お元気ですか?
残念ですが、やはりワールドサッカーでの日本選手は善戦空しく敗退しました。
ゴールは遠い・・・目の前にゴールが見えていてボールが足元に来ても思い切って打てないのです。
勝負事を支配する5項目は、自信、体調体力、技術、環境、運です。これは、仕事にも私生活にも言えることです。
自信がないと背中が丸まり目線が下に落ちし視野が狭くなり「失敗したら」が頭をよぎり消極的になります。精神的に充実していて自信満々なときは怖いものなしで、積極的になります。
体調は体力を含めて大きな要素ですが外からは見えない場合もあります。高地での激しい運動では酸素の必要量が不足したら、たちまち体の動きは鈍くなります。極端な暑さでの発汗や空腹もスタミナを失う原因になります。暑さに慣れていない選手が酷暑の中をハーフ45分、その倍をフルに走り抜くなど無茶で無理です。体力に自信がないとき人は本能的に自己防衛で力を抜き全力疾走を怠り、残存体力を温存しようとします。
埼玉県川口市の公務員市民ランナーは、いつもゴールに倒れこみ失神状態で担がれて退場します。勝っても負けても余力がないほどの全力疾走、だからこそ観客の感動を呼ぶのです。その気力が技術を上回る場合もままあります。
さて、その技術ですが、これには天性の素質と人に倍する努力以外にはありません。一流選手には、並とは違う天性の俊敏さや頭脳の反射神経や動体視力など優れた要素が備わっています。それを磨くための誰にも負けない忍耐強い努力、これを怠ったら一流にはなれません。
世の中には優れた才能を秘めた一流予備軍の人もたくさん埋もれています。天才、秀才もゴロゴロ転がっています。
では、なぜそれらの人が脚光を浴びないで埋もれているのか。環境に恵まれないと、その才能を世に出すことも出来ません。
環境とは人間関係で築かれるもので、人望がなければ誰も引き立ててくれません。その上に運の良し悪しが、人の活躍や成功に大きく影響します。
さて、その観点から考えると、今回のワールドサッカーは日本選手のコンディーションづくりの難しい環境でした。
初戦も慣れない深夜の試合でしたから、体のあちこちの体内リズムが狂っていたはずです。
もちろん、相手も同じ条件です。
そんなときは、ムードメーカーが盛り上げて明るくお祭り騒ぎで勝ちムードを作らねばなりません。日本の有名選手でも、悲壮感を漂わせて暗い顔で個人プレーに徹して必死だった人もいます。仲間を信じきれないから自分で何とかドリブルで持ち込んでシュート、これでは勝てません。
環境と運がよければ自分の前に仲間から送られたボールが来て自信をもってシュート! これが決勝点、これでいいのです。
ともあれ、日本選手はせいいっぱい頑張ったのは間違いありません。自信、体力、技術、環境、運・・・これらに恵まれなかっただけです。
さあ他人ごとではありません。
自分もまた、この5要素との闘いが始まっているのです。
二刀流・大谷選手!
お元気ですか?
今週は意図的にワールドサッカーの話題からは遠ざかります。
期待し過ぎても期待しなくても胃に悪いような気がするので
す。つぎの試合では、スパッとゴールを決めての予選突破を願
うばかりです。
さて、サッカーから離れると野球・・・こうなりますが興味
ありますか? 私は昔、中日の四番打者で監督も経験した江藤
慎一氏と少年野球指導の会を運営したほどの野球キチです。
ま、野球に興味がなくても日本ハムの投打二刀流・大谷翔平
の名ぐらいはご存知ですね?
