越冬鮎


 越冬鮎


 私は若い時に、下手な鮎釣りに凝って、釣り雑誌「つり人」に釣り小説や記事を書く連載していて、全国の鮎河川を渡り歩いていた時期ががあります。当然ながら、鮎の友釣り発祥の地といわれる伊豆の狩野川にもよく出かけました。
地元の釣り友達で郷土史家、地元小学校の元校長先生の飯田輝夫さんが釣り仲間で、修善寺下流の韮山に近い神島橋左岸の山側にお住いです。おかげで、必要に応じて伊豆全域を案内して頂いた上に、狩野川流域の歴史や資料なども沢山頂きました。お蔭で長編小説や短編小説、エッセイなど伊豆にまつわる釣り記事の執筆が多いのはそのせいです。
今は90歳近いご高齢で川には入れないが鯉釣りはするそうですが、何と狩野川の主のような80センチ級の野鮎を釣るのですから体力はまだまだ充分にあるようです。その飯田先生の住居周辺が歴史の宝庫なのです。
中でも、韮山の代官・江川太郎左衛門英龍と、鎌倉幕府の初代征夷大将軍源頼朝が配流されて育った蛭ヶ小島(現・伊豆の国市四日町)の
歴史的なものについては、もともと地元の歴史資料の編纂などにも携わっていますから知識が人一倍豊富なのは当然です。
ところが、交流のきっかけが越冬鮎の資料集めですから、どうしても会話は鮎談義が主体になってしまいます。

 年魚といわれる鮎は1年で寿命を終えるはずですが、鮎の中には間違って年を越すのがいる・・・それが静岡県の柿田川にもいるのです。それを確かめたくて狩野川漁協に電話したら、たまたま博識の飯田先生がいて、思わぬ鮎談義になりお互いに意気投合、「次回はに鮎釣りを」となって、その後はお互いの家に泊まったりの仲が今でも続いています。
ところで、私の越冬鮎のホームグラウンドは、栃木県思川上流の小倉川、そこの小倉橋下流左岸に豪農でオトリ鮎業も営む小倉川漁協役員の故福田茂氏がいます。私とは同年で気も合いましたから、ヤマメ、イワナなど渓流魚の解禁日などは、毎年、雪が降ろうが雨が降ろうが必ず二人で出掛けていました。その家の下の川底にづも伏流水が湧き出るところがあるらしく、その周辺だけに越冬鮎が棲息するらしいのです。その福田氏が、ある時、12月に入っても時々鮎が水面に跳ねるというのに誰も信じないと言うのです。
鮎は、秋になると落ち鮎といって下流に降り、雌は砂利場で産卵して一生を終えます。それが、生き残っているというのですから学術的にも貴重な話です。そこで調べてみようということになり、私が海底探査用の水中カメラを持ち込んで調べたら、何と流れの底の大石周りに大鮎がちらちら泳いでいるのが見えてびっくり仰天です。それからは暮れも正月もありません。私が仕事休みの時は二人で真冬の尺鮎(30.3センチ)の友釣りです。釣り針を十本ほど並べたコロガシ仕掛けでオトリ鮎を獲り、それをオトリにして川底の縄張り鮎をおびき寄せて釣り、それを相棒に渡して二人で釣りを始めるのですが、多い日は二人共10尾以上の尺鮎を釣ったことがあります。辛いのは、オトリ鮎を保存できないことです。そこの川底から釣り上げてしまうと大きな業務用の水槽でも水温調整が難しくて飼育できません。したがって、毎回のように寒い中を1からやり直しでオトリ鮎掛けからスタートです。
ある日、ようやく一尾のオトリ鮎をようやく福田氏が掛け、それをオトリにして福田氏が友釣りをするのですが、次のが釣れるまでは私は隣で眺めているだけです。その逆のケースもありますが、この日は私が待つ番でした。この日は水温が低すぎて追いが悪く鮎釣りには最悪のコンディション、折しも小雪がばらつき始めて周囲が白くなりましたが二人はそれどころではありません。そして、ようやく大鮎が掛かったのです。竿が弓なりになり、ようやく手網に収めて、背掛かりの三本錨の針を外して私の手網に移しました。さて、ここからは私も参加です。ただ、嬉しくて寒さで手がかじかんでいることをすっかり忘れていました。ともあれ、喜び勇んで大鮎の鼻に仕掛けの鼻環を通そうとしたら、それまで大人しかった大鮎がひと暴れで、するっと逃げて水音髙く川の中、「待てっ」と叫んでも後の祭り、その時、私を無言で睨んだ福田氏の水っぱな垂らしの形相の怖いこと、これは今でも忘れません。渓流釣り解禁の日の帰路、降り始めた雪でスリップして危うく対向車線のトラックの急ブレーキで難を逃れた時、まったく顔色一つ変えなかった温厚で肝の据わった友人の鮎に賭ける執念がこれで良くわかった出来事でした。その後、週3回の透析に病院に通う合間に私と釣りを同行し、失明間近でも大きな目印で釣っていた福田氏は、釣り三昧の人生を終えました。
その福田氏が逝って、私はその小倉川に行く機会が失せましたが、今でも越冬鮎はいるのか? と、気になるところです。
この越冬鮎を通じての二人の友人、どちらも私の心の中に今でも、宝石の輝き以上の大きな夢を育ててくれています。
福田氏が越冬鮎を通じて飯田先生との縁が出来、飯田先生のお蔭で韮山の反射炉と江川宅を知りました。
飯田先生には、それを小説にするのが恩返しと思っています。
ところで、30センチを超すこの越冬鮎、オスは痩せて体中が黒くサビて掛かればすぐ取り込めますが、メスは艶々して丸っこく肥り、掛かるとガンガン竿を引き込んで暴れますから取り込むまで必死です。高齢者はオスは弱くメスは強い、鮎も人間も同じだったのです。

