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ラベンダーの里


 

 ラベンダーの里

 梅雨の合い間の週末を皆様いかがお過ごしですか?
つい数年前までは夏になれば川遊び、これが私の生活習慣の一つだったのに、今はすっかりジジめいて地元の温泉や原野めぐり、なにが面白いのか自分でもさっぱり分かりません。17日(金)は平日にも拘わらず、のんびりと住まいと同じ市内の端にある大型銭湯風の天然温泉に行き、ラジウム湯、サウナ、桶湯などの他に、香り仄かなラベンダー湯などに浸かって命の洗濯をしたところです。
翌18日(土)になると、末娘の突然の提案で、気乗りはしませんが運動不足解消の一助になればと、隣接する
加須(かぞ)市にある「ラベンダーの里」に出掛けました。

カーナビに従って田園地帯を走ると、うす紫一色に広がる原野が目前に現れたのです。これは見事でした。
駐車場で車から外に出たとたんに、ラベンダーの穏やかな癒し効果のある香りが全身を包み、ラベンダーの群落内を散策する俄か観光客の皆様は一様に幸せそうな笑顔でした。
やはり、ラベンダーの癒し効果は本物でした。

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   仕事は引退しました。

   仕事は引退しました。

樹齢450年の藤の木


 樹齢450年の藤の木

 この連休までの数か月は、何かに憑かれるように「仕事をしなければ」と思い詰めたのが嘘のようにバカバカしく思えます。いまは全く真逆なのです。れからは毎日が遊び・・・こう考えたら気が楽になり肩の荷も軽くなりました。
加須市 玉敷神社 に対する画像結果こんな気分になれたのは、親しい友人から、胃を摘出しての胃ガンの手術を前に、鬼気迫る死への恐怖と覚悟を聞いて、明日は我が身と知ったからです。もう私に残された時間はそう長くはありません。 今までの私は存分に生きてきました。それゆえになお、残りの人生も悔いなく生きる。この悟りは貴重で嬉しいことでした。そこで少しだけ路線変更を考えました。
ここからも誰にも束縛されず、誰にも干渉されずに心穏やかに悔いのない終活に向かうことに腹を決めたのです。
この爽やかな気分がいつまで持続できるのか? これも楽しみです。
加須市 玉敷神社 神楽 に対する画像結果さて、ここのところ、拙宅のある久喜市栗橋と隣接する古河市や加須市や幸手市に出没する機会が増えている私ですが、5日(木)は古河市、6日(金)には再び、再び加須市の玉敷神社詣でをして参りました。ここは以前にもご案内しましたので二番煎じになりますが、まだまだ賞味期限はありそうです。
この日、私が訪れたのは、午後から玉敷神社の能舞台で奉納神楽が開催されるからです。
加須市 玉敷神社 神楽 に対する画像結果この玉敷神社の御神楽は、4百年以上の歴史を持ち、江戸神楽の原型を伝える素朴な舞いで構成されていて、平成20年に、国の「重要無形民俗文化財」にも指定されています。
この日の演目は、神話に基ずくイザナギ、イザナミの国造りの物語で、古色蒼然とした和楽器の調べに乗った神楽舞が格調高く厳かで、思わず襟を正して見入るという雰囲気でした。
この能舞台の茅葺屋根に枝が覆うように被さる樹齢約5百年の大銀杏も見事ですが、神社と隣接する神苑(玉敷公園)にある樹齢450年、幹回り役5メートルの藤の木もまた見事なもので、花の盛りは過ぎたとはいえ、淡い薄紫の話誰の広がりは圧巻で、さすが埼玉県指定天然記念物にしていされているだけの価値はあります。ここは、前回も紹介しましたが、この近くには沢山の名所旧跡がありますので、徐徐にご案内させて頂きます。


それと、私が加須市を気に入った理由はもう1つ、ここの名物が「うどん」で、町のあちこちにある製麺所には必ず、即売所と食堂が併設されていて、私のようなソバ派の人間のために、ソバ打ちもしていて、ソバも美味しく、6日(金)に立ち寄った店は、今までに見たことも聞いたこともない超細切りソバが出て驚きましたがなかなかの美味、長にそばでは、天ぷらで食べたのですがmが次回は大森にして大根おろしソバで食してみたいと思っています。なお、7日(k土)は幸手市内の中華料理屋で遅い昼食、親族それぞれの好みに付き合っての大型連休でした。

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   仕事は引退しました。

 

