今更ながらと思いつつも、戊辰戦争を書いている以上は、その報告を兼ねて墓参をしなければならない心境になります。
雨の土曜日、いつもは観光客の多いこの飯盛山には人影も少なく、ボランティアの高齢者が詠う詩吟が朗々と流れていました。
白虎隊は、会津藩が組織した16~17歳(年齢を偽った15歳も)の男子による少年隊で、このうちの二番隊の20名が、戸ノ口の戦いで敗れ、負傷者を抱えながら会津城東方の飯盛山へと落ち延びました。ここで会津城下の火災を目にして、城が墜ちたとみて疲労と空腹と刀傷や銃砲傷で絶望的だった20名は哀れにも互いに刺し合って自刃を決行します。その時、唯一人、喉を突いた飯沼貞吉のみが一命を取り留め、虫の息で倒れているところを農婦に助けられて匿われ生き延びます。
私はこの墓参は数年ぶりでしたが、何とこの墓参の翌日8月29日(日)、白河市の戊辰戦争白河の戦い記念碑除幕式でばったり、旧知の飯沼定吉翁のご子孫と会い、旧交を温めました。なお、蛇足として加えますと、記念式典後の祝賀会の円卓の私との同席者は、幕末に使節としてアメリカに渡った咸臨丸艦長・木村摂津守のご子孫、南北朝時代に創建され全国に7000社をもつ宗像神社・宗像家のご子孫、
薩摩の藩主・島津家のご子孫のご内儀など多士済々、楽しく過ごして参りました。