人の命には限りがあり、どんなに長く生きたくても寿命という天意がそれを許しません。その反面、天意に逆らって本来の寿命を縮めている場合もあります。
6月27日朝、兵庫県県から大学生仲間4人で高知県四万十市西土佐に遊びに来ていた18歳の若者が、四万十川にかかる沈下橋(増水時に水面下に沈み、流木などで壊れないように欄干がない)から川に飛び込んで遊泳していて溺れて行方不明になり、地元の警察・消防隊員らの捜索で下流の川底から死体で見つかった・・・新聞でこんな記事を見つけました。この季節にこんな記事を目にすると、遭難者への冥福を祈りながらも自戒の念で複雑な思いを感じます。
私は、短編小説{魔の四万十川」で、この現場になる岩間沈下橋も渡っているだけに、この記事を目にしただけで胸騒ぎがするのです。
最後の清流といわれた四万十川は、沈下橋から川底を覗くと石間に泳ぐ鮎や小魚の姿が鮮明に見えるほど澄んで穏やかな流れです。ところが豪雨で増水した途端亜、手が付けられない暴れ川に豹変します。しかも底石が大きいだけに流れは複雑です。いくら水泳に自信があっても豪雨で増水した川の底流れに巻き込まれると平衡感覚が失われて水面に顔を出せない時がある・・・これだけは経験した者にしか分からない。川でも海でもいくら泳ぎは達者でも水難事故は紙一重、水遊びには溺れるという危険はつねに付きまとうのだ。
私の場合、日本の三大急流の一つ九州球磨川(熊本県)の激流を夏の遊び場にして鮎掛けを楽しんでいるだけに数多くの危険を体験してきています。表面の穏やかな流れに騙されて中洲に渉ろうと川に入った途端、激しい底流れに足を救われてアッという間に泳がされたことも二度や三度はありますし、胸まで浸かってやっと大鮎を掛けた瞬間、ふくらはぎから足首の筋肉が攣っての激痛に襲われ、何とか下流の岸まで泳いで獲物を仕留めたこともあります。
最近では仲間が気を使ってくれて、危ない場所には行かせて貰えませんので危険もスリルも収穫も激減しましたが、それでも多少のリスクを冒さない限りは目指す尺鮎(30.3センチ)との遭遇は有り得ません。
今年もまだ激流に耐える体力があるのか? この解答は、残り鮎を狙う晩夏の頃、早瀬に浸かればすぐ出ます。
この限界が訪れたとき、私は河原に竿を置き土手に咲く真紅の曼珠沙華を眺めて人目をはばからず号泣するのも今から予測できます。
それはまだ数年さきのこと、今年はまだ足腰は酷使に耐え得る活力を保っていると自負しています。
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永井荷風翁を偲ぶ
曼珠沙華は別名を彼岸花、葬式花などともいい、人間の往生に縁のある花です。
永井荷風翁を偲ぶ
花見 正樹
私が文学に興味を持った切っ掛けは単純、近所に住んでいた妙な老人との出会いからです。その老人の名が永井荷風、初秋には真っ赤な曼珠沙華の花が咲く真間川土手での出会いでした。
「フランス物語」から「墨東奇譚」など、偏奇の美学とか退廃の文学とか言われながらも、永井荷風翁の作品は、高い文学性と幅広い人間観察の視点から巷にうごめく男女の交わりを描いた荷風文学に触れたことが、私の少年時代の文学開眼の原点になっています。
荷風翁の裏作「四畳半ふすまの下張り」を読んだ時のショックは今でも忘れられません。あの瑞々しい男女の性の機微に感じなくなっている心の老いが残念でなりません。かつては、浮世絵の大家・葛飾北斎が表芸の芝居絵を描く傍ら、男女の悦楽をあますことなく表現した素晴らしい春画の数々を後世に残したように、文学者・永井荷風の面目躍如たる作品が「四畳半ふすまの下張り」です。一時は発禁の書として取り締まりの対象になりましたが、今はもう王朝時代の性愛の書の源氏物語が、古典文学を代表する文学作品として脚光を浴びる時代です。今こそ、荷風文学にも男女交接の貴重な秘本としての光が当たってしかるべきと考えるのは私だけでしょうか?