「のうるし」の花


 「のうるし」の花

加須市浮野の里 に対する画像結果 コロナ禍の収束ままならぬ令和4年の大型連休、「ついに来たか!」と、身構えたところで、例年と何も変わりません。子供や孫や曾孫までバラバラと集結して、我が家を拠点にあちこち遊びまわるのを常としているからです。
以前と変わった点は、一昨年のコロナ禍到来から連休に宿泊する身内がめっきり減ったことと、私の釣り仲間の孫が今年から中学生になって交友関係が一変、ジイは離れでとんと寄り付かず、泊まりに来てもNEゲームに夢中、学校でも部活でゲームのソフトを作成中だとか。
月への旅行が現実になった時代の変遷とともに、粗大ゴミに化した年寄りの悲哀を感じながら、この大型連休も子供や孫の誘いに乗って、近隣の名もない地元自称の名所などを訪ね歩いているのです。
浮野の里の「ノウルシ」(見ごろは4月上・中旬です)/加須市
つい先日は、私の住む栗橋に隣接する加須市を訪れ、のどかな田園風景の一角にある残す「浮野の里(うきやのさと)」という地域に行ってきました。ここは、全国「水の郷」百選にも認定(平成7年)されていて自然そのままの周辺には、くぬぎ並木や掘割りもあり、私が訪れた4月下旬には、ノウルシの花が鮮やかな黄色に色付いてあたり一面に咲き誇っていました。
ノウルシは、トウダイグサ科の多年草で、浮野の里にはm約1,000平方メートルの群生地があるのです。ノウルシは、絶滅の危機にあるらしく、看板の説加須市浮野の里 に対する画像結果明によると埼玉県から絶滅危惧2類に指定されているという貴重な野生植物だったのです。 それもあってか、この周辺一帯が、「加須の浮野とその植物」として埼玉県の天然記念物に指定されているそうで、これも納得です。
ついでに一言添えますと、加須の名物は「うどん」、製麺所直営店での食事も家族の狙いなのです。私はソバ派、残念!
さて、今日は誰がどこへ私を拉致しようと企んでいるのか、ジジは大自然、ババは買い物、この分担だけはこの数十年、何ら変わることのない我が家の大型連休パターン、よく飽きないものと感心するばかりです。

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    仕事は引退しました。

 

桜で満腹!


  桜で満腹!

       花見 正樹

 私の住む埼玉県の最北部の久喜市栗橋地区は、都心より平均気温が2度ほど低く、桜の開花も一週間ほど遅くなっています。
しかも、一度咲いた桜が、先週初めの雪がチラつく冷気に怯えてか、体を小さく縮めて咲くのをためらい、ここ数日の春日和で一気に花びら開いたようなのです。
これを人間に例えると結婚寸前の男女関係が何らかの事情で冷え切って中断、時期がずれ込んでから和解して無事に結婚したような図式にも思えますが、何はともあれ今日4月2日(土)は桜が満開でした。
まず、小川の橋の上から撮った桜の写真を見て下さい。
 ここから撮った先週の写真を、3月27日(日)のブログに載せましたので、約一週間後の今日4月2日(土)には、さらに満開の状況がお分かりのことと思います。しかもまだ、風に散る桜吹雪も全くありません。
まさか、桜の盛りがこんなに長く続くとは思ってもいなかっただけに驚くばかりです。
ここで驚いたことはもう一つ、この満開の桜咲く小川の下流(私の背後)約3百メートルほどで市道に突き当たるまでの両岸には、犬の散歩で歩いていた青年と、建築用資材をはこんだ車が一台通っただけで、やはり独り占め、末娘の運転でしたから二人占めのお花見で、この連続2週の閑散さにも少々驚いたのです。
末娘は都内在住で飯田橋駅付近のマンションに居住していて、今年もすでに千鳥ヶ淵など有名なお花見の名所数ケ所の桜見物を済ませていますから、実家に戻ってのお花見で、誰もいない閑散とした過疎地での桜では拍子抜けするのも無理はありません。
桜 に対する画像結果私はここ十数年来、この場所と自宅近くの公園でのお花見で満足しているのに、末娘が、この川沿いの桜がどこまで続くのか見極めてみたい、と言いだしたのです。
いつもは前述のように、下流5百メートルほどでぶつかる市道を左折して帰宅するのですが、車は市道を横切って小川の左岸沿いを下流に進むと、またまた驚いたことになりました。
なんと、市道から下流の両岸の桜は幹が太く樹齢は明らかに、私が眺めて満足していた市道より上流の桜より数十年は古く、枝ぶりもよく桜の花の満開度もまるで違って素晴らしいのです。両岸から伸びた枝から溢れ咲く花びらで小川の川面は覆われ、見上げた空も青空がようやく垣間見えるほどの圧巻さ、これでは今までの私のお花見は何だったのか? これでは確かに、私が写真に収まって得意になった地点のお花見などお笑い種で、わざわざ出かける理由もないから誰もいなかったのです。
これで、長年の「独り占めお花見」にまつわる謎が解けました。要は、この下流に「お花見の穴場」があったのです。
そこで、車を降りて、地元の人らしい年配の男性に、この市道を境に上流と下流ではなぜ樹齢の差があるのかを聞きました。
そして謎が解けたのです。
かなり以前、市道(昔の村道)の西側には大きな沼があり、そこから流れ出る川が市道の下流の小川で、その両岸の桜は古くからあり、中には樹齢百年を超す桜もあるというのです。
しかも、その老人(私と同年ぐらい)は、栗橋には、権現堂堤に劣らない桜の樹木があちこちに点在していて、桜にはこと欠かないが、名所になるほどの本数が揃っていないので名所にならないのだ、とも言います。
それを聞いた末娘は、「そういえば、中学生の頃、町内(栗橋)のあちこちで桜の群落を見た」と言い、ここから改めて町内を一回りして桜探しをすることになりました。
老人の話では、市道から上流には、西側から沼に流れ入る小川があり、埋め立て後も残して、流れ出る小川と結び付けたもので、埋め立て後に苗木を植樹したものと判明、これで南栗橋駅南側の新興住宅地が11年前の東北大震災時に泥状化による家の傾斜で半倒壊し、ニュースや週刊誌種になったことも思い出しました。
その新興住宅地の新築家屋の泥状化による半倒壊災害からわずか11年、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」の例え通り、沼の埋め立て地の上に高層マンションが数棟林立し、新興住宅地の開発計画が実行に移されつつあるのです。東武鉄道や専門業者の仕事にソツはないとは思いますが、何だか不安を感じるのは私だけではないようで、この時の老人も、新興住宅地に対する耐震対策への危惧を口にしていましたから、思いは同じだったのです。
桜 に対する画像結果 その老人に別れを告げて、さらに川沿いの下流に車を進めると、その桜並木は約1キロ、それは見事な桜でした。そこからは、あちこちの桜を眺め、いざ権現堂とばかり、権現堂堤の桜が見える場所まで近づきましたが、そこでお花見渋滞に巻き込まれそうになり、あわてて国道4号線〈日光線)を強引にUターン、栗橋地区内数キロに延々と続く元渡良瀬川沿いの桜並木を堪能しながら帰宅の途につきました。今年はもう桜は満腹、こんな心境です。

