令和の幕開け


令和の幕開け

花見 正樹

 令和元年の幕開けを心から祝福します。
平均寿命を超えて3年余、生きている間に新元号になるとは思いもしなかっただけに少々戸惑っています。
平成天皇とは年令もさして変わらず、太平洋戦争終結からAI時代到来までの激動の時代を共にしただけに、平成天皇のご退位は、生涯現役で生きてきた私にとっては、喉元に短刀を突き付けられて引導を渡されたような衝撃を受けてもいます。令和の
それでも隠居仲間を牽引して今までしぶとく生き抜いてきた自分としては、そう簡単には引き下がれません。
時代の変遷を直視しながらも自分は自分らしくさらに開運への道を切り拓き、その先に何があるかを見極めて人生を全うしたいと腹を括って心新たに令和時代の流れに慌てず騒がずゆっくりと身を入れて行く所存です。
私にとって、昭和は、泳いでも泳いでも岸に辿り着けない悠々たる大河、平成は足元をがっしり固めないと命に関る激流でした。ならば、平成の激流から枝分かれした令和なる未知の流れは一体全体いかなるものか? 山間の清流でイワナ釣りを楽しんでいるとき、つい滝を遡ったり瀬を渡ったりしながら獲物を追って夢中になり、天候の急変での豪雨で鉄砲水と謂われる濁流に呑み込まれて一命を落とすことも稀にはあります。そう考えると、令和に入って世の中が一気に良くなるような期待感のお祭り騒ぎはあまり感心できません。
令和の流れが、清流なのか濁流なのかは、消費税がアップされ、オリンピック狂騒後の日本経済の疲弊と、ほぼ間違いなく襲来するであろう東海大地震、さらに、米中対決後の宇宙戦争、米朝か中東紛争から端を発しての第三次世界大戦があるとしたら? これは対岸の火事どころではありません。高みの見物どころか日本も参戦することになり、日本列島は再び戦禍に見舞われて壊滅状態に見舞われます。
そうならないための国民の象徴として天皇の存在がああります。
安倍内閣以降も日本の政治家は、都合よく天皇家を利用して国内だけでなく国際社会の荒波をも乗り越えてゆきます。
そのためにも皇位継承の儀式は古式に則って、仰仰しく行なわれねばなりません。
天皇家の血筋が北朝か南朝か由緒正しきかどうかなどは枝葉末端のことで、いま大切なことは皇位の継承です。
令和元年初日の5月1日、新天皇即位に際して「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」という儀式が行なわれました。
古代から伝わる天皇即位の証となる「三種の神器(さんしゅのじんぎ、さんしゅのしんき、みくさのかむだから)」移譲の壮厳かつ神秘的な儀式です。
三種の神器と聞いて、私が懐かしく思い出すのは、私が成人した頃の豊かさの象徴とされた家電製品・電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビ(白黒)の三種です。その後、10年もしないうちに庶民の「三種の神器」は高度成長の波に乘って、3Cと呼ばれる「カラーテレビ、クーラー、マイカー」と変わりました。
 ところが皇位継承に伴う「三種の神器」は文明の利器とはほど遠い古代から皇室に伝わる家宝として大切にしてきた鏡、勾玉(まがたま)、刀剣の三種で、正式な名称は、八咫鏡(やたのかがみ)、 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、 草那藝之大刀(くさなぎのたち)です。
テレビでは、太刀と勾玉が新天皇が譲渡されて、皇居からお住いの赤坂御所に移られる所が実況されました。
アナウンサーは、剣(つるぎ)と勾玉(まがたま)が新天皇と同じお車で移動されたことを報じていましたが、歴史好きの人々は、それら行事に用いられる神器は全て形代(代用)であることをとうに承知し、それを許容しています。
私の祖にも神官がいて我が家は神道ですから、水没した草薙剣に代わる剣を、草薙剣の形代(代用)として、御魂遷(みたまうつ)しの儀式によって神器としての霊力を新たにしたもので、その物の形代をさらにもう一剣加えて、元剣を伊勢神宮の神庫に秘匿し、もう一報の形代が、本日皇居から東宮御所にお移りになったもので、ここには何の不条理も存在しません。
これら「三種の神器」は、数々の争いによる奪い合いで権力の象徴となりますが、最も脚光を浴びたのが源平による壇ノ浦の戦いです。
それにしても、「三種の神器」をめぐる皇族の殺伐たる争いで日本の歴史が動いていたのを知れば知るほど、これだけでムキになって書物を調べる気持ちになれるとは今更ながら驚きです。
この続きはまた来週、この10連休もあと7日、悪い目を駆使して書斎を漁ること8時間、自分が今更ながら本が好き、文章を書くことが好きということをイヤというほど知らされた一日です。すでに夕暮れ、その成果は来週に。
こうして令和の初日は書物に埋もれて終わる気配濃厚です。平成最後の昨日も思いっきり好きなことに没頭しましたから、二つの元号を跨いで大いに楽しんだことになります。