文章は荷風、絵は北斎・・・私は、映画「北斎漫画」にもチラと登場する親蛸小蛸競演の「貴能会之故真通(きのえのこまつ)」の北斎の絵にも大きなショックを受けたことがあります。この絵には北斎の描きたかった猟奇性や娯楽性が余すことなく集約されているような気がします。
私は今でも、あの気難しく細長い老人の孤高で寂しげな風貌が目に浮かびます。昭和ニ十五年頃の遠い昔・・・私がまだ中学二年生頃の想い出です。当時、私は父親の仕事の関係で、千葉県市川市宮久保という田園地帯の中の離れ小島のような重工業工場関連の社宅に両親兄弟と住んでいました。JR(当時は国鉄)本八幡から北に徒歩三十分ほどの距離にある辺鄙な市川市のはずれにある住宅地でした。地名でいうと本八幡駅から北に、八幡、菅野、宮久保となっていて、菅野と宮久保の境界には真間川という清流がありました。
真間川は、今ではただの汚れ河川ですが、当時は水も澄み、ヤマベ(オイカワ)やタナゴ、ハヤなどが群泳していいて、なかなかの清流だったのです。菅野と宮久保の境界にかかる橋の菅野寄りの西角に、昭和女子学院(現在は昭和学院)という高校と短大を備えた学園があり、その校庭のはずれが少し小高くなった真間川の土手になっていました。
私が通っていた学校は、市川三中という宮久保よりさらに北側の曽谷という地名の高台にありましたが、私は小魚釣りが大好きでしたので、授業が終わって部活のない日は急いで帰宅してカバンを放り出し、釣り道具を抱えて一目散に真間川に向かうのを常としていたものです。私の釣り場はいつも決まっていて、県道に掛かる橋の上流、昭和女子学院裏西側の細道にかかる粗末な木橋下の左岸でした。
土手の上からでは釣りになりませんから、土手から下に降りて、自分の姿が水面からは見えない程度の草陰に座って竿を出し、釣れた魚は、木の枝に掛けて水中に垂らした網魚篭(びく)の中に入れるのですが、ヤマベ、ハヤ、タナゴ、クチボソ、フナなどが群泳していて、面白いように釣れるはずでしたが、腕も仕掛けも独学でしたから釣果はいつもイマイチでした。
その木橋を昭和女子学院側に渡ると、農村地帯の宮久保から住宅地の菅野に変わります。いつの頃からか菅野側から歩いてきた顔の長い無精ひげの七十歳ほどの麻のハットを被ったゲタ履きの老人が、ズックカバンを肩から斜めに掛けてとぼとぼと木橋を渡って、私の背後にまわって土手に腰をおろし、のんびりと釣りを眺めるようになり、ごく自然に顔見知りになりました。
私としては、一人で無心に小魚釣りを楽しみたいのに何となく気が散ります。目の前の土手上からでも私の小魚釣りなど見えるのに、
わざわざ木橋を渡り遠回りしてまで私の背後に来るということは、私の視界に入らないようにという老人の配慮かとも思ったものです。
しかし、背後からだと草やヤブが邪魔して、ウキの流れや微妙なアタリまではよく見えないはずなのです。老人は、そんな私の思惑など知らぬ気に、カバンから出した本を読んだり、食べ物を口に入れたり水筒から水か酒を飲んだり、校庭が賑やかになると立ち上がって背伸びをしたりして、適度の運動を試みているようです。
その老人は、私の釣りに対しても、「その先に大きなハヤがいるぞ!」、などと口うるさいだけでなく、私が小魚を釣り落とした時などは、私に聞こえる程度の小声で「合わせが遅いな」などと呟くのです。ギャラリーの参加など望まない私としては面白くありません。
ある日のこと、我慢には限界がありますし、その日は虫の居所が悪かったのか、何か言われてムッとした不満顔で老人を見たところ、それを待っていたかのように老人が土手を降りてきて、ズックカバンの中から「君も食べるかね?」と、乾燥イモを出して来たのです。なにしろ食べ盛りの中学生ですから食い気には勝てません。たちまち相好を崩して手を出し、小魚は釣れないのに、自分が餌に食いついて釣られてしまったのです。
それ以来、老人は得意になって「餌のミミズが長すぎる」とか「竿合わせが遅い」とか講釈をたれるのですが、時々食べ物を頂戴している手前、文句も言えません。老人は、校庭が賑やかになると必ず土手に上がって背伸びをして体操をしたりしています。
