んで一人で暮らしていた翁の家を訪ねて知った、死後数日を経た孤独な翁の遺体でした。死因は、胃潰瘍から吐血しての心臓麻痺ではないかと新聞にはありましたが真相は知りません。た対岸に渡ることもだ、新聞で見た遺影はまさしく、あのままの顔でした。追悼記事によると、翁はここ数年、浅草の劇場通いが日常生活の一部になっていただけに、一週間近くも踊り子たちの控室に姿を見せないのを劇場の誰もが気にしていたとの挿話が載っていたのです。
それを見た時、ふと、ある疑問が私の頭をよぎりました。荷風翁が私の小魚釣りを見ていたのも退屈しのぎと考えるのは間違いだったと気づきました。確かに、これだけの高名な作家が時間を割いてまで、少年の小魚釣りに付き合うのは余りにも不自然過ぎます。小魚釣りを見るだけなら、自宅のある側の土手上からでも見えるのに、わざわざ橋を渡って対岸にまで来ていた理由が分かりかけたのです。tらのらずにたいのであれば、対岸の土手からがよく見えたはずなのに、わざわざ貧しい木橋を渡ってまで私のいる側に来ていた理由に気づいたのです。
荷風翁は、魚釣りなどに関心はなく、水の流れを眺めて小説の構想を練っていたのです。さらに、翁が土手に上がって立っている時は必ず高等女学校の校庭が賑やかで、若い嬌声や元気のよい明るい声が響いていたときだけでした。そうなると、荷風翁の視線の先には、黒いブルマーの下から白いのびやかな足を惜しげもなくさらけ出して躍動する女学生の姿があったはずです。今にして思えば、荷風翁のお目当てが、その若々しい肢体にあったのは疑う余地もありません。私の推測では、それから翁は一度帰宅して服装を整え、京成菅野駅から浅草方面に出掛けては浅草の劇場や玉の井の遊郭などに足繁く通っていたことになります。
私? 私は純粋に小魚釣りだけが目的で、女学校の校庭もほんのちょっと垣い間見ただけで、全く他意はありませんでした。本当です。
コブシとの別れ
植物にも命があるのは当然で、罪のない木を切らねばならない辛さは当事者しか分かるまい。
その当事者がかくいう私自身なのだから・・・
去る17日(日)、家人の強い要望から庭のコブシを根本1メートル上から断裁したのだ。
私の狭い二階の書斎からは見えないが、二階のベランダ側の部屋で座卓で仕事をする時は、ベランダ越しにコブシの葉が緑いっぱいに初夏の風に揺れて心を癒してくれていた。栃木の植木市で買ってきた細い苗木を植えてから三十年余の歳月を経て根元の幹は直径約30センチ、堂々たる大木に育ったコブシ、その愛着のあるコブシを切らねばならない。その断首人の立場をここ数年頑張って保留してきたのだが、ついにそれを履行する時がきた。断腸の思いではあるが仕方がない。一階の居間が緑いっぱいのコブシに南東の陽光が遮られて日中でも暗い上に、今年は花が咲いたおかげか葉を食う虫が大量に発生して、集まってくる小鳥たちでも退治しきれないのだ。
コブシは北関東各地の山岳地帯に多く野生するモクレン属の落葉広葉樹で、渓流魚の解禁に合わせるように真っ白い花を梢いっぱいに咲かせ、て、春の訪れを知らせてくれる。
私の半生にとってコブシと曼珠沙華、この二つの花はつねにまとわりついて離れなかった。そのコブシとも別れの時がきた。
私は以前、3月に入ると渓流魚の解禁で栃木県の大芦川流域の清流に通っていた。同い年の釣友漁協の役員で、イワナ、ヤマメの放流場所をや数量を熟知した上での同行だから、釣技で劣る私でも大釣り間違いなし・・・その清流近くには純白のコブシの花が満開だった。
したがって、コブシは私にとっていい想い出だったのだが、その地元漁協役員の友人が数年前に逝き、その周辺に立ち寄らなくなってから満開のコブシを見ることもなくなった。せめてもの我が家のコブシ・・・それを庇うのもこれまで、日照権と虫害には勝てない。
さて、ノコギリを入れてみて驚いた。パラパラと大粒の雨が降るように白い虫が落ちてきて帽子や肩が虫模様、たちまち庭が虫だらけ、これでは家人からコブシ擁護論者の私にクレームがつくのも止むを得なかったと少しだけ納得、積極的に伐採作業を施行した。
その結果、一階の室内がさっぱりと明るくなり、二階も枝葉の緑は消えたが爽やかな青空が広がった。
これで私のコブシへの想いは薄らぐのか思いが残るのか? 月日を経てみないと分からない。
