投稿者「花見 正樹」のアーカイブ

優勝おめでとう!


 今日はまず、平昌五輪での羽生結弦選手の連覇を讃えたいと思います。
11月の練習中に発生した大怪我からの奇蹟的な復帰は、医師やコーチなどスタッフに恵まれたこともあるかと思いますが、まず何よりも己に勝つための克己心がいかに強いかという心の強さにあるように感じました。どのような競技にしろ、一度でも勝負の世界で自分の力を試したことがある者なら、その舞台の大小は別にして、勝利の喜びや快感、敗北の悔しさや自責の念、挫折感など様々な修羅場での経験んで喜怒哀楽を味わっているはずです。
そして今、82歳の私は挫折だらけだった我が青春を省みながら、心からなる拍手でこの若者の偉業を讃えています。
しかも、温厚そうな笑顔の奥に見え隠れする負けん気の強さと王者のプライド、これにも脱帽です。
身体的素質と技術的な努力や科学的なトレーニングで、世界の一流選手はある程度までは高いレベルで拮抗するはずです。
しかし、そこから一歩抜け出すための血の滲む努力や精神力・・・この人事を超えた部分に勝利の女神の微笑みが隠されているのです。それを知っていても、人は誰でも怠惰に負けて涙を呑む結果に甘んじて悔しい思いで負け犬の遠吠えを繰り返します。
いや、負け犬の経験があればこそこの素晴らしい神の子の奇蹟に近い大勝利を素直に祝福できるような気もします。
しかも、冬季五輪フィギュアスケート2大会連続の金メダルだけに、羽生選手の出身地でもある仙台など東日本大震災の被災地では「パワーをもらった」との感動と感謝の声が大きく広がっているようで、嬉しい限りです。

暫くの辛抱・・・


今日は健康についての摩訶不思議です。
私は長年に渉ってbv病気知らずの医者要らずで、健康には絶対の自信を持っていました。
ところが、母が逝って葬儀を終えたとたん、崩れるように一気に体調不良に陥ったのです。
知人からは「気が緩むから」と忠告を受けていたのですが、今までも緊張していたとも思えません。
奥歯が折れる、頭痛、発熱、筋肉痛、食欲不振、倦怠感、その程度ですから医者にいくほどではありません。
そこで、ふと気づいたことがあります。
いま私は、納骨と50日祭の3月4日までの間、母の遺骨と一緒に暮らしています。—–
毎朝、水と軽い食事を供えて手を合わせて冥福を祈っていますが、母が私を共連れにしたいのかも知れません。
母は、男兄弟5人のうちで次男の私を頼りにして生きてきました。
私もまた、その役割が苦ではなく、むしろ母と過ごす日々は楽しみでもありました。
そう考えると、母はまだ成仏しきれずに私を誘っていると考えてもおかしくはありません。
ならば、成り行きに任せてみるのが一番、私はもう「生と死」どちらでもいい気分です。これは、本音ではないのですが、私の悪い癖で、体調不良の時はいつも投げやりになって自分を追い詰めているのです。
今日の23月12日(月)は、兄弟集まっての「母を見送る会」で、これで納骨の日までは集りはありません。
納骨まであと3週間、そこまでの辛抱・・・とか自分に言い聞かせて久し振りの体調不良を装って仮病を楽しんでいます。