あるとき、対岸の土手を犬を散歩させていた妙齢のご婦人が、私の横に座っている老人を見て「カフウ先生! お元気ですか?」と声をかけました。私が思わず横を見ると、老人が横柄に、「ああ」と軽く頷いて立ち上がり、目を細めて「あんたも元気そうじゃな」と手を振っているのですが、それまでしょぼくれた老人としか見えなかった爺さんが急に若々しく見えたのには驚きました。
その「カフウ先生」とは、高名な文豪・永井荷風ではないか? と気づいたのは、国語の授業で川名先生という担任の先生が、「フランス物語」に触れ、この作家・永井荷風が学校からも近いい市内菅野に住んでいると言ったことでピンと来たのです。その日、帰宅するとすぐ釣り道具を持っていつもの川に走りました。やがて、老人もいつものように飄々として現れます。
「もしかして、おじさんは作家の永井荷風さん?」
「ああ・・・」
老人は素っ気なく返事して、いつも通りの不愛想な顔で横に座ってカバンからセンベイを取り出して私に手渡します。
もしかすると、この日のこの瞬間が、私の人生になにがしかの影響をもたらしているのかも知れません。
それまでの私は、講談本の真田十勇士シリーズの「猿飛佐助」「霧隠才蔵」や、学校で教材に出た川端康成の短編、古本屋で買った「無法松の一生」などしか記憶にありません。あわてて学校の図書室や書店、古本屋に入りこんで、永井荷風の著書を探して「すみだ川」や、発禁になったこともあるという「アメリカ物語」などを読み漁り、春情を高ぶらせながらも、青春や人生を文章に残すことが可能な作家という職業への淡い憧れを心の片隅に刻み込んだものです。
その想いが、人生の中盤になって女々しく形を現わしつつあるのですが・・・。
その後も、荷風翁との交流が暫くは続きましたが、秋風に枯葉舞う季節になって私も読書癖や受験向けの課外授業が増えたこともあり、小魚釣りを止めましたので翁とも会わなくなりました。愛読書も山本周五郎、吉川英冶、森鴎外と増え続けました。
それから数年を過ぎた昭和34年の晩春のある日、社会人になっていた私は新聞で永井荷風翁の死を知りました。編集者が翁の家に電話をしても連絡がつかないことを不審に思って、菅野からほど近い八幡に移り住んで一人で暮らしていた翁の家を訪ねて知った、死後数日を経た孤独な翁の遺体でした。死因は、胃潰瘍から吐血しての心臓麻痺ではないかと新聞にはありましたが真相は知りません。た対岸に渡ることもだ、新聞で見た遺影はまさしく、あのままの顔でした。追悼記事によると、翁はここ数年、浅草の劇場通いが日常生活の一部になっていただけに、一週間近くも踊り子たちの控室に姿を見せないのを劇場の誰もが気にしていたとの挿話が載っていたのです。
それを見た時、ふと、ある疑問が私の頭をよぎりました。荷風翁が私の小魚釣りを見ていたのも退屈しのぎと考えるのは間違いだったと気づきました。確かに、これだけの高名な作家が時間を割いてまで、少年の小魚釣りに付き合うのは余りにも不自然過ぎます。小魚釣りを見るだけなら、自宅のある側の土手上からでも見えるのに、わざわざ橋を渡って対岸にまで来ていた理由が分かりかけたのです。tらのらずにたいのであれば、対岸の土手からがよく見えたはずなのに、わざわざ貧しい木橋を渡ってまで私のいる側に来ていた理由に気づいたのです。
荷風翁は、魚釣りなどに関心はなく、水の流れを眺めて小説の構想を練っていたのです。さらに、翁が土手に上がって立っている時は必ず高等女学校の校庭が賑やかで、若い嬌声や元気のよい明るい声が響いていたときだけでした。そうなると、荷風翁の視線の先には、黒いブルマーの下から白いのびやかな足を惜しげもなくさらけ出して躍動する女学生の姿があったはずです。今にして思えば、荷風翁のお目当てが、その若々しい肢体にあったのは疑う余地もありません。私の推測では、それから翁は一度帰宅して服装を整え、京成菅野駅から浅草方面に出掛けては浅草の劇場や玉の井の遊郭などに足繁く通っていたことになります。
私? 私は純粋に小魚釣りだけが目的で、女学校の校庭もほんのちょっと垣い間見ただけで、全く他意はありませんでした。本当です。