6月21日現在、投手としては時速160キロという記録に
残る剛速球を武器に7勝2敗、打者としても並みいる強打者に
交じっての2割8分台で本塁打も二本という強打者です。
しかもセパ交流試合前は3割以上の高打率でパ・リーグのベ
スト10打者上位の常連だったのです。その二年目で花開いて
大活躍の大谷選手に改名を勧めた者がいるのですから呆れます。
昨年の4月19日、プロ野球開幕後のことでした。
某スポーツ新聞紙面半分の大きな紙面を使っての姓名判断で
す。その一部を紹介します。
「大谷翔平という名は、大きく羽ばたいて山を越え谷を越えて
平然と我が道を行く、大きな名です」
ただ、自覚からみると「ケガに注意」と出ています。
そこでは、肩を壊したりでいつか行き詰ったときは、アダ名
そのままの「ショーヘイヘイ」に改名を勧めています。
その理由を、紙面いっぱいにるる説明してあるのです。
早速、記者がその新聞をベンチに持ち込むと本人も大喜びで、
監督まで大乗り気だったそうです。
今ではチームの誰もが大谷選手を「ショーヘイヘイ」と普通
に呼んでいるそうです。
これなら今のところ改名の必要はありません。
本名の雄大さとアダ名の幸運に守られるからです。
記事のタイトルは、こうなっています。
「大谷に改名のすすめ・・・開運のカリスマ・花見正樹氏、こ
れで完璧!」
副題に「ティー打撃の大谷に花見氏(写真)がアドバイス」と
あり、私と大谷選手の写真が載っています。
幸いに大きなケガもなく大活躍の大谷選手で一安心、まだまだ
改名の必要はありません。これには後日談があります。
おかげで何人かのプロ野球選手から改名の相談を受けています。
ただし、いまのところ二軍の選手ばかりです。
しかし、改名後大活躍のイチロー選手の例もありますので、こ
れから一軍に這い上がる選手がいるのを楽しみに待っています。
我が家もテレビ応援でした!
お元気ですか?
今週は何はさておいてもまずワールドサッカーからですね。
わが家も他にもれず週末には泊まりに来る息子や孫がテレビを前にして遅い朝食後のデザート替わりの応援でした。
本田選手が得意の左足とかで相手ゴールにボールを蹴り込むと、5歳の孫までが意味も分からずに周囲に和して圭佑コールに拍手で喜びを表現します。こうして前半は勝ちムードで折り返しでした。こうなると誰ひとりとして日本チームの勝ちを疑いません。
しかし、この油断こそ日本のお家芸、たった2分の間に2点、考えられないような惨めな失点でした。
この魔の2分間で逆転された途端、画面に映し出される日本選手の雨に濡れて疲れきった顔、スピード感溢れる相手に翻弄さ必至にれて足取りが重くなってゆくのを見るにつれ勝ちが遠のくのに気づいて、家族の応援も何となく勢いが失せてきます。
ここで選手がサッカーを楽しむ笑顔を見せれば救われるのですが、たかがスポーツなのに国民の期待を裏切るのを恐れるように悲壮感を漂わせて必死に相手ボールを奪いに走る姿は勇敢にも惨めにも見えて哀れにさえ思えて、応援にも悲壮感が漂うのです。
多分、充分な眠りもとれないような強いプレッシャーの中、治安も環境もよくない異郷の地での深夜の戦い、これは辛いはずです。
好きで選んだ仕事なら、もっと楽しめないのか?
もっと伸び伸びと、自分の個性を生かせる仕事は出来ないのか? 出来ないのです。
なにしろ一人ひとりが海外の有名チームで活躍している選手です。監督はチームプレーを訴えて作戦を練り、各選手もその通りに練習を重ねて本番に備えます。しかし、いざ本番になって野に放たれれば、監督に飼い慣らされた従順な飼い犬も野生の狼に逆戻りです。
それぞれが個人技に走って、まず一人が好結果を残します。
すると、本来はそれぞれがライバルですから目立ちたがろうと必死に動いてアシストを忘れてミスを犯します。
これが命取りになって敗者の悲しみにつながるのです。
20年前のドーハの悲劇を覚えていますか?
あの時は勝利寸前、ロスタイムもあと僅かでした。
ほぼ時間切れで安心し切っていた日本が、ロスタイム20秒に意表を突いたイラクに同点ゴールを決められて本選出場を逃したのです。あれ以来、「ドーハの悲劇」=「油断禁物」、これが合言葉だったのに未だに同じことを続けています。
イラクのフセイン政権時代、サッカーの国際試合で惨めな敗戦をすると、選手は帰国後両手の爪を剥がされたそうです。
日本は違います。
よく頑張った、せいっぱいやったんだから悔いはないだろ?
とんでもない・・・この試合で自分の力を出し切れずに敗戦の一因を担った香川選手などは一生心の中で自分を責め続けるはずです。
これも哀れですが、それをバネに大きく飛躍できればそれも良し、何事もプラス思考で負けもまた良しとしましょう。
つぎの試合で全力を出し切ってくれればいい! これが日本式応援というものです。
梅雨とアジサイ
お元気ですか?
