母も私も正念場


東京オリンピックまであと千日とか、テレビではお笑いタレントがお祭り騒ぎです。
私の目はその時まで持つのか?
曇り日の風冷たき秋の夕暮れ、ふと心によぎる慙愧の思いがあります。
オリンピックに出場するためのアスリート達の血の滲む努力が理解できるからです。
スポーツや武道だけでなく音楽など芸術の世界でも、日本一とか世界一になるにはいかに大変かは誰もが知っています。
私の一族で世界一は、イトコの子・武藤富士津夫六段(福島県警)が1991年の剣道世界選手権優勝者、私は応援団長でした。
自分自身は弓道5段で全くの鳴かず飛ばずで日本選手権3年連続出ると負け、名もない選手権優勝程度で挫折、早々に引退です。
あの時、未熟ながら一所懸命死力を尽くして頑張ったら、もっと何とか成ったのか?
暫し瞑目沈考して呟く言葉はいつも同じ「でも今が一番・・・」、今の自分が実力ですから過去に未練はないのです。
さて、その身内の期待を一身に背負って長寿記録に挑戦と張り切っていた母親が、どうやら103歳で失速気味です。
築地の事務所で仕事中だった私には寝耳に水の「39・1度の高熱で入院」の電話です。
つい先日の敬老の日間では健康で杖なしで歩いていた母親が、お世話になっている施設内で尿感染で発熱し近くの病院に緊急入院です。
27日(金)、入院から数えてまだわずか10数日、早くも担当医から「容態が急変」との緊急呼び出しです。
若い医師に別室に呼ばれて、いよいよ母の終焉かと覚悟を決めました。
以前、我が家に母を引き取る時の末期状態時も、医師に責任はない、かのようなサインをしたことがあります。
千葉県の病院では、「延命治療打ち切り」でサインをしたこともあります。
要介護度5で回復の見込み無しだった95歳の母が、今は要介護度1ですから、もう何も恐れるものはありません。
ギブアップの兄嫁から点滴と酸素吸入の母を引きとって8年を過ぎました。
医師は、母が何も食べないので体力が弱って肺に溜まった水も排除できず、点滴だけでは衰弱して死ぬのを待つだけだと言うのです。
食事さえ取れれば・・・その思いで売店からプリや冷たい飲み物を買って母親に与えたら、なんと旨そうなのです。
医師から「食べないと死ぬ」と脅されたというと、母曰く「食事がまずくて」です。
いままで世話になっていた元気村という施設は食事もまずまずでしたし介護士も親切でした。
病院の看護師はめちゃめちゃ忙しそうで、声をかけるのも遠慮がちになってしまいます。
担当の医師も学校出たてのようで、100歳以上は初めてらしく対応に困っているようです。
そこで私は決断しました。
このままでは、元気村に戻ることも出来ず、といってここも厄介払いしたいのが見え見えです。
母の終(つい)の棲家を探そうと・・・そこで今度は逆手をとって若い医師を呼び出して相談です。
昨日と今日の二日間、母をそっちのけで、その若い医師のプライドと私の意地を賭けた攻防が始まっています。
私の言い分は、母をもう一度健康に戻してくれたら、療養型病院に移して長生きさせて見せます、というものです。
これで、母に投げやりだった若い医師もなんとか、母を一時的にろ元気にしようとした様子です。
明日の日曜は、その医師は休養日だそうですから、私は母が食べるような食べ物持参で面会です。
あれ? たしか自分自身も風邪気味だったのに、すっかり治っているようです。母も私も正念場・・・ここ数日が運命の分かれ道になるかも知れません。