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桜咲く季節


    桜咲く季節

 いよいよ桜の季節が近づきました。
私の姓は「花見」ですから桜には特別に関心があります。
花見の姓は日本人の苗字約30万種の中の4,893番目で、どなたが調べたのか人口は全国で約2,200人、上位ではありませんが文房具屋の「百円ハンコ」にも並んでいるのですから下位とも言えません。
花見姓の集積地は、福島県会津若松市&喜多方市、千葉県市原市、宮城県栗原市、長野県松代市&小県郡、あとは瀬戸内海沿岸などに点在している様子です。
桜  に対する画像結果ただ、花見家夫々のルーツを辿るとその語源には諸説があって、必ずしも同じではありません。
どうも、桜の名所だから「花見」になったという単純なものばかりではなさそうです。
私の先祖は蓮沼姓で神奈川県三浦半島の三浦一族に縁続きの神官でした。それが、1247年(宝治元年)6月の宝治合戦で三浦一族が北条家に滅ぼされた折に会津に落ち延び、土着して郷士となり、「花咲く春を待つ」という意味を込めて、庄屋や土地の郷士に多花見姓を借りて花見姓に改めたものです。
桜  に対する画像結果ただし、この改姓は江戸時代中期以降であるとも伝えられています。
春が遅い雪国の会津では桜咲く春を待つ気持ちは、温暖な西国の人には理解できないかもしれませんが、祖先の「花見姓」に込めた願望は、桜だけではないのは確かです。
幕末期の曽祖父は、郷士ながら馬術に長じたのを買われ、会津藩御馬廻り組に属して馬術指南を任され、代々馬術を業の一つとし、父も中山競馬場所属の調教師長から陸軍騎兵隊で近衛兵や皇族の馬術指南で終戦を迎えています。
本来であれば私も弓馬術礼法で流鏑馬(やぶさめ)などをすべきでしたが、歩射(ぶしゃ)奉納で終わっています。
私の「花咲く春」はいつなのか?
果てしない夢を追い続けての86歳、今年もまた桜の開花時期は数日後に迫っています。

首都圏の今年の開花はおおむね3月20日前後、これが気象庁の集計で、2月1日以降毎日の最高気温の累積で600度に到達する「600度の原理」による開花予想日で、殆んど外れたことがありません。
権現堂の桜 に対する画像結果 私の住む埼玉県久喜市栗橋地区に隣接する幸手市には、「権現堂の桜堤」という全国桜の名所100選の上位にランクされる桜の名所があり、お花見にはこと欠きません。
とはいえ、桜の名所で桜の見ごろは人が群れ、露店が列を成し、混雑もピークで、オミクロンがはびこる昨今ではお花見どころではありません。
ところが、それと時期を同じくして権現堂と我が家の中間の南栗橋駅近くに、掘割りの両岸に咲くソメイヨシノ桜の隠れた名所があるのです。
しかも、権現堂のお花見が超満員の同じ日曜日の午後、この両岸数百メートルの満開桜に人っ子一人見えないのです。