関東地方はいよいよ梅雨入り、いきなり豪雨ですから調子が狂ってしまいます。
私は雨が好きですが、それも程度問題です。いくら雨が好きでも、人家に被害を及ぼすほどの豪雨は当然ながら嫌いです。
やはり、梅雨はアジサイの花を引き立てるようにしとしとと風情よく降ってほしいものです。私は雨も好きですが、それでもせいぜい週に一回がいいところです。
築地にいますと来客との食事はどうしても寿司になります。築地にも美味しい日本そば、パスター、ラーメン、カレー、うなぎの店があります。
ここで言葉遊びを考えてみました。
私は「寿司」も好きですが毎日はいけません、せいぜい週に2回がいいところです。私は階段上りが好きですが毎日はいけません、せいぜい週に2回がいいところです。私は徹夜仕事をよくしますが毎日はいけません、せいぜい週に2回がいいところです。私は「天ぷらザルそば」も好きですが毎日はいけません、せいぜい週に2回がいいところです。
さあ、あなたも同じように字遊びに挑戦してみてください。なにか一つぐらいは万人共通の文字が入るかも知れません。
もちろん「・・」の中の文字数に制限はありません。
1、私は「・・・」も好きですが毎日はいけません、せいぜい週に「 」回がいいところです。
2、私は「・・・」も好きですが毎日はいけません、せいぜい月に「 」回がいいところです。
3、私は「・・・」も好きですが毎日はいけません、せいぜい年に「 」回がいいところです。
上記は別にアンケートを求めているわけではありません。
わざわざメールを頂かなくても・・・でも、意外に匿名のフリーメールが届くので、つい期待してしまいます。
さて、
梅雨の季節が旬のアジサイ(紫陽花)といえば、関東では栃木の黒羽、群馬の下仁田あじさい園、埼玉県は我が家に近い幸手権現堂公園、千葉県では松戸のアジサイ寺・本土寺、東京では花見化学から歩いて数分の向島百花園、練馬の石神井公園、土方歳三ゆかりの高幡不動尊金剛寺もなかなかの花寺です。
神奈川県・・・これは別格、アジサイは何といっても私の一押しは鎌倉です。6月の鎌倉は雨の季節にも関わらずアジサイを見に訪れる観光客で溢れます。
鎌倉のアジサイ寺といえば、明月院、東慶寺、長谷寺、鎌倉宮 、瑞泉寺、長谷寺、東慶寺など数々あります。
なかでも四季折々の花の名所が長谷寺で、アジサイも約40種、なんとも色鮮やかで見事なものです。
とくにアジサイ寺で名高い東慶寺の境内には30種以上のアジサイの他に菖蒲の花が見頃を迎えます。
しかし、私のお勧めはアジサイの穴場・北鎌倉の円覚寺です。この寺には国宝の舎利殿や数々の重要な歴史建造物があります。
アジサイの種類は10種もありませんがヤマアジサイを中心に実に見事なものです。
私は若い頃、弓道との関連でこの円覚寺で座禅修行をしていた時代があり、寺と禅師には深い思い入れが残っています。
師は朝比奈宗源というお坊さんで臨済宗円覚寺派管長、世界連邦日本仏教徒協議会会長などを経て昭和54年に88歳で逝きました。
この禅の修業が今も私の精神的な支えになっていて、それがアルファー波の研究につながっています。
その上、鎌倉には青春時代の追憶が今でも胸の奥深く眠っています。それを語るのは本意ではありませんので氷結しますが、ともあれ雨の鎌倉はアジサイがよく似合います。
長く辛く落ち着かない日
お元気ですか?