雪が降る・・・


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 雪が降る・・・

          村長・花見 正樹

 雪が降る、あなたは来ない・・・は、歌の一節ですが、冬型の気圧配置の影響で各地の大学入試センターへの受験生の遅れがニュースになっています。これに出席できなかったために人生の歯車が狂った若者がいないとも限りません。
 東京都内での雪の日は、車の接触事故と人間の転倒事故が信じられないような数字で多発します。それらで怪我をした人を運ぶ救急車のサイレンが終日鳴り響き、救急車も不足して怪我人をタクシーが運ぶシーンも何度か見ています。
 雪の日は急げば転ぶ、気温が下がって雪道が凍結したら普通の革靴では危なくて歩くのもやっとです。ましてや会場に急ぐ受験生が転倒して怪我でもしたら大変です。受験生でなくても大雪の影響で日常生活に何らかの支障が出る場合もあります。私の場合、年に1日や2日の雪のためにスノータイヤを用意するよりは、マイカーに乗らない工夫をしていますが、滅多にそのようなことはありません。
 ところが、今年は正月4日の私の盛岡のテレビ局での仕事始めに合せたように102歳の母が風邪と狭心症での心不全で緊急入院、今は熱は下がり食欲も出ましたが若い男性担当医は100歳超の患者が珍しいのか精密検査をといって退院させてくれません。したがって、退屈している母親の我がままに応じて時間がとれる限りは見舞い面会です。こればかりは雪でも雨でも関係ありません。天気予報では、日本海側を中心に大雪だけでなく暴風雪にも警戒が必要で、北陸や東北地方の日本海側の内陸や山沿いで激しく、来週火曜日頃まで続くそうです。
 これでみる限りは関東地方首都圏は大雪ではなさそうですからマイカーで大丈夫そうですが油断大敵、明日15日(日)が万が一大雪になった場合はマイカーはやめてタクシーで病院通いということになりそうです。それでも天気予報が外れれることを祈っています。
 雪が降る・・・雪景色は好きですが実生活では雪は苦手、我ながら勝手過ぎるとは思いますが。

 受験生、絶対に滑ってはいけませんぞ!  

今年の目標!


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 明けましておめでとうございます。

 これは、二回目のお年賀ですね。
2017年もはや1週間を過ぎ、松が取れました。
私も4日のテレビ岩手出演から山口放送のラジオまで仕事は始まっています。
新年早々、気学講座の弟子入り希望者も現れ、返事は保留しましたが何やら今年も多忙そうです。
アメリカのトランプ大統領が正式就任してからの世界情勢の変化も見ものです。
経済面が動くのか、軍事面から動くのか、オバマ大統領が何も出来なかっただけに波乱の幕開けかも知れません。
なにしろ就任前にツイッターで自動車の関税問題について呟いただけで日本の自動車メーカーの株が下がる始末です。
小池都知事の動向も目が離せません。魚市場、オリンピック問題でアドバルーンを上げておいて、話題が盛り上がったところで新党結成も考える・・・マスコミ出身者らしいエグい手口で、ソツがないのが憎いです。
トランプ大統領の就任後、米ロが急接近すると世の中どう変わるのか? これは読めません。
阿部総理はガタガタ動いて周辺各国に大判振る舞いを約束していますが、あまり実りある結果は得られていません。
まるで、相手選ばずに自分勝手に、お土産持参で近所巡り歩きしている感じですが、何も成果がなく気の毒です。
しかも、諸外国への援助という手土産の大判振る舞いは全て国民の血税です。
その最たるものがロシアのプーチン大統領をご自分の地元に呼んでの二者会談です。
事前に、北方四島返還交渉の大キャンペーンのアドバルーを上げての階段ですから誰でも期待します。
ところが、相手はシベリヤ開発の大型経済援助だけが目的で北方のホの字も口に出しません。
またも空振り三振、懲りない総理の顔色もあの後の記者会見では真っ青で顔が引きつっていて気の毒でなりません。
そろそろ、阿部総理のためにも日本のためにも何かいいことがあるといいのですが。
週刊誌ですっぱ抜かれましたが天皇との折り合いもよくないそうですからがこれも心配です。
その昔、長州の先鋭隊が京都御所に向って大砲を撃ち込んだ因縁があるだけに天皇家とは仲良くして頂きたいです。
今年の私の1番の信条は「和」です。
国際的にも国内でも職場でも家庭でも「和」をモットーに自然にそうなるか我慢比べか、とにかく「和」です。
2番目が「健康」、健康状態次第さえ好調ならば、人間の心理もコロっと変わって正しい判断で積極的に行動できます。
くれぐれも安部総理が健康であってほしいもの、間違った判断をされたら日本国が大変なことになります。
3番目が一億経済的安定です。1億総活躍がどうせ無理ですから、無理な題目を上げてみました。
4番目・・・それは、あなたのご健勝ご多幸を祈るばかりです。おっと、自分を忘れていました。私もです。

