一般の人には何の関わりがない築地市場移転問題ですが、築地に仕事場のある私にとっては無縁ではありません。
知人も馴染みの店も移転することになるのは一時的にしろ残念でならないことです。
ところが、これが思わぬ展開になっています。
小池都知事は昨年來、豊洲市場の安全性確認などで移転を延期してきましたが、豊洲市場の「安全・安心」の確保と、市場収支を重視して、土壌や地下水の汚染対策のため地下の底をコンクリートで覆うなどの追加対策を示し、豊洲に移転。ただし、その後も、築地の跡地を再整備して賃料の安定収入を図ると、約35年後には累積赤字を解消できるとしています。
これで、市場移転問題を都議選での争点にして、優柔不断な知事を責め倒すつもりだった自民党など各党は、成す術もなく、ぐずぐずと文句を言うだけで何も出来ません。
豊洲には移転するが、国際的になった築地ブランドを生かすために築地も売却せずに活用する・・・この玉虫色の案は、必ずしも歓迎されていません。豊洲移転に賭けた一部の出店業者には、まるっきり不評なのです。
一番の理由は、豊洲ブランドの知名度を築地並に上げるのは無理だし、地の利も悪いため観光客誘致にも苦労する、などです。
東京都はつい先日、豊洲市場の都民見学会を開きました。
約1500人の応募者から抽選で選ばれた100人が参加者して、施設を見て回ったそうですが、やはり、質問の大半は食の安全性に関わることだったそうですから、まだまだ問題は残ります。
もっとも、見学会を許可した小池都知事の狙いは、豊洲市場の土壌汚染や地下水の安全性に不安があることを、そのままアピールする狙いもあったのは明らかで、見学コースも青果棟や水産仲卸売場棟だけでなく、敷地内の地下水の管理システムなども公開しています。
これで、まだ万全ではないが周囲の圧力に敗けて移転を決断した、という都知事の逃げ道は出来ました。事実、この問題は石原元都知事の責任であることは明白なのですから、そこをきっちりすべきなのです。
ともあれ、いま築地は大きく様変わりしています。
花見サロンの入居するマンションの真下の道路も、明るい色彩模様の四角タイル嵌め込みのモダンな舗装になりました。
江戸時代は軍艦操練所、講武所などがありましたから、旗本、剣客などが通った道です。
そう思うと、更に築地が好きになりそうです。
投稿者「花見 正樹」のアーカイブ
本願寺近景20170609
お元気ですか? 暦の上では「梅雨入り」、天候不順な日々がこれから続きます。
お互いに「健康第一」、元気で楽しく日々を過ごしましょう。
私は仕事の手を休めた時、眼下の築地本願寺を眺めて疲れを癒します。
上の写真は、6月9日(金)現在の築地本願寺の中庭風景です。
この工事は、平成15年からの計画に基づき、昨年晩夏の盆踊りが終ってから始まりました。
それからは、広い本願寺の中庭に工事の車が出入りして、今はこのような姿です。
なにしろ、私のオフイスの眼下の風景ですから、気にしないではいられません。
築地本願寺からの工事説明では、「修景整備で本願寺が、開かれた寺院として憩いの場になる」そうです。
工事は、ピンコロ石とカラーブロックと芝生を組み合わせた修景整備からスタートします。
設計は三菱地所設計とあり、建築家・伊東忠太氏の基本設計に忠実にとなっていますが、伊東忠太氏についての説明はとくにありません。
インフォメーション棟と永代合葬墓(合同墓)を新たに設置して、多くの人々に利用される寺院にして、憩いと安寧の場を提供とありますが、何だか「めい冥途で安らかに」と聞こえないこともありません。
施工は松井建設で、上記写真の右側が第1期工事で参拝者用駐車場で、この工事が先行して着手しています。
今後、第2期も並行して進めるそうですが、第2期は写真左側に建物が出来ます。
次の画像が、それらの完成イメージです。
この「築地本願寺境内整備並びに建物除却・新築・改修及び合葬墓設置工事」は、「首都圏宗務特別開教区伝道推進基本計画」に基いた計画だとありますが、役所の必要な書類上の大義名分を見ただけではとても理解できません。
早く言えば、「若い世代の宗教離れを防ぐ」「ライフスタイルの多様化に対応」「仏教を身近に」「心豊かな日々を」「終活など人生のラストステージを支える」、そんな環境のばを整える、ということのようです。
