いよいよ出発の手続きになると、かなり緊張した表情でした。
私の一番孫(長女の長女)がカナダへの留学、1年半の予定で旅立ちました。
長女も大学生時代にアメリカ留学をしていますので別に心配することもないはずです。
なのに、長女の時は平気だったのに孫のことになると無性に心配なのです。
私は留学の経験はありませんが、本業の花見化学がドイツとスイスの化学製品(染料)の輸入販売ですから海外旅行は多少経験しています。ところが、若い時の努力&勉強不足で外国語がまるっきりいけません。それでいてドイツへの一人旅などもあり、その内容は支離滅裂で目茶苦茶、これでよく世の中を渡ってきたものと顧みて恥じ入るばかりです。
その情けない自分の実体験から、子や孫は語学、最低で英語だけでも何とか克服してほしいもの、それには語学留学が手っ取り早いのではないか? と考えます。
この9月末、英国のレスター大学大学院の博物館学研究科に1年間ほど留学されていた秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまがご帰国されるとニュースで報じていました。その眞子さんが、「留学生活はよい経験になりました」とテレビのインタビューで楽しげに語られていました。
やはり、皇室は正式のイギリス英語を学ぶのが当然のようですが、私の孫娘はカナダで、ルームメイトがメキシコ娘、帰国してどんな英語をしゃべるのか? 私からみれば、とりあえず英語をしゃべる人と会話が出来れば上々吉、いわば東北なまりの英語でも合格点、孫には元気で帰ってさえくれれば成果など何でもいい、と、孫には甘いのです。
悲惨な状況です!
今回の豪雨では各地の河川で堤防決壊が起こり、荒れ狂った悪魔のような濁流が平和なはずの住宅街を襲い、人の命も奪っています。
被害に遭われた方々には心からお見舞いとお悔みを申し上げます。
それにしても各地の被害状況は凄まじいもので、北関東地方に南北に連なっての線状豪雨が、東北地方を激しく襲って被害を大きくしています。
しかも、一級河川・鬼怒川を始めとして、まさかと思う河川が次々に決壊したり氾濫したりで土手を越水、住宅や車輌、田畑をも次々と?み込み、人的被害だけでも死者3人、行方不明23人、家や車が水没する様子が映し出されていました。天災という不慮の出来事ながら何ともやるせない気持ちです。
私も9日(水)の夜、東武線南栗橋駅前の駐車場から栗橋の我が家までの帰路、豪雨の中で川状に流れる道路に乗り入れて半ば埋没、思いっきってのバックで何とか危機を脱し、大きく迂回して高台の道を選んで無事に帰宅しましたが多分、躊躇して車を停めて様子をみたら電気系統が水浸しになってエンジンストップ、とんでもない事態になっていたかも知れません。
翌10日(木)は東武スカイツリー線も越谷~春日部周辺の冠水で道路や線路が分断されて何もかも不通、仕方なくこの日は終日家に籠ってパソコン仕事でした。
それにしても、我が家我が身は安全でも、被害に遭われた多くの方々を思うと心が痛みます。今はただただ励ましとお見舞いの言葉、わずかなカンパで微力ながら協力させて頂くことでご勘弁頂きます。
大西郷公のご子孫は鋭い論客、大西郷の血が熱く流れていました。
雨の白虎隊墓地、白河市での戊辰戦争記念碑除幕式から一転して、私は31日(月)鹿児島市内で西郷隆盛公の曾孫(嫡男 侯爵 西郷寅太郎公の孫)の西郷隆夫氏と会って腹を割って約4時間、大いに語り合い、人間対人間の魂を感じ快く酔えました。小説のための取材内容はマル秘ですが隆夫氏の国を思う熱き心は、曽祖父の大西郷公に勝るとも劣らないものがあり、その情熱に圧倒されました。ここにはもう会津も薩摩もありません。いまの日本をどう立て直すべきか。教育論から政治まで、それが大西郷公の遺言にも思えます。
好漢・西郷隆夫氏は、西郷銅像にほど近い二の丸ビルに「西郷隆盛銅像展望ホール K10カフェ」鹿児島市内K10カフェのオーナーとしても活躍中で、曽祖父・隆盛公の「敬天愛人」 の志を受け継ぎ、大西郷公にまつわる歴史を語る活動にも力を入れています。