 一人で行けば独り占め、2人で行けば二人占め、多分、お花見というのは人が集まらないところは無視されるのでしょう。
ただし、この隠れた桜の名所の景観も残念ながら今年限り、いま東武鉄道グループの開発計画の一端で、この掘割り沿いに高層マンションが何棟か建ち並び、大型スーパーや専門店なども誘致されるらしく、この静かで穏やかな隠れた桜の名所も、雑踏と露店で賑わう権現堂に次ぐ桜の名所になり下がるのも時間の問題です。
それでもなお、我が家から百メートル弱、歩いて1分もかからない至近距離の公園に咲く桜の見事さ、これがある限り、お花見の独り占めは続きます。

   この項つづく

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花見正樹・プロフィール


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花見サロンのご案内

場所・東京都中央区築地2-14-6
 キャメル築地1304 開運道・花見サロン。
地下鉄日比谷線築地駅2番出口1分。
築地本願寺正門の真正面の喫茶店「築地テラス」の上、キャメル13階の1304室。喫茶店右横玄関で、1304-呼び出し、とプッシュ。
ドアーが開いたらエレベーターで
13階奥の本願寺側・花見サロンへ。
不明の場合は, 090-4672-1094 花見へ。
電話 03-3542-1150 

Eメール masaki94581@nifty.com
HP  https://www.kaiundou.jp
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忘れがたき人びと 整体の師


 

 忘れがたき人びと

 食べ方健康法 蔡一藩 - メルカリ私の整体の師であり、風水の師でもあるのは故蔡一藩(さいいっぱん)師です。
 蔡師は、元中国国医医学院名誉教授で、中国医学界の権威で、1,917年に中国広東省に生まれました。 生家は二千数百年にわたって医術を職業とした名家です。
  その中国が文化人の大量虐殺ともいわれた文化革命に追われて日本に脱出、1963年に帰化して日本国籍を取得、以降は日本と中国の漢方医や漢方薬業界の橋渡しなどで大きく医学界に貢献しています。
  私と蔡師との初見は1986年頃、霞が関の日比谷公園脇にあったダイヤモンド社の会議室での出会いです。
 当時、私が定期的に講師として招かれていたダイヤモンド社春秋会(主宰・棚村耕三翁)での質疑応答がきっかけで親しくなったものです。
 蔡一藩師からの質問は、「経済と風水の關係」についてでしたが、私は易学と気学から経済をみていましたが、中国風水については全くの無知でした。そのために解答の仕様もなかったのです。
 そこで早速、兄貴分として親しく人生の師として尊敬する棚村翁の取りなしで蔡師に弟子入りを申し込んだところ、快く引き受けて頂きました。
 それからは、都内中野区のご自宅や御身内経営の薬膳・中華料理店などに通い、あるいは私の事務所兼サロンに来て頂き、風水をまなんだのですが、それと同時に際師の本業でもある中国整体も教えて頂いたのです。
 当時はまだ整体には興味も少なく不肖の弟子で熱心さもいまいちでした。
みるみる若くなる中国回春健康術 (オレンジバックス) | 蔡一藩 ... あの時、もっと真剣に学ぶべきだった、と心の中でi今は亡き師に詫びています。
 なお、これにはオマケがあります。
 蔡師の提案で、元々の兄貴分であり師でもある故棚村耕三翁を長兄とする三人義兄弟の約束をしたのです。
 蔡師が二番目で私はヒヨッコの末弟です。
 若返るスタミナ食―強壮・強精・美容にすごい効果 (1981年) | 蔡 ...いま思えば劉備玄徳の故事に倣って「桃下の誓い」の真似とも思えますが、私は棚村翁から愛用のスイス製時計、蔡師からは、なんと数百年も蔡家の家宝とされた純金文字の歴史を秘めた風水盤を頂戴していますので、冗談とも思えません。
なお、私が兄と慕った棚村耕三翁は、ヤフオク! - 古本 誰も知らない食べもの健康法 蔡一藩著 東...ダイヤモンド社(創立1913年)の創始者・故石山賢吉社長の懐刀として知られ、ダイヤモンド社の発展に大きく貢献した功により、自社ビルの一室を生涯重役待遇として使えるという希有な存在で、私の人生にも大きな影響をもたらしています。
 その棚村翁の紹介で政財界の大物とも知己になりましたがこれはパス、ここで知り合った警備会社社長島田氏に請われて顧問になり、実際にVPの護衛などを体験したり、裁判の傍聴など貴重な体験をしたりして、これらは大いに私の役に立っています。
 この棚村翁の紹介で知り合ったダイヤモンド社の社員は数多くいますが、昭和44年に、ドラッカー著の「断絶の時代」の大ベストセラーでダイヤモンド社の逆境を救った編集次長平岡氏との交流から、新人物往来社社長になる前の大出氏やANAの取締役だった西川氏、明徳出版役員の村田氏など多くの素晴らしい友人を得ていることも忘れられません。
 楽天市場】青春出版社 まさつ〈経穴(ツボ)〉健康法 たちまち ...その棚村翁から、優秀な後輩として紹介されたダイヤモンド社社員の一人が、やがて社長になって経営合理化の一端として霞が関の自社ビルを売却、神宮前に移転して「世期の蛮行」とされ、先輩諸氏の罵声を浴びながらも会長職までを全うした岩佐豊氏です。その時は私は交流はありませんでしたが、前述の平岡氏などの岩佐氏に対する評価はかなり厳しいものでした。
食べ方健康法 蔡一藩 - メルカリ ところがそれから、かなりの時を経て、親しい年長友人の佐藤堅太郎(元トーハン役員)先輩が、「盟友を紹介する」と言って岩佐氏を連れて来たのです。
 岩佐氏はダイヤモンド社会長退職後、出版関係役員引退後の受け皿でもある「図書カード」会社の役員として佐藤先輩の弟分役員になっていたのです。
 私とは数十年ぶりの再会でしたが、共通の師でもあった棚村翁のご縁もあり、それからは短期間ではありましたが終生親しくお付き合いさせて頂きました。
 岩佐氏は府中市在住で市長とも親しく、町起こしにも拘わっていて、新選組資料などをせっせと持ちこんでくれました。ただ、私自身が大出俊幸氏主宰の近藤勇墓前祭の常連で、新選組ゆかりのご子孫とは交流がありますので目新しい資料はありませんでした。それでも、その岩佐氏のご厚意には感謝の気持ちで頭が下がるばかりでした。その岩佐氏も再会後わずか2年、旧交を暖める間もなく鬼籍に入って、いまや遅しと私を待っています。
 こうして、ダイヤモンド社絡みだけでも想いは尽きませんが、ここでは私の整体のルーツについて述べたかったのに、ついつい脱線してしまいました。
 私は緑内障と視野狭窄症でいずれ目が見えなくなりますが、そうなれば「占い癒し整体」で余生を過ごす予定です。ところが、失明のスピードが思いのほか遅く、全盲までにはもう少し時間がかかりそうです。
 もしかすると、その分寿命も延びているのかも知れません。 そうなると、先に逝った友人知人諸先輩も待ちくたびれて、私のことなど忘れる可能性もあります。
 そう考えると、もっとゆっくり日々の生活を楽しんで少しは長生きしてもいいような気もします。
 どうぞ皆様、お暇がありましたら、この孤独な隠居のお相手も宜しくお願いします。