立春大吉。


 今日、2月4日(日)は立春、旧暦ではこの日が1年のスタートとなります。
いわば、今日から「九紫火星・戊戌(つちのえいぬ)年が始まるのです。
ところで、昨夜は豆撒きしましたか?
節分には豆を撒いて邪気(邪鬼)を払う風習がありますが、いかがでしたか?
我が家では、節分の夜には毎年、次女の差し入れの「一陽来福」の御札を丸めて居間の隅上部に、その年の吉方位である恵方(あきのかた)に向けて貼ります。今年の恵方は南南東です。
最近では関東でも、恵方巻寿司が流行ってきましたが、女性があれを頬ばっている図は何とも言いようがありません。
では、今日の立春にすべきことは、小さく手書きでもいいですから、縦書きの「立春大吉」の札を玄関の裏表に貼るのです。
最近ではこれも「決まり事」になりつつありますが、私が若い頃通っていた禅寺では昔からの風習だそうです。
なぜ節分の翌日に「立春大吉」の札を玄関の裏表に貼るかというと、この4文字を縦書きにすると、左右対称ですから表からでも裏からでも「立春大吉」です。
節分の夜に、我が物顔に居座っていた家から追い出された邪鬼が、「立春大吉」の札を眺めながら家に舞い戻ってきます。でも、家に入っても玄関ドアの裏に貼られた「立春大吉」の札を見て、「あれ? こいつは表だ」って慌てて外に出て行く、と聞いたことがあります。 ま、そんなことはどうでも、これは昔からの風習です。我が家は玄関に貼っていますが、どこでも貼っておけばいいだけで、これで1年中、幸せな気分でいられます。
これは、昔からの立春大吉縁起ですが、恵方巻縁起同様、どうでもいいことです。
なにはともあれ「立春」ですから、太陽黄経が315度のところに来た瞬間からで、今年は4日早朝の6時28分でした。
天文学ではその瞬間を立春とする定めになっていますが、毎年、すこしづつづれがありますから、数年に一度は立春が3日だったり、5日だったりすることもありますが、4年に一度リセットしますので大きくは狂いません。
占いでは平均節入り日として、2月4日の午前0時からを新年としています。
さて私事ですが、母が他界して半月、まだ、近くにいるような気がしてなりません。気を感じるのです。きっと、身近にお骨が置いてあるせいかも知れません。いまは毎朝水を上げて、位牌とお骨に手を合わせ、安心成仏を念じています。
それにしても、冬が極まり春の気が立ち始める「立春」なのにまだまだ寒さが続きます。お互いに健康第一で、風邪にも注意して明るく元気に新年度を積極果敢に楽しく過ごしましょう。
春の盛りに咲く桜でさえ今日から毎日の最高気温の合計が540度になれば、否応なしに咲く・・・春は近いのです。

長寿の実践


 

 先日、母の臨終に立ち会って、つくづく長寿での老衰死こそ人生の理想であることを悟りました。
たまたま95歳で命尽きかけた要介護度5で寝た切り重病の母を、我が家に引き取って、長寿法の一部応用で介護した結果、杖なしでも歩ける要介護度1までに回復しました。つい3ケ月前までは元気で外出も楽しんでいましたが、これが限界だったようです。
男5人の子育てで苦労を重ねて95歳で力尽きたかに見えた母が、元気を取り戻して幸せの絶頂での老衰死、どんでん返しの連続です。
杖なしでも歩ける痴ほう症なしの要介護度1のまま、103歳と5ケ月での老衰死、これではお目出度くて涙も出ません。
確かに誰がどうみても赤飯炊いてのお祝いごとなのですが、私は母の寿命は105歳と思い込んでいただけに残念です。
私が本気で長寿の研究を始めたのは昭和57年からです。
厚生省の人口調査で昭和57年度の満100歳は1680人で、まだ100歳は珍しい時代でした。
その調査研究を大義に厚生省から100歳の長寿者リストを頂き、早速、取材やアンケート調査を始めました。
取材の対象は、100歳超えても歩ける人で杖はOK、車イス使用は除外しました。
その結果、かなり対象者は絞られましたが、それでも約200人の高齢者からの解答を得ることが出来ました。
この調査申し込みには、どちらのご家族も喜んで対応して頂きましたが、これも長寿は人生の勲章と誇りだからこその現象です。
私は、20代の後半から運勢学に興味を持ち、浅く広く西洋も東洋もなく学び、それをいいところ取りをして実践して参りました。
25歳時に無一文で独立開業した花見化学も零細企業ではありますが、半世紀を超えて生き延びています。
この長寿の秘訣を活用してきた私自身も、男性の平均寿命を超えた82歳で医者いらず、今年も激流の大鮎釣りに挑戦します。
健康で長寿の人生を楽しむには、いくつかの条件があります。
1、ストレスが少なく毎日が楽しいこと。
1、金銭的な心配がないこと。
1、体が健康であること。
1、死後の遺族の心配がないこと。
1、家族を含めて周囲の人間関係に恵まれていること。
1、食事がおいしいこと。
全てがこの通りにはなりませんが、これに近づくのが長寿道です。