今回の九州行きは、西郷さん取材の他に大鮎釣り目的でしたが、球磨川には濁流が渦巻いていて最悪の状態、Uターンで今は東京です。
ニュースを見ていて、大阪の枚方禁野マクドナルド店の飲料にプラスチック片数十個が入っていて、女性客けが口を切ったニュースには驚くより呆れました。
大騒ぎされている東京五輪のエンブレム盗作問題も、競技場の屋根問題と並んで税金のムダ使いで国民をバカにした話しですが、マックほど身近な話題ではありません。なにしろ、マックは私も孫とよく行った(過去形)店だからです。最近は何となくうさんくさい店に属していて、このような事件が起こってもあまり驚きません。むしろ、弱り目に祟り目で、また客が減るだろうな、と気の毒でなりません。
もはや創業時の天空を駆けるような勢いはなく、マニュアル化されたアルバイト店員の食品提供サービスで頑張ってはきましたが、今回の事故でまた失点を重ねて顧客離れを速めました。
少なくも、このニュースを目にした人は一時的にマック離れになると思います。それが、心なきわずか数人の社員のミスであっても、多くの常連客への信用失墜につながります。
企業や団体のチーム力は、100の努力も一つのミスで瞬間的にゼロ以下になって崩れ去ることもあるだけに細心の注意が必要です。
ましてや顧客の好みと信用とが相まって成り立つ食品業界での生き残りにミスは禁物、小さなことでも命取りになることがあります。
私が知っている例でも、江戸時代から続いた岩本町のウナギ屋が、NETでの「サービスが悪い」「味が落ちた」などの悪質で執拗な投書攻撃で客足が遠のき、ついに廃業の憂き目にあっています。ただし、そこは先祖伝来の土地ですから敷地内にマンションを建ててオーナーは不動産収入で悠々自適の生活になり、かえって良かったと聞いています。
ともあれ今の世の中は一寸先が闇、登山には時間が掛かりますが谷底には一瞬、いつ逆転しても驚かない心の準備が必要な気がします。
あの大西郷が維新の大業を成し遂げ乍ら、元部下達の銃弾に倒れ割腹して果てるという不遇の最期、この悲劇もまた人生です。
戊辰の戦場跡・母成(ぼなり)峠
私は今、福島県白河市野のホテルで深夜この文を書いていますが、やがて夜が明けます。
戊辰戦争・白河口の戦いでの東西両軍戦没者慰霊の碑の除幕式に来ていて、各地からの史学家と飲食したところです。
歴史好き人間にはマニアックな人もいて、語り始めると夜を徹して語り合い、なかなか面白いものです。
墓地マニア・・・武士、公家、文化人をはじめ古歴史上の人物の墓めぐり、そこから歴史を学びます。
城郭マニア・・・これには古城専門、山城専門、縄張り(設計)専門の方もいます。
英雄マニア・・・時代のヒーローのみに興味を持つ有名人好みの専門家です。
脇役マニア・・・家老とか優れた参謀とか、とにかく主役を避けて人物研究に打ち込むマニアです。
悲劇人マニア・・・獄殺、暗殺、自害など、著名人の悲劇を研究する専門家です。
武器マニア・・・多分佐多う五句薩五句薩暗殺された人物とかにっ詩論歩芽切来n物です
多分、このようなジャンルで分類すると50や60にはなると思います。
私は何でも首を突っ込みますので専門家にも研究家にもなり得ません。
この日の私は戦場跡マニア、朝、小雨降る会津の戊辰戦争戦場跡をあちこち立ち寄ってきました。
江戸城無血開城の後、旧幕府軍は今私がいる白河口の戦いで敗れ、二本松城も陥落、いよいよ決戦の場が会津になりました。
新政府軍は江戸の大総督府参謀・大村益次郎の仙台藩などを潰して外堀を埋める案を蹴った参謀・板垣退助らの案の直接会津を責める案
を採用、怒涛の勢いで二本松から会津盆地に入る北の要所・母成峠に殺到します。
兵力は板垣らが率いる主力部隊1,300、谷干城率いる土佐軍など総勢2,200。対する旧幕府軍は、大鳥圭介率いる伝習隊伝習隊
400、仙台藩100、二本松藩100、土方歳三率いる新選組若干名の約800名。ここでの数日の激戦も新政府軍が制し、若松城攻略
へと向かうのです。その悲劇はいずれまた・・・
事務所の真正面が重要文化財に!