明けましておめでとうございます。


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  明けましておめでとうございます。

 本年も宜しくお願いします。

平成29年 元日

          開運道主宰・花見正樹

 2017年、平成29年は「一白水星ひのと酉」年、
万人共通吉方位の「恵方(あきの方)は「北北西」です。
本年の「一白水星」は、流通、旅行、社交、愛情、学び事の年です。
とくに、愛情面と人間関係の和を大切にする人に幸運の女神が微笑みます。
さらに、本年は西に金運ありの西を表す「酉年」で金運に関係します。
したがって、明るく堅実な家庭と経済面の充実を心がけるべきです。
「一白水星」の本年は、水に縁のある年だけに豪雨や津波による水害に要注意です。
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つぎに、2017、平成29年を幸せに過ごす風水の極意です。
まず、対人関係、愛情運をよくするために玄関の整理整頓を。
台所、浴室、トイレなど水回りをきれいにすると金運、健康運が好転します。
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本年は12支でいう酉年、酉と相性のいい、巳年、丑年生まれが「三合の吉」で大吉。
酉と同じ西の仲間の、申年、酉年、戌年生まれが「方合の吉」で小吉。
その反面、酉と反対側の東に位置する卯年生まれが注意年になります。

 1月生まれ◎大吉
「公私共よきパートナーに恵まれる」
ツキのあるのは 5月、ラッキ-アイテムは「小銭入れ」、
金運□小吉 仕事運◎大吉 愛情運◎大吉 健康運□小吉
2月生まれ○中吉
「家族に喜びが重なり自分も好調」
ツキのあるのは10月、ラッキ-アイテムは「ブレスレッド」、
金運〇中吉 仕事運〇中吉 愛情運◎大吉 健康運□小吉
3月生まれ□小吉
「目標目指してまっしぐらに進む」
ツキのあるのは 2月、ラッキ-アイテムは「筆記具」、
金運◎大吉 仕事運〇中吉 愛情運□小吉 健康情△注意
4月生まれ〇中吉
「周囲に尽して自分のプラスになる」
ツキのあるのは 8月、ラッキ-アイテムは「時計」、
金運□小吉 仕事運◎大吉 愛情運〇中吉 健康運◎大吉
5月生まれ◎大吉
「仕事も私用もNETを上手に活用」
ツキのあるのは 1月、ラッキ-アイテムは「電子辞書」、
金運◎大吉 仕事運〇中吉 愛情運◎大吉 健康運□小吉
6月生まれ□小吉
「小さな苦労で大きな収穫に変わる」
ツキのあるのは 2月、ラッキ-アイテムは「携帯電話」、
金運△注意 仕事運□小吉 愛情運〇中吉 健康運◎大吉
7月生まれ〇中吉
「友人の助言が役立って好機生かす」
ツキのあるのは 3月 ラッキ-アイテムは「のど飴」、
金運◎大吉 仕事運△注意 愛情運〇中吉 健康運□小吉
8月生まれ〇中吉
「約束した事は必ず実行信頼深まる」
ツキのあるのは12月、ラッキ-アイテムは「文庫本」、
金運〇中吉 仕事運□小吉 愛情運◎大吉 健康運△注意
9月生まれ◎大吉です。
「公私共に好調で余裕の海外旅行も」
ツキのあるのは 5月、ラッキ-アイテムは「デジカメ」、
金運□小吉 仕事運◎大吉 愛情運◎大吉 健康運〇中吉
10月生まれ□小吉
「余裕あれば新たな学びごを始める」
ツキのあるのは4月、ラッキ-アイテムは「折り畳み傘」、
金運◎大吉 仕事運□小吉 愛情運〇中吉 健康運△注意
11月生まれ○中吉
「家族の平安を第一に考えて行動を」
ツキのあるのは5月、ラッキ-アイテムは「キーホルダー」、
金運〇中吉 仕事運◎大吉 愛情運□小吉 健康運△注意
12月生まれ□小吉
「奉仕の心で人に接して得る事多し」
ツキのあるのは12月、ラッキ-アイテムは「手帳」、
金運□小吉 仕事運△注意 愛情運◎大吉 健康運◎大吉
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では、本年一年元気でお過ごしください。
花見 正樹