母も私も、これに近いづいていたからこそ長寿を楽しめたのです。
だからといって、今の私が得意げに長寿の秘訣を語るのは気がひけます。
せめて、100歳まで現役で仕事が出来たら、私が実行中の長寿法を本にします。
文芸春秋社元社長のTさんは、私に「介護の本を書け」とうるさいのですが母を材料に印税稼ぎは性に合いません。
書くなら小説、新たなペンネームも考えました。これなら母も草葉の陰から応援してくれるはずです。

母の大往生  花見正樹


母はこの1月17日(水)お昼時の12時29分、103歳5ケ月の波乱の人生をおだやかに閉じました。
病院からの電話で、母が入院中の加須市の大久保病院に着いて私が手を握ると、母は力なく握り返したまま息を引き取りました。
痛みも苦しみもない穏やかな表情で静かな中にも見事な大往生でした。
医師の書いた死亡診断書には理想の死である「老衰」とあります。
病気のデパートのような母が「なぜ?」と聞きますと医師の答えは明快でした。
心筋症も肺欠陥も肝臓ガンも死には至らず死因は、食事も水も喉を通らなくなって死に至る「老衰」だそうです。
この老衰こそが人間の理想的なの状態で、恍惚となった状態で死に至るそうです。
しかし、つい3ケ月前までは杖なしでも歩ける要介護度1からの急な老衰死ですから、私には納得できません。
昨年の10月下旬、突然の尿感染症で39・1度の高熱で南栗橋の済生会病院に緊急入院、それが癒えて12月4日には療養型施設のある前述の大久保病院に転院するはずでした。ところがその転院日12月4日の朝、また39度を超える急の発熱で転院は取りやめ、それどころかほぼ危篤状態なのです。
主治医は慌てて原因究明に乗り出しました。
なにしろ、尿感染症は治っているのですから高熱の原因は他にあるのです。
そこで、肝臓ガンが発見され、そのために胆管閉塞で担汁の流れずに発熱に至ったと分かったのです。
主治医の言葉によると、このままだと母は確実に年内に亡くなります。
担管に管を広げるプラスチックパイプを挿入する手術をして溜まっている担汁を流せば発熱の原因は失せ一命はとりとめます。ただし108歳の高齢でもあり高熱で奪われた体に、口から管を入れる難手術に絶えるだけの体力が残っているのか疑問だと主治医はいいます。
しかも、私達兄弟の意思統一で母が苦しむような延命処置はしない、との話し合いが出来ています。
そこで、すぐ主治医からの紹介で実際にその手術を施行する内科医に会って説明を受けました。
その医師はきっぱり、「お任せください」です。そこで私の腹は決まりました。
形式として、家族の了解で万が一の時は医師に責任はない、との書類に捺印し、その日のうちに手術は行われました。
手術室から戻った母は痩せ衰えた蒼白な顔でぐったり死んだように眠り、声をかけても返事がありません。
その日は、なかば諦めましたが、翌日はこちらが驚くほどに元気を取り戻していました。
その後、再度の転院届けが認められて無事に12月20日に加須市の大久保病院に転院しました。
新天地に移って母は食欲を取り戻し、好物のカキイモ、ミカンを美味しそうに食べました。
そこで迎えたクリスマスでは、見舞に行った姪家族と一緒に車イスで、病院主催のパーティに出て皆さんと一緒に歌を歌いケーキを食べ、おおいに楽しそうだったと看護師さんからも聞きました。
その日を境に母は一日一日衰え、永眠する数日前からはお粥も喉を通らず水も飲めなくなっていました。
その様子で母の死期を悟った私は、母の亡くなる数日前に兄弟で予定した斎場を訪れ、大まかな打ち合わせをしました。
したがって、心準備が出来た上での母の穏やかな他界ですから、私自身も穏やかなのです。
なお、私が母の手術や危篤寸前の状態で病院や医師に提出した誓約書への署名捺印は5通、これもかなりの記録だと思います。
母が40代だった市川市国府台病院でのかなりの重症だった子宮ガン手術、松戸市一条病院での闘病時、南栗橋済生会病院入院時、同胆管手術、加須市大久保病院入院時、この5回の死の壁を見事に乗り切っての老衰死・・・私の手モミも多少は効果があったとしても母のすごさに言葉もありません。
と、通夜の挨拶で私が語りそうなことをここで書いてみました。
なお、火葬場が混雑していて葬儀が伸び、遺体は斎場の霊安室にあり、連日兄弟身内が交替で出入りして賑やかです。
葬儀は兄弟身内の家族葬で22日通夜、23日が本葬、喪主としてそれを終えたら一人で泣きます。