お元気ですか?
先日、常連客の隠居仲間が、窓から下を見下ろして「重要文化財の看板が見える」と言い始めました。
暑さでおかしくなったかと思いましたが、よく見ると確かにそう見えます。
な、なんと私の仕事場から見える景色が国の重要文化財に指定されたのです。
後で聞いた話だと、図に乗って世界遺産にというとんでもない話が出ているそうです。
重要文化財になったのは築地本願寺の本堂、門、塀の3点ですから築地本願寺全体が重要文化財になったようなものです。
築地本願寺の創建は1617年(元和3年)で、京都・西本願寺の別院として浅草に近い横山町に建立したものです。ところが、明暦3年(1657)1月に本郷丸山町の本妙寺から出火したとされる振袖火事こと明暦の大火で本堂を焼失してしまいました。その後、幕府による区画整理のため同じ地区への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の埋め立てによる建設が許され、築地と名が付いた埋立地に延宝3年(1679)に再建されました。しかし、これも大正12年(1923)の関東大震災の火災で伽藍を焼失します。
現在の古代インド様式をモチーフにした建物は、昭和9年(1934)に、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りです。
なお、本尊の阿弥陀如来立像は。聖徳太子手彫りと伝えられていますが、それが真実なら私の仕事場は、その阿弥陀如来立像の真正面ですから毎日拝んでいますので凄い御利益を頂いているような気もします。
ともあれ、目の前が重要文化財、凄いことになってきました。
敗戦の日
昭和20年8月15日(金)の正午、小学3年の夏休みだった私は疎開先の福島県会津喜多方市の伯父の家の奥座敷に2歳上の兄、二人の従妹、伯母と共に正座して、ラジオから流れる天皇による玉音盤「第二次世界大戦終結の弁」を厳粛な気持ちで聞きました。
私たちは一般的に、昭和20年8月15日を第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦記念日としています。
ところが、これには異論があるようです。
8月14日は日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日で、8月15日は玉音放送で昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送により、日本の降伏が国民に公表された日で、9月2日(火)が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日です。
以上のように、正式には、9月2日が戦争終結の日とするのが正式だという説もあります。
それを裏付けるように、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、カナダ、ロシアでは、9月2日を対日勝戦記念日としています。
ところが、国際法上となるとまた違ってくるそうです。一説ではソ連と中国は、9月3日になっています。
日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日は、1952年(昭和27年)4月28日ですが、私は8月15日説、旧盆ですし覚えやすですからね。止むを
ただ、私の意識としては終戦記念日より、敗戦記念日として負けた悔しさを思い起こすべきだと思っています。
戦争はすべきではありません。しかし、戦わなければならない状況に追い込まれたら止むを得ません。
