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白内障手術記-1


白内障手術記-1

いよいよ目が見えなくて来客でも人違いの連発で、友人主催の会合にも出席できなくなりました。 私は根っから丈夫に出来ているのか自分が患者として病院にゆくのはここ数十年、人間ドッグと歯医者以外では全く記憶にありません。
昨年の1月19日に母を看取るまでは毎日のように病院通いでしたが、医師や看護師は別として病院の建物は苦手です、
母は要介護度1のままの老衰死という103歳、立派な大往生でした。
それに引き換え、とっくに平均寿命を超えながら、まだ眼病などを治そうとするケチな自分にいささか嫌気がさしています。
数年前、著名な銀座のT眼科での診察では、緑内障&視野狭窄症に白内障、手術は諦めて薬で進行を遅らせるのが良策との託宣でした。
たしかに、緑内障が右眼の中央まで浸食しているから手術は無理、というT院長の言葉には説得力がありました。
とくに右眼は失明寸前とのことで、長年のパソコン仕事のツケが回ってきたのを感じて、目の不自由は覚悟していました。
私はすでに平均寿命を超えた高齢者ですから、今さら失明を恐れる気持ちは毛頭ありません、
そのために整体の師範の資格まで得て意気軒高、怖いものなしなのですが、免許証がなくなるのは困ります。
それに、目が見えなくなると、自分の信条に反する事項があり、少々不都合なことが生じます。
それは、私の三大生き甲斐の「もの書き、弟子育て、大鮎釣り」の殆どが実行不能になり、自らの信条に反することになるからです。
この中で視野が不自由になっても出来るのは「弟子育て」だけですが、それも、こんな年寄りでもいいという好奇心旺盛な入門者がいればの話です。
パソコンも原稿用紙も目が不自由では使えませんから小説は無理、大鮎釣りも河原歩きや激流入りが無理ですから諦めるしかありません。
これらを承知で整体の道を選ぶ決意をしたはずの自分ですが、いざとなるとその決心が大揺れにぐらつき始めました。
悪魔の囁きか天使の声か判然とはしませんが、「それでいいのか?」と、声なき声が聞こえます。
そこで、医者嫌いの仮面をかなぐり捨てて終活前の悪あがきの眼科探しです。
これでは生きていても意味はありませんので、何とか治す努力だけはしたいと思い立ちました。
そこで、ダメで元々ですから、娘達の協力も得て、緑内障を悪化を承知で、手術をしてくれる眼科を探すことにしたのです。
銀座のT医師は、緑内障が目の中いっぱいに広がっていると白内障の手術で「失明する」場合がある、との理由で手術を断られています。
末娘が、あちこちの友人知人から情報を集めて、数軒の眼科をリストアップして来ました。
その中から。これだ! と思ったのが、今回、私の眼科通いの舞台になる埼玉県春日部市のSU眼科です。なぜS眼科と呼称しないかというと、同じ地区で覇を競い合うライバルにSA眼科があってS眼科の表現だけでは紛らわしいからです。
私がSU眼科に電話をしたとき、受付の女性は、私が緑内障はかなり進行中と伝えたのにすぐ反応して、{院長にお伺いしてみます」と、ほんの十数秒の間を置いただけで「院長が直接診察しますのでX曜日にどうぞ。朝X時から受け付けております」と明るい声で即答です。
この返事の速さから推し量ると、従業員数人でお客の少ないカンコ鳥が啼く閑な眼科を想像して、これなら自分にピッタリと意を強くしたものです。なにしろ私は、成人して以来、眼科は銀座のT眼科一度だけ、ただ混雑ごった返し状況の印象しかないのです。
ついでに、その春日部市のSU眼科に初めて電話したときのこと、私は「駅からタクシーでどのぐらい?」と気軽に聞いたところ、受付の女性は、すかさず「タクシーですとと15分ほどです」、確かにそう聞こえたのです。娘がパソコンから印刷してくれた地図もあったのですが、私はこれで安心しきっていました。
当日、東武日光線春日部駅西口からタクシーに乗って「SU眼科へ」と告げると、運転手が気の毒そうな表情で、「付き添いがいないと不便ですね」、です。私が聞きとがめて、「何も不便してないけど?」と言うと、今度は運転手が「目が見えるんですか?」と驚いています。
私が憮然として「見えますよ」、そこで運転手は私の間違いに気づいたらしく、駅前広場の一角を指して、「SU眼科なら、そこのコンビニの店内を突っ切ると、すぐ先ですよ」と呆れ顔でした。
買い物がないのでコンビニ店内の素通りはしませんでしたが、SU眼科は駅から徒歩2分の至近距離、タクシーは全く不要です。
、あるいはJRのどこかの駅からだとタクシーで15分なのか、市内に数軒の分院を経営するSU眼科だけに、その別院が駅から車で15分の距離にあるのだと思いますが、春日部の駅名を言わなかった私が悪いのです。でも、これは未だに謎です。
この項つづく

周囲に感謝です。


周囲に感謝です。

花見 正樹

最近、高齢者の交通事故が目だって私も肩身の狭い思いをしています。
いま83歳半ばで平均寿命を超えた私は、隠居生活の日々ながら、もう少し世の中のお役に立ちたいと思っています。
私はつね日頃から、三大生き甲斐を周囲に公言しています。
それは、もの書き、弟子育て、大鮎釣り、この三つなのですが最近は少々雲行きが怪しくなってきています。
もう残された時間はわずかなのに、まだまだ時間があるような錯覚が自分の中にあるのが現状を誤らせているのです。
最近、あちこちで高齢化社会になっても元気であれば出来る職業の上位に「占い師」がランクされています。
そのために、入門希望者が跡を絶たず、占いで稼ぐ方は弟子任せですが、教える立場としては少々未練があるのです。
教え方にも進歩がありますし、時分の遺伝子が世のため人のために役立つのですからそう簡単には断り切れません。
もう一つ、生涯現役で働ける職業に{作家}という肩がきもありますが、書かない作家では意味がありません。
したがって「弟子つくり」と「もの書き」を両立させることが出来れば三大生き甲斐の二つは解決します。
問題はもう一つの生き甲斐{大鮎釣り」です。日本最大激流の球磨川(熊本県)に身を乗り入れて掛けてこその大鮎釣なのに、ここ数年は師匠と呼ぶ大分市在住の相棒が病気休養のためと自分の目が極端に悪くなったために、地元の若手名手(熊本&鹿児島)の世話になって、危険な荒場を避けての釣りですから大鮎どころではありません。いよいよ年貢の納め時なのです。
それでも地元や仲間の人情が大好きなので、下手な釣り師ながら球磨川通いが止められません。困ったことです。
あれこれ悩んでいると、降って湧いたように「芹洋子うたごえサロン鹿児島公演」のイベント企画です。
立案者は鹿児島在住の有力者でもあるお弟子さん、鹿児島県芹洋子後援会の会長に西郷隆盛の直系ご子孫にお願いしての本格的なコンサートです。まだ企画の段階で詳細は何も決まっていませんが、私の釣行スケジュールと合致するとしたら天の運、三大生き甲斐はまだまだ続くことになりそうです。しかも目の手術は数日後から7月で済み,足場も目印も見えるようになりすです。
それにしても、こうして好きなことを目いっぱい楽しめる人生・・・これも周囲の皆様のお陰と感謝するばかりです。