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    仕事は引退しました。

 

絶交宣言です。


 絶交宣言です。

 私は、殆んど人見知りしないタイプですが、苦手な相手もいて、友人にも、この人とだは同伴禁止にお願いしています。
 その人の名はオミクロンさん、人の家に何の挨拶もなく忍び込んできて、有無をいわさず強引に合体するという原始的な求愛方法で子孫を残そうとしていますが、これには賛成しかねます。
 ただ、このオミクロンさん、孤独で寂しい老人でも、遊び盛りの元気な若者でも分け隔てなく親しくなってくれますので、感染覚悟、危険承知で一部の人々は、繁盛する飲み屋や各種イベント会場の人混み目指して出かけるのです。
 それでなくてもオミクロンさんは、あの手この手で人々に接近して誘惑を続けます。あなたは、この甘い罠から逃れられますか?
 私は大丈夫、孤独に強いからです。
 世間ではよく人の悪口を言うと、そのお返しに自分に災難が祟る、との俗言があります。
 以前、私はつい愚痴混じりにオミクロンさんの悪口を言ってしまいました。とたんにこの小悪魔め、私には近寄らず、私の友人知人に感染したり、孫の学級閉鎖とか、悪さを仕掛けてきています。その上、感染予防のモデルナの注射を受けた弟子の一人がおみくろん症状で高熱にうなされて寝込んだと聞くと、いよいよ外堀が埋められたと感じるのも無理はありません。
大阪城 に対する画像結果 昔、鉄壁の守りを誇った大坂城も、関ヶ原の戦い以降、冬の陣、夏の陣と堀を埋められ壊滅しました。
 いま、私も、高齢とコロナ禍を理由に、家族から完全引退を勧められ、築地サロン撤退との難題を抱え、その継続への大義名分を求めて苦労している最中ですが、徐々に外堀を埋められた大坂方の心中も少しは理解出来るような気がします。
 私の場合は隠居ですから、確かに家で雑文書きでもしてのアナグマ生活が似合うのですが、以前ここで触れたように、本物のアナグマが猫の額ほどもない我が家の庭に現れて捕り物騒ぎになり、上蓋のある側溝に逃げ込んで持久戦になり、夜陰に紛れていずこえか逃亡しましたが私を仲間だと思っているらしく、これで私が籠城してアナグマ生活をすれば、私を仲間だと思っているアナグマだけでなく、近隣の森に棲む狐や狸なども密かに遊びに来るかもしれません。
 そうなるとまた、隣近所の町内会や役所や警察にも迷惑をかけますので、仕方なく週に何回かは築地通っていますが、私の事務所兼さろんが、コロナ患者最大の受け入れ先の正路か病院に近いため、終日耐えないオミクロン株発熱者を運ぶ救急車のサイレンで心は痛み、耳はタコ、せいしんてきにもあまりよくありません。その上、目が悪いせいもあってか、時折現れる隠居仲間の顔も、ふと狸やアナグマに見えたりして(女性は別)、埼玉北部の我が家でも築地のサロンでもアナグマ生活に変わりはないことに気づいた次第です。
 ところで医師に問いたいのですが、アナグマはオミクロン株に感染するのでしょうか? しないのでしょうか?
 人は、怖い物見たさに、怪談話、お化け屋敷、ジェットコースター、ロッククライミング、スカイダイビング、と次から次に恐怖を娯楽に変えようとしています。その変形として、若者がオミクロンも人混みも恐れず予防注射に見向きもしない一面を見るような気がします。
 私自身も若い頃はかなり無茶をした方ですから、今更ながら命が惜しいなどとは言えませんが、オミクロンの犠牲にはなりたくありません。やはり、この小悪魔とは共存より絶交、1・5メートル以内には近づけさせない決意で過ごします。