5月31日は禁煙デー、6月1日は鮎の解禁日です。
殆どの人には関係のないことですが・・・
ただ、この6月1日は私にとって長く辛く落ち着かない一日なのです。
5月31日の深夜、寝不足の頭痛を堪えて週末の締切原稿で徹夜です。
日テレ系地方局数社が私の占い原稿を元に視聴者に毎日の占いを提供しています。
日曜の夜までに発送すればいいのですが、今年は例年と違って6月1日が日曜日になってしまいました。
この日だけは特別なのは私をよく知る人には理解して頂いていることです。
私は以前、全国の鮎河川を対象に小説を書いて「つり人」という月刊誌に連載していました。
「魔の四万十川」「利根川心中」「狩野川慕情」「鬼棲む球磨川」「埋蔵金秘話」で那珂川&大谷川などです。
その他、エッセイではありとあらゆる河川を舞台に鮎と人間の交流を書き続けてきました。
その結果が「巨鮎(おおあゆ)に憑かれた男たち」という小説でした。
その後遺症で、いまだに各地の漁協から鮎の解禁日になると招待状が届きます。
時間があれば全国どこでも飛び歩くのですが、身一つではそう自由は利きません。
それでも今年は解禁日が日曜日ですから、一か所ぐらいは顔を出すつもりで急ぎ仕事です。
わが家からですと高速で2時間もあれば栃木県の那珂川、北部漁協に行けます。
ただし、解禁日の若鮎を釣るような繊細な仕掛けは用意しませんから竿は出しません。
漁協役員と挨拶を交わした後で川に向かいます。
地元の釣優が友がどの場所に入るかは例年ほぼ決まっています。
あちこちで知人を見つけては釣果を冷やかし河原で茶飲み話です。
以前は前夜祭に参加して、夜明けと同時に竿を出していたものです。
それなのに、この変わりようは自分でも呆れるほどです。
と、淡々と尤もらしく説明しましたが、これには少しばかり事情があります。
私のホームグラウンドは、栃木県鹿沼市の農村から日光連山の山裾に近い大芦川水系です。
そこは高知県四万十川支流の大淀川と並び称されるほどの日本有数の清流です。
水がきれいなら水底の岩に良質の苔が付着し、それを食む美味しい鮎が育ちます。
ただ惜しいことに川が小さいために、盛期の大鮎に育つ前に殆ど鵜と釣り師に獲られてしまうのです。
それと先年、豪農でその川で鮎のオトリ屋を営んでいた私と同年の釣友が逝き、足場を失った感じでもありました。
さらに大きなダメージを受けています。
栃木県喜連川(現さくら市)出身の親しい釣友が二度目の軽い脳溢血でリハビリ中なのです。
6月中旬まで頑張ってリハビリをし、7月になったら那珂川あたりに拉致します。
これは、たとえ車イスでも「実行する」と奥方にも宣言して許可を得ています。
数年前の発作後は伊豆の狩野川に連行しました。
鮎の溜まりそうな瀬の水際ぎりぎりの岩に腰をかけ、そこから竿を出します。
手先は器用に動かせませんが、好きなことですから何とか自分で頑張ります。
掛かると呂律の回らない口で歓喜の声を上げ、なんと深場に立ちこんだ私より数多く掛けました。
その日を境に体調が一気に回復し、その良く年は殆ど健康を取り戻していたのです。
その友人もまた、この時の感激が忘れられず、この夏の鮎が待ち遠しくて溜まらないのです。
その友人のためにもその日までは鮎竿を封印して待つつもりです。
その友人との約束を果たしたら、九州の大鮎との出会いが待っています。
さあ、待ちに待った夏だぞ!
その前に早く何とか原稿を・・・もう日が高くなって、いま、焦りに焦っています。
水遊び
お元気ですか?
