令和2年を顧みて
花見 正樹
綾部庸介様撮影の写真などをNETからお借りして使わせて頂きました。
この場を借りて御礼申し上げます。090-4672-1094 花見正樹
この年。は、師走入り前後に「忌中につき年賀欠礼」の葉書が16枚と昨年を3枚超え、友人知人の身内が半数だった昨年までと違って今回はその殆どが私自身の友人・知人という信じられない信じたくない事実です。
その中には、私の壮盛世期を支えてくれた元電通幹部のM氏(加賀前田家末裔)や、私の長編小説「北の恋歌」にモデルの一人として登場する元営林署副署長で釣り仲間のT氏がいて身を切られるような辛さを味わっています。
こんなとき私はふと、自分が野生の孤高な痩せ狼であるように錯覚することがあり、それが、「孤狼の生涯・大原幽学の一生」という小説をライフワークにさせたりする原動力になっています。
その狼姿の私は深夜、みぞれ混じりの木枯らし吹き荒ぶ断崖絶壁の高みから、暗い夜空に向かって頭を上げ、あらん限りの咆哮で寒気を震わせて揮わせて仲間にまだ自分が生存していることを知らせます。それは、自らの終焉を予期しての別れの叫びなのか、仲間を喪った悲しみなのか、友を喪った後の孤独感が怖くての咆哮なのか・・・ただただ思いっきり遠吠えしたいのです。
私はつね「づね、私の三大生き甲斐(=三大道楽)は、「もの書き、弟子育て、下手な大鮎釣り」と言い続けてきました。
拙著には、「巨鮎(おおあゆ)に憑かれた男達」や、釣り雑誌「つり人」に連載した短編小説には各地の鮎河川が登場します。
「獲物(梓川&小河川)」「魔の四万十川」「利根川心中(他に吾妻川)」「鬼棲む球磨川(他に川辺川)」「狩野川慕情」「埋蔵金秘話(那珂川&余笹川)」その他「t釣り人の大往生シリーズでは「米代川・那賀川・大分川・伊南川」北海道では「遠軽川、生田原川(、小説・北の恋歌)」など、全国各地の漁協や釣り人との出会いがあり、漁協からの年券優待もあって夏は鮎釣りに没頭、行き着く先は、取材でお世話になった日本一の激流で大鮎で知られる熊本県球磨川中流域の鮎宿・仕出し料理や囮鮎などを業とする鮎仲間の溜まり場・川口商店でした。写真の駅看板裏に見えるのが鮎宿・川口商店です。
それからの四半世紀、私は、家族の一員が家出から夏の終わりの一週間だけひょっこり帰宅して一遊びしてまた家出するような存在で、家人も周囲もそれを認めてくれていました。
この川口商店の主である次義さんは酒好きでケンカ早くて客を客とも思わぬ傍若無人そうな屋人に見えて実に味わいのある好人物で、私とは気が合って、私の執筆の手足になって人吉盆地内の取材を手伝って頂きました。私がこの鮎宿に通った四半世紀を一度も嫌な思いをしなかったのも、この次義さんという鮎宿のオヤジさんのお陰と感謝しています。
その鮎宿は、球磨川左岸の崖上に建ち、隣接する愛甲商店(酒屋)の下(しも)にあり、細い山道を隔てて無人駅R肥薩線・球泉洞駅があり、臨時駅長として駅の清掃や管理を任されていた故川口次義さんがJRから支給される報酬は月額50円、肥薩線開業時の取り決めがそのまま持続しているらしいのです。
この風光明媚な山下の写真左側に見える、球磨川を見下ろす崖上の二軒家の手前左側が酒屋・愛甲商店、右の下流側が鮎宿・川口商店、JR球泉洞駅は川口商店の向こう側ですので陰になって写真では見えませんが、この二軒より2メートルほど高くなっている土手上に肥薩線の線路があります。
この球磨川は、宮崎県側の標高1,489mの銚子笠を源流とする一級河川で、その流路全長は115kmにおよびます。この球磨川に注ぐ最大の支流が、五木の子守歌で知られる五木村を経て流路長62kmで人吉盆地で球磨川に合流する川辺川です。この暴れ川の別称のある球磨川では過去に何人もの釣り人が急流に呑まれて鬼籍に入っています。 仕事の疲れが残っていて足腰が弱っているときなど、少し深みに入っただけで腰に来る激流の水圧に耐えかねてずるずると足元が崩れる感覚で下流に押し流されます。
だが、大鮎はそんな釣り師の竿が届かない絶対安全な激流のど真ん中の大石を縄張りにしているために、ライバルを寄せ付けず美味しい苔をたらふく食して悠々自適の暮らしで益々巨大化するばかりです。ところが、そんな唯我独尊の怖い者知らずの大鮎にも、縄張り争いに明け暮れている並の鮎にも天敵の釣り名人が何人かいるのです。
まず、築地に出荷できる長さも重さも殆んど同じ中型の鮎ばかりをハリの傷口を最小限にして注文された分だけ釣り揃える上に、一般の釣り人が一尾も釣れない土用隠れでもきちんと数を揃える不思議な職漁師の塚本昭司さん(ダイワ派)、この地元の鮎名人を語らずに球磨川は語れませ