新たに建つ二階建て内には、50席程度のカフェ、多目的ホール、仏教書などの販売コーナーなどが出来ます。
これらが完成しますと、観光客や参拝者の憩いの場として年間約33万人に及ぶ来訪者を誘致できる予定です。
さらに、地下鉄日比谷線築地駅から境内に直接入れる通路もできるそうです。
以上、装いを一新した折は、創建から400年を迎える節目の年に「報恩講」として開かれる盛大にお披露目されます。
さて、その時に私はどうしているか・・・こればかりは今のところ白紙状態です。
6月に入って・・・
ひと昔前までは、6月というのは私にとって特別に思い入れのある月でした。
理由は単純で、6月1日は特殊な例を除いて全国いっせいに鮎釣りの解禁日だからです。
私は、釣り雑誌の大手・つり人社の別冊「あゆ」の常連執筆者で、下手な鮎釣り師として全国鮎河川を放浪していました。
取材を兼ねて好きな鮎釣りが出来て、漁協にも歓迎され地元の鮎釣り名手とも交流を重ね、毎年、至福の夏を過ごします。
以前は、週末になると電話一本で「オイ・オマエ」で連絡をとり、河原で待ち合わせしてテントで寝起きしたり、河原でバーベキューをしたりと、鮎釣り三昧の夏を過ごしたものです。
その夏が終わる頃、河原に真っ赤な曼珠沙華の花が咲くと、落ち鮎の季節が来て、涙して夏も鮎も終わります。
ところが、今はその習慣も崩れ去り、車で川までは行きますが鮎釣りの道具は積んでいませんので見物だけで帰ります。
なぜ、そうなったのか?
1、長い年月を共に過ごした鮎仲間が高齢化して一人減り二人減り、釣り仲間との想い出が辛いのです。
2、初夏の若鮎は小さいですから、竿も仕掛けも小鮎用の繊細なもので情緒的ですが、目が不自由だと面倒なのです。
3、白内障・緑内障・視野狭窄症で細かい目印がみ見にくくなって、繊細な釣りが苦手なのです。
4、以上の理由で長距離運転が少々苦手になっていますので、気楽に鮎河川に行けなくなったのです。
5、ふつうの鮎を釣っても楽しくないのです。
では、自分の楽しみはどこに消え去ったのか?
私の人生の三大生き甲斐は、占い、もの書き、大鮎釣り、これしかありません。
したがって、鮎釣りを引退した分けではありません。
拙著に「巨鮎に憑かれた男たち」があるのですから、そう簡単に鮎釣りから撤退は出来ません。
夏は雑魚釣りで孫と遊び、初秋からが本番です。
もう今から夢も見ますし心は弾み、激流の中に竿を出して大鮎を掛けた瞬間の衝撃、その獲物との引っ張りっこ、手元に寄せて暴れる相手を手網に入れた時の感激・・・この三つの楽しみが頭をよぎり眠れぬ夜もあるのです。
昨年は、夏のトレーニング不足が祟って、河原から崖路を歩く途中でバテました。初めての出来事で大反省です。
ホームグラウンドの球磨川(熊本県)は日本三大急流の一番手(他は富士川、最上川)ですから舐めてかかると命に拘わります。今から足腰を鍛え、今年は万全を期します。
しかも、上記5項目の欠点は、解決できるのです。
1、熊本、大分、鹿児島など各県から釣り仲間が集って毎晩、温泉と宴会です。、、と
2、竿も仕掛けも、掛かった獲物も大きいですから豪快です。
3、大きな目印でもあまり気になりませんから目の心配は半減します。
4、鹿児島空港から人まで高速バス、バスターミナルからは仲間のジープで気とまで助手席です。
5、大鮎以外はいませんので、相手が掛かれば楽しめます。
以上、今から毎日が、心も体も大鮎のための準備運動期間になり、他のことは頭にありません。なお、私の知る限り友釣りで釣り上げた大鮎の世界記録は、33センチ500グラム、釣り人は、古きよき仲間の群馬県で釣りスクール主催の野嶋玉造(がまかつテスター)名人、現認者は花見正樹・・・DVDは市販にもなっていて恥ずかしながら私の名も載っています。知人から「あんたも釣ったんかい?」と電話も来ますが、残念ながらそんな化け物みたいな大鮎が棲む激流には入れませんし、取り込む技術も自信もありません。それでも夢はみますし小説は書けます。
前述のつり人誌に掲載の「鬼棲む球磨川」、このHPの花見正樹作品集にもあります。
さて、今宵は眠れるかどうか?