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    仕事は引退しました。

 

38年めの長続き番組


 38年めの長続き番組

    花見 正樹

 そろそろ聖バレンタインデー、私には無縁です。 おかげで虫歯も入れ歯もありません。有難いことです・・・いえ、本音で言えば残念。でも、86歳という自分の年齢を思うと、今更ながらと恥じ入るばかりです。

そんな私でも、まだ、マスコミの片隅で何とか頑張っているのですが、その一つをここで紹介します。

 いま、私の出演で一番長く続いている番組は、山口放送ラジオの土曜ワイド「どよーDA!]の「花見さんの幸せ占い」です。
 正確には37年と10ケ月め、と書くべきですが四捨五入という簡略化方式に倣ってこう記しました。
 それと、普通に言えば長寿番組ですが、それだと私もカッコよく長寿となります。でも、私の場合は、ただだらだらと長く生きているだけで、長寿という格調の高い語韻の美しさとは無縁なのです。そこで、この表題にしました。 
 キリのいい数字でいえば40年ですが、2年後は88歳の米寿、ボケが心配ですので、まだマダラボケ程度のいま、そろそろ言い残したいことを、少しづつ書き残しておくことを思いついた次第です。
メディアポ】山口放送 38年前といえば私はまだ48歳の青臭い生意気盛り、いま思うと恥ずかしいことばかりです。
 その頃は、働き盛り遊び盛り男盛りで旅好きの48歳、そんな男が盆も正月もない年中無休の毎週土曜日に山口通いの生出演です。こんな無理がまともに続く訳がありません。これが続けば聖人君子です。
 なのに、それが続いたのは、社会事情の変化など他力本願と、番組を支えてくれた皆様のお陰です。
 通常のラジオ・テレビの契約期間の最低は1クール3ケ月、このテスト期間に視聴率・聴取率が安定すれば何の断りもなしにそのまま続き、いつの間にか38年弱の長続き番組になっていた・・・そんな感じです。
 当時の私の銀座事務所(結婚相談所、占い悩み相談、自己啓発・ストレス解消サロン)には、様々な人たちが出入りしていました。
 その中に、会員のM女史の父親で、野村幸佑さんという好々爺(こうこうや)がいて、いつも孫のユミちゃん(Mさんの一人娘で幼稚園児)の手を引いて現れていましたが、妙に私とは気が合ったものです。
 その野村爺がある時、「うちのラジオであんたと似た人が番組を始めたよ」と言うのです。
「まさか?」
 驚いたことに野村爺は、私が土曜毎に通い始めた山口県徳山にある山口放送の創立社長だったのです。社長としては、新たに始める自社番組の「土曜いい朝・お早うワイド」なるワイド番組は了承済みだったが細かい内容や出演者については制作部任せなので私の出演など知らなくて当然なのです。
 私と野村爺は、ただ会員の身内として付き合っていただけですから、あまりの奇遇に驚くばかりでした。
 野村爺は、銀座にある東京支社も含めて上京の機会も多く、東京在住の娘家族と会うのも銀座、それに娘が支社に近い私のサロンの会員ですから孫との息抜きに丁度いい休憩所だったのです。
 おかげで、徳山行きの折りは社長室で美味しい珈琲を頂いたり、近くの鐘楼亭という一流料亭でご馳走になることもありました。その店のグループ長の田中豊治現会長とは今でも交流が続いていて、毎年美味しい山口のみかんなどを頂き、花見サロン出入りの弟子や隠居仲間も恩恵に浴しているところです。
 こうして、あれこれ多忙で毎日が戦場でしたが、休日には渓流釣りや下手な弓(小笠原流)を引いていましたから「忙中閑あり」という言葉は全く「その通りなのです。
松下村塾 - Wikipedia 今では局内に、生前の野村会長を知る者もなく、局の敷地内に建つ銅像が創業者の面影を残しているだけです。それと、同じ敷地内には、野村社長が敬愛する幕末の指導者・吉田松陰の自宅兼松下村塾の学び舎でもある建物のレプリカが、まるで本物が移築されたように建てられていて、今でも長州の革命思想が受け継がれています。なお、その建物は幕末の長州が描かれるドラマや映画各社のロケで、松陰塾の撮影に使われているそうです。