曼珠沙華・・・これはもう、私が鮎を人生の無二の友とする限り、心の中で永遠に断ち切ることは出来ない。今年もまた曼珠沙華の真紅の花との出逢いが遅くなることを願うのみ。曼珠沙華の花は、鮎の季節の終わりを残酷に私に告げ、私はその真っ赤な花を見て涙する・・・また、鮎の季節まで1年近くも待たねばならないからだ。
逝く春
逝く春
花見 正樹
桜散りわびしき鐘の音本願寺
窓開けて魚匂う風に初夏を知る
荷を曳くや築地の春の仲買人
夏近し半そで男や魚市場
人の群れに季節の変わり目感じつつ
赤い傘初夏の陽避ける婦人かな
本願寺春に逝きしはどなたやら
もの書きの見果てぬ夢や空と海
散る桜遠くに海を眺めつつ
初夏告げて築地の空にかもめ鳥
待つ人のなき我が身なり春ぞ逝く
疑似・臨死体験
河原の土手に咲く真っ赤な曼珠沙華。 またの名を彼岸花、葬式花とも言われます。
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3月24日、ドイツの格安会社の旅客機が墜落事故を起こしました。 フランス南東部セーヌ近くのフランス・アルプスの急峻な山肌に墜落したもので、乗客乗員150名、生存者はいません。 しかも、この事故は副操縦士が機長をコックピットから締め出しての自殺行為だというのですから、死亡した乗員乗客には残酷すぎます。 この事故はフランス国内で過去数十年で最大の航空事故で、乗客名簿に日本人二人の名がありました。 報道された写真を見ると、樹木や残雪の間に散らばった機体の破片はバラバラる墜落時の衝撃の強さを物語っています。 墜落した旅客機のジャーマンウイングス社は、世界大手のドイツ・ルフトハンザ航空傘下の格安航空会社です。 日本でもJALやANAの傘下に格安航空会社が存在します。 その整備は完全なのか機長の運航技術や就航環境は万全で乗客は絶対安全なのか? その保証は? 多分、期待や設備、機長や乗務員の質も待遇も大手一流航空会社よりは1ランクも2ランクも落ちるはずです。 そう考えると格安航空会社にはつねに不安が付きまとい、絶体安全とは考えられず、乗客も多少のリスクは背負うことになります。 さて、このような記事に接して私がすること、今日はそれを話しておきたいのです。 お亡くなりになった方のご冥福を祈る? いえ、そんな恰好いいことではありません。 被害者を冒涜しないいうに気遣いながら疑似臨死体験です。 今回は、旅客機9525便が滑走路から飛び立って上昇し水平飛行に転じた直後、何らかの事故に遭遇したと考えられます。 高度1万メートル以上の上空から、通常は30分近くかけて高度を下げるのに、たった8分で山腹に叩きつけられたのです。 その8分の間、管制塔には緊急連絡もSOSまなし、これが謎を生んでいます。 通常は機長が心臓麻痺を起しても、隣席の副機長が操縦を引き継ぎますし、そこで緊急連絡がはいります。 操縦席での会話を収録したブラックボックスはすでに回収されていますので、いずれ原因や事情も明らかになると思います。 問題は、事情も説明もないまま突然急降下を始めた瞬間からの乗客の心理状態です。 乱気流によるエアーポケットに入った場合、激しい上下動で天井に叩きつけられてケガをする乗客もいますが、今回はジェットコースターの滑降時のように重力が下に傾いて頭を下げた状態での8分間です。多分、水平飛行の段階で多くの乗客はベルトを外していますから、機体が急に頭を下げた瞬間、前のめりになって前の座席やテーブルに顔や胸をぶつけてケガをした可能性もあり、この時点で血を見てパニック状態が始まり、すぐベルトを締める余裕がある人がどれほどいたかは疑問です。 ともあれ、私もあなたも何とかベルトは締めました。そこまでは乗客と同一行動です。 なんとか機体は立ち直って再び上昇する・・・そう信じて祈りましたが機体は急降下を續け、約1分を経過しました。 ”約”と書いたのは、時計を見る余裕などないからです。この時の1分は、秒単位で機体の立ち直りを期待しての1分ですからとてつもなく長い時間に感じられるかも知れません。心は千々に乱れてはいても期待があるうちは何とか平静を保とうとします。しかし、約1分を過ぎても状況が好転しないのが分かると、冷静さを保とうとした自制の反動でパニックが狂気になって襲い掛かってきます。