敗戦の日


 鶴ヶ城

 昭和20年8月15日(金)の正午、小学3年の夏休みだった私は疎開先の福島県会津喜多方市の伯父の家の奥座敷に2歳上の兄、二人の従妹、伯母と共に正座して、ラジオから流れる天皇による玉音盤「第二次世界大戦終結の弁」を厳粛な気持ちで聞きました。
 私たちは一般的に、昭和20年8月15日を第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦記念日としています。
 ところが、これには異論があるようです。
 8月14日は日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日で、8月15日は玉音放送で昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送により、日本の降伏が国民に公表された日で、9月2日(火)が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日です。
 以上のように、正式には、9月2日が戦争終結の日とするのが正式だという説もあります。
 それを裏付けるように、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、カナダ、ロシアでは、9月2日を対日勝戦記念日としています。
 ところが、国際法上となるとまた違ってくるそうです。一説ではソ連と中国は、9月3日になっています。
 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日は、1952年(昭和27年)4月28日ですが、私は8月15日説、旧盆ですし覚えやすですからね。止むを
ただ、私の意識としては終戦記念日より、敗戦記念日として負けた悔しさを思い起こすべきだと思っています。
 戦争はすべきではありません。しかし、戦わなければならない状況に追い込まれたら止むを得ません。
 ただ殺されるのを待つよりは、死をも覚悟で戦わねば家族は守れません。
 そして、戦う以上は勝たねばなりません。
 武運つたなく敗れたときはいさぎよく死を選ぶ・・・これも武人の常で古来から人類に伝わる遺伝子です。
 それでもなお、私も戦争は反対です。戦争は悲惨な結末を招くだけで、我々庶民は何ら得るものがありません。
 私は、戦争の狂気で恐ろしい事実を知ったことがあります。
 私が花見化学という零細企業を立ち上げて数年たった頃の夏でした。
 取引先で二部上場会社の私より20歳ほど年長の重役と終戦前の東京大空襲の話題になった時です。
 市川市在住だった私が、江戸川の橋を渡って都内に行き、焼け野原の凄惨な地獄図絵の恐ろしい印象を話した後で重役が語ったのです。
「わしは南支で砲兵隊の小隊長で戦ったが敵陣を砲撃させて双眼鏡で覗くと、敵兵が爆裂でバラバラ宙に跳ぶのが花火のようで凄かったぞ」
 これが楽しげに自慢げで、私は即、この会社とは取引を止めようと決めました。この会社は倒産して今はもうありません。
 私が直感的に感じたのは、こんな人間味のない冷血な会社と取引したら、骨までしゃぶられると感じたからです。

 さて、敗戦の日、座敷に正座させられた小学校3年の私に戻ります。
「戦争は終わった」
 会津でのホップ栽培誘致の成功で叙勲の栄誉に輝いている伯父は毅然として事実だけを私たちに告げました。
 そこに涙はありませんが、子供心にも伯父の万感の思いが伝わるようで心打たれたのを覚えています。この家の一人息子、私にとって尊敬すべきイトコは陸軍将校として満州戦線で戦っているだけに、伯父としては敗戦後の身の始末が思いやられたようにも見えました。
 案の定、そのイトコは捕虜となり、シベリヤ抑留で重労働を課せられ散々にこき使われて死者続出の捕虜生活から共産主義に洗脳されて帰国したのは10年近い歳月が流れてからだった。しかし、東北の保守的な農村でマルクスレーニン主義を叫んだところで何の効果もないことに気付き市役所に勤め乍ら陶芸道場を設け、地域社会と高齢者の生き甲斐づくりに没頭し、私とコンビでイトコ会(親戚会)を楽しみ乍ら数年前故人になっています。
 一時期は例年50人以上も参加し、市長の挨拶があるほど賑わっての温泉旅行だったイトコ会も、櫛の歯が抜けるように逝去した長老たちと主宰の私の本籍抜けが原因で解体し、後継者がいないために散会になってしまいました。私の本籍抜けは、戊辰戦争の大作執筆を中立で買いたいために、自分の中に流れる会津の濃い血を薄めたいと思ったからです。一会津人としては、戦争の最終結末に財産没収はおろか一般人の無差別殺戮や略奪強姦・婦女子の死姦まで記録に残っている薩長士他占領軍の残虐行動は許すまじき悪行として弾圧せざるを得ません。京都の金戒光明寺にある戊辰戦争・会津盆地には花見家の墓もあり、一族の恨みで血がたぎる思いもあります。
 しかし、今は長州・山口放送のレギュラーであり鹿児島も親しき友あり、9月初旬には西郷隆盛のご子孫と鹿児島で会う約束も出来ています。もう時代は移り変わりました。恩讐はとうに消えています。
 こうして執筆者としての私は冷静冷徹に、刀で斬られても銃弾で頭を撃ち抜かれようと中立かつ忠実に悲惨な戦争の狂気を書かねばなりません。
 正常では有り得ない会津攻略軍の狂気の行動も、異郷での戦いでそれまで耐えていたストレスが一気に噴出したと考えれば許せなくても理解は出来ます。その勝者の驕りと狂気、敗者の悔恨と悲しみ、そこからの立ち直り、これらを描ききれれば私の「戊辰戦争=明治維新」は、必然だったとして成り立ちますので、多分、世間はともかく私の中では成功としてもいいかな? と考えます。書き上げてからの話ですが・・・。