ただ殺されるのを待つよりは、死をも覚悟で戦わねば家族は守れません。
そして、戦う以上は勝たねばなりません。
武運つたなく敗れたときはいさぎよく死を選ぶ・・・これも武人の常で古来から人類に伝わる遺伝子です。
それでもなお、私も戦争は反対です。戦争は悲惨な結末を招くだけで、我々庶民は何ら得るものがありません。
私は、戦争の狂気で恐ろしい事実を知ったことがあります。
私が花見化学という零細企業を立ち上げて数年たった頃の夏でした。
取引先で二部上場会社の私より20歳ほど年長の重役と終戦前の東京大空襲の話題になった時です。
市川市在住だった私が、江戸川の橋を渡って都内に行き、焼け野原の凄惨な地獄図絵の恐ろしい印象を話した後で重役が語ったのです。
「わしは南支で砲兵隊の小隊長で戦ったが敵陣を砲撃させて双眼鏡で覗くと、敵兵が爆裂でバラバラ宙に跳ぶのが花火のようで凄かったぞ」
これが楽しげに自慢げで、私は即、この会社とは取引を止めようと決めました。この会社は倒産して今はもうありません。
私が直感的に感じたのは、こんな人間味のない冷血な会社と取引したら、骨までしゃぶられると感じたからです。
さて、敗戦の日、座敷に正座させられた小学校3年の私に戻ります。
「戦争は終わった」
会津でのホップ栽培誘致の成功で叙勲の栄誉に輝いている伯父は毅然として事実だけを私たちに告げました。
そこに涙はありませんが、子供心にも伯父の万感の思いが伝わるようで心打たれたのを覚えています。この家の一人息子、私にとって尊敬すべきイトコは陸軍将校として満州戦線で戦っているだけに、伯父としては敗戦後の身の始末が思いやられたようにも見えました。
案の定、そのイトコは捕虜となり、シベリヤ抑留で重労働を課せられ散々にこき使われて死者続出の捕虜生活から共産主義に洗脳されて帰国したのは10年近い歳月が流れてからだった。しかし、東北の保守的な農村でマルクスレーニン主義を叫んだところで何の効果もないことに気付き市役所に勤め乍ら陶芸道場を設け、地域社会と高齢者の生き甲斐づくりに没頭し、私とコンビでイトコ会(親戚会)を楽しみ乍ら数年前故人になっています。
一時期は例年50人以上も参加し、市長の挨拶があるほど賑わっての温泉旅行だったイトコ会も、櫛の歯が抜けるように逝去した長老たちと主宰の私の本籍抜けが原因で解体し、後継者がいないために散会になってしまいました。私の本籍抜けは、戊辰戦争の大作執筆を中立で買いたいために、自分の中に流れる会津の濃い血を薄めたいと思ったからです。一会津人としては、戦争の最終結末に財産没収はおろか一般人の無差別殺戮や略奪強姦・婦女子の死姦まで記録に残っている薩長士他占領軍の残虐行動は許すまじき悪行として弾圧せざるを得ません。京都の金戒光明寺にある戊辰戦争・会津盆地には花見家の墓もあり、一族の恨みで血がたぎる思いもあります。
しかし、今は長州・山口放送のレギュラーであり鹿児島も親しき友あり、9月初旬には西郷隆盛のご子孫と鹿児島で会う約束も出来ています。もう時代は移り変わりました。恩讐はとうに消えています。
こうして執筆者としての私は冷静冷徹に、刀で斬られても銃弾で頭を撃ち抜かれようと中立かつ忠実に悲惨な戦争の狂気を書かねばなりません。
正常では有り得ない会津攻略軍の狂気の行動も、異郷での戦いでそれまで耐えていたストレスが一気に噴出したと考えれば許せなくても理解は出来ます。その勝者の驕りと狂気、敗者の悔恨と悲しみ、そこからの立ち直り、これらを描ききれれば私の「戊辰戦争=明治維新」は、必然だったとして成り立ちますので、多分、世間はともかく私の中では成功としてもいいかな? と考えます。書き上げてからの話ですが・・・。
お元気ですか?