 民放でありながら自主番組へのこだわりと、執念深いと思えるほどの粘り強さと目的達成への意欲は、驚嘆すべきものがあります。
 その一例を挙げますと、民放には例がない25年の歳月をかけて撮影を続けたドキュメンタリー番組の完成で、この制作スタッフの一人が、私がKRYに出演し始めた当初からの仲間だったから、その経緯を少しは知っていたので関心があったのです。
 その記録映画のタイトルは「ふたりの桃源郷」というもので、電気も水道もない山で暮らす一組の熟年夫婦と、それを支える街に住む子供たち家族の姿を25年にわたって追い続けたドキュメンタリーです。
この夫婦は山で住むことになり、荒れ地を耕して食物を育て、沢で魚を獲って自給自足の生活を始めます。山の四季の美しさと共に雪に埋もれる冬の厳しさ、嵐の恐怖、離れて暮らす家族との葛藤、そして「老いと死」、それらを克明に追い続けた25年の記録です。
 このKRYのドキュメンタリー映画「ふたりの桃源郷」は、大自然の美しさと怖さ、老夫婦の愛と哀感、家族との葛藤などが、余すところなくえがかれていて、真に感動的でした。
 この映画は、都内中野区、神奈川県厚木市など各地で上映されて評判を呼び、私は自分の思いを確かめるために2回観ています。
最果ての恋愛映画「ふたりの桃源郷」 | dovelove TOKYO
  この映画は、受賞の多さと重さもまた異例で、第90回 キネマ旬報 文化映画ベスト・ワン、平成28年度 文化庁映画賞 文化記録映画優秀賞、第40回 山路ふみ子映画賞 福祉賞、2017 アメリカ国際フィルム・ビデオ祭 エンターテインメント部門 金賞、など多数、これは民放では前例がないほど凄いことなのです。
 この40年近い歳月を私は山口の仲間と仕事をし飲食を共にし、海外旅行も共にしました。
 そして、この中で山口の県民性について、高い完遂能力があることを知りました。
 これによって、幕末の異様な戦いである戊辰戦争をライフワークとして書き続けている私としても、仕事を通じて長州について学ぶことも多々あり、複雑な気持ちです。
会津藩校 日新館|yukari|note これは、両親が会津出身でありながら東京生まれの私には、長州アレルギーがないこととも無縁ではありません。それでも、小学3年生の戦時中の疎開で知った「什の掟(じゅうのおきて)」や、会津盆地の山々に囲まれた穏やかで稔り豊かな風土、人々の寡黙で秩序ある佇まいには、より多くの郷愁と深い共感を覚えるのです。これは、両親から受けた遺伝子のなせる技なのかもしれません。

   この項つづく

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    仕事は引退しました。

 

季節の変わり目


 