仕事を始めました。


 正月もはや7日、松飾りも取れ明日の成人の日が過ぎれば仕事も平常に戻ります。私は4日に岩手テレビの初仕事で盛岡、5日は花見化学、6日はいつもの山口放送ラジオの持ち番組でフル回転です。


なのに、何だか気合が入っていない感じでもどかしいのです。
本来なら、初詣から張り切ってスタートするのですが今年は少々違います。
昨年の10月に体調を崩して入院した母が、正月までは無理という医師の診断を裏切って年を越しました。
なんだか、これだけでホッとしてしまい気が抜けた感じで正月を過ごしたのです。母は、すでに食欲はなく点滴だけで命をつないでいる状態ですが意識はしっかりしています。
殆どの親戚身内は暮れのうちにお別れ見舞いを済ませていますから、母も気づいています。
私が差し出したミカンの人房を美味しそうにしゃぶりながら淡々と言います。
「なかなかお迎えが来ないねえ?」
私は「あと2,3年は来ないから長生きしちゃおう」と、もう何年もこれが口癖です。
今年の我が家の正月は悲喜こもごも、運命の女神は微笑むのか悲しむのか?
次女の長女が婚約者同伴で、父母より先に祖父母宅への来訪です。
結婚式も近く若い二人は輝いていて、家の中が明るくなります。
しかし、我が家の正月はいいことばかりではありません。
母の死が近いだけでなく、一番上の孫(長女の長女)が腫瘍の手術で入院中、いまは退院待ちです。
母は103歳で人生の元はとりましたが、孫の人生はこれからです。
こんな我が家ですから、私の初詣では、家族や周囲の人たちの健康安泰祈願、これだけです。

初詣も例年通り、近所の神社で淡々と済ませました。
私の今年の抱負? こればかりは例年と何も変わりません。
もの書き、弟子づくり、大鮎釣り・・・今年もこの三本柱で楽しみます。

明けましておめでとうございます。


 

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。

平成30年元旦
花見 正樹

2018年、平成30年は「九紫火星戊戌(つちのえいぬ)戌」年、
万人共通の吉方位「恵方・あきの方」は「南南東」です。
本年の「九紫火星」は華やかさと闘争心、「つちのえ」は我慢強さ、「いぬ」は堅実
・几帳面を意味します。
したがって本年は、派手な言動や争いごとを避け、堅実に努力を重ねた人に幸運の女
神が微笑みます。

