釣り人の大往生・那賀川

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この1文は、以前、月刊誌「つり人」に連載していたエッセイの再掲載です。
曼珠沙華(3)
釣り人の大往生 那賀川
「伊豆の那賀川に逝く」
花見 正樹
事件記者「熊さん」最後の舞台
かつてNHKの人気テレビ番組「事件記者」の熊さん役で親しま
れた外野村晋(とのむらしん-本名小野三郎)さんが、緑濃い樹木
に包まれた伊豆の那賀川で八十二歳の人生を閉じたのは平成六年六
月一日の午前四時、山深い清流はまだ夜の名残りをとどめていた夜
明け前のことです。多くの人々に惜しまれての人生でした。
山形県出身の外野村さんは、シャンソン歌手の芦野宏さんが会長
を務める芸能人山形県人会の副会長として会の運営を補佐してきま
した。その外野村さんは、平成二年十一月に山形市で行われた同会
の初代会長でもあった故伴淳三郎を偲ぶ会の記念誌上に、挨拶に添
えて得意の句を寄せています。
「菊晴れや アジャパア 今日の伴淳祭」
その記念誌の編集者で、会の事務局になっていた芦野事務所の責
任者でもある私の友人の藤村知弘さん(60)は、今回の取材に同行
して外野村さんを悼んでお返しの一句を詠みます。
「鮎と群れ 遊ぶや熊さん 那賀川に」
春たけなわのある日、外野村さんが逝って五年になる西伊豆那賀
川への取材の旅に出ました。大仁に立ち寄り神島橋近くに在住の、
狩野川漁協や教育委員会の仕事を歴任して伊豆の生き字引といわれ
る飯田照男さん(65)もお誘いして三人で西伊豆松崎へと向かいま
した。同行頂いた釣友の飯田さんは、地元の長岡小学校校長で教職
を去りましたが西伊豆でも教鞭をとっていたこともあり、知己も多
くどこにでも顔が利きます。
地味なバイプレ-ヤ-だった外野村さんは無類の釣り好きで、俳
優として油の乗った四十代半ばには趣味が嵩じて釣具店(小野晋平
経営・とのむら釣具店-TEL〇三-三七五七-〇二七一)を開い
ていたほどでした。子息の晋平さんも「時々は、父親と釣りに同行
したものです……」などと、藤村さんに語っています。
趣味の釣りで店を出し、好きな鮎釣りに出て逝ったその人生の幕
引きも、好きな西伊豆那賀川だったということで、ご遺族の方には
申し訳ありませんが、やはり「大往生」だったと思います。
その藤村さん、飯田さんと連れ立って西伊豆に向かうと、ちょう
ど桜の季節で、河津川の桜が満開で車が大渋滞でした。私達も海側
の土産屋の駐車場に車を入れ、飲み物片手にしばしお花見散策とし
ゃれました。それからまた移動です。
現場は、花とロマンの里・松崎町の国道一三六号線を宮野前橋か
ら那賀川を桜並木沿いに山路を数キロ上った大沢温泉地区です。
緑に包まれた渓相のいい川ですが、二日前に降った大雨でかなり
の増水があったとかで底石はきれいに洗われています。まもなく鮎
の季節で小鮎がキラキラと姿を見せていました。
川ヤナギの古木が岸辺から大きく枝を張って清流を覆っている対
岸が外野村さん終焉の地でした。
外野村さんは、この那賀川をこよなく愛していて十年ほどこの川
で鮎の解禁を迎えていた様子です。この年の解禁日前夜も親しい釣
り仲間と四人で定宿の民宿「こんや」(渡辺雄市・はつえ御夫妻経
営・TEL〇五五八-四三-〇一〇六)に泊まっています。宿の切
り盛りをする渡辺はつえさんもしんみりと懐かしみます。
「夫(雄市さん)がこの川に合った鮎の仕掛けなどを教えると素直
にそれを真似て準備していましたし、言葉少ない人でしたが冗談も
けっこう言ってましたですよ」
松崎町民宿組合連合会の会長(99年現在)として松崎温泉郷約一
八〇軒の民宿をを束ねる渡辺雄市さんも残念がります。
「鮎釣りは上手とは言えんが、とにかく釣りが好きで負けず嫌いな
ところもあり、釣りの話になると夢中でしたよ。うちに二日ほど泊
まってあまり釣れないと仲間を誘って河津川に移動して、また二日
ほど遊んで帰ったということでしたな」
鮎釣り人にとって解禁前の夜ぐらい時間の経過が遅く感じる日は
なく、多少のお酒では眠れません。午前三時、外野村さんも軽く仮
眠をとった状態で仲間と宿を出たといいます。川はまだ闇に包まれ
ている時間です。那賀川は宿のすぐ前の道を隔てた至近距離にあり
、明るくなってからでも竿は出せますが、いい苔の付いた一等地に
入るには夜の内に場所決めをしておきたいのは当然です。
外野村さん達四人は二手に別れて、懐中電灯の光を頼りに明るい
内に狙いを定めていた何カ所かの好場所を見てまわり、先客の有無
を確かめました。そして、午前四時近くなった頃、外野村さんは友
人と二人で、前述の川ヤナギの古木の下から対岸に渡ることにしま
した。対岸に腰を下ろせるほどの大石が三つほど辺地の流れに頭を
大きく出していて、その前の流心の深みに黒光りした大石が流れに
沿って沈んでいたようです。
外野村さんは、友人の肩を借りて川を渡り始めました。水深は四
〇センチほどですが流れは見た目より速く、苔の付いた底石はよく
滑りますので、オトリ函や背負い籠などのフル装備などではバラン
スを崩しやすく油断をすると足をとられます。