夏になると水遊びがしたくなるのは子供だけではありません。
私も水遊びは大好きです。水遊びといっても長い竿を使います。
5月の末になると、あちこちの友人から水遊びの誘いが入ります。
その誘惑に耐えて、じっと我慢するのがここ数年の私の初夏の生活様式です。
まず、6月1日(日)を待たずに川を解放する姑息な漁協があります。
5月中旬、鮎はまだ柳の葉っぱのように小さな鮎が嬉々として泳いでいます。
そんなところに釣り人が操る青白い養殖鮎が紛れ込んで来るのですから怒ります。
体当たりして追い払おうとして、哀れにも掛けバリに掛かって釣りあげられ、天ぷらです。
鮎は塩焼きが一番美味しいのですが、早い解禁で鮎が小さすぎて塩焼きにもならないのです。
何尾かまとめて天ぷらにし、塩か醤油で食べるしかありません。
私にはそんなのを釣る竿も道具もありませんから、誘いにも乗れずひたすら鮎の多く気なるのを待つのです。
鮎は極く稀な例外を除いて1年で寿命が尽きる年魚です。
秋には卵を産んで子孫を残すといさぎよく死んでゆきます。
でも初夏から成果を目いっぱい川で生きてこそ年魚なのに初夏に釣られては悔いても悔やみきれません。
そう考えると鮎は、成果から秋口にかけて釣ってあげるのが武士の情けというものです。
と、理屈はそうなのですが実態は違います。
私が横着なだけなのです。
鮎釣りは、小鮎を釣るほど繊細な仕掛けが必要で技も要ります。
それが面倒で、私は大鮎を釣るだけの鮎釣り師になったのです。
著書にも「巨鮎(おおあゆ)に憑かれた男たち(つり人社)」があるのですから仕方ありません。
これから暫くは、各地の河川で鵜と人間との鮎をめぐる攻防が始まります。
海から遡上する天然の鮎は、自分の居場所を求めて上流にたどり着く前に鵜にやられます。
鵜は200羽から500羽ほどの群れをなして瀬ごとに狩りをします。
ボス鵜が号令するらしく一糸乱れずいっせいに瀬頭と瀬尻までに飛び込んで、そこにいる鮎を捕捉します。
そこでひとしきり腹を満たすと、また上流の瀬に飛び立ち狩りを続けます。
群れが去ると暫くしてまた別の群れが現れ、新たに深みから瀬に出た鮎を目がけて狩りを始めます。
これが毎日繰り返され、ようやく鮎が成長した頃は初夏になっています。
長い竿を担いだ獰猛な二本足の人間が解禁日とか喚いて、川に押し入って来て殺戮を始めるのだ。
私は、そんなことはしない。
じっくりと季節が移り行くまで待ち、釣り人が釣り飽きて去る秋風の頃まで待つのです。
その上で満を持して日本三大急流の一つ九州球磨川(他は富士川、最上川)に向かいます。
そこには、ひと夏、釣り人との攻防に打ち勝った性根の座った強い大鮎だけが居残っています。
それと戦うには少々は覚悟が要ります。
まず台風のシーズンですから、川に入れるか入れないかは天候次第です。
台風が過ぎても一週間は水位も落ち着かず水中の岩にコケも付着しきません。
それと、秋口に入ると水温が極端に下がって、体温が下がって体力が消耗します。
それに打ち勝つ体力のために、温泉と球磨焼酎で体を温め充分な食事と休養が欠かせません。
万が一、川の状態が回復しない場合は、一シーズンを棒に振る場合もあり得るのです。
さあ、戦いの火ぶたが切られる日は刻一刻と迫っています。
今から体を鍛えておかないと大変なことになります。
明日からまた、パソコンの入った重いカバンを斜めに背負い、水の入ったオトリ缶と思って階段上りです。
と、下手な鮎釣り師は、今から眠れぬ夜を過ごしています。
綾部の里に花が咲く
5月18日(日)、港区芝浦のシーサイド・ホテルでパーティがありました。東京綾部会・・・京都府綾部市出身の東京近郊住民の集いです。
私は、綾部市を舞台にした小説を書いているお邪魔虫ゲストです。なぜ、こうなったのか?