つぎに、2018、平成30年を幸せに過ごす風水の極意です。
まず、金運、健康、仕事運をよくするために家屋内の清掃を心がけてください。
とくに、玄関、台所、トイレなどは清潔にしておくことが大切です。
玄関、台所、トイレの3ケ所が明るく清潔な家が幸運を招くのは当然ですが、さらに
健康、金運、対人関係を良くする風水もあります。
玄関には、鏡、絵画、赤色グッズ、赤い傘などがあれば人と幸運を呼び込みます。
台所は落ち着いた色で統一し、火伏札は別にして、火と水の凶相を和らげる木の質が
ポイントで、木鉢、一輪挿しなどがあれば完璧です。
トイレには、明るい絵やポスターなどですが、とくにオレンジ色、金色などの色彩が
ワンポイントでもあれば万全です。
では、本年の生まれ月占いです。

1月生まれ□小吉
「誠意の心で人に接して全てが円満」
ツキのあるのは12月、ラッキ-アイテムは「手帳」、
金運□小吉 仕事運△注意 愛情運◎大吉 健康運◎大吉
2月生まれ◎大吉
「公私共よき協力者を得て全て順調」
ツキのあるのは 5月、ラッキ-アイテムは「小銭入れ」、
金運□小吉 仕事運◎大吉 愛情運◎大吉 健康運□小吉
3月生まれ○中吉
「家族身内に嬉しい出来事が重なる」
ツキのあるのは10月、ラッキ-アイテムは「ブレスレッド」、
金運〇中吉 仕事運〇中吉 愛情運◎大吉 健康運□小吉
4月生まれ□小吉
「高い目標を目指して真っ直ぐ進む」
ツキのあるのは 2月、ラッキ-アイテムは「筆記具」、
金運◎大吉 仕事運〇中吉 愛情運□小吉 健康情△注意
5月生まれ〇中吉
「周囲に奉仕して自分も得る事多し」
ツキのあるのは 8月、ラッキ-アイテムは「時計」、
金運□小吉 仕事運◎大吉 愛情運〇中吉 健康運◎大吉
6月生まれ◎大吉
「NETで得た知識を仕事にも活用」
ツキのあるのは 1月、ラッキ-アイテムは「電子辞書」、
金運◎大吉 仕事運〇中吉 愛情運◎大吉 健康運□小吉
7月生まれ□小吉
「艱難辛苦で得た収穫は何より貴重」
ツキのあるのは 2月、ラッキ-アイテムは「携帯電話」、
金運△注意 仕事運□小吉 愛情運〇中吉 健康運◎大吉
8月生まれ〇中吉
「友人の助言が役立って好機生かす」
ツキのあるのは 3月 ラッキ-アイテムは「のど飴」、
金運◎大吉 仕事運△注意 愛情運〇中吉 健康運□小吉
9月生まれ〇中吉
「約束守って有言実行信頼が深まる」
ツキのあるのは12月、ラッキ-アイテムは「文庫本」、
金運〇中吉 仕事運□小吉 愛情運◎大吉 健康運△注意
10月生まれ◎大吉です。
「公私共順調心に余裕で海外旅行も」
ツキのあるのは 5月、ラッキ-アイテムは「デジカメ」、
金運□小吉 仕事運◎大吉 愛情運◎大吉 健康運〇中吉
11月生まれ□小吉
「新たな仕事や学び事で活路を開く」
ツキのあるのは4月、ラッキ-アイテムは「折り畳み傘」、
金運◎大吉 仕事運□小吉 愛情運〇中吉 健康運△注意
12月生まれ○中吉
「家族の喜びを大切にして家庭円満」
ツキのあるのは5月、ラッキ-アイテムは「キーホルダー」、
金運〇中吉 仕事運◎大吉 愛情運□小吉 健康運△注意
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では、本年一年元気でお過ごしください。
花見 正樹

解説(開運道会員用)
本年は12支でいう戌年、戌と相性のいい、寅年、午年生まれが「三合の吉」で大吉。
戌と同じ西の仲間の、申年、酉年、戌年生まれが「方合の吉」で小吉となります。
その反面、戌と反対側の東南に位置する辰年生まれが「対冲の凶」です。
戌と90度の関係にある丑と未が「破の注意」で要注意、あとはまずまずです。
これで相性や運勢をみています。
1月は丑月、2月は寅月、3月は卯月・・・となります。
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聖夜には「感謝」の一言。


