・北の湖 「冥土の土産に」 花見 正樹
平成27年11月20日(金)、福岡国際センターでの大相撲九州場所のさ中、日本相撲協会・北の湖理事長が直腸ガンと多臓器不全で急逝した。奇しくもこの日、私は、北の湖と輪粉(りんこ)時代を築いた元横綱・輪島関の親しい先輩・山中氏と会食中、輪島対北の湖の熱戦の話題で盛り上がっていたところでした。山中氏は水泳の自由形でオリンピック3回、出場全種目入賞、銀メダル4個獲得しています。
輪島出身の山中氏が後輩の輪島氏と親しかっただけに、私らも当然、輪島と北の湖なら輪島を応援しましたが、北の湖が生涯で唯一負け越したのが輪島関で、北の湖からみて21勝23敗、上手投げの北の湖と下手投げの輪島ががっぷり四つでの力相撲で沸いたものです。
私はこの当時、関脇・舛田山と親しかったために北の湖対舛田山(現・千賀の浦親方)になると、見るだけでも力が入りましたが、残念ながら対北の湖戦は舛田山から見て0勝11敗、完敗でした。舛田山得意の突っ張りも叩きこみも全く相手にされませんでした。
それにしても北の湖関は強い横綱でした。
北の湖関の横綱での成績は670勝156敗で勝率は.811、すごい数字を残しています。
横綱での出場818、これも当時は歴代1位でした。
現役在位109場所、幕内在位78場所、横綱在位63場所、生涯勝ち星は951勝335敗です。
本名は小畑 敏満(おばた としみつ)。昭和28年(1953)5月16日生まれ、血液型はAB型です。
愛称は、北の怪童・不沈艦・モンスター、北海道有珠郡壮瞥町(うすぐんそうべつちょう)の出身で、8人兄弟の7番目で四男です。
中学1年の13歳で、身長173cm、体重100kg、柔道・野球・水泳・スキー全部が選手というスポーツ万能、柔道初段で北海道の地方大会では高校生を破っての優勝が中学1年生ですから誰でも驚きます。
こんな怪童の噂を聞いた三保が関部屋の親方が親を説得、墨田区立両国中学校に転校させて各界入りさせました。
同じ墨田区で花見化学を開業していた私にも、その噂はすぐに伝わっていました。
なにしろ、部屋で作ってくれた自分の弁当は最初の休み時間に食べて、昼は周囲の生徒の弁当を少しづつ巻き上げて食べ、授業中はマンガを見て昼寝、これが滅法強い相撲をとる中学生でいずれは横綱間違いなし・・・こんな噂はすぐに広まるものです。
案の定、中卒と同時に幕下に昇進、18歳で入幕、21歳で横綱の当時までの最年少スピード出世記録です。
柏戸・大鵬時代の子供が好きな「巨人、大鵬、玉子焼き」に対して、憎まれ役の「江川、ピーマン、北の湖」というのもありました。
なにしろ、北の湖があまりにも強すぎるため、結びの一番で横綱・北の湖が下位力士に圧勝したところブーイングの座布団が舞ったことがあるくらい憎まれていたのです。北の湖が観衆から憎まれた理由は、倒した相手に一切手を貸さず、さっさと勝ち名乗りを受けるふてぶてしい態度が嫌われたのです。この行動に北の湖本人は、「負けた相手から手を借りるのは屈辱だった」と述懐しています。
しかし、同じ時代の人気力士、貴ノ花・千代の富士・蔵間・舛田山?ファンから見たら、にっくき敵役だったのは間違いありません。
それでもなお、それら人気力士を容赦なく叩きつぶす北の湖の圧倒的勝負強さに魅了されるのも事実でした。
私の応援した舛田山、輪島からは敵役ですが、今でもそれなりに北の湖関の強さには敬意を表しています。
輪湖(りんこ)時代を築いた輪島との優勝は両者合わせて38回、柏鵬の37回を上回っています。
とくに、昭和50年9月から53年1月までの15場所の千秋楽結びの一番は全てが輪島対北の湖戦ですから、千秋楽の連続対戦15回、こんな記録は多分、破れないと思います。なお、今までの千秋楽結びの一番連続回数2位は白鵬対日馬富士の10回、3位は朝青龍対白鵬の7回です。
もしも、「冥土の土産に」というものがあるとしたら・・・
平成25年(2013)年5月16日に満60歳の還暦を迎えた北の湖親方は、直腸ガンの宣告を受けてからの同年6月9日に、両国国技館において赤い綱を締めての還暦土俵入りを披露しました。その時の太刀持ちは九重親方(第58代横綱千代の富士)、露払いは貴乃花親方(第65代横綱貴乃花)という豪華メンバー、それぞれが幕内以上で20回以上優勝した元大横綱ですから、冥土の土産としてよき思い出を持って黄泉の世界に旅立ち、悔いのない人生とした・・・と私は推測し、北の湖親方のご冥福を心からお祈り申し上げます。
月別アーカイブ: 11月 2015
坂本龍馬記念館・館長の死
11月3日(火)、高知県の桂浜の高知県立坂本龍馬記念の館長・森健志郎氏が73歳で逝去され、昨6日、葬儀も済みました。
森館長とは私の親しい友人で坂本龍馬研究家の小美濃清明氏の紹介で知り合い、拙著「坂本龍馬異聞」にも、「新鮮な切り口での坂本龍馬、楽しく読ませて頂きました」とコメントを頂いており、つい数日前にも小美濃氏と電話で話していたのを知っているだけに全く突然の予期せぬ死に驚き悲しむばかりです。小美濃氏は幕末史研究会会長、高知県観光大使、坂本龍馬研究会副会長の他に刀剣研究家としても知られ、前述の龍馬記念館に龍馬の差し物と同じ、土佐藩鍛冶奉行・陸奥守(むつのかみ)吉行作の刀を寄贈しています。
森氏の死因は、胸部大動脈りゅう破裂・・・血管にコブが出来て血液が滞留して破裂する症状で、早期発見が助かる道と聞いています。
森氏は、10年前に高知新聞社を定年退職後、当時の知事・橋本大三郎氏の推薦で館長に就任、龍馬の思想を現代に生かす現代龍馬学会を設立、3年後オープンの新館建築に向けて精力的に活動していただけに、その早い死が惜しまれてなりません。
人の死は必然、周囲が故人の遺志を継いで、故人の目指した目標への協力でその魂の冥福を祈るのも故人への供養と信じます。
私はとくに坂本龍馬ファンという立ち位置にはいませんが、龍馬の目指した戦争回避の大政奉還と公武合体政治、これが理想でした。
私は今、明治維新の光と影、その双方にスポットを当てて、「戊辰戦争」の大作に取り組んでいます。私の頭の中では、戊辰戦争は坂本龍馬の策した薩長連合から始まり、土方歳三の遺書を遺しての壮烈な死によって終わった、とします。
友人知人の死は悲しく切ないものですが、函館一本木で戦死した土方歳三の潔(いさぎよ)さを想って流す涙の量とは比較になりません。
愚の一念、結果を恐れず修羅の世界で義に戦って死んだ土方歳三もまた、龍馬に劣らぬ男の中の好漢(おとこ)です。
平和主義の龍馬一筋でお亡くなりになった森健志郎さんと、いつか黄泉(よみ)の世界で龍馬対歳三での対談をしましょう。
心からご冥福を祈ります。