これからどうなるか? 奇蹟は起こるのか? 奇跡がないとすると・・・死があるだけです。その結論だけは数分を待たずに理解できます。 そんなバカな、自分が何をしたというのだ。ここで死ぬなんて嫌だ。 さあ、ここからあなたの臨死体験です。 目を閉じて、やや体を前傾にして、落ちてゆく機体の座席にいる自分を体感してください。ご家族は家にいてくつろいでいる時間です。どういうわけか、あなたは友人らと団体で旅をしていてこの災難に遭っています。機体は刻一刻地上に急接近しています。もう時間はいくばくもありません。今、あなたは何を悔い何を祈り何を想っていますか? 残り時間はあまりありません。絶望の淵に落ちた時、自分はどうなるか? この機会を借りてシュミレーションしてみるのも無駄ではありません。 では、私はどうなのか? あれこれ考えてみましたが結局、思いは乱れるばかりで良案も出ません。死の恐怖も克復できず生への執着が強い自分がいるのも再確認しました。ならば、運を天に任せて奇跡を信じる。これが絶望の中での私の結論です。私は瞑目して「なむあみだぶつ」を唱え続けている自分をはっきり感じました。これで神道から浄土真宗に宗旨替えする覚悟も出来ました。これは、家の前の父の日のプレゼントに、家の宗旨など気にもしない末娘から都内台東区浅草の東本願寺に創った花見家の墓を贈られたからです。先祖代々の神道から親鸞さんへの鞍替えには全く抵抗はありません。いま、この文を書いている目の前が西本願寺の大伽藍、とうに洗脳されています。 今月の月刊「文芸春秋」に臨死体験の特集が組まれていました。 医師から死を宣告され、心臓が止まってから蘇生した奇蹟を体験した人達を取材した特集です。 ここでは一様に、すーっといい気持になり穏やかで温かい花園のような感覚のところに迎えられたような感想を語ります。 私が、何人かの人に聞いたのは違います。 脳梗塞で倒れた親しい仲の故・小林永尚講師(開運道顧問)が脳の手術で知った臨死体験です。医師は手術しても十中八九はダメだがと家族の同意を得て手術に踏み切りました。その手術の最中、狭い斜め下に落ちるトンネルがあって、そこに強風と共に吸い込まれる感覚で、必死に耐えて穴の周辺にある立ち木などにしがみついて頑張っていると、やがて風が止んでトンネルが消え、穏やかな風景の中にぼやっとして横たわっていて、気が付くとそこは手術室ではなく病院のベットだったという生々しい体験談です。その後15年、何度も重病から蘇生してついに脊髄ガンで85歳で倒れましたが、その脳手術での臨死体験は貴重です。 それに近い話は数限りなくあります。 私の母も似たような体験をしています。母は3度も医師から最期を宣告されて病室に家族を集め、その都度蘇えって今は100歳7ケ月、死神も寄り付きません。母に言わせると私が邪魔をするから、行きたくてもあの世に行けないそうです。母の場合は、トンネルに体半分引き込まれて諦めたところに私が現れて手を握って引き上げるそうで、これが二回続いていると真顔で言うのです。 さて、機内に戻ります。 「頭を下げて!」の乗務員の声で 座席にうずくまったあなたと私の残り時間は、多くてもあと数分、もはや絶望です。 人は、いまはの際になると走馬灯のように目まぐるし
く幼児期から現在までの自分史を脳に浮かべるそうです。その上で遺された家族への想いと別れを一瞬で告げ、強い衝撃で意識は失せ、未知なる世界、無の世界に転じてゆくのです。だが、私の今回の疑似体験では中途半端で子供時代までは遡ることはありませんでした。 死後の世界・・・神道では神の世界に、仏教では極楽浄土か地獄かは日頃の行い次第、これだけは、どっちなのか私には分かりません。 激しい衝撃音と瞬間的な痛みと同時に意識が飛び、ふっとトンネルを潜って野草の中に自分がいて、ここからは未知の世界です。 ならば、ここから全く別の世界での日々が始まると考えてもいいはず、この発想で大きな壁を乗り越えることも可能と気づきました。 これだと私が”無”だと信じていた死後にあるのは別世界で極楽浄土・・・そこで、酒池肉林まで期待すると大逆転で地獄落ちです。 この航空機事故での日本のお二方を含む全犠牲者にご冥福を、ご遺族ご家族には心からの哀悼を申し上げます。
私も参戦します!