この暑いのに、もう「残暑見舞い」です。
今日8月8日(土)、山口放送ラジオの特番で幕末に活躍した下関の豪商・白石 正一郎の生涯を話しました。
というより、白石正一郎の史実を書籍にまとめた下関出身の歴史研究家で92歳の「冨成博」先生とその著書を紹介したのです。
白石正一郎を描いた著作のタイトルは、瀬戸内の荒い潮の流れと幕末の大きなうねりを絡ませた「渦潮の底」です。もう一冊は、時間不
足で詳しく触れられませんでしたが、大河ドラマで放映中の吉田松陰の妹フミ(文)を描いた「至誠に生きて」です。
冨成博先生は、豪商・白石正一郎の縁につながるご子孫で、この伝記は約60年、心に暖めて構想を練っていたものです。
白石正一郎は、旧暦の文化9年3月7日日生まれで明治13年8月31日に亡くなりました。
白石正一郎は反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営んで酒造業もしていました。
下関は、西国各藩の交通の要衝であったため、薩摩、長州など多くの藩と交流し、資金が豊富だったことから重宝されました。
とくに、文久3年(1863年)の長州藩・高杉晋作の奇兵隊結成に援助したことから長州藩に肩入れし、自分自身も次弟の白石廉作とともに
入隊して、自分は奇兵隊の会計方を務め、士分に取り立てられていました。
さらに、国学の師を通じて薩摩藩の西郷隆盛と親しくなり、文久元年(1861年)には薩摩藩の御用商人になります。
その上、月照上人、平野国臣、真木保臣らとも親しかったことから尊皇攘夷の志に強い高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助し、土佐藩
を脱藩した坂本龍馬も白石邸におき、世話をし志士600人とも言われます。
明治維新後は、赤間神宮の第2代宮司となってもいます。
この白石正一郎の人物像、冨成博先生のお話などを、本の内容を紹介しながらも、つい戊辰戦争に話が脱線して時間切れでした。
この白石家は、明治維新のために全財産をつぎ込んだ結果、莫大な借金を抱えて没落します。
他の豪商が、維新をきっかけに政商として大躍進するのに、白石正一郎はそれを潔しとせず下関から離れずに生涯を終えました。
なんだか身につまされます。
TPP交渉で笑うか泣くか。
暑いですね。
築地サロンからみた満月の下での築地本願寺の盆踊り、盛り上がってました。
この暑さを乗り切るには焼肉でビール、その牛肉も揉めています。
ハワイで行われたTPP(環太平洋連携協定)交渉の閣僚会合は、知的財産、乳製品、自動車などの溝が埋まらず、大筋合意にはいたらずに結論を先送りにすることになったようです。
環太平洋パートナーシップとか「平成の開国」といえば聞こえはいいのですが、各国の利害関係と思惑が絡むから複雑なのです。
国境なき関税撤廃で、何もかも自由購買にすれば、「消費者は安くていい物を自由に選べるからいいじゃないか?」という声が徐々に出始めています。これが、いいか悪いかは、その職業的立ち場で大きく変わります。
まず、関税を髙く設定し輸入量も制限してあるコメの関税を撤廃し、今、アメリカが主張する大量のアメリカ米が輸入されたら、日本の米作農家は壊滅、自給率が大幅に減って日本はもう独立国家どころかアメリカなしでは生活できないことになります。その見返りに輸出する車の関税がなくなれば日本の自動車業界は高利益で国内の景気は上向きます。その結果、日本は産業優先、農業衰退になるのですが、どちらが日本にとっていいのか? 政府のなやみどころです。かといって、そう簡単に妥協は出来ません。そんななことをしたら国内の産業で倒産続出の産業分野も予想できるからです。
国は国境を守るように貿易には関税という税金をかけて自国の産業を守り国の税収も増やしてきました。この関税をなくして自由競争で
貿易をしようというのが国際的な傾向になっています。その自由貿易の一歩手前が今回のTPP交渉です。
この関税撤廃論者が民主党の菅直人元首相で、「平成の開国」と呼んで日本は世界に開かれるべきだ、と訴えていました。
