忘れがたき人びと
私の整体の師であり、風水の師でもあるのは故蔡一藩(さいいっぱん)師です。
蔡師は、元中国国医医学院名誉教授で、中国医学界の権威で、1,917年に中国広東省に生まれました。 生家は二千数百年にわたって医術を職業とした名家です。
その中国が文化人の大量虐殺ともいわれた文化革命に追われて日本に脱出、1963年に帰化して日本国籍を取得、以降は日本と中国の漢方医や漢方薬業界の橋渡しなどで大きく医学界に貢献しています。
私と蔡師との初見は1986年頃、霞が関の日比谷公園脇にあったダイヤモンド社の会議室での出会いです。
当時、私が定期的に講師として招かれていたダイヤモンド社春秋会(主宰・棚村耕三翁)での質疑応答がきっかけで親しくなったものです。
蔡一藩師からの質問は、「経済と風水の關係」についてでしたが、私は易学と気学から経済をみていましたが、中国風水については全くの無知でした。そのために解答の仕様もなかったのです。
そこで早速、兄貴分として親しく人生の師として尊敬する棚村翁の取りなしで蔡師に弟子入りを申し込んだところ、快く引き受けて頂きました。
それからは、都内中野区のご自宅や御身内経営の薬膳・中華料理店などに通い、あるいは私の事務所兼サロンに来て頂き、風水をまなんだのですが、それと同時に際師の本業でもある中国整体も教えて頂いたのです。
当時はまだ整体には興味も少なく不肖の弟子で熱心さもいまいちでした。
あの時、もっと真剣に学ぶべきだった、と心の中でi今は亡き師に詫びています。
なお、これにはオマケがあります。
蔡師の提案で、元々の兄貴分であり師でもある故棚村耕三翁を長兄とする三人義兄弟の約束をしたのです。
蔡師が二番目で私はヒヨッコの末弟です。
いま思えば劉備玄徳の故事に倣って「桃下の誓い」の真似とも思えますが、私は棚村翁から愛用のスイス製時計、蔡師からは、なんと数百年も蔡家の家宝とされた純金文字の歴史を秘めた風水盤を頂戴していますので、冗談とも思えません。
なお、私が兄と慕った棚村耕三翁は、ダイヤモンド社(創立1913年)の創始者・故石山賢吉社長の懐刀として知られ、ダイヤモンド社の発展に大きく貢献した功により、自社ビルの一室を生涯重役待遇として使えるという希有な存在で、私の人生にも大きな影響をもたらしています。
その棚村翁の紹介で政財界の大物とも知己になりましたがこれはパス、ここで知り合った警備会社社長島田氏に請われて顧問になり、実際にVPの護衛などを体験したり、裁判の傍聴など貴重な体験をしたりして、これらは大いに私の役に立っています。
この棚村翁の紹介で知り合ったダイヤモンド社の社員は数多くいますが、昭和44年に、ドラッカー著の「断絶の時代」の大ベストセラーでダイヤモンド社の逆境を救った編集次長平岡氏との交流から、新人物往来社社長になる前の大出氏やANAの取締役だった西川氏、明徳出版役員の村田氏など多くの素晴らしい友人を得ていることも忘れられません。
その棚村翁から、優秀な後輩として紹介されたダイヤモンド社社員の一人が、やがて社長になって経営合理化の一端として霞が関の自社ビルを売却、神宮前に移転して「世期の蛮行」とされ、先輩諸氏の罵声を浴びながらも会長職までを全うした岩佐豊氏です。その時は私は交流はありませんでしたが、前述の平岡氏などの岩佐氏に対する評価はかなり厳しいものでした。
ところがそれから、かなりの時を経て、親しい年長友人の佐藤堅太郎(元トーハン役員)先輩が、「盟友を紹介する」と言って岩佐氏を連れて来たのです。
岩佐氏はダイヤモンド社会長退職後、出版関係役員引退後の受け皿でもある「図書カード」会社の役員として佐藤先輩の弟分役員になっていたのです。
私とは数十年ぶりの再会でしたが、共通の師でもあった棚村翁のご縁もあり、それからは短期間ではありましたが終生親しくお付き合いさせて頂きました。
岩佐氏は府中市在住で市長とも親しく、町起こしにも拘わっていて、新選組資料などをせっせと持ちこんでくれました。ただ、私自身が大出俊幸氏主宰の近藤勇墓前祭の常連で、新選組ゆかりのご子孫とは交流がありますので目新しい資料はありませんでした。それでも、その岩佐氏のご厚意には感謝の気持ちで頭が下がるばかりでした。その岩佐氏も再会後わずか2年、旧交を暖める間もなく鬼籍に入って、いまや遅しと私を待っています。
こうして、ダイヤモンド社絡みだけでも想いは尽きませんが、ここでは私の整体のルーツについて述べたかったのに、ついつい脱線してしまいました。
私は緑内障と視野狭窄症でいずれ目が見えなくなりますが、そうなれば「占い癒し整体」で余生を過ごす予定です。ところが、失明のスピードが思いのほか遅く、全盲までにはもう少し時間がかかりそうです。
もしかすると、その分寿命も延びているのかも知れません。 そうなると、先に逝った友人知人諸先輩も待ちくたびれて、私のことなど忘れる可能性もあります。
そう考えると、もっとゆっくり日々の生活を楽しんで少しは長生きしてもいいような気もします。
どうぞ皆様、お暇がありましたら、この孤独な隠居のお相手も宜しくお願いします。
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仕事は引退しました。