聖夜に祈る 


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お元気ですか?
年の瀬も迫った12月22日、新潟県糸魚川市で大火事がありました。
出火は午前10時頃だというのに、私が親しい人からの情報でそれを知ったのは夕刻近い午後5時過ぎ、慌ててテレビを見たところ、現場からの実況放送ではまだ紅蓮の炎が南からの強風に煽られて海辺に向って流れ、まだ燃え盛っていてまるで地獄絵でした。この瞬間、私の脳裏に甦ったのは1995年(平成7年)の神戸・淡路大地震の悪夢でした。咄嗟に頭に浮かんだのは焼死者と悲嘆にくれる家族の姿でした。
あの阪神大地震とも呼ばれた災害での死者は6,000人を超えたと記憶しています。しかも、その大半は地震ではなく、地震後に発生した火災に巻き込まれての死亡者なのです。ところが今回の糸魚川の大火災では、翌日になって知ったことですが、死者がゼロ、150棟が焼け落ちて、出火から30時間後にやっと鎮火したこの大火で、一人の死者も出さなかったのは、地域の緊密な人間社会の勝利です。
罹災者へのお見舞いの言葉に添えて、この地域社会の素晴らしい連携プレイです。
高齢者も多いのは日本全国の分布とさほど変わらないと思います。その中には、ベッドで寝たきりの老人もいたと思います。それを背負って退避した人もいるはずです。
町一つが壊滅状態になったこの大火事で、一人の死者も出さなかった町ぐるみの協力体制には惜しみない拍手を送ります。
それにしても、今回の糸魚川大火の原因は、中華料理「上海軒」の店主が朝の仕込みに店に出て、鍋を火に掛けたまま自宅に戻って朝食を食べていたのかどうか明らかに人災で、まるで放火と同じです。いくら大鍋に水でも、一時間煮沸したら空炊きになって出火する可能性大なのは子供でも分かる理屈です。これでは、この冬空に焼け出されて年を越す人の憤懣やるかたない思いが報われません。江戸時代は放火は死罪でした。この店主は罹災した地域の人に、どのような誠意で謝罪して許しを乞うのか、それもこれからの課題です。
不幸中の幸いに支援金も続々と集まり、罹災者もそれぞれ行く先が決まって、当面の生活環境はは最低限定まった用です。これも地域社会の絆の強さです。
折しも今宵はクリスマスイブ、天から地から救いの手が差し伸べられることを信じます。
とはいえ異教徒の私は、聖夜とは無縁のまま二階の仕事場で一人でこのような雑文書き仕事に余念がありません。だからといって孤独ではないのは、私のこの雑文に目を通して頂ける幸せを感じているからです。これこそ心と心が通い合っている方ばかり、そう信じています。
異教徒ではありますが、私も願い事だけは用意しました。
「天にあります主なるイエス様、この一文を目にした人に平和で豊かで愛に溢れた幸多き人生をお与えください」
それに、私からも個人的な一言を加えます。
「くれぐれもお体を大切に、良いお年をお迎えください」

相手はしたたかでした。


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 ロシアのプーチン大統領は、やはり評判通りのしたたかさで、日本の主張を軽く跳ね除けて帰国しました。
北方四島は戦勝国の旧ソ連が不法に占領したにも拘わらず、日本が四島支配を放棄したから自国領土として実効支配している、と、ロシア側は主張します。ロシアとしては、日本が見捨てた島々を自国の領土にしたのだから、日本が返還を求めるのは、筋違いだ、と言うのです。
ただし、日本が、現ロシア連邦の北方四島領有権を認めた上で、割譲して欲しい、との要望があれば、平和条約締結後に、ロシアへの大型経済協力の見返りとして二島を譲渡してもいい、と、ぬけぬけと言います。
彼らは、日ソ中立条約による不可侵条約を破って強奪して不法占拠した日本固有の領土を我が物にして、返還ではなく、あくまでも経済協力という有料「譲渡」だと主張していて、それで嫌なら交渉はしない、まず大型経済協力で「誠意を見せろ」と凄みます。

 北方領土の帰属を決めた「サンフランシスコ平和条約」では、南樺太と千島列島はソ連に強奪されましたが、国後、択捉両島はソ連領には含まれていません。ましてや、色丹および歯舞諸島は地域的にも北海道の一部です。したがって、北方四島は法的には明らかに日本領です。
なのに、択捉島にはロシア空港が建設され、極東の軍事拠点化されつつあり、日本に返還する気配など全く見えません。
彼らの考えでは、戦争で勝ち取って一旦国庫に財産として収納したら自分たちの物、それを、平和条約締結後に譲渡してやると言っているのに、まだ何か不服があるのか、と公然と自国の立場を明確にしています。そこには、盗人猛々しい、という白々しい悪党の態度など微塵もありません。プーチン大統領は、それらを当然として確信しているからこそ安倍総理を上から見下ろして一歩も譲ろうとしないのです。
安倍総理は、プーチン大統領とのこの歴史的会談の会場を総理官邸ではなく、わざわざ郷里の山口県で開催したのは、歴史的な華々しい成果を実現して故郷に錦を飾る予定だったからです。ご自分では、これまでに何度かプーチン大統領と会っただけで、友達にでもなったような錯覚でいたのが間違いの元、正式会談となったら「肩透かし」どころか、軽く「大外刈り」で投げ飛ばされて、手も足も出なかったのです。