この「平成の開国」論者は、貿易だけでなく投資や貨幣の流通、雇用や人材の往来を含めた経済活動もっと自由に行なうべきだと主張します。今までは輸入品に高い関税をかけて自国の製品や産業を守ってきたが、これからは、あまり規制を行なわずに各国間が自由に貿易や経済活動を行えば、もっと産業やビジネスが活発になるはず・・・これが「平成の開国」論の根拠です。
しかし、アメリカ、オーストラリア、東南アジア各国など文化も人件費も生産原価も異なった国が、好き勝手に貿易を始めたらどうなるのか? それが心配で交渉が難航しています。
各国が関税のからくりを利用して自国の産業や農業、経済活動を守ってきた例を上げますと、中国は日本や欧米の自動車、家電製品などはに特別に高い関税で高額商品いしています。ですから業者が飛行機で日本に来て爆買いして販売しても格安なのです。
日本も例外ではありません。最近は美味しくなったとカリフォルニア米などは約800%の関税で農家を守っています。販売価格の8倍の関税をかけても日本のお米より安いのです。これが関税撤廃になったら多分、日本の米の10分の1、外食産業はもう日本のコメなど見向きもしません。一般家庭でも大家族なら1キロ40円以下で買える外米に飛びつきます。これで日本のコメ農家の大半は高級米作りに走るか米を諦めるかどちらかになります。
日本は、バターや砂糖などには300%超の関税で一部の国内業者を守ってきました。いまアメリカなどとの交渉で難航している輸入牛肉の関税は38・5%、これが撤廃されると日本の酪農家は壊滅とのことですが、我が家は牛肉が4割も安く買えたら?
こう見てゆくと、関税撤廃賛成の声が出るのも仕方ないことですね。今でも日本の自給率は5割を切っているのですから今更・・・こう考えたくなるのも無理はありません。
でも、政治には裏があります。交通違反の罰金が国家予算に組み込まれているように、関税はどの国でも大切な国家の財源で、日本では国家予算の1,8%、約8000億円です。平均関税率はアメリカ3・5%。日本5・1、EU5・2、カナダ6・7、中国10.韓国16・5、フィリッピン25・7%とまちまちですが日本が良心的なのがよく分かりますます。最悪なのはバングラディッシュの169・2%、これでは貿易は成り立ちませんから、救援物資としてただで上げているのかも知れません。
と、以上のような裏事情が絡んでのTPP交渉ですから一筋縄ではいかないのです。
ところで、年金制度がまた改悪されます。こうなると、関税妥協で家計に直結する格安主要食品の輸入も仕方ない・・・こう国民に思わせる政府の巧妙な仕掛けで、このTPP交渉は進行しているようにも思えます。
暑さ厳しき折、お体を大切に・・・
炎天下の史跡巡りでした。
どこで日本庭園を撮ってもバックには高層ビル、ま、これもいいものです。
暑中お見舞い申し上げます。
先週の25日(土)、幕末史研究会の史跡巡りに参加してきました。
35度を超す炎天下の猛暑日で16人、1万6千歩を全員が熱中症もなく完歩しました。
JR浜松町駅北口に午後1時集合で、恩賜公園浜離宮から築地市場経由で勝どき橋、聖路加病院界隈、本願寺までの史跡巡りでした。
浜離宮公園は10回ぐらいは行ってますが、ガイドさんの説明で庭園の素晴らしさが倍加しました。
潮入の池の景観や二つの鴨場の仕掛けなど、将軍家の庭園として賓客接待には最適だったと想像できます。
ただ、1億4千万を掛けて再建された20坪の粋を凝らした和風家屋には、その必要性に疑問がつきます。
ともあれ、改めて素晴らしい庭園であることを再認識しました。
今回の史跡巡りのテーマは「咸臨丸と勝海舟」、幕末期にこの敷地内に屋敷を構えていたのは木村摂津守です。
鳥羽伏見の戦いで開陽丸で逃げ帰った徳川慶喜をここで迎えたのが木村摂津守です。
「殿、空腹であらせましょう?」と、用意したビスケットを出したら将軍は旨そうに食べてから馬で江戸城に向かったそうです。
その木村摂津守が、万延元年の遣米使節団を乗せた米艦ポーハタン号の護衛艦として伴走した咸臨丸の艦長です。
この咸臨丸に勝海舟、福沢諭吉らが乗っていました。当日の参加16人の中には、遣米使節団副使・村垣淡路守のご子孫をはじめ何人か そのご先祖の想い出話なども含めて、私のサロンで行われた二次会も大いに盛り上がりました。
出版パーティを取材しました。
お元気ですか?