このホームページの「今日のひと言」で、私は人類対コンプーターソフトの壮絶な戦いを書きました。
日本将棋連盟所属棋士5人対コンピューターソフト棋士5種との団体戦です。 前回は人類の1勝3敗1引き分け、前々回は1勝4敗で人類が連敗中です。 今回は今のところ人類が2勝していますが、その一勝はコンピューターソフトの裏をかいての反則勝ちです。 がっぷりの四つの力相撲では、もう人類はコンピューターソフトに太刀打ち出来ない時代がやってきたのです。 これは、力相撲でモンゴルに勝てなくなった日本人力士と全く同じ構図です。
だが、それ以上の戦いが始まりました。 これこそ究極の戦いで、この一戦に私も命運を賭けざるを得ません。 それは、人類対ガン細胞軍団との死闘です。 私自身はまだガンではありませんが、遺伝的にはガン体質ですからとうに覚悟は出来ています。 私の父も兄(長男)もガンで逝き、いま100歳の母はガンと戦って生還した過去を持ちます。 私は男ばかり5人兄弟の次男ですが、4男の弟は肺ガンをレーザーで退治して8年、ほぼ安泰です。 と、いうことで我が家は2勝2敗、いまや戦いは5分と5分、まだ勝負はついていません。
そして今、なんと残酷なことに、私の引退で会社を託した一人息子が膵臓疾患で手術をすることになり、もしもガンだったらと頭の中が真っ白祖です。それでなくても開運道の後継者で副会長のTさんが、ガンと戦っているさ中ですからショックは大きすぎます。 さあ、自分はどうする? こうなると隠居生活どころではありません。
さらに、戦いの輪は広がっています。 私の取材をお手伝い頂いている地方の会員A(講師資格)さんも末期ガンで闘病生活中なのです。 医師の死刑宣告に反抗して、治療を拒否して3年目、いまは仕切り直しで治療中です。 エッセイ欄にと投稿されたのですが、内容から考えて載せなかった文章です。 この内容を小説に乗せましたし、この戦いのカギを握っていますので、あえて公表させて頂きました。
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ミラクル体験のリポートをしたいと思います。
まずは、症状から 病名 乳がん 病院に行くのが怖くて行かずにいたら どんどん悪化して、もう限界、このままだと死ぬかも知れないと感じ、(もうだめだというのは解るものです) 病院に行った時には余命2カ月くらい。 仕方なく抗がん治療をはじめる 少し楽になる 6か月すると副作用がつらくなり、先生に治療を止めると申し出る。 そしたら「今、止めたら半年で死にますよ。それでもよかったら止めましょう。1年後に生きていることは、あり得ません」と言われる。 が、その後、治療を全く受けることなく、もうすぐ2年が経とうとしています。
すごいでしょ!! めっちゃミラクル!! 普通はこの外側に見えるミラクルをミラクルと呼ぶと思います。 が、ミラクルはもう一つ見えないところにあります。 理解できる方と理解出来ない方に分かれるかもしれません もう一つのミラクルは内側にあります それは、この病気を体験することで、感謝を知ることが出来たことです。 感謝とは身体の内、腹の奥の方から湧きあがり外へ溢れだすような感情の様なもので した。 この感謝を感じることで、この世は感謝と喜びしかない世界だと感じることが出来た こと。神は歓喜しか人間に与えていない。ということを聞いたことがありましたが、 本当にそうだった。と感じることができた喜びは本当に嬉しかったです。 普通に生きている事、当たり前に息が出来、手足が動き痛みがなくいられる、この当 たり前の事が当たり前でなかったと解り感謝しかなかった! 感謝がない時、不満不足を感じる、どんな時もその対象物と自分との間に感謝を置く とありがとうの言葉しか見当たりません。 そして、今まで満たされてない、受け入れられていないという感情がスタートで、受け入れてもらうためにがんばったり、認めてもらう為に頑張って努力したりしてきま したが、本当は、全てに受け入れられて生きてきたということが解ったんです!! 私は受け入れられていない、認められていないと勘違いして生きてきたのです。