 それでも口だけは達者です。
「何べん同じ主張を繰り返しても相手は動じなかった。それでも一歩前進、交渉はこれからです」、会談後の安倍総理の談話と、疲労と敗北感で引きつった蒼くやつれた顔を見ただけで、まざまざと会談が不調に終わったことが読み取れて総理が哀れに思えました。
しかし、これをそのまま公表するのは国際的にも日本にとって国益を損なって不利ですから、官房長官指令でテレビにも自粛を迫り、何とか多少の成果を発表したかったと思いますが、真相は一方的な経済支援を迫られただけで成果っどころか、修羅場に弱いボンボン総理が、秘密警察出身の凄腕大統領に手玉に取られてギブアップ・・・自国の総理として、こんな惨めな姿は見たくもありません。
テレビでは、総理の敗北には触れず、交渉の「難しさ」だけを強調したにとどめていますが、どれもこれも中途半端な報道で消化不良、報道各局のスタッフも特番も組めずに悔しい思いをした事でしょう。

 以上、正論は正論として、ロシアが経済援助で二島の「移譲」を匂わせたのですから、超大型援助で四島を買い取る案があってもいいような気がします。その金額が幾ら高額であっても国中の企業や個人から募金を募れば何とかなります。漁業権や観光資源などの国益を考えれば北方領土の確保は絶対に必要です。日本側は、経済協力で四島返還と記述し、ロシア側は、経済協力の代償に四島を譲渡したと記述すれば、お互いの面子は潰れません。これなら、話し合いの糸口はつくはずです。

 北海道を旅して、知床峠から眺めると、わずか40キロ東に見える国後島はすぐ目の前です。現在ロシアが実効支配している択捉、国後、色丹、歯舞群島の四島とその周辺の岩礁までも、私達の認識では日本固有の土地に間違いありません。
ですから、返還を求めるのは当然のこと。ところが、相手は獰猛な北海の熊、道理や常識は通じません。そこで上記の案が有効になります。しかも、先方は武力で奪取した島々ですから原価はゼロです。これが巨額の経済援助に化けるのですから損はありません。
しかし、これには、自分の土地を金を払ってまでして買い戻すのか! という抵抗もあります。

 ならば、武力で奪われたのだから武力で取り返すという案が出ても不思議はありません。
今から科学、工学、物理学、兵学など日本人の総力を挙げて徹底的に軍事化して北朝鮮以上の核保有国になって四島奪取の戦闘を仕掛ける手もあります。これなら、安倍総理も考えそうなことで、すでに総理官邸で秘密会議が持たれているかも知れません。
勿論、これには強大な武力が必要、長州出身の安倍総理は、間違いなく頭の中では軍拡を考えたはず。あの屈辱感に溢れた顔を見ていると、そうとしか思えません。私の身内もシベリヤ抑留で瀕死の思いをしていて、旧ソ連に恨みはありますから反対はしません。でも、それには安倍総理が、往年のヒトラー総統のような狂信的カリスマ性で国論を一つにまとめ上げねばなりません。
最近の安倍総理なら独裁的で弁舌も巧み、支持率も高く、当面のライバルもいませんから、真似ごとぐらい出来るような気もします。

 だが、国論を統一するには、まず長州嫌いの会津との完全和睦が先決になります。
そうなると、長州と鹿児島、旧南部藩と伊達とか、三春と二本松、庄内と秋田など、戊辰内乱150年を契機に大規模な仲直りイベントで国内を一つにまとめ上げねばなりません。ま、それまで安倍政権が持てば、の話ですが・・・。