大関昇進!
昨日28日(日)の大相撲夏場所は、稀勢の里休場の中、またモンゴル横綱同士の千秋楽打ち上げ対決で幕となりました。
すでに前日に優勝を決めている横綱・白鵬が渾身の力を振り絞って、横綱・日馬富士を下して6場所ぶり、38度目の優勝を全勝で飾ったのは立派、文句のつけようもありません。
しかも、全勝優勝は史上最多の自分の記録を破っての13度目、これにはグーの音も出ません。
この偉大な記録を、これから台頭する日本人力士が更新できるのか?
もしかしたら稀勢の里が?
いや、これ以上無理してまた体を壊してはいけません、横綱として10回ほど優勝してくれたら大満足です。
では、大関・豪栄道は? 勝ち越しただけで一安心、ムラが多いだけに横綱には無理な気がします。
関脇・高安が大関になって一気に横綱を狙って勝ち続ければ?
高安もすでに27歳、大関昇進後、横綱まで行けるかどうか疑問です。できれば、稀勢の里に次いで日本人横綱になってほしいものです。
私が生きている間には、日本人力士による白鵬の記録更新は期待しないことにします。
さて、我が家の土俵は、上記写真の水槽です。
横綱はいません。
過去には、ブラックバス山、カメの里、ウグイ山など重量級もいましたが、暴れたり、同じ土俵内の幕下のザコ達を片っ端から摘まみ食いしたりして永久追放で放流罪に処され、今はエビの川部屋が9人、ドジョウ里部屋が4人、クチボソ山部屋が7人と総勢20人ながら関取不在、全員が幕下&序の口ばかりというドングリの背比べ状態ですから、圧勝も完敗もありません。
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その3部屋の力士それぞれが餌の取り方が違います。
餌は栄養を考えて2種類、主食は「炒り糠」、副食は「乾燥赤虫」です。
地元の米屋から小魚釣りの寄せ餌用にいただく米ヌカを炒って香りをよくして与えます。
すると、まずドジョウ里4人がいっせいに飛び上がって体をくねらせながら夢中で水面に浮いたエサをパクつきます。
その餌が水分を含んで沈み始めると、待ち構えたクチボソ山7人が水中乱舞で食事を始めます。
その間、エビの川9人は、樹脂製ニセ樹木に鈴なり状態で知らん顔、誰一人動こうとしません。
そのうち、食べ疲れたドジョウは水槽の底の小砂利に横たわってグターとなり、ひと眠り?です。クチボソは、水中の餌が無くなると底まで探しますが、すぐ飽きて元気に仲間で追っかけっこをします。
このクチボソは、昨年の晩春に鯉釣りの大池から孫と手網で獲った1センチほどの幼魚約50尾ほどの生き残りです。
なぜ、このように激減したかというと、栃木県の清流・小倉川で釣った「カワムツ」4尾を一緒に飼ったからです。この川魚が意外にしぶとい悪ガキで、人の目のあるときはおとなしく泳いでいて、夜になると小魚漁りをしていたのです。
「なんだか小魚が減った」と気づいたときは後の祭り、殆どが「カワムツ」の餌になってこの世から去りました。
そのカワムツ4尾を別の水槽に移したのが悪かったのか、ある朝、突然死していたのです。
原因はいまだに分かりません。多分、酸欠か、温度差による冷水病か、水質が合わなかったのか、小魚を主食にしてたのが突然「炒り糠」にされて食中毒だったのかも知れません。
さて、水槽のエビに戻ります。
ドジョウもクチボソも餌を食べ尽くしたつもりで、遊んでいる隙に、人口樹木から静かに離れたエビの川9人は、思い思いの場所で細かい手足を動かして微細な食べかすを上手に探して食べ始めます。なんだか、底石のうえ、砂利の隙間、濾過器の上、ありとあらゆるところに細かい餌があるらしく、心行くまで食べてから、また人口樹木に戻ります。
問題は「乾燥赤虫」です。
「炒り糠」は粒状でしたから、ドジョウ里もクチボソ山も見落としがあって、エビの川が漁夫の利でおこぼれに預かりました。
ところが「乾燥赤虫」は、水を含んでも形も色も赤虫ですから、小砂利の中に落ちてもドジョウ里はヒゲのアンテナで難なく見つけますから、エビの山までは充分に餌が回らないらしく、エビの川の水底掃除作業も短時間で済んでしまいます。
これに気付いたので、餌を2種類用意している次第です。
つぎは、縄張り争いです。
ダーウインの説では、どんな動物でも優劣の順位があり、縄張りの優劣もあるとしています。
我が家の水槽には、3本一組で二組の土管があります。