人は皆生まれた時から認められ受け入れられて生きているのにそれに気がつかないから満たされず、どうしたら満たされるか、どうしたら認めてもらえるのかと外側の人、 物に満たしてもらうことを求めて生きていました。でも本当は、この受け入れられたから生きていると自分が自分の存在を認め受け入れたとき、本当の幸せや満足感、満 たされた人生を生きることが出来る。今、この生きている事が幸せです!! この、2つのミラクルが合わさって本当のミラクルだと思っています。 参考になるかどうかわかりませんが、ミラクル体験のリポートです。
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私は、闘病中のこの会員を、小説の中で活躍させています。 「綾部の里に花が咲く」の蔵林ミツエさんが、その人です。 私も、母を蘇生させた自分のミラクルパワーを信じて、大切な人たちの復活に尽す覚悟です。 こうして人類の私とガン軍団との戦いも始まっています。
死んだフリ!
今年に入って私の周辺の人間関係が目まぐるしく変わりつつあります。私はいま79歳、人生終焉近しの天意によって大きな転機を迎えているようです。人間関係の変化だけではなく、仕事の整理も考えねばなりません。 同じホームページ「お休み処・今日の一言」欄では、出演中の番組にも触れています。仕事の整理も念頭に置いての次のような内容です。 今、私の仕事で一番長続きしている仕事は、山口放送ラジオの「土あさ」です。1984年4月7日が番組のスタートで、今年31年目に入る長寿番組です。 私は初回から参加していますので出演回数は週1でも15,000回をゆうに超えています。レギュラーとして長く出演したのは、フジテレビでは「小川宏ショー」「3時のあなた」です。民放ではあちこちに出演させて頂き山口放送」の他にも「山形放送」「テレビ岩手」が長く続きました。 そこで、私も18年間準レギュラーでお付き合い中のテレビ岩手の話題です。 テレビ岩手の名物アナウンサー雅(まさ)さんこと平井雅幸キャスターが突然、メインキャスターを自分から降板しました。局の看板番組「5きげんテレビ」のMCの降板は晴天の霹靂、局内の大騒ぎの様子が親しい仲だけに手に取るように分かります。本人は体調不良を訴えていましたから、毎日が多忙な仕事でしたから大変気の毒でなりません。 かつて「土あさ」の名物アナウンサーだった井上雪彦氏が過労で倒れ、そのまま帰らぬ人になった悲劇があります。雅さんには、この雪彦さんの悲劇と同じ轍を踏んで欲しくないのです。むしろ、この降板が新たな道に転身への準備なら私は大歓迎、微力ながらおおいにバックアップしたいものです。 こんな一文でした。
そこで私事です。
私もかなり厳しい選択を迫られています。何とか周辺整理を急いでライフワークの執筆に時間をつくりたいのです。交友関係、仕事のけじめ、増えすぎた日常の種々雑多な身辺行事の削減が急務です。今までは人のために尽くす時間を惜しまない生き方でしたが、方針を変えました。なんとか時間をやりくりして、懸案の仕事だけは仕上げねばなりません。 そのためには、身を切る様ような思いで親しい人との交流も減らさねばなりません。今はまだ、殆ど毎日のように誰かが顔を見せて私との雑談などで時間を費やしています。この親しい人との交流も大切ですが、どうしても執筆時間は夜だけになってしまいます。親しい隠居仲間は「勝手にビール飲んでるから仕事してていいよ」と言いながら話しかけてきます。その合間に小説は書けませんから執筆は夜・・・それが最近は体力的に辛くなってきたのです。 やらねばならないことは、いつもの口癖3つだけ、優秀な占術家育成、小説の仕上げ、尺鮎釣りです。どれもが、急がないと時間切れで間に合わなくなります。そのために時間をつくって焦らず対処して、満ち足りた心で日々を過ごしたいのです。 この一念で死んだフリ、身辺整理を急いでいます。