小川宏さんを偲ぶ


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 今週も追悼号です。
小川宏さんがご逝去されました。
最近、自分が平均寿命を超えてオマケの人生に入ったこともあって、人間関係の因縁について自分なりに考えることがあります。
一番の反省点は、平均寿命に至る以前に身辺整理をしておくべきだったことに、今頃やっと気がついたことです。
しかも、それに気がつきながら未だに何の手もうたず、ただただ一日一日が過ぎ行くだけですから情けない話です。
最近は、激流に胸まで浸かって鮎釣りをしていて足元が滑ったりすると「このまま死んでもいいかな」と思ったりします。
それでも足を踏ん張って流されないのは、やはりまだ死ぬ運命ではないからだと勝手に解釈して今日も元気で生きています。
それにしても、いくら人は必ず死ぬと頭では分かっていても、親しい人の死は悲しく辛いものです。
12月に入って年賀状を書く季節になると「忌中につき賀状欠礼」の葉書が否応なしに届きます。昨年は13枚、今年はすでに20枚を超えました。その半数は知人の身内、半数が知人友人ご本人で、そのまた半数が親しい方々です。
小川宏さんの死も辛い事ですが「順番順番」と心に言い聞かせて、故人のご冥福を祈っている今日この頃です。
その前に・・・作曲家の中山大三郎さんが2005年に亡くなっています。大さんは私より5歳下で昔まだヒット曲もない30代後半の頃、売れない作曲家の無名時代にも意気軒昂、すでに弟子も数人いて張り切っていました。私もまだ40代でしたが占いの仕事で多忙、弟子も何人か抱えていました。それが、あろうことか私の女弟子と大さんの男弟子が、20歳そこそこの若さでデキてしまい、親の反対を押し切って結婚させることになったのです。なにしろ貧乏作曲家とシガナイ占い師ですから知恵も金もありませんが勢いだけはあります。
「どうせなら帝国ホテルで!」、これが親代わりの二人の合言葉で、当時、私が占いを通じて支配人とも知り合いでしたから、ホテル内の式場で挙式し披露宴は立食パーティで会費制にして結構派手な結婚式が出来たものです。それから時を経て、日刊スポーツ海上スクールというクルージング「カルチャー教室」があり、そこで講師陣としてばったり、私は「占い教室」。大さんが「歌謡教室」。芹沢信夫選手が「ゴルフ」、小島名人が「麻雀教室」など盛り沢山、講師だけで十数人、テニヤン、グアムなどを巡って一週間、芹沢,大さんと上半身裸のマナー違反でゴルフをしたり、講習生を集めて野球をしたりと遊びまわってきました。と、ここまでは前置きです。
小川さんは、NHKの人気番組やフジTVの小川宏ショーで大活躍でしたから、私が金曜日レギュラーになっても、さほど個人的に親しく付き合っていた分けではありません。なにしろ小川さんの周囲にはフジTV関係者だけでなく、各界の有名人がいつも出入りしていて、たまに会食したりしましたが週一ゲストの私から冗談を交わす雰囲気ではなかったのです。ところが、ある時、小川さんからご長女の結婚式に招待されたのです。出席してみると主席のテーブルで、フジTV関係は、小川宏ショー担当ディレクターの小林氏(現・開運道最高顧問)と私とでわずか数人、後で理由が分かりました。
「有名人も裏方も全く同じ態度で接している人に初め出会って驚いた」との嬉しいお言葉で、これからご家族全員と親しくお付き合いするようになり、仕事絡みですが石川県に、講師として二人で旅行したこともあり、小川さんの弟さんと、地元ゲストの森喜朗さんが級友だった関係で、森さんの車で観光もしました。それからは番組終了後、小川さん行きつけの店でご馳走になる機会が増え、何かと親しく話し合うようになりました。
それから何年も過ぎて、ゴルフ仲間になっていた小川さんの次女が、私にとんでもない相談を持ち込んできました。
別のゴルフ仲間と一緒だった中山大三郎氏から「結婚を申し込まれた」、というのです。これは大変な出来事でしたが、お互いに気が合うのですから反対の理由はありません。年の差はありますが私は大さんの人柄が好きで、こちらも人間の出来た素敵なお嬢さんですから大賛成、しかし、父上は猛反対、理由は「オヤジのような男に大事な娘をやれるか!」です。それ以降、暫くは私とも口をきいてくれませんでした。
花嫁の父君の反対を押し切って強引に進めた結婚披露パーティでも、花嫁の父君は花婿と一切顔も合わせず挨拶もせず、一人でヤケ酒です。それでも、1年もしないうちに、お互いに酒好きでしたから酒で和睦、晴れて義父になり、私とも元通り、築地に寿司を食べに寄ったりするようになりました。その時は前述の小林さんも一緒です。
その後、お体が不調とはお聞きしてはいましたが、先日の訃報、悲しい限りです。大さんが64歳で逝き、義父の小川さんも90歳で逝きました。残された奥方様やご家族の皆様のお辛い気持ちもお察ししますが、心からのご冥福をご祈念申し上げ、私の追悼の辞とします。

 

いよいよ「縄文幻想」へ


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 松岡隆一画伯の「冬景色」です。

お元気ですか?
今週の開運村HPは、この十月にお亡くなりになった「松岡隆一画伯」追悼号です。
魂の画家・松岡画伯は、秋田県鹿角市花輪の画家で、私の尊敬する人の上位に位置する人で、私の小説「縄文幻想」の生みの親でもあり、1章から10章までの扉画も提供して頂いております。生前、これを上梓する約束をしながら当時一緒に企画した市長が県議に転出したこともあって、出版が中断したままになっていました。