この6本の土管の奪い合いが熾烈なのです。
水槽の水を入れ替えた時などは、我れ先にと誰もが土管に潜り込もうとします。
以前は、ここがクチボソ山の部屋元かと思うほど、小さなクチボソの遊び場でした。
ところが最近では、エビの山の強引な突き押しに敗けたのか体が大きくなり過ぎたのか、クチボソは土管には寄り付きません。
この土管は、ドジョウ里とエビの川が毎日、熾烈な縄張り争いを繰り返しています。
ドジョウ里は土管が大好きで、いつもここで遊びたいのですが、先客にエビの川がいると遠慮して、一本の土管に三人のドジョウ里が順々に入って顏を三つ出したまま身動き出来ないギュウギュウ詰め状態だったことがあります。
本来、エビの川の居場所は前述の人口樹木ですから、土管になど入る必要はないのに、ドジョウに対する意地悪か、縄張りを主張するために土管を乗っ取るのか、全く意味不明、言葉が通じませんのでインタビューも出来ません。
こうして我が家の水槽でみる限り、エビの山が一番したたかで餌に困って餓死することもなさそうです。
臆病なのはドジョウ里で、水の入れ替えなどでショックを与えると石裏や土管に隠れて暫くは姿を現しません。
エビの川は、水が替わるとスイスイ泳ぎ回っていてなかなか自分たちの住居である人口樹木に近づきません。それでも1時間もしないうちに人口樹木は9人のエビの山で鈴なりになります。
エビの川9人の体重差で、人口樹木の場所取りの場所が違うのかどうか、これは分かりません。
クチボソにははっきりと縄張りがあります。大きい順にいい場所を休息場所にしています。
一番場所は、人間から見て遠くて陰になる水槽の底、そこが一番場所で、時々、ドジョウ里と仲良く同居していますが、同じクチボソは寄せ付けません。同種で縄張りが判明したのはクチボソ部屋だけで、ドジョウ部屋とエビ部屋のナワ張り争いはまだはっきりとは分かりません。
ともあれ、我が家の水槽の各部屋は三者三様、楽しく怠けて過ごしていますから、横綱どころか十両にも上がれません。
一週遅れの母の日
5月21日(日)午後3時過ぎ、群馬県館林市では気温が35度を超え、熊谷、福島、伊勢崎なども34度を記録し、東京都心でも30度オーバーの猛暑で、早くも真夏日の到来です。
この厳しい暑さは、東日本や東北南部を中心に明日からも続きそうですから熱中症には注意が必要ですね。かといって、いきなりの低温冷房で冷え過ぎて体温調整に失敗すると、この夏を乗り切れなくなりますから弱冷房で我慢となります。
ところが、私が通勤に利用する東武線の車内の空調は乗客の混雑状況にお構いなく「暑い日は冷やす」という基本パターンを忠実に守りますので、暑い日だからと半袖ででも乗ろうものなら冷凍庫に閉じ込められたような生き地獄を味わうこともあります。
多分、それで体調を崩す人も少なくないと思いますが、鉄道側の過剰サービスに文句を言うような人はいないようです。
さて、我が家は。一週間遅れの「母の日・食事会」でした。
写真は、三男夫婦に散髪してもらってサッパリ顔の102歳9ケ月の母です。
よく長寿の秘訣は? と聞かれますが、母に代わって私が「ストレスを溜めないことだと思います」と答えています。
それと実際は「手もみツボ効果」も大きな要因のようです。対外的には「開運道式手相・手もみ健康美容法」となりますが。
母は7年前まで長男家族と同居していましたが心臓疾患などでの入院生活、要介護度5の点滴と酸素吸入での病院暮らしでした。ある日、危篤状態で身内が集まるようにと医者に言われて身内が集結、そこで私が自宅で安らかに、と引き取ったのが運命の別れ道でした。
それから奇跡の回復が始まったのです。
ご覧の通り、髪は黒々で目もしっかりして「週刊文春」の愛読者、ますます元気です。
文藝春秋社の元社長が、そのドキュメントを出版にと言いますが、母ネタでの執筆はご免です。
元気といえば、我が家の水槽の住民たち、川エビが10尾、ドジョウが4尾、クチボソが8尾、タニシが5尾。みな元気です。
この連中も、ストレスが大敵です。ザリガニを一匹入れてみたらパニックで逃げ隠れして餌も食べなかったのです。
それが、このメンバーだと天敵がいませんから、餌争い以外は全員が楽し気に過ごしています。
やはり、健康の秘訣はストレスを溜めないこと・・・これに尽きるようです。
5月14日(日)は何の日?