この20日、母は無事に転院して新天地で生き返りつつあります。
私の賭けはどうやら成功したのかも知れません。
世の中、ジングルベルの音楽と歳末商戦でにぎやかですが、私はまだ年賀状も書いていません。
なんだかクリスマスイブという感覚もないまま24日も過ぎ去りつつある年の瀬です。
あと10日ほどで82歳になる隠居老人が、時間がないなんて、どこか間違っているに違いありません。
この間違いをどう糺すのかは自分次第、こおままでは・・・と思いつつも、どうにもならないでモガき続けているのです。
先日の木曜日、隠居仲間の忘年会でした。
私は、このまま隠居の飲み仲間と埋没するのを避けるために抵抗を試み、「今後は自分の時間をつくる。月、木だけを皆さんと一緒に」と宣言したのですが、そんなことにはお構いなしに、その翌日の金曜日には、その中の一人がお昼時に現れています。まったく、人の心とお金と時間だけは自分の思い通りにはなりません。
でもこの聖夜、にわか信者の私としてはこの1年を振り返って「感謝」の一言しか出てきません。
風邪一つひかない健康体でこの1年を乗り切り、死にかけた母も無事に死期を脱出じ快方に向かいつつあり、もはや言うことありません。
あと一週、今年はいい1念でした・・・こう言える大晦日を迎えたいものです。

母の抵抗


 

 木枯らしが電線を鳴らし街路樹の枯れ葉が乾いた音をたてて舗道を走る季節になりました。夏に深緑だった樹木から剥がされ、今は惨めな干からびた茶の病葉になって車に弾かれている光景を眺めると人の世の儚さが見えます。
人間の尊厳を守る理想の自然死は餓死です。食欲がなくなって何日か絶食し水も飲まなくなって枯れてゆき呼吸が止まるのです。
ところが現代の優れた医療は、年寄りでも体のどこかに潜む病気の種を見つけますから死因には必ず病名が付きます。
私の母は94歳で一度ほぼ死にました。それまで母の面倒を見てくれた兄嫁(兄は故人)も甥もギブアップで、身内家族がお別れ見舞いを済まし、医師からも最期を告げられ、応急処置などなんぞの時に医師には責任がない、という書面にも私がサインしました。以前、母が子宮ガンで緊急手術をした時も父が不在中で私がサインしましたから、この時が二度めのサインでした。
この時にどう魔がさしたのか母を我が家で死なせたいと私は考え、医師の承諾を得て自宅に引き取り、周囲や家族の協力もあって要介護度5が1になって奇跡的に元気に外出もできるまでになり、母は我が世の春を楽しんできました。
しかし、今回は高齢で高熱での入院ですから、今までとは状況が違います。
養護施設「元気村」にお世話になって、日頃は杖なしでも歩ける要介護度1の母が10月下旬、ついに39.1度の高熱で地元・埼玉県久喜市南栗橋のS病院に運ばれました。これで最後、誰もがそう思いました。病名は尿感染症です。
担当の若い主治医は韓国籍から帰化したエリート医師で100歳以上の患者を扱うのは初体験だそうで、死んだように高熱にうなされている母親を一目みて「もうダメ」という先入観を持ったのは表情や態度や言葉で分かります。
それからは母の嫌いなオムツですから母もどうやら周囲の気配から死期を感じた様子で食事には一切手をつけません。
どうやら、主治医の「食べないと死にますよ」のハッパに応じて死を選ぶ気持ちにもなっているかのようにも思えます。
私に呟いた言葉で「なかなkお迎えが来ないねえ」が気になります。それでいて私が持ち込む飲食物は少しづつ口にするのです。