季節の変わり目

     花見 正樹

雪景色の北海道大学 農学部 写真素材 [ 5489772 ] - フォト ... ここ数日、寒さが厳しくなっている上にオミクロンなどという厄介な代物に邪魔されて、人込みには近付けませんが、季節の変化は待ったなし、もうすぐ立春、春はもうすぐ近くまで来ています。
 春を待つのは古今東西・老若男女みな同じ、季節の変わり目を表わすのに「節句(せっく)」という言葉もあります。
 私のように高齢になると五感が鈍るのか、喜怒哀楽の感梅とうぐいす】の画像素材(10327752) | イラスト素材なら ...情や寒暖の差にも鈍感になっていて何かと不便です。
 つい数年前までは下手な釣り師ながらも、激流の大アユ釣りを楽しみに、河原を焼く熱い太陽の季節を待ち望んだのに、その生き甲斐を諦めた今は、めっきりと季節感が薄れているのを感じます。
3/3は桃の節句!桃の花の実は食べられるの?』 | 徳永こいのぼり それでも春を待つときめきは少々残っていて、もう少しだけ人生を楽しむ気にもなっています。
 春の訪れといえば、節分、立春、梅が咲き鶯が啼いて、桃や桜の季節へと続きます。
 そこで、季節の区切りとされる「節句」について考えてみました。
Amazon | こいのぼり 鯉 のぼり ベランダ 用 1.5m ファミリー ... 平安時代の貴族は「人日(じんじつ)・上巳(じょうし)・端午(たんご)・七夕(しちせき・たなばた)・重陽(ちょうよう)の五節句を、大切な行事として考えていたようです。
 したがって本来は旧暦であるべき「節句」ですが、今では新暦で用いられています。
 1月7日の「人日の節句(草の節句)」には、薬効のある野草のる七草入りの粥を食べて健康を祈願します。
コロナ後の運動会 2mバトン、1人1球玉入れ、口パクソーラン ... 3月3日の「上巳の節句(桃の節句)」には雛人形を飾ってはまぐりのお吸い物を食して女の子の健やかな成長を祈願します。 
 5月5日の「端午の節句(菖蒲の節句)」には人形や鯉登を飾り、粽(ちまき)や柏餅を食べ、菖蒲の湯に浴して男の子の健やかな成長を祈願します。
横浜「三溪園」12年ぶりに紅葉ライトアップ、重要文化財×紅葉を ... 7月7日の「七夕の節句(笹の節句)」には、短冊に願いごとを書いて笹に吊るして願望成就を祈願します。
 9月9日の「重陽の節句(菊の節句)」には、菊の薬効が健康と長寿に効くという故事から、菊入りの酒や吸い物などで健康を祈願します。
「初節句」という言葉はどなたでもご存じだと思います。
 これは、生れたお子さんが初めて迎える「節句」をいいますが、五節句の全てが該当するわけではありません。
 アヤメ - Wikipedia 赤ちゃんの健やかな成長を願う行事ですが、女の子は3月3日の「桃の節句」の雛祭り、男の子は5月5日の「菖蒲(勝負)の節句」の鯉のぼり、これが定番です。
 というように、赤ちゃんが初めて迎える桃か菖蒲の「節句」を「初節句」といいますが、赤ちゃんが生れて21日を経過しないで「節句(女子は桃、男子は菖蒲)」の日が訪れた場合は、初節句を翌年に持ち越すこともあり、生れたばかりの赤ちゃんで「仮初節句」をご夫婦だけで行い、翌年の「節句」に両家の御両親を招いて正式の「初節句」という方法もあります。
 この時に飾る人形は、代々家に飾った物も良し、譲られた者も良し、新たな物も良し、とします。
 伊万里錦香彩)ひな人形«〜春爛漫♪ 雛祭り〜|有田焼の老舗 香蘭社桃の節句と五月人形にも贈り方の作法があって、赤ちゃんが女子でお雛様の場合は、妻側のご両親から贈って頂き、、赤ちゃんが男子の場合は五月人形も鯉登も夫のご両親から贈って頂くのを通例としますが、ご家族にもさまざまな事情があり、なかなかこの通りにはいかないようです。
 我が家でもかつてはお雛様も五月人形も飾った時代もありましたが、遠い昔のことです。

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    仕事は引退しました。

 

春の七草


 春の生七草

    花見 正樹

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 今年の私の幕開けは波乱含み、元日から山口放送ラジオ、4日がテレビ岩手、5日で86歳、いよいよ人生の終盤、ゴールインです。
 松がとれる7日は、七草粥らしき朝食でした。
 らしき、としたのは近所の八百で、七草粥用というセリ、ナズナを入手、カブや大根は買い置きがあったようですが、とても全部は揃わず、正規の食材であるペンペン草の代わりに白菜などというゲテモノが混入していたからです。
  それでもひとまず、暮れから正月にかけての偏った食事で疲れた胃を休める風習に素直に応じて、本年の無病息災を確信したところです。
 この七草粥の起因は、平安時代の貴族の間に流行した「若菜摘み」の風習と古代中国から伝わる節句の行事などの延長ともいわれますが、昔は7種どころか12種の若草を粥に混ぜて食したそうです。
 ところで、あなたは七草の名を正確に言えますか?
 セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ・・・なんだか難しそうですね。それでも別名を聞けば、どなたでも、半分以上はよく知っているものばかりです。
 セリ、ペンペン草、おやこ草、ハコベラ、コオニタビラコ、カブ、大根、以上が七草の正体です。
 とくに、セリなどは紀元前から野菜として食されていたらしく、「日本書紀」にも載っていて、セリは「せり勝つ」という意味の縁起もの。しかも、胃を丈夫にし、解熱効果、利尿作用、整腸作用、食欲増進、血圧を下げる効果などの他に、鉄分が多いるので増血作用もあり、七草それぞれに美容健康効果があるのですから、ほぼ完全な健康食品が「七草粥」なのです。
 最近では、スーパーで「七草がゆセット」が販売されているそうですから、若菜摘みは「て抜き」できます。
 ここで、春の七草の簡単な花見流暗記方法を暗記方法をお知らせします。
 まず、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ、これらを言えるようにします。
 つぎに、いwの頭文字を集めます。
「背なの子はホステス」、このホステスから「て抜き」をして、「セナゴハホスス」、これが春の七草の頭文字です。
 これだけですから簡単ですね。
 この場合、背中に背負った子の将来のホステスを外国流に「女主人」と解釈し、ここは一流料亭か温泉旅館の「女将(おかみ)」とします。
 まさか、背中の子が大きくなって場末のクラブのホステスでは喜べません。
 でも、これは蛇足、何の役にも立ちません。こんなことを覚えるぐらいなら、歴史年表でも眺めたほうがまだマシです。 おっと、これは蛇足・・・寅年に蛇は相性の悪い「破の注意」、これも蛇足でした。


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    仕事は引退しました。