5月14日(日)は、何の日かご存知ですか?
大相撲夏場所? これもま正解です。ケガの後遺症に不安の残る、横綱・稀勢の里はどうなるか?
気になりますね。
14日(日)、正解は「母の日」です。
私の母は、102歳と9ケ月、いまだに杖なしでも歩けるほど元気、嬉しい限りです。
男女を問わず、いくら年月を経ても母親のことは忘れないようです。
我が家は子供が4人、母の日には何らかのプレゼント持参で現れますが、父の日は末娘以外見向きされません。
もっとも、「父の日」自体がオヤジ族のヒガミ対策で出来ただけですから、忘れられて当然なのです。
NETで、「あなたは母の日に何をプレゼントしますか?」とのアンケートコーナーがありました。
その一覧をみると、一番多いのが、カーネーション絡みで、花屋さんの宣伝では、胡蝶蘭とかバラとか室内栽培の花の全ての在庫一掃目当ての宣伝には見向きもしないでカーネーション、プレゼントする側はやっぱり堅実で賢いようです。
次はスイーツ類、有名無名の各メーカーがここぞとばかりに美辞麗句を並べて、カーネーションとのセット化を図っています。これは大当たりで、かなりの人が、自分も一緒に、との意味でスイーツが人気なのが理解できます。
あとはランダムに、書籍、ペット、衣類、音楽CD,趣味用品、おでかけ用バッグ、漬け物、化粧品、美容ローラー、老眼鏡、ハイブリッド枕、ジュエリーBOX、エプロン、オーストラリア製エコバッグ、キッチン雑貨、キッチンマット、名入り湯呑み、Tシャツ、玉露羊羹セット、緑茶と湯呑セット、ワイン、缶ビール、焼酎、家族アルバム、フルーツセット、和菓子、洋菓子、熱湯で花が咲くカーネーション+スイーツ、マッサージ券、高級お茶漬けギフトセットなどですが、中には、家族ぐるみの旅行や芝居のチケットのプレゼントもありました。
ところで私の兄弟は、長男は早逝して、次男の私を筆頭に男ばかり4人。
私から81、71、65、63と全員が配偶者を含めて老人ばかりですから母へのプレゼントも地味で、何の打ち合わせもありませんから、毎年、それぞれの連れ合いが同じような品物を用意して我が家に集まり、夏物のカーディガンや衣類全般、なんだか増えるばかりです。
さて、その母の日の14日(日)、生憎と私は、綾部市東京会の集まりで都内の会場に出掛けます。
綾部市を舞台の小説がまだ書きかけなので、少しばかりバツが悪いのですが、特別市民の一人として、市長と挨拶ぐらいはしてきます。
どちらにして母の日は子供達も集まりますが、私には無縁ですからこれでいいのです。
沖の島(宗像大社)世界遺産へ
「沖の島世界遺産へ」
福岡県宗像市の沖合60キロにある沖ノ島(宗像大社沖津宮)が世界文化遺産に登録される見通しとのことです。
6日(土)のテレビか新聞の夕刊でこれを知った人も多いと思います。
私は、毎週土曜日のY放送ラジオを終えてから、これをテレビで知りました。
もう少し早く知っていれば、自分の番組でこれを話題に話せたのに残念です。
何を話すかって?