ともあれ、点滴だけで命は持ちこたえますが体は一日一日痩せ衰えて衰弱して骨と皮で餓死寸前です。
その時、主治医が、これ以上は治療方法もないからと転院を勧めてくれました。
私も起死回生に転院を望んでいましたから、渡りに舟と紹介状をもらって行ってみたところ、そこは末期患者専門病院で、全員ベッドから起きられない口もきけない死を待つだけの重病者ばかりの病院で面会室もなくリハビリもありません。
速断でお断りして、すぐその足で隣接する加須市のリハビリ有りの療養型病院に行き、そこの内諾を得て主治医と再交渉し12月4日の転院が決まりました。
その前日、病院から緊急電話で98度の発熱で転院は中止・・・すぐ病院に駆けつけたところ熱は下がっていましたが、確かに体力はなさそうですから転院は無理だったのかも知れません。
主治医もまた慌てました。
なぜ急に高熱が出て、すぐ熱が下がったのか? その日は主治医と会えませんでしたが翌朝会うことになりました。
朝会うと、さすがにエリートですから冷静沈着に原因究明に母の精密検査を始めました、
その結果、協力を求められた内科の若い日本人医師が、母の胆のうと肝臓にガンがあり、そのガンが担管を圧迫して胆汁の流れが滞って高熱を発する原因になっていたことを突き止めてくれたのです。
主治医は、率直にガンの摘出は無理だが、胆管を広げる手術は出来る、ただし。口から管を通して手術しますので体力が耐えられるかどうかはギリギリのところで医師でも分からないのです、ここを家族が理解して手術をするかどうか決めてほしい、というのです。
私は母の緊急入院に際して、延命処置はしないという書類を出しています。
しかし、このような病いで高熱にうなされて死ぬのは自然死ではない、手術で失敗するかしないかは私の決断・・・そう思った時、内科の日本人医師が私の顔を見て微かに頷いたのです。この瞬間、私は「お願いします」とその医師に頭を下げました。
医師は、手術は早い方がいい、夜でも帰りに寄ってください」と言います。
夜、寄ってみると母はげっそりしていましたが目は死んでいませんでした。
夜勤担当の男性看護士F君が「手術は成功したみたいですよ」と言ってくれたので少し落ち着きました。
それから2週間、私が再び転院を試みて主治医も了承しました。
弟たち兄弟は今までの母親の経過をみて、今度はもうだめと見切って、弟や兄(故人)の身内はすでに、お別れ面会を済ましています。
あとは、私の通知待ちらしいのですが、私は相変わらず母親の手モミを欠かしませんし年賀状も出します。喪中ハガキは数年後、これは希望ではなく過去の経験と実践で培った勝負カンです。
もしも母がこれで延命したら恩人は、ガンを見つけてくれた若い韓国系主治医と、胆管拡張手術をしてくれた内科の日本人医師です。
私の親しい友人にも医師はいます。
しかし、普通の医者と違って病人を治すのではなく病人をつくらないのです。いわば病人で稼ぐ日本医師会の敵です。
その著書には「医者いらずの健康法」とか、現在このHPの私と同じ「お休み処」で「死に方格差社会」など医師らしからぬ著作が約30冊もある医師なのです。しかも某医科大学の相撲部総監督で、アントニオ猪木率いる新日本プロレスのコミッションドクターなどの経歴の持ち主です。
なにしろ、相撲協会の役員を務めたことのある元関脇の舛田山(現常盤山親方)が学生時代に勝てなかったと私にボヤいたぐらいの強者(つわもの)が、その著書だけでなく本気でアドバイスしてくれますから私はますます病院には近づきません。
万が一、ガンだの糖尿病だの前立腺だのだけでなく、痴ほう症まで見つかったら「ガーン!」と頭をハンマーで叩かれたように目から火が出て人生に希望を失うのは目に見えています。だから病院にも歯医者にも行きませんので健康なのです。+
以上、死にたい願望らしい母の抵抗に逆らって手術や転院を試みる私の賭けが勝つかどうか?
私の提唱する手相・手もみが役立つのか?
母の正月をどう祝えるか?
まずは無事に転院できるかどうか? これからが楽しみです。

