あれから25年ー2


 あれから25年ー2

  花見 正樹

 前回は、25年前の阪神・淡路大震災の追憶版でしたが、その2ケ月後の1995年(平成7年)3月20日(月)の朝、世にも恐ろしい「地下鉄サリン事件」が発生したのです。
 これは天災ではなく、化学兵器を使った人為的な殺人事件ですから最悪最凶の人災です。しかも、国家転覆を狙っての計画的なテロですから手口が幼稚すぎて呆れます。
 しかし、まるで子供の遊びのようなこの悪魔のテロによって死者13人、重軽傷者6,300人以上の大きな被害が出たのですから遊びにしては残酷すぎます。しかも都民の通勤時間のピークを襲うという卑劣な手法からみても絶対に許せません。
オウム真理教 など悪魔の巣窟であって、人を救うはずの宗教とは縁遠いものです。
 この国内最悪の残虐なテロ事件の正式名は、「地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件」です。
 彼らの標的は、営団地下鉄丸ノ内線、日比谷線、千代田線の多岐に渉っていて、いずれも通勤ラッシュのさ中に実行されましたので被害も大きく、乗客・乗員・駅員・救助隊など 次々にサリンの猛毒に侵されて倒れています。
 当時の私は、埼玉県北部の南栗橋から日光線に乗り北千住で日比谷線に乗り換えて銀座駅まで通っていました。その日比谷線でもサリンが撒かれて、被害に遭った列車が築地駅で停車し、通勤客が立ち往生しているという北千住駅の構内放送で事件を知りました。ただし、その時はまだ「何らかの事故で」としか知らされていません。
 振替輸送のJR常磐線に乗って上野駅で山手線に乗り換えて有楽町駅、ここから銀座のオフィスまで走り、私の事務所の居候だった新聞社出身の釣友M氏に撮影機材を担がせて事件の渦中にある築地駅に直行です。
 被害に遭った車輛は北千住発中目黒行きの前から3輌目で、それだと近い出入口は本願寺側になります。
 駅構内は封鎖されていて入れませんでしたが、重軽傷者の呻きや怒号、救急隊員の叫びや救急車のサイレンなどが今でも耳に残り、本願寺の敷地内に敷かれたビニールシート上に横たわる被害者の痛々しい姿は瞼に焼き付いていて悪夢のように蘇ります。写真は、晴海通りを跨ぐ陸橋の上からも撮れましたが、報道陣や野次馬で鈴なりになり、危険であることからすぐ閉鎖され、立ち入り禁止とされました。
 被害は 日比谷線中目黒行きだけでなく、日比谷線の反対側北千住駅行きも被害に遭っていますが、私が取材した日比谷線中目黒行き車輛については次のように判明しています。
 日比谷線の北千住発7時43分発中目黒行き(列車番号A720S[)の3号車に上野駅から乗ったのが、散布実行犯の林泰男です。他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対して、林だけは3パックを携帯して殺傷力を高めていました。
 林は、秋葉原駅到着直前に、グラインダーで鋭く尖らせた傘の先端で二重層のサリンパック3ケに次々に穴を開け、ドアが開くと同時に自分は素早くホームに降りて、人混みに紛れて逃げ去ったのです。それからがパニックでした。
。乗客は次々に倒れ、次の小伝馬町駅で乗客の一人の男性がとっさの機転でサリンのパックを次々にホームに蹴り出しました。この時に飛び散ったサリンが結果的には被害を拡大することになってしまったのです。それでも、この乗客の勇気は賞賛すべきで責めるべきではありません。
 この列車は、サリンの液体を床に残したまま運行を続けましたが、次の八丁堀駅停車した時点で大きなパニックに陥り、複数の乗客が前後の車両に避難しています。それでもまだ通報がなかったため、運転手は事件の重大さに気づかずに運転をつづけます。ところが。八丁堀駅を出た時にホームに複数の乗客が倒れて人だかりがして、数人が「大変だぞ!」と異常事態を知らせてくれたことで運転手に連絡し次の築地駅での対応となったのです。とほぼ同時刻の8時10分に乗客が車内の非常通報装置を押したため、列車は築地駅まで進行して停車し、車掌が駅員を呼び運転手も駆け付けて大変な事件であることに気づきます。
 運転手が直ちに、「築地駅で停車、3両目で白煙上がり何らかの事故発生、複数の客が倒れている」と指令センターに通報し、救助活動が本格的に相次ぎ、次いでスタートします。
 東京消防庁には、事件発生当初は正確な情報は伝わらず、、「地下鉄車内で急病人」「地下鉄車内に異臭」「負傷者多数、応援求む」の通報に次いで「築地駅で爆発」と誤報もあり、各駅からのの報告も錯綜して、司令塔である災害救急情報センターは一時的にパニック状態に陥って機能が麻痺しかけたとも聞きます。
 築地駅では、ドアが開くと同時にホームになだれ込むように倒れた乗客のほとんどが、重症となって病院に搬送されています。
 この時の救出時の光景はテレビ局各社で中継されました。陸橋の上から救助風景を撮っていた私の耳元開運道のでも、フジテレビの 安藤優子 アナウンサーが撮影に合わせて実況中継をしていて、その落ち着いた口調にプロ意識を感じて驚嘆したものです。
 その後、幾多の曲折を経て、首謀者の麻原彰晃が死刑(2018年7月6日執行)、調整役の井上嘉浩も死刑(執行済み)、実行役の広瀬健一が死刑(執行済み)、同じく実行役の横山真人 も死刑(執行済み)、 同じく実行役の豊田亨も死刑(執行済み)、そして前述の築地駅での事件の実行犯・林泰男も死刑(執行済み)、指揮者の村井秀夫は求刑を待たずに死亡。実行犯でただ一人だけ無期懲役で生き残ったのが林郁夫、千代田線の我孫子発列車内でサリンを撒いた男です。この男は、逮捕される寸前に駆け込み自首して仲間を裏切って全面自供で自分の非を認め、情状酌量を勝ち取って命拾いしたのです。これでは被害者は浮かばれません。私は、山梨県内の上九一色村にも行き、オウムの足跡を辿って彼らの正義を知ろうと努力しましたが、何らの大義名分も得られず、オウム事件は彼らの国家に対する不満を一般民衆殺害で満たすというエゴであって、極めて卑怯な反社会的行為とみて「取材の価値もなし」、と判断してオウム関連の執筆を断念しました。
 こうして、私の50代最後の年は、相次いで発生した「天災と人災」に翻弄され、私の何ら死生観をも揺るがしました。事故や事件はいつどこで起こるか予測がつかず、占いも正確には出せません。これだけは如何ともし難いのです。
「人の死生は天のみぞ知る」、その達観の上でベストを尽くせば、日々満足して暮らせることに私は気づき、死に対する恐怖も克服できました。「阪神・淡路大地震」と「地下鉄サリン事件」、連続して発生したこの二つの災難を取材できたことは私の将来に何らかのプラスになる・・・と、その時は信じましたが、結論は未だに持ち越しです。