本HP「歴史の舘」で「歴史こぼればなし」担当の宗像善樹講師の著書が近日発刊だからです。
◎宗像善樹著『史料にみる 宗像三女神と沖ノ島傳説』右文書院刊
5月末~6月初旬発売の上記「宗像大社」本の「あとがき」を、私が書いて著者に送ったばかりなのです。
その一部を下記に・・・
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この度、宗像善樹様が、長年に渉って蓄積した史料を駆使して、ご縁のある宗像大社の歴史や伝説を一冊の書籍にまとめてご出版されましたことを心からお慶び申し上げます。本書は、神代の時代から続く宗像大社、宗像三姉妹の謎を見事に解き明かしています。
宗像善樹氏は、文章力の確かな作家として既に何冊も著書を世に出し、その博識で温厚なお人柄から各団体の顧問や役員を頼まれることも多く、その一つに都内武蔵野市を中心に活動中の「幕末史研究会・代表幹事」があります。その会の会長で坂本龍馬研究の第一人者でもある小美濃清明氏と、本書出版元の右文書院・三武義彦社長、それに私は30年来の仲間です。そのご縁で、三武氏と私は、宗像善樹・信子(咸臨丸軍艦奉行・木村摂津守ご子孫)ご夫妻と知遇を得、本書が右文書院からの出版となりました。三武氏は、自ら作品の隅々まで目を通す出版のプロで、小美濃氏や私も安心して世話になっています。
さて、ここでは、私が体験した宗像大社のご利益について触れます。
私の若い頃、本業(H化学)の製品説明と拡販、趣味の雑魚釣りを兼ねて、全国各地を出張巡回していた頃、Y電機をはじめ優良会社が目白押しの北九州地方にも度々出かけていました。都内から車で千キロ以上を夜から走り、週末現地着で余裕の時間を直方の遠賀(おんが)川、宗像町の釣(つり)川などで雑魚釣りで過ごします。その釣川の土手には約三百本の桜並木が咲き誇り、その川沿いに宗像大社の広大な敷地があります。占いに凝って、神社とみれば「祐気取り」で参拝する癖のある私が、軽い気持ちで立ち寄った神社が「宗像大社」でした。その翌日、黒崎のM金属を訪問した時、私の名刺を見た社長が「姓名判断」で私を占い、私も占いが好きだと知ると大いに歓待して頂き、指示通り翌日もお伺いすると、商談も上限でまとまり、改名の名まで頂き、いま使用中の名もそれです。その後の私の人生は紆余曲折はあれどほぼ順調、交通安全以外にも事業運など全てが上昇しました。これもひとえに宗像大社のご利益と信じます。
以上から著者と読者、本書に拘わった関係者全員が宗像大社の恩恵とご利益に預かって幸多き今後をお約束して、あとがきとします。
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しかし、私は、宗像大社の話になっると、何となく言葉に詰まります。
理由は? 実は、宗像神社がかくも世界文化遺産になるほど凄いとは全く知らなかったからです。
私は九州の河川でしたら、北九州の遠賀川から宮崎県の五ケ瀬川まで釣り歩いていますが海釣りはしません。
今は大鮎専門ですから毎年、熊本県の球磨川以外は行きませんが、この当時は雑魚(オイカワ、ウグイ、アマゴ等)釣りで、旅行中は釣ってすぐ放流ですから魚体も傷みません。
遠賀川から宗像町(今は市)は隣町ですから車で20分の至近距離にあり、どちらも魚影は濃く、けっこう楽しめました。
この話は、初めて私が宗像市(当時は宗像町)を訪れた時のことです。
当時の私は、気学の生かじりで「祐気取り」気分で、釣場近くに神社があると柏手を打って「よく釣れますように」でした。
遠賀川では伊豆神社か八幡神社、釣川にきたらまず地元の神社に詣でねばなりません。よく釣れる場所はかなり上流でした。