ん。なにしろ、私などは、釣り雑誌「つり人の鈴木康友元社長から聞いたこの鮎名人の名を騙っただけで、一元さんを泊めない鮎宿にすんなりと受け入れられ、そのご本人と出会ったのはかなり後でした。
この職漁師の塚本さんが並鮎の天敵で、大鮎の天敵は私の知る限りでは二人いました。いました、と過去形なのは、一人はここ六年ほど球磨川に姿を見せていないからで、栃木県那須郡居住で那珂川を拠点とし、その支流である余笹川の主でもある菊地信孝さん(ガマカツ派)で、私はこの菊地名人が尺鮎(約30センチ以上)をオトリにして次々と尺鮎を連発したシーンを目撃しているからです。
この菊地さんのご先祖は、熊本県菊池市の菊池川流域を拠点に、南北朝時代には九州全域を制覇した豪族・菊池家の末裔で、全国に縁戚も多く、鹿児島の西郷隆盛一族とも遠縁になります。
その菊地名人が去って球磨川の鮎が平和を取り戻したかというと、そうでもないのです。ここに、球磨川を荒しまわる、鮎から見たら鬼のような存在が利根川を拠点とする群馬県の野嶋玉造さん(ガマカツ派)がいるからです。
球磨川の激流のど真ん中で肩まで波を被って長い竿を振るっている長身の男を見たら、それが野嶋の玉さんです。もう孫もいますし、鮎釣りも息子さんや一番弟子の田島剛さんの時代になっているのですから、周囲は引退を奨めるのですが、当人が相変わらず釣り学校の校長先生で野嶋軍団の団長、鮎業界では伝説のレジェンドですが、いまだに現役です。
その記念すべき1枚のDVDのジャケットと、それに用いた元写真を下に並のきろくとべます。このDVDを開くといきなり当時の日本一の記録とされた大鮎と私の名前が現れます。釣り人は野嶋玉造名人、私はその大鮎釣りの現認者という立場です。
それにしても大きな鮎でした。33センチ、500グラム、これはまさしく球磨川の流心にしか棲息していない大鮎です。
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もう
この平和で穏やかな人吉盆地および球磨地方に、まだ誰も経験したことのない豪雨が訪れたのが2020年7月3日の夜からのことです。
4日の朝にかけて天草の北から人吉へと西から東へ線状降水帯が次々に襲ってきたのです。
この線状降水帯が、球磨川本流上空におとずれたのが不運の幕開けでした。これで豪雨が止まらなくなったのです。
球磨川沿いのJR球泉洞駅前にあった川口商店は、過去にも床下浸水を経験していますので、数年前に5家の改築を期して50センチほほど土盛りを済ませていましたから万全です。まさか、それ以上に水かさがを位に増すなど誰も考えてはいませんでした。
しかし、4日未明からの豪雨は容赦なく降り注ぎ、球磨川の水面は急激に上昇したのです。
自宅を兼ねた鮎宿・川口商店には、店主の川口豊美さん(73)と姉の牛嶋満子さん(78)が同居していました。川口商店は、この二人の老姉妹で弁当販売やアユ釣り客向けの民宿を切り盛りしていたのです。
二人の姉の白拍子(の悲痛な声があり、しらびょうし)美智子さん(80)が心配して何度も通話したそうですが、ついに球磨川が氾濫して、「車も流された」と川口さんの悲痛な声があり、「駅に逃げな!」「うちの2階(屋根裏)の方が高い」と緊迫 した会話のさ中に激しい音と、「隣の家が流れてきたー、助けてえ!」との沈痛な叫びが入ってスマホの会話が途絶えたそうです。午前9時過ぎでした。
こうして、川口商店は、隣家と共に跡形もなく流されて、基礎部分のコンクリートの残骸が残されて、悲惨な出来事の証人になっています。豊美さんの遺体は流された家の中、姉の牛嶋さんの遺体は海で見つかりましたが地元は壊滅的状態で、未だに正式な葬儀とはほど遠い状態で、人吉市在住で被害には遭ったが無事だった長女のミキさんに細やかな御供物は送りましたが、いつになるかは分からぬ正式法要の連絡待ちという状態で、悲しみを抱えての越年です。
この年は9月の第一週に、愛知県在住の釣友との合流で、故人となった豊美さんとも明るい口調で打ち合わせをした数日後の災難だっただけに辛くて、ただただ、お二人のご冥福をお祈りするばかりです。
この年は、曾孫の出産、弟子の成長、千賀の浦部屋の躍進など嬉しい出来事も多々ありました。
ここは心を入れ替えて、コロナ禍にも負けず新たな年を迎える所存です。
皆さま、くれぐれもお体大切に、
よいお年をお迎えください。