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追悼 山中毅(つよし)さん!
2017年6月25日(日)、早大内・大隈ガーデンプレイスで「山中毅さんを偲ぶ会」を終えてきました。
早大卒の政財界、水泳&スポーツ関係者、友人など約150人ほどの賑やかな会でした。
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山中さんは、昨年11月、入院する前に這うようにして私に会いに来ました。
好きな酒にも寿司にも手をつけず、仲間が帰って二人だけになって語り尽してタクシーで帰りました。
その数日後に入院してから帰宅することなく、この2月に還らぬ人になりました。
山中さんが、最期に会いたかったのが私だった、と聞いて私の心は今も痛みます。
では、私と山中さんとの縁を振り返ってみます。
ここには、小林、太田、渡辺、山中、花見の5人が絡みます。
私の親友が小林永周さん。
その友人が故太田勝(まさる)さん。
太田さんの水泳部の後輩が故山中毅さん。
山中さんが唯一頭が上がらない人が、この平泳ぎのアジア・チャンピオンだった大田勝さんです。
その太田さんと山中さんの早大水泳部マネージャーが渡辺太郎さん。
私のフジテレビ出演時の担当ディレクターが小林さん。
太田さんはフジテレビ・プロ野球ニュースのディレクターでした。
太田勝、渡辺太郎さんと私の三人は、遊び仲間でもありました。
さらに、私は中央公論社の婦人公論連載執筆者で、渡辺さんは中央公論社社員、仕事仲間でもありました。
その上、 山中さんと私は、元中日ドラゴンスの中心打者だった江藤慎一氏と三人で、少年野球育成の会をやった仲です。
太田さん、小林さんと私の三人はゴルフ仲間でもありました。
こんなゴチャゴチャした人間関係ですから、いつの間にかお互いにツーカーです。
山中さんは、私より3歳下の1939年1月18日に石川県輪島市で生まれています。
1956年のメルボルンオリンピックには、石川県立輪島高3年生で出場しました。
その時は、400m自由形と1500m自由形の2種目で銀メダル、800mリレーで4位でした。
1957年に早稲田大学に入学、大學4年の1960年ローマ大会では、400m自由形と800mリレーの2種目で銀です。
1500m自由形は残念ながら4位入賞に終わっています。
1964年の東京大会では、400m自由形で6位入賞、3度のオリンピックで銀4、出場全種目入賞です。
1959年に日本スポーツ大賞、第一回小野梓記念スポーツ賞に輝いています。
さらに、1983年には「国際水泳殿堂」入りしています。
時々、なんで山中さんは、死を予感した時に私と会いたくなったのか不思議に思うことがあります。
男には男しか分からぬ友情がある、とか聞いたことがあります。
好漢、山中毅よ。安らかに眠れ・・・すぐには行かぬがいずれは再会になる。
その時はまた、語りあかそうぞ! 花見 正樹