 ところが、地元で下記のような美術展が開かれました。
これは大変、尻に火が点くとはこのことです。

 文化の杜交流館 コモッセ > イベント情報
花輪市民センターまつり
メイン展示「松岡隆一画展」

~小説「縄文幻想(花見正樹著)」扉画
~第一章から第十章まで一堂に展示~
以下省略
開催施設 文化ホール
開催期間
平成28年10月28日(金)~30日(日)
開催時間 9時~19時 ※最終日は16時まで
参加費(入場料)無料
お問合せ先
花輪市民センター TEL:0186-23-3351
———–

 これでは、NET上だけの公開では松岡画伯の霊が納得しません。早く書籍にしないと不義理を重ねることになります。
早速、時間が出来次第、20数年前の作品に手を入れて、全国書店発売に向けて鋭意内容の手直しを始めることにしました。
なにしろ、私が長編の舞台にしたぐらい気に入った鹿角地方ですから、今でも知人の消息なども気になります。
私が今書いている戊辰戦争によると、旧幕府軍の南部藩に属して、新政府軍側の秋田藩と死闘を繰り返した鹿角市周辺の人々は、明治維新の廃藩置県によって秋田藩に併合され、大変辛い思いをしています。
ではなぜ勝ち組の秋田が、鹿角を欲したかというと、その立地条件の良さ、住みよさ、豊かさにあると言われます。
「加賀の銭谷五兵衛か、花輪の佐藤屋庄六(別称・奈良家)と言われたほどの豪商がいて、しかも鹿角地方には豪商五人衆が共存して栄えた時代もあるのです。なにしろ、尾去沢(おさりざわ)鉱山をはじめ金の出る山が幾つもあり、緑も水も豊かで縄文人以来栄えている土地なのです。縄文時代、土地が豊かで獲物も豊富だったこの地方には、あちこちに小部落があり、それが年に一度か二度、全員が集まって先祖供養の祭祀を行った・・・その宴の跡が日本一の大湯の環状列石(ストンサークル)です。ここが私の小説の舞台です。
今でも年に一度、夏の週末二日間、各地から大勢の人々が集まって「縄文祭り」で賑わいます。
私は、松岡画伯とのご縁で小説「縄文幻想」を書きました。
その縄文祭りの夜、その祭りの取材に来た民放の局アナが何者かに誘拐拉致され行方不明になります。
20数年前、折しも某国の悪辣な拉致事件頻発の時期で、国際的にも危機感が募る時代でした。これを今の時代に直してみていいかな? と思案しつつ心は100%、出版に向っています。乞うご期待です。
お気が向きましたら「花見正樹作品集」から「縄文幻想」をご覧ください。

鮭が足りない!


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いよいよ年の瀬、あと数日で師走に入ります。
街にはジングルベルが流れ、けたたましい歳末商戦も正念場を迎えています。
東京都知事が替わってから築地市場が一層人出が多くなり、私の事務所周辺も騒がしくなっています。
とくに、暮れの買い物となると築地の場外市場かアメ横か、と言われて買い出し客でごった返すします。
これも年の瀬の風物詩ですから、そうでないと寂しいものかも知れません。
ところで、先週のHP村上画伯の「目で楽しむ食文化」にシャケの親子丼を載せたところ、早速、友人から「今年は鮭は不調」とのメールです。最近は、サンマが不漁だったりしますから驚きませんが、数年前から我が家の冷凍庫からサクラマスが消えたのは大打撃です。
これは、北海道のオホーツク海に面する遠軽町の釣友から毎年暮れになると、寒い中で60~80センチ級のサクラマスを釣ってきて、必ず二本は送ってきていたのが、84歳の今は体力の限界で雪の中での川釣りが出来なり、ついにギブアップ、代わりに市場から購入した地元産の美味しい鮭を歳暮として送ってくれています。この釣友は元営林署副署長ですが、署長の辞令を、多忙になると釣りが出来なくなるから断られたこともあるぐらい釣り好きで地元では名人で通っています。私も、ヤマメ釣りに同行しましたが腕の差は歴然、釣果も大差で私の完敗でした。
私の偏見独断で言わせて頂ければ、魚類でこのサクラマスほど美味しい魚はこの世の中に存在しません。とにかく美味、我が家のバーベキューの主役として二十年以上、主役を務めていました。サクラマスは、渓流の女王と言われるヤマメの降海型ですから身は白く、ニジマスなどと違って川魚特有の癖がありません。焼いても煮ても最高、これが姿を消してからは我が家のバーベキューも閉店休業、主役不在ですから仕方ありません。シャケ? そんなものは脇役にもなりません。
道北の北見市にはもう一人釣友がいました。こちらは残念ながら今は故人です。
その釣友は占いの弟子でもあり、遠軽町の友人の営林署仲間でしたから民間人が入れない山林内をジープで疾駆して渓流釣りを楽しんだものです。その友人は、シャケ釣りもやるが後始末に困るというのです。なにしろ河口で釣ったシャケは味が落ちますから市場に持ち込んでも一本300円ですから、河原に捨てて熊か狐の餌に寄付するそうです。
「もったいない。おれに送ってくれれば・・・」、これが悪かったのです。暮れになって1メートル近い生シャケが7本入った木箱が送られて来ました。これは大事件でした。切れ身で1キロぐらいなら貰い手は幾らでもいますが、大きな生シャケ一本はご近所でも親類でも引き取ってくれません。結局、二尾を解体してあちこちに頭を下げて進呈、五尾は「売り物になるかな?」とブツブツ言われながら近所の魚屋に寄贈して、やっとケリがつき、友人には「鮭はもう送らなくていい。シシャモを釣ったら頼む」と、電話したものです。
そんな事情で、築地市場から鮭が姿を消しても痛くも痒くもありません。もっとも遠軽町の友人からの鮭は別格です。
さて、年の瀬は歳末助け合い運動です。「恵まれない人に愛の手を・・・」、お互いに出来ることはしましょう。