たまたま出会った地元の人に「この辺で神社は?」と尋ねると「左岸の道を8キロほど下ると宗像大社が見える」とのことでした。
川沿いに5キロほど降ってやっと神社が見えましたので参拝をして、また上流に戻って夕方まで釣りです。
泊りは、翌日の関係で黒崎の宿を予約してありましたから、そこで宿の番頭に宗像まで行った話をしたら大社の話題が出ました。
そこで、参拝をしたと言ったのですが話が噛みあいません。どうも、私の参拝したのは違う神社だったようです。
その時、初めて宗像三女神の話も聞いたような気もしますが、すっかり忘れていました。
ともあれ、その翌日は仕事であちこち電話連絡後の訪問でしたが、どこへ行っても商談がまとまらず、絶不調でした。
がっかりして宿の夕食後、番頭に聞いた宗像大社を拝むべく、気晴らしのドライブです。三原松原を右に見て鐘岬まで出て、西に傾く夕日に照らされる玄界灘の雄大な景色の中に浮かぶ大島などを眺め、番頭に教わった通り、松原海岸沿いに車を西に走らせて、釣川河口の橋を渡って左折して川沿いに数分、やがて、宗像大社らしき鬱蒼とした森に囲まれた神社を見つけました。とりあえず南側の正門側に廻って、がらんとした駐車場に車をおいて駆け込み参拝です。月曜でしたから人影もなく売店も閉まっていましたが、鳥居を二つくぐって池越えの橋を渡って門を潜ると本殿でした。そこで、とりあえず参拝はしましたが、遠い昔のことで記憶もあいまいですが大きな神社でした。
ついでに前日参拝した神社にも寄ってきました。なんと宗像大社とすぐ近くで「宗像護国神社」、立派な神社で、私が間違えるのも無理ありません。
宗像大社参拝の翌日からは「あとがき」に書いた通り絶好調、それから半世紀、ご利益の有効期限はとうに切れています。
皐月の空の下
五月はさつき、本来は陰暦の5月を皐月と呼ぶのですが、今は新暦の5月も皐月です。
皐月といえば、ツツジ科のサツキツツジのことをいう場合もあります。
皐月は、新緑の渓流沿いの岩肌などで見かける紫がかった淡紅色の可憐な花で、山奥の渓流にいる緊張感を和らげてくれます。
さらに、皐月といえば「皐月賞」・・・私のように馬に縁のない人でも頭に浮かびます。
第77回皐月賞は、去る4月16日、中山競馬場で芝2000メートルで行われました。
1着賞金の1億円は、9番人気のアルアインが初G1レース制覇で獲得、馬はお金の使い道を知りませんから、G11冠目を制した松山弘平騎手(27)や池江調教師や馬主さん(複数)など関係者で山分け・・・他人のことはどうでもいいです。
競馬ついでにもう一つ。
4月30日(日)の天皇賞・春のレースは、本命人気のキタサンブラックが最速レコードで連覇です。
京都競馬場での3200メートルは、競走馬にとっては長い距離ですから、先行しての逃げ切りはまず無理です。
この日は17頭での出走でしたが、武豊騎手騎乗の1番人気キタサンブラックが完勝して、現役最強馬を証明しました。
これは、史上4頭目の連覇という快挙で、G1レース5勝目で獲得賞金は13億円超というから驚きます。
しかも、勝ち時計は3分12秒5で、11年前にディープインパクトが出した驚異的な記録をさらに0秒9上回っています。
武豊騎手も史上初の同一G1・8勝ですから「平成の盾男」と言われるだけの存在感を十二分に見せつけました。
馬主の北島三郎さんのご機嫌な笑顔も印象的でした。
つぎは、この5月28日(日)、東京競馬場で第84回日本ダービーですね。
18頭出馬で1着賞金は2億円・・・もちろん、私には何の関りもありません。
五月は「さつき、」、「五月晴れ」も「五月みどり」も「さつき」が正解ですね。
さて、この五月(さつき)の空の下、3日からの5連休をいかがお過ごしですか?