賭けに出ます。


師走に入ると頬に吹く風が急に冷たく感じます。
まさか11月末と急に変わるわけはありませんが多分、心理的な季節感の影響だと思います。
師走=冬・・・こんな図式で考えると、モンゴル力士=暴力力士も似たようなものに思えるから不思議です。
今までの情報によると、日馬富士は巡業相撲開催中の10月下旬、鳥取市内の飲食店でモンゴル出身力士同士の飲み会で、先輩に対する態度が悪いと、スマホをいじっていた貴ノ岩を叱責、それに口答えしたため激高して暴力を振るってケガをさせました。
私が最初、相撲関係者から聞いたのはビール瓶からでしたが、いつの間にか平手で約30発、マイクで数発となっていて、一番の凶器で犯罪性の高いビール瓶はどこかに消えてしまいました。凶器がビール瓶だとしたら日馬富士の傷害罪での逮捕は間違いありません。

鳥取警察は、貴乃花親方の訴えで事情聴取はしましたが逮捕はしませんでした。これが、一般の人であれば傷害罪で即逮捕というケースです。
日馬富士の酒癖の悪さは角界では有名で、礼儀作法や相撲道とは縁遠いモンゴル力士同士ですから命に別条なかっただけでホッとします。
それにしても、この事件を通してみても力士の体力がいかに人間離れしているかがよく分かります。
なにしろ、貴ノ岩の診断書には「脳しんとう、左前頭部裂傷、右外耳道炎、右中頭蓋底骨折、髄液漏れ」などの疑いがあり、一般人なら即死か重傷なのに、貴ノ岩はこれでも全治2週間程度の軽傷らしいのです。
さて、この体重100キロを超す力士と比べるのも変ですが、骨と皮と少しの水分だけで20数キロの母と韓国人主治医の場合です。
図式は、私+母対主治医ですが、103歳の母の死を確信している主治医が勝つとは決まっていないのが、この勝負の面白いところです。
ことの始まりは、杖なしでも歩ける要介護度1の母が、お世話になっている高齢者施設で39.1度の高熱で倒れ、救急車で施設近くの救急病院に運び込まれたことから戦いが始まります。
築地で仕事中の私が病院の救急治療室に入った時はもう母の意識は遙かな天空に飛んでいるような状況でした。
しかし、私はあわてません。こんな母に何度も騙されてきたからです。
病名は尿感染症、軽い心筋梗塞、それに肺に大量の水が溜まっていることも分かりました。
入院するまでは、着替えもトイレも一人で出来ていた母が、大っ嫌いなオシメでの寝たきり生活が始り、病院食も嫌いで食べません。
100歳以上の患者をもった若いエリート男性主治医に、母のデリケートな羞恥心とかプライドは絶対に分からないと思います。
主治医が退院先に紹介してくれた病院にお伺いしたところ、その病院は末期患者だけで全員寝たきりでリハビリもなく面会室もありません。たしかに母は末期かも知れません。久し振りに見まいに来た弟達は母の病状をみて「いよいよ大往生」と赤飯でも炊くように長命を祝って身内のあちこちに「今のうちに顔を見ておくように」と早まったお知らせをしています。
しかし、私からみればまだ生きられるのですから、そうはさせません。リハビリさえ出来ればまだ歩けます。
そこで私は賭けに出ました。療養施設のある病院への転院です。それが明日4日(月)です。
ところが邪魔がはいりました。1日(金)の夕方、母が39度の発熱で転院は延期との電話です。その時、私は築地でしたが病院まで2時間、着いてすぐ看護師に熱を測って貰ったら母の熱は36度、主治医はもう帰宅していません。
看護師さんも、いつ熱が下がったのか怪訝な表情でした。
明日の4日(月)、朝から病院で主治医と会って話し合いますが、もう幾らももたない、と確信する主治医と、要介護度5の瀕死状態から我が家に引きとって要介護度1まで戻した私の介護力との103歳母を巡っての真剣勝負の始まりです。大相撲からみれば全く微小で個人的な話ですが・・・