切腹考


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 HPで新渡戸稲蔵の「武士道」で切腹」に一文を書いていて、昭和45年の秋深き日に決行された作家・三島由紀夫の衝撃的な割腹自殺のテレビニュースで流れた凄惨な死亡現場の映像を思い出していました。三島由紀夫は、憲法改正のために自衛隊のクーデターを呼びかけましたが、自衛隊はそれに応じず、やむなく自決したものです。この異様な事件は当時の平和ボケした日本社会に大きな衝撃をもたらしましたが政治的には何の影響もなかったのが気の毒でもありました。
戦後日本の文学界を代表する作家の一人でもある三島由紀夫は、仮面の告白、潮騒、金閣寺、豊饒の海など小説に加えて、鹿鳴館やサド侯爵夫人などの戯曲も書いていますが、私はあ耽美的な作風が好きになれませんでした。
三島は11月25日朝、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を私設団体「楯の会」メンバー4名とともに訪れました。総監と面談中に突如益田総監を縛りあげて総監室に籠城、総監を人質にクーデターへの決起などを要求します。
この要求が無理と知った三島は、市ヶ谷駐屯地の全隊員を正午前に集合させて演説を打ち、その後で自決します。
演説の主旨はこうだった。
「日本は経済的繁栄にうつつを抜かして精神的にカラッポに陥っている。政治はただ謀略・欺傲心だらけ。日本の魂を持っているのは自衛隊であるべきだ。われわれは、自衛隊に対して期待している。日本人の魂を取り戻し、日本の根源の歪みを正すのが自衞隊だ・・・諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。一人もいないんだな。それでも武士かぁ! これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなった。それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!」
演説を終えた三島は総監室に戻って益田総監に「こうするより仕方なかったのです」と語りかけています。
三島は、上半身裸になって正座して短刀を両手に持ち、背後に立った部下の森田に介錯を頼み、気合いを入れて「ヤァ」と叫び、左脇腹に短刀を突き立てた。益田総監が「やめなさい」と叫んだが、介錯人の森田は刀を振り下ろしていたが手元が狂って首は落ちず、替わって剣道有段者の古賀という部下が一太刀で三島の頸部の皮一枚残すという古式通りの介錯をし、続いて切腹した森田の首も一太刀で見事に介錯しています。残った小賀ら3名が、三島、森田の両遺体を仰向けに直して制服をかけて両名の首を並べて合掌すると、拘束を解かれた益田総監も正座して共に手を合わせ、惨劇の幕は閉じます。これは、何人かに傷を負わせたこの事件は、単なる犯罪だったのか、憂国の士の義挙だったのか? 私には未だに謎です。
翌日の新聞によると、三島の短刀による傷はへソ下4センチを左から右へ十三センチ、真一文字に切っていて深さは約五センチ、腸が傷口から外へ飛び出していたとのこと、見事な切腹で、その覚悟のほどが分かります。
検視に立会った東京大学医学部講師・内藤道興氏の談話が残っています。
「三島氏の切腹の傷は深く文字通り真一文字、森田の傷がかすり傷程度だったのに比べるとその意気込みのすさまじさがにじみでている」

 ここまで書いてきて、私はいま、小説の中で無性に壮絶な切腹シーンを書きたくなっています。
新渡戸稲造先生には申し訳が立たぬのは承知の上で、武士道にあるまじき命惜しやの罪なき武士が、思わぬ逆境に追いやられた挙句、否応なしに切腹の場に引き出されたところで、急に命が惜しくなり、短刀を振るって必死の抵抗を試みます。介錯人は倒せても、検視の役人や見聞役相手に多勢に無勢、力尽きて体中を切り刻まれ、のたうち回って苦しみ呻いて、無実を訴えながら惨殺される・・・こんなシーンを書きたい衝動を抑えられません。読者が、2,3日は食事が喉を通らない、そんな理不尽で凄惨な腹切り風景が描けたら作家冥利に尽きます。
しかも、切腹する主人公は自分自身だったりして・・・