もっとも、先週から9連休の方も多く、海外に出掛ける方は約60万人とか、多いのに感心します。
私も、もっと若い頃は、大型連休と言えば長期旅行も出来ましたが今はもっぱら自宅待機です。
子供4人、孫6人が各家族ぐるみで出入りし、我が家が拠点になるからです。
その兆候は早くも29,30日の週末からすでに始まっていて、早速孫連れでアウトドアーです。
まずは、埼玉県加須市内を流れる中川という小河川の芦茂る岸辺からの小魚釣りです。
ところが、息子の釣り竿がいきなり弓なりに曲がって、そのままハリスがプツンです。
多分、40センチ級の野鯉がいるのは、跳ねをみて知っていましたが、仕掛けがありません。
この日は小魚釣りが目的でしたから、大物は迷惑だったのです。
それでも30センチ近いウグイを頭に、大いに雑魚釣り、虫取り、蝶々収集など目的は達しています。
1日(月)2日(火)は仕事場で束の間の息抜き仕事です。
3日(水)からは、地獄か極楽か、どちらかの5日間が待っています。
近藤勇150回忌&新選組藷隊士供養祭
平成29年4月23日(日)
この日は、近藤勇150回忌および新選組藷隊士供養祭でした。
近藤勇の命日は4月25日で、毎年、それに近い日曜日に行っています。
場所は例年通りのJR板橋駅東口駅前の寿徳寺墓地、今年は満員の人だかりでした。
桜が散っても近くに八重桜が咲き誇る季節で、今日は快晴で爽やかな一日でした。
墓所が何となく明るいので聞くと、墓所にあった桜の大木を倒したとのことです。
桜の枝が電線に掛かって強風の日など危険と役所から注意されたのと、枯れてきたのもあってのご住職の決断です。
その桜の木で作られた腕輪数珠が、ご住職から、交流会出席の関係者にプレゼントされました。
交流会は、供養祭の前に近くのレストランを借り切って行われました。
今年は近藤勇忌150回という節目で、出席者も多士済々、初めてお会いする方もいました。
近藤勇を逮捕した薩摩藩士・有馬藤太のご子孫が助命歎願の口添えをした話や、近藤勇の斬首役・横倉喜三次のご子孫の、介添え報酬5両を故郷の岐阜揖斐(いび)で近藤勇追悼法事を行ったことなど興味深い話が次々に出て、有意義なひと時でした。
写真の短刀は、寿徳寺が寺宝として保存しているものを交流会で公開したものです。
寿徳寺・新井京誉住職(写真)の説明では、近藤勇所持の短刀で、サメ皮覆った柄、朱塗りの鞘で、刀身は「備州長船祐定(ぴしゅ
うおさふねすけきだ)」作とあり、作成日は「永正十年八月日」・・・織田信長の時代の作ですから古刀の部類に入ります。
関係者一同の記念写真・・・こんな大勢、初めてです。
故・小川宏さん、お別れ会
4月16日(日)、久し振りにフジテレビに行って参りました。
と、いっても出演ではありません。
故小川宏さんのお別れ会が本社18階で行われたのです。
昨年の11月に逝去された小川さんが、家族葬だったことで親しい仲間が気を揉んでいました。
そこで、かつての仲間が音頭をとって故人のご家族共々お別れの会を企画したものです。
小川さんは『春の小川』とか『コメの味』とか言われて誰からも愛され親しまれた昭和を代表する名司会者&アナウンサーでした。
この日は、(1)番組に関係した方々、(2)小川さんとお酒を楽しく呑んだ人たち、(3)親交があった親しい人達が80人以上も集まりました。
私は、そのどれにも絡んでいますが、ご家族とも親しくさせて頂いています。
小川さんの娘さんの結婚式にも招かれていて、お孫さんの命名は私が引き受けていました。
ただ、この日の集まりは昔の仕事仲間が主体ですから、老人会そのもので、若い人はお孫さん、曾孫さんぐらいでした。
それでも、皆さん、35年以上も昔のことを懐かしく語り、大いに小川さんとの想い出を語りました。
日枝会長も当時は局長でしたし、小川さんの助手を勤めた局アナの露木茂さんもすっかり老人になっていました。
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その点、女性陣はまだそれなりに華やかさを身につけていて、木本教子、芳村真理、藤田弓子、加賀富美子、松村真美子、浜美枝さんなどアシスタント軍はまだまだ健在、やはり女性は強い、とここでも実感しました。
小川さんの肖像画は、風刺漫画で一世を風靡した故近藤日出造画伯が、「日本の130人」の中に小川さんを含めて描いたものです。
この複写画を縮小して額入りにしたものも今日のお土産に入っていました。
私が「小川宏ショー」出演の昭和51、2年頃のフジテレビは新宿区河田町にあって「視聴率3冠王」とかで活気に溢れていました。
その後は「3時のあなた」のてこ入れで、小川宏ショーとは離れましたが、人脈はいまも続きいています。
この「お休み処」で開運&心霊スポットを開いた小林永周講師は当時の名プロデューサーで、今では日本の心霊研究の第一人者です。
ともあれ、これで安心して故人のご冥福を祈ることができます。
フジテレビ本社18階から眺めた風景です。