気象庁の発表によると関東甲信が例年より2日早く、19日(土)に梅雨が明けたそうです。
とたんに訪れた猛暑日、熱中症に注意が必要な連休になっています。
天気予報では、夕方には夕立が来るようですからすぐ涼しくなるとは思いますが外出は控えたいところです。
19日(土)は吉祥寺市のホテルで幕末史研究会主催の「富永博」先生の出版パーティがありました。
私は、取材を兼ねての出席でしたので少々忙しい思いもしました。
著作の内容が山口県下関を舞台にし、著者自身も下関出身で幕末史研究会顧問で日頃から尊敬している大先輩です。しかも、私にとって幕末史研究会会長・小美濃清明氏も今回の著書発刊元の右文書院社長・三武義彦氏も数十年来の友人・・・これでは山口放送31年目の私としては手伝わないわけんはいきません。そこで、山口放送から報道部の出張を依頼、テレビではニュース、ラジオでは私の特番で出版祝賀会の模様を放送することになりました。
著者で主役の冨成博先生はこの8月で93歳、92歳時執筆の今回の作品は、下関の豪商・白石正一郎を描いた「渦潮の底」です。
日本屈指の豪商&資産家でありながら、坂本龍馬や高杉晋作、西郷隆盛など志士浪士数百人の他に薩摩・長州両藩を援助して、明治維新
を成功に歓喜する志士群像と、全面的に資金援助をして没落した白石家の明暗を克明に描いています。
著者はまた、明治維新とは何であったのか? との大きな疑問もミニ講演で問うていました。明治維新に関係した方々の縁者ご子孫も会員ですので参加しています。咸臨丸の軍艦奉行・木村摂津守、公家の東久世道とみ、北辰一刀流の千葉周作、千葉重吉、幕臣・榎本武揚、坂本龍馬、豪商・小曾根家のご子孫などで二次会でも大いに歓談しました。
表舞台の人々とは別に、明治維新の陰の立役者は東西各地の豪商であり、白石正一郎もその中の一人で全財産を明治維新に費やして没落した一人で、その遠縁の子孫にあたる著者だからこそ書ける内容です。冨成先生は、生真面目な性格だけに明治維新と白石家の絡みを真正面から書いている通し番号入り千冊の豪華限定本(価3800円)です。なお、白石正一郎は下関の海を見下ろす平家を祀る赤間神社の宮司にもなっています。HP掲載の私の小説「迷走海峡」の取材で赤間神社にも取材に訪れ、平清盛、耳なし芳一の像にも詣でたことを思い出します。その私も今は戊辰戦争を執筆中、周囲からは余裕があるように見られていますが、本人は全力全霊でやっているつもり、まだまだ先のことですが楽しみにお待ちください。なお、8月は戊辰戦争の勝敗を分けた激戦地、福島県白河市での戦没者慰霊碑の序幕式に参加予定、親類が白河警察の署長を勤めたこともあり、父母が福島県出身の私としては因縁浅からぬ白河・・・やはり、行かねばなりません。