4月の第一週土曜日、東京の桜は満開です。
昨年の第一週は隅田川堤の桜も上野も5分咲きでしたから、寒い日が続いても、やはり一年一年ゆっくりと地球温暖化の波が押し寄せている感じですね。
桜の名所は、全国津々浦々にいたるまであり、人それぞれが自分の住む土地の桜の名所を日本一だと言い張って譲りません。とくに、桜並木が似合う川岸はどこでも桜を眺めての散歩には最適です。隅田川、目黒川、多摩川、河津川、桂川と川の大小に関係なく川と桜はがっちりとタッグを組んでいい関係を保っています。 そこに割って入るのが古城です。
松風さわぐ丘の上・・・と松も似合いますが、春はやはり桜です。
城と桜はよく似合います。江戸城(皇居)、名古屋城、小田原城、弘前城、岡崎城、熊本城、大阪城、若松城、高知城、姫路城・・・城の名を並べるだけで桜を思い出しますし、皇居西北の千鳥が淵など見事な桜で、夜のデートコースなどには最適です。ま、私には関係ありませんが・・・でも、川、城に次いで神社仏閣も黙ってはいません。九段の靖国神社など東京での桜の開花宣言の大元ですから城も川も敵いません。京都八坂神社、清水寺をはじめ全国の神社仏閣の名前を言えば、ほとんどが桜の名所です。なかには、桜より梅で知られる神社もありますが、あれは、昔、梅の実で収益を上げた名残りだとする説もあります。 川、城、神社仏閣、これらが花の名所として名だたるところですが、さらに隠れた名所があります。それはお墓です。 墓地には意外にいい桜が多いものです。青山霊園、多摩墓地などの他に、いくらでも桜のきれいな墓地があります。とくに草木も眠る丑三つどきなどに、男一人で夜桜見物などもしゃれたものです。いつの間にか、隣に手をだらりと下げた着物姿の女の人が足音もなく近寄ってきて、肩を並べて夜桜見物をしているかも知れません。足音がないのは足がないからですが、細かいことは気にしないでください。
と、今年も桜について語りましたが、毎週土曜日は26年以上続くラジオでも、桜の話しをしました。
私の好きな桜の三大名所のことです。
まず、私の好きな桜の第3位は、高遠城の桜です。 兜山城の別名をもつ高遠城は古来より桜の名所として知られています。
戦国時代から国境の拠点として重要視され、諏訪氏一族の内乱から武田氏が奪って岐阜・伊那への守りとします。ところが、天正10年(1582)年2月、織田信長の武田攻めで、長男の織田信忠が5万の大軍をもって高遠城を攻めます。高遠城に籠もる3千の武田軍は必死に戦いますが衆寡敵せず血みどろの戦いの末に守備兵は全滅します。
その時の武田軍の怨念が血色の桜の花の色を鮮やかな赤に染めて、今もなを城を囲む全山を血の色に染めて城を守っています。それは見事な桜です。
2番目は、合掌造りで知られる白川村上流の岐阜県高山市の山奥にある御母衣(みぼろ)ダムの畔にある樹齢450年という2本の見事な庄川桜です。一般に古い桜は花が少ないといわれますが、この庄川桜は並の桜よりいくらか赤みが強く、思わず息を呑むほどの華やかな花を咲かせます。若いころの私は行動的でしたから、渓流釣りを兼ねてどこにでも出掛けました。
ただし、この御母衣ダムの桜だけは釣りとも関係なく、土地の人(性別不問)との約束で何年か、信州側から残雪が残る険しい崖道を超えて満開の桜を見に通った思い出があります。この桜は、ダムの湖底に沈んだ村の神社の境内にあった由緒ある桜で、泣く泣く村を去った村人の強い希望から移されたもので40トンもある巨木を山の上まで運ぶのは大変な作業だったそうです。今は毎年、水没した村から各地に散った村人は、桜の季節になるとごく自然に集まって親戚や知人の家に泊ったりして、それぞれが持ち寄った酒肴と歌や舞やお喋りで、しばしの宴を楽しみ、桜の散るのを見てから三々五々、別れを惜しみながらまた散ってゆきます。
その庄川桜の散り際の見事さは執筆を生業の一つにする私でも筆舌には表せません。なにしろ、風に乗った花びらが見るみる間に湖面を朱に染めてゆくのですから、それは素晴らしい光景です。私は岐阜の奥に行くと、白川村を世界遺産にした元村長のT氏の家や、高山市内の知人の浄土真宗の古寺などに泊っていましたが、白川村のT氏の場合は、村長時代の部下の教育長に村長選で数表差で敗れています。私は、その元教育長(現村長)から小説の素材として膨大な郷土史の資料を預かったまま、です。まだ、それを小説にしていない不義理から今は行けませんが、いずれ、貴重な資料を生かしての小説を書きあげたら堂々とお邪魔するつもりです。
さて、私の一番の桜・・・それは、家の近所の公園の桜です。
誰もいない小さな公園のちびた木のベンチに坐って、一人占めでまぶしいほどひっそりと孤高に咲く桜を眺めます。 そして密かに想像を深めていたりします。
新撰組を書き始めた私にとって、いまや土方歳三は血肉を分け兄弟のような存在ですが、京都のあちこちに咲く満開の桜を見て、歳三は何を思ったか? と、考えます。
豪農の出の薬の行商から京都に上って、尊皇攘夷と称して商家町屋に乱暴狼藉を働く西国雄藩の脱藩浪士らを、恐怖のどん底に陥れた剣の名手も、満開の桜を眺めるときだけは別人のようにおだやかな気持ちに戻るのだろうか? とも考えます。
すると、私と違って、ガキの頃からモテていた歳三は、書き手の私を馬鹿にしたような含み笑いをしてこう言います。
「わしは、おぬしと違って、一人で花見などせんよ」
なるほど、ごもっともです。
歳三の家に近い戸塚村の三味線屋にお琴という娘がいます。
お琴は、歳三が江戸小伝馬町の呉服屋に奉公を、女中を孕ませてクビになったことなど知りませんから、歳三の義兄の佐藤彦五郎の紹介で知り合ったとたんに歳三に夢中になります。
そこで、身持ちの悪い歳三にも所帯を持たせれば何とかなるだろうと周囲が考えて結婚を急がせます。もちろん、お琴は大賛成です。ところが歳三は生意気にも一句ひねります。
「志れば迷ひ 志なければ迷はぬ恋の道」
季句もない下手な句ですが、歳三は真剣に迷ったのです。
自分はこのまま石田村で朽ちる気はない。これから一旗あげて故郷に錦を飾るから、それまで待ってほしい・・・こう考えて、婚約だけはしますが結婚はあいまいに期限も切らずに延ばしてしまいます。このお琴は近隣の村々に聞こえた美人だったそうですが、その後、いつまでも歳三を待ち続けました。
この歳三とお琴のデートのシーンを桜の花びらが散る万願寺の境内に設定するのも悪くないと思います。
慶応元年(1865)、泣く子も黙る新撰組副局長として、新人隊士募集のため多摩に帰卿した歳三は、お琴に京土産に飾り物を持ち帰ったという事実が記録にありますので、これを桜の季節に合わせれば絵になります。ただし、歳三はこの許婚のお琴と本気で結婚を考えていた様子は全くないようです。
もしも、お琴と結婚する気があったなら、京都で親密になっていたあちこちの女を少しは整理したと思います。