私の親しい友人に全日空元役員の西川嘉伸氏がいます。その故郷に珍しいお祭りがあると聞いて、のこのこ出かけました。その身内に役所の重役を勤める大物がいて、市長と高校の同級生だったのです。
綾部市はいい街です。今でも目を閉じると、ゴミ一つ落ちていなかった清潔な綾部の街並みや山深い大自然が頭に浮かびます。
綾部市には市街地と山間部が、都会と未開地のようなコントラストで混在しています。綾部市は、京都府北部に位置し、市街地を由良川が流れる風光明媚な町です。グンゼ、新宗教「大本」発祥の地で隣接する舞鶴・若狭、福知山・京都を結ぶ交通の要衝です。
現在の人口は20年前の15%減で約3万5千人、京都府での地位は低下しつつあります。市の大きさは東西に32km、南北に15キロ、東が山岳地帯で積雪量も気温も東西ではまるで違います。市の東部は山間部で過疎地、人口は市の南西部に集中しています。
どういうわけか、私はこの町が気に入りました。
名誉市民で住み着いて、夏は由良川のアユ釣りも悪くはありません。でも、大鮎釣りに凝って25年以上、並のアユを釣る道具も腕も持ち合わせていません。残念です。
パーティでは、市長から広報も紹介され、いよいよ書く気満々です。めどがつけば出版する・・・出版社とはすでに話がついています。
ただ、ご当地小説を書く以上は、熱いメロドラマも挿入しないと女性読者を呼び込めません。
そこでハタと気づきました。
私は今まで、恋愛沙汰の修行が足りませんでした。これではせいぜい失恋もので終わりです。ああ思いつくのが遅かった・・・今さら悔いても仕方ありません。
ところで、綾部には故郷に錦を飾る名士が沢山います。
敬称略で列記してみます。
足利尊氏、細野豪志(環境大臣等)、林田悠紀夫(元京都府知事・法相)奥田幹生(元文相)、塩見三省(俳優)、波多野鶴吉(グンゼ創業者)
原脩次郎(鉄道大臣)、杉山晃紀(元プロ野球読売ジャイアンツ選手)福井勇(画家)、西川嘉伸(元ANA重役)、まだまだいますが・・・
綾部市は今、観光客や定住者の誘致に躍起になっています。山崎善也市長は、二期目を迎えてますます前向きでやる気、工業団地でも企業誘致をしています。市長を守り立てるためにも、話題になる小説を、と思っています。
なにしろ綾部市は文化度が高いだけに、完成度の高い小説が望まれるはずです。メディアにはFMいかる(正式にはFMあやべ)、あやべ市民新聞などがあります。この街を舞台に、全国区として評価されるどのようなドラマが書けるのか?
これからが自分でも楽しみです。なお、ヤマ場を書くときは、お忍びで一週間ほど綾部市で暮らすつもりです。
連載中の小説「綾部の里に花が咲く」は下記から見ることが出来ます。
http://kaiundou.jp から、花見作品集 その中にあります。
または、直接見ること目出来ます。
http://kaiundou.jp/nichibungakuin/modules/pukiwiki/703.html
大型連休を終えて
お元気ですか?
若緑色あざやかな新緑の季節が嬉しいですね。
いつもながらの嵐のような大型連休は去りました。
それでも、我が家は年々、落ち着きを取り戻しています。100歳寸前の母は突然の腰痛で、久しぶりに車イスです。それでも意気軒昂、100歳の誕生祝目指してリハビリ中です。
私はこの連休、嬉々として孫と遊んでいました。これも手がかからなくなりました。何しろ孫6人のうち3人が成人しています。
4歳男1人、小5女、小6女の3人なら公園、映画でまず二日。あとは、大型娯楽施設の買い物で終わり、遠出はなしです。
私は、その合間をみて必要最低限の仕事はやらねばなりません。正月休みと大型連休の二大イベントだけは避けて通れないのです。
とりあえず、連休が無事に済めばまずは大成功です。
ひとまず大型連休も終わって、明日からまた仕事ですね。あなたのご気分は下記のどれに該当しますか? 専業主婦にとっては家庭が職場、少し気分は違いますね。
1、やる気充分、さあ仕事だぞ!
2、イヤだなあ、また仕事かあ!
3、やれやれ、また仕事場に出られる。
4、さあ、充分に休息をとったぞ!
5、体力も気力も使い果たしてグタグタだ。
6、思いっきり休みたい気分だよ。
7、遊び癖がついちゃた。
8、やっぱり仕事が一番だな。
9、職場が一番落ち着く。
10、仕事でも休みでもどっちでもいい。
多分、専業主婦は「やれやれ」だと思います。
私は隠居ですから、10番の「どちらでもいい」です。
でも、どれもが当てはまりそうにも思えます。
それでも魂は、すでに真夏の炎天下の激流に飛んでいます。
ところで、この連休は海と山で遭難が続きました。
自然を甘く見てはいけませんね。
新聞、テレビを眺めたほんの一部だけでも、これだけあります。
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3日午後、北アルプス白馬岳の大雪渓を下っていた山梨県の40代の会社員夫婦が滑落し夫は3死亡、妻は軽傷。
4日朝、北ア前穂高岳の奥明神沢付近で茨城県の会社員(40)が滑落し重傷。
4日午前、北ア蝶ケ岳付近の蝶沢付近で大阪府の無職女性(64)が滑落し重傷。
4日午後、八ケ岳連峰赤岳付近の斜面から埼玉県の無職(71)が滑落し、救助されたが病院で死亡。
4日時間不明、富山県の北ア雄山の斜面で山スキー中に滑落した男性1人が死亡。
4日、北ア富士ノ折立でも滑落した1人が死亡。
4日、岐阜県下呂市の川上岳で一人が死亡(原因&年齢&性不明)
4日、神奈川県伊勢原市の大山で一人が死亡(原因&年齢&性不明)
5日、上越の海で子供3人、大人二人の5人が波に呑まれて死亡
5日夜、北アルプス・奥穂高岳山頂付近で、茨城県の男性3人が遭難、2人は心肺停止、1人は軽傷。
5日、奥穂高岳で男性3人と女性2人が遭難、長野県警がヘリで救助予定。
ーーーーーーーーーーーーー
それでも懲りずに人々は大自然の中に憩いを求めようとして海に山にと向かいます。
私は昔、山で仲間を失って川に転向しました。
川で死ぬのは本望ですが、仲間に迷惑はかけたくありません。
そのうち川も卒業して・・・何に凝るか、これからじっくり考えます。
それほど時間に余裕はありませんが、まだまだ人生を楽しみます。
荒凡夫一茶の講演を拝聴して!