あとわずかで対岸という位置で友人が足を滑らせ外野村さんも一
緒に水中に倒れました。あわてて態勢を立て直した友人がすぐ外野
村さんを助け起こしましたが、その時、外野村さんの身体からはす
でに力が抜けていたそうです。友人は声をかけながら必死で岸に寄
り、外野村さんを抱き抱えたまま水辺の岩に腰を下ろし、懐中電灯
を対岸の道路側に大きく振りながら声を限りに叫び続けて救いを求
めました。錯乱した中での対策としてはせいいっぱいだったと思い
ます。その辺りにいる釣り人の目にには当然、その電灯の光は見え
ていたはずです。ところが、その光の輪は、居場所を知らせる仲間
への合図としか思われなかったようです。やがて、その懐中電灯に
気づいた人がいます。上流で新居屋という民宿(現在は廃業)を開
いていて、当時漁協(那賀川非出漁業共同組合)の副会長でもあっ
た依田猪佐美さんが、知り合いの若者と土手の上に立っていて、そ
の光の輪をおかしいと思ったそうです。
とりあえず様子を見ようと急いで駆けつけ依田さんは、その友人
の口から緊急事態であることを知らされ、仲間を集めて川から二人
を助け上げると、すぐ警察に通報しました。
しかし、外野村さんの呼吸はすでになく、救急車に乗せられたと
きも腕がだらんとしていたそうで、警察官が来たときにはすでに死
亡していたといいます。検視の結果、死因は急性心不全と判明して
います。おだやかな表情だったそうです。
外野村さんが、仲間とよく食事をしたという同地の食事どころ「
鮎の茶屋」(山本真墨経営・民宿TEL〇五五八-四三-〇二八二
)を訪ねてみました。大自然の仙境と素朴で静かな山間の茶屋と、
大輪の花が咲いたような真墨さんの明るさに外野村さんは惹かれた
のかも知れません。町役場の観光課に勤める真墨さんの夫の一司さ
んが仕留めた天城の猪の肉やイワナの塩焼き、山菜料理などを食し
ながら冷えたビ-ルを飲んでいると、外野村さんが通った奥伊豆の
豊かな旅情が伝わってきます。
「おとなしい方でしたが、フッと冗談を言ったりして……」
真墨さんが言い、外野村さんの色紙を持って来ました。
「ほどほどに釣れ ほどほど酔ひて鮎の宿」と、あります。
俳句好きで趣味も多く、テレビの熊さん役で顔の知られた外野村
さんですから、友人も沢山います。
東京釣具博物館(TEL〇三-五六八八-八八六〇水土開館)の
常見保彦館長は、
「外野村さんの鮎は、おだやかで静かな釣りでしたなあ」
週刊新潮の墓碑銘の一文に、趣味で釣りもやる作家で「事件記者
」の原作者・島田一男さんも次のようにコメントしています。
「外野村さんは、黙々と川に対して品性のある釣り方でした」
その文中によると、外野村さんと親しかった本誌発行元の「つり
人社」前社長の小口修平さんも言います。
「一番好きなことをやってる最中に死ねたのだから、幸せだったん
じゃないか。今頃は三途の川で釣りをしてるでしょう」
前述の芦野宏さんは、故人を惜しんで振り返り、
「外野村さんは、山形県人気質そのままの地味で気骨のある俳優さ
んでしたね。イベントの時には清川虹子さんを誘ってくれたり、会
(芸能人山形県人会)の運営では、いつも私を助けて裏方に徹して
くれました。俳優としても人間としても立派なバイプレ-ヤ-でし
たね。毎年、夏になると県人会の集まりがあるんですが、いつも酒
杯を傾けながら、おだやかな口調で鮎釣りの楽しみを披露されたも
のです。ご本人を失ったことも悲しいことですが、尺鮎の自慢話を
語ることもなくお亡くなりになって、多分、本人にとってもそれだ
けが心残りだったのではないでしょうか……」
展望風呂のフレ-ズに惹かれて私達が泊まった、「ヴィラ扇」(
細田栄作さん経営・TELO五五八-四二-一三六七)は”静思・
再生の宿・旅先で過ごす贅沢なコ-ヒ-タイム”などのキャッチコ
ピ-を持つ宿で、玄関を入ると、洋風のレストランにでも来たかの
ような錯覚を感じます。父親の細田義也さんが民宿のご主人とも思
えない博学の話好きであるのに比べて、経営を任された息子の栄作
さんはハンマ-投げで鍛えた体躯からは想像できないような細やか
な気配りの持ち主で寡黙、本格的にコ-ヒ-の豆を挽きます。
料理上手の栄作さんは、一級小型船舶操縦士、特殊無線技師など
の資格を持ち地元のヨットクラブの事務局を引き受ける海の男で、
これからは本格的なフランス料理をお客に提供したいという夢を持
つと聞きます。さすがに西伊豆、変わった民宿もあるものです。ぜ
ひ、立ち寄ってみてください。
取材を終えた私達は、飯田さんの案内で、浄感寺の長八記念館、
重文の岩科学校をはじめ象牙博物館などに寄り、飯田さん宅で書道
家で大正琴にも長じる奥様の手料理を堪能して帰途につきました。
それでも、鮎の季節にまだ早く、鮎にも対面せずに帰った西伊豆の
旅……やはりチョッピリ未練は残ります。
愛する那賀川の解禁を楽しみに、ほとんど眠らずに夜明けを待っ
た外野村さんの心情も、「野鮎を一尾だけでも掛けたかった」のが
本音ではないか、と、無念さを感じるのです。そこで、ふと、この
文の本当のタイトルは「少し未練の残る大往生!」かな?という思
いに駆られました。
外野村晋さんのご冥福を、心からお祈り申し上げます。