母を送る。

 

2018年1月17日(水)12時29分、母・花見スイは103歳5ケ月の波乱の人生をおだやかに閉じました。
病院からの電話で、母が入院中の加須市大久保病院に着いて私が手を握ると、母は力なく握り返したまま息を引き取りました。
痛みも苦しみもない穏やかな表情で静かな中にも見事な大往生でした。
医師の書いた死亡診断書には理想の死である「老衰」とあります。
病気のデパートのような母が「なぜ?」と聞きますと医師の答えは明快でした。
心筋症も肺炎も肝臓ガンも死には至らず死因は、食事も水も喉を通らなくなって死に至る「老衰」だそうです。
この老衰こそが人間の理想的な状態で、恍惚となった状態で死に至るそうです。
杖なしでも歩ける痴ほう症なしの要介護度1のまま、105歳と5ケ月での老衰死、これではお目出度くて涙も出ません。
確かに誰がどうみても赤飯炊いてのお祝いごとなのですが、私は母の寿命は105歳と思い込んでいただけに残念です。
しかし、つい3ケ月前までは杖なしでも歩ける要介護度1からの急な老衰死ですから、私には納得できません。
昨年の10月下旬、突然の尿感染症で39・1度の高熱で南栗橋の済生会病院に緊急入院、それが癒えて12月4日には療養型施設のある前述の大久保病院に転院するはずでした。ところがその転院日12月4日の朝、また39度を超える急の発熱で転院は取りやめ、それどころかほぼ危篤状態なのです。
主治医は慌てて原因究明に乗り出しました。
なにしろ、尿感染症は治っているのですから高熱の原因は他にあるのです。
そこで、肝臓ガンが発見され、そのために胆管閉塞で担汁の流れずに発熱に至ったと分かったのです。
主治医の言葉によると、このままだと母は確実に年内に亡くなります。
担管に管を広げるプラスチックパイプを挿入する手術をして溜まっている担汁を流せば発熱の原因は失せ一命はとりとめます。ただし108歳の高齢でもあり高熱で奪われた体に、口から管を入れる難手術に絶えるだけの体力が残っているのか疑問だと主治医はいいます。
しかも、私達兄弟の意思統一で母が苦しむような延命処置はしない、との話し合いが出来ています。
そこで、すぐ主治医からの紹介で実際にその手術を施行する内科医に会って説明を受けました。
その医師はきっぱり、「お任せください」です。そこで私の腹は決まりました。
形式として、家族の了解で万が一の時は医師に責任はない、との書類に捺印し、その日のうちに手術は行われました。
手術室から戻った母は痩せ衰えた蒼白な顔でぐったり死んだように眠り、声をかけても返事がありません。
その日は、なかば諦めましたが、翌日はこちらが驚くほどに元気を取り戻していました。
その後、再度の転院届けが認められて無事に12月20日に加須市の大久保病院に転院しました。
新天地に移って母は食欲を取り戻し、好物のカキイモ、ミカンを美味しそうに食べました。
そこで迎えたクリスマスでは、見舞に行った姪家族と一緒に車イスで、病院主催のパーティに出て皆さんと一緒に歌を歌いケーキを食べ、おおいに楽しそうだったと看護師さんからも聞きました。
その日を境に母は一日一日衰え、永眠する数日前からはお粥も喉を通らず水も飲めなくなっていました。
その様子で母の死期を悟った私は、母の亡くなる数日前に兄弟で予定した斎場を訪れ、大まかな打ち合わせをしました。
したがって、心準備が出来た上での母の穏やかな他界ですから、私自身も穏やかなのです。
なお、私が母の手術や危篤寸前の状態で病院や医師に提出した誓約書への署名捺印は5通、これもかなりの記録だと思います。
母が40代だった市川市国府台病院でのかなりの重症だった子宮ガン手術、松戸市一条病院での闘病時、南栗橋済生会病院入院時、同胆管手術、加須市大久保病院入院時、この5回の死の壁を見事に乗り切っての老衰死・・・私の手モミも多少は効果があったとしても母のすごさに言葉もありません。
と、通夜の挨拶で私が語りそうなことをここで書いてみました。
なお、火葬場が混雑していて葬儀が伸び、遺体は斎場の霊安室にあり、連日兄弟身内が交替で出入りして賑やかです。
葬儀は兄弟身内の家族葬で22日通夜、23日が本葬、喪主としてそれを終えたら一人で泣きます。
平成30年3月4日(日)快晴・・・それも雲一つない穏かな初夏のような暖かい大安吉日です。
この日、103歳5ケ月の大往生を遂げた母の納骨と50日祭を無事に済ませました。
1月22日(月)の通夜が関東地方では何十年ぶりという大雪に見舞われて一生忘れ得ない思い出となったのを、今日の晴天んはそれを補ってあまりある好日となりました。
わが国では葬儀といえば仏式が多く、神道での葬儀や納骨式は珍しいと思います。
我が家は神道ですが納骨に参列する機会も少ないため、施主ながら儀式もすっかり忘れていました。
通夜、葬儀以降、母の位牌と骨壺を朝晩拝んで暮らした日々もこれで終わりました。
納骨と50日祭を無事に終えて、何だか安心して荷が軽くなったような少し寂しいような妙な思いがしています。
本来、納骨蔡と五十日祭は別の祭儀ですが、最近では同時に執り行うケースが増えているようです。
神道では お墓のことを奥都城(おくつき)といい、その特徴は石柱の頭の部分が尖っていますあらすぐ分かります。
我が家は奥都城(おくつき)は都の字を使いますが、これは神官などを勤めた先祖がいる場合に使われ、一般信徒の家では奥津城と津を用います。ただし、これは地域差があるようで一貫性はないようです。
それにしても母の人徳なのか、今日も子や孫や曾孫や玄孫(やしゃご)ら配偶者を含めて47人の身内が墓前に集まり、和食屋での食事会も大いに盛り上がりました。
一族繁盛、健康長寿で・・・これも一族の長としての私の常套語になっています。
これをこのまま、開運村の関係者すべての人の合言葉にしたい思いです。
(注・以上の一文は、村長の一言から抜粋しました)