先日、知人に誘われて俳人・金子兜太氏の「一茶」講演を千葉県流山市の文化会館で拝聴して参りました。
俳人気林一茶は、親しい俳友を訪ねて、流山を度々訪れ弟子たちと集う草庵も残されています。
NHKテレビなどの俳壇では鷹羽狩行氏と並ぶ重鎮ですが、すでに齢い95歳の超高齢老人です。
いわば聞き収めの気分で出かけたのですが、その若々しい気迫と瑞々しい感性に圧倒され、すっかり兜太ファン気分です。
鷹羽狩行さんとは文芸協会の役員会でご一緒でしたが、金子兜太さんのことは全く誤解していました。
私が知っている範囲内での知識では、埼玉県生れで幼児期を上海ですごし熊谷、水戸と転々として東京大経済学部卒で日本銀行入社、海軍主計中尉でラバウル戦線などに従軍した後に日銀に復職し労働組合事務局長を務めたまでは知っています。
学生時代から前衛俳句の最前線で頭角を現し、氏は社会性俳句運動の主導者として知られています。
私自身は俳句とは無縁ながら、金子兜多太の提唱する「季語はなくてもよし」とする自由句には抵抗がありますが、その小林一茶論や種田山頭火などの漂泊の俳諧人への高評価には感心していました。
今回の講演の主題は「荒凡夫一茶」です。
兜太さんは一茶の名を借りて、自分がいかに若々しく色っぽく過ごすか、その秘訣を語っていました。
一茶が60歳を迎えたときの句、
「まん六の春と成りけり門の雪」
その添え書きに「愚かな荒凡夫として一生を終えたい」と書き添えてあったそうです。
荒凡夫とは、自由で平凡なごく普通の男、という意味だと兜太さんは説明しています。
その兜太さんの口ぶりには、明らかに一茶への羨望、一茶のように自由奔放に生きたいという願望が垣間見られました。
私はかつて図書館で一茶の電気で克明な日記の存在を知りました。
軽い脳卒中で言語障害に悩まされながら一茶は60半ばで3番目の若い妻を迎えます。日記に寄ると、一茶はその初夜から連日連夜、妻の妊娠中も休むことなく夫婦の交わりを交わすという異常なほどのタフさを記録に残しています。
兜太さんも老いてますます盛んにその意欲を燃やしているかのように、本能のままに生きた一茶に自分を重ねて、自分の欲に忠実であることがいかに美しいかを称えていました。
俳句の心は、社会に生きる何らかの制約は必要だが、その抑制を法律や道徳ではなく心で行なうこと、本能は愚かな側面もあるが一面では美しい側面をも見せる。だからこそ欲と美の両面が絡み合ってこそ魅力ある人間、魅力ある俳句が生まれるのだ、と兜太さんは力強く語っていました。この迫力には、いささか参りました。
さて、蛇尾ですが・・・
この一茶が俳友として親しんだ土地の豪商秋元家は、新選組にも駐屯地を提供しています。若き日からの盟友・近藤勇と土方歳三が別れの水盃を交わしたのも秋本家の敷地内です。
私は当然ながら、一茶庵と新選組史跡巡りをして返って来ました。
一茶と近藤勇&土方歳三・・・私は水杯ではなくコーヒーを同じ敷地内で頂いてきました。その史跡は今、流山新撰組隊の拠点になって観光名所の一つになっています。
一茶の句を添えます。
我と来て遊べや親のない雀
足元へいつ来りしよかたつむり
寝姿の蝿追ふ今日が限りかな
ここから信濃の雪に降られけり
ざぶりざぶりざぶり雨ふる枯野かな
ほちゃほちゃと薮あさがほの咲きにけり
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
猫の子が手でおとす也耳の雪
兜太さんの句も・・・
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン
