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岩倉具視と開運道


 花見正樹のこじつけシリーズー1

岩倉具視と開運道

菅義偉 に対する画像結果9月に入った途端に数日前の猛暑から一転して冷え冷えとした10月の気候が訪れ、コロナ禍の先行きが見えない中、菅首相の自民党総裁選不出馬など不景気な話題がニュースで流れています。総理として約一年、あれこれ毀誉褒貶はありますが、難しい局面の中、とにかくお疲れ様でした。
 これでまた暫らくは、国民不在、コロナ禍無視の政権闘争騒ぎが続きます。
 雨が多かったこの夏も、ついに鮎釣りもなく体力を持て余して秋になり、自粛生活の影響もあってか運動不足にも少々慣れ過ぎました。
 鷲宮神社 に対する画像結果8月末の日曜日(29日)は厳しい残暑でした。退屈凌ぎに出かけた近くの鷲宮神社(約800年目創建とも)の鬱蒼とした緑深い森の散歩道で聞く蝉の声は、秋を告げるヒグラシでしたが暑さに参ってか弱弱しく感じました。それが一転してこの秋時雨と冷気ですから、森に棲む虫も小鳥も小動物も、びっくりして体調を崩すのではないかと心配です。
 気候とは無縁ですが、今日は岩倉具視ばなしです。
 さて、歴史に「if」は禁物ですが、将軍・家茂、孝明天皇があと10年生きていたら、公武一和の新しい日本が生れて、これはこれで新たな発展があったのではないでしょうか?
岩倉具視 に対する画像結果この時点での岩倉具視は、他の公家達の猛反対を押し切って皇女和宮の降嫁を推し進めた経緯もあり、この公武一和政府の中枢に割り込んで朝廷勢力拡大のために辣腕を振るったのに間違いありません。
 なのに、慶応2年8月29日(旧7月20日)に将軍・家茂が逝去されたのです。わずか19年(20歳)の短い人生でした。これによって、幕府と朝廷の融和のための政略結婚で輿入れした孝明天皇の妹君で将軍・家茂と同い年の和宮は若い身空で未亡人、ここで朝廷皇女和宮 に対する画像結果側と幕府の短い蜜月時代も終焉を迎え、公武一和を推進した岩倉具視の野望も潰えます。ここで岩倉具視を待っていたのは、仲間であるべき朝廷側近と公家達からの怒りの罵詈雑言で、それらの直訴を受けた孝明天皇は岩倉具視を遠ざけて蟄居閉門を申し渡します。都を追われた岩倉具視は、妖怪が棲むという深い森に囲まれた洛北の岩倉村に家を求め、幽閉生活の中で、復讐と復活のために牙を砥ぎます。、
孝明天皇 に対する画像結果 将軍家茂の死後数か月で後を追うように孝明天皇も御逝去されますが、これには岩倉具視の毒殺関与説がいまだに色濃く残っています。今はもう、その真偽のほどを糾す術はありませんが、火のないところに煙はたたず、の俗諺もまた真実を突いているだけに、疑えば限りなく黒にも思えます。
 ともあれ、親幕家の孝明天皇の死によって、無力な権威集団に過ぎなかった公家衆が息を吹き返し、さらに、同じ明治天皇 に対する画像結果く討幕の志を持つ西国雄藩の反幕府勢力を煽って、幕府に戦いを挑むための準備を始めさせます。その結果、日本国中を二分する内乱となり、親孝明天皇側勢力は破れ、岩倉具視+明治天皇側が勝利し革命が成功します。
 恐るべき下級公家・岩倉具視、その陰謀が歴史を変えたのです。
 その岩倉具視がこの世にいなかったら、開運道もこの世になかったかも知れません。
小桜葉子 に対する画像結果 昭和44年(1969)の春、私は友人の紹介で小桜葉子さんと知り合い、その薦めで小桜式整美体操教室墨田区分校を開くことになりました。経営のノウハウや指導は、小桜さん本人や幹部の弟子さんが来てくれるので私の仕事は募集と経営だけというでした。
 小桜葉子 本 に対する画像結果土地は、東武線曳舟駅徒歩2分、殆んど駅前にありましたので、3階建ての建物を設計し建て始めた矢先のことです。
 その冬に小桜葉子さんがスキーで転倒して大怪我をして腎臓を摘出、その手術後の悪化で5月に急逝、小桜式教室本部の経営は実姉が後を継ぐということでお会いしましたが、知名度がありませんので集客は無理です。その建物はいま、花見化学本社となり、それまでの本社は倉庫と休憩室になっています。
 その小桜葉子さんの母方の曽祖父が岩倉具視、夫は上原謙さん、息子に加山雄三さんがいます。
 あっけない挫折でしたが、その後の方向転換で占いを仕事とし「開運道」が残りました。