人体冷えて東北白い花盛り
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
おおかみに蛍が一つ付いていた
一茶も兜太さんも、荒凡夫どころか、とんでもない才人でした。
赤い桜を想う
今週も桜についてです。
前回、これからは桜吹雪の下を歩く喜びが加味される、と書きました。すると早速、会員の方から「同感です」とのメッセージがありました。
日本の春は草花の成長で知らされますが、雪国でも雪解けと同時に地中から芽を出す草花で春の訪れを感じるそうです。
梅に続いて満開の桜の輝くような美しさを眺めるとき、私は無心に満足感を感じます。それでも、その満開の桜に何か物足りなさを感じているのも事実です。
桜は散るのを眺めてこそのお花見だからです。その春爛漫の満開の桜の盛りもわずか数日、散り急ぐように舞う桜吹雪は路上に花の絨毯を敷き詰めます。
桜の木の下にゴザを敷いて、茶碗酒を重ねるとき花びらが舞い落ち、椀に落ちた花びらを酒と共に口にして逝く春を惜しむのも粋な趣があります。
花の命は短いゆえに、桜吹雪のその美しさが際だって感じられます。しかし、散り始めた桜の花の後からは、すでに青緑の若い桜葉が枝を覆い始めているのです。
私は、この新緑の若葉を眺めるのも春の喜びの一つとして大好きです。この季節になると私はつい桜について書いてしまいます。それだけ桜には鮮烈な思い出もあり特別な思い入れもあるからです。
これは過去にも触れたことがある桜景色の思い出の一つです。以前、シャンソン歌手の芦野宏さんと同行して飛騨高山から白川郷に行ったことがあります。まだ山を抜けるトンネルもなく、合掌造りの里の白河郷が世界遺産に登録される前のことでした。
車で長野県側から上高地を抜けて狭く険しい山道を岐阜県側に抜けると開けた道にでます。そこに御母衣(みぼろ)峠があり、その眼下に御母衣ダムが広がっていました。
そこで小休止したとき、そこに立つ桜の巨木が満開の桜を散らし始めたときでした。
その花の色の赤さに私は目を奪われました。
それより数年前に取材で訪れた、大奥女中絵島の幽閉地の信州高遠城跡で見た高遠桜にも劣らない赤い桜です。その真っ赤な桜の花びらがダムの水面を一面に染めた光景を見たときは、絶句、それだけでした。
そこに家族連れで来ていた初老の男性が話しかけてきました。
「父は、この桜を湖底に沈む村からここに運ぶ作業を手伝い、花を見ないで逝ってしまいました」
それからは毎年、家族でお花見に通っているそうです。
御母衣ダムは、白川村の上流の庄川を堰止めて東洋一の規模の石を重ねて築くロックフィル式ダムです。高度成長期の電力供給を大義名分に閣議決定され、荘川村住民らは、反対運動も空しく保証金を餌に強制退去を迫られました。そのダムの湖面に沈む村から、せめて村のシンボルでもあった「桜の移植を!」との村人の願いは叶えられました。
巨大クレーンで50メートル以上も引き上げられて土堤に移されたた数本の荘川桜は、今、花を咲かせています。すでに半世紀過ぎて、毎年行われる元村人が各地から集まる花見の会はまだ細々と続いているそうです。
ただ不思議なのは同じ桜なのに、村にあった時より堤にある今の桜のほうが花が赤いそうです。きっと、村の水没で心を痛めて死期を早めた村の古老たちの怨念の血の色が乗り移ったのだ、と噂されています。
これは、織田軍と死闘の末に全滅した武田軍の将兵の血で赤くなった高遠城の桜と同じ言い伝えです。いずれにしても、移植して半世紀を経ても満開を誇る御母衣ダム堤の赤い桜は見事なものでした。