平成の悔い、令和への覚悟


平成の悔い、令和への覚悟

花見 正樹

いよいよあと数日で年号が代わります。
 気分一新、過去は過去として今後が楽しみ、新しい時代の流れに乗って何ができるか、これからが楽しみです。
と、ひとまず気合を入れて令和の時代を迎えます。
ただ、時代の流れに乘れない場合はどうするか? これも考えてみました。
最近、とくに時の流れが高齢者の私には少々速すぎるように感じます。脳学者は、高齢になると時間の流れを早く感じるのは、脳に与える刺激が少ないからだ、と言います。しかし、私は意識して刺戟を増やしているつもりですが、それでも一週間、一ケ月、1年があっという間に過ぎてしまいます。まったく「光陰矢のごとく、何もかも成り難し」です。
そこで、私は思いつきました。老化現象で記憶力が減って、あれもこれも片っ端から忘れてゆくから時間の経過が早く感じるのではないか? そう考えると全てが納得、自分の頭脳のマイナス現象が時を速めていたのですから自業自得です。
それでも、個人の思惑などに関係なく時は進み、平成から令和へと時代は着々と移り行き、新旧入れ替えの世代交代も着実に粛々と進みます。これが世の倣いとは知りつつも、老兵は消え去るのみ、とは悟りきれずに儚い抵抗を試みる所存です。
私は平成時代入りを50代前期の働き盛りの最盛期で迎えました。 当時は図に乗っていて思慮も浅く、そこから20年もあれば、自分の目標は全て達成できると信じていました。ところが今、平成の終末を目前にして、我が身のあまりの不甲斐なさに気づき愕然として身が竦む思いで立ち竦むだけ、成すすべもありません。
このままでは死ぬに死ねない・・・とはいえ、老いは着実に肉体を衰えさせ気力を萎えさせます。
その肉体衰えを、て、精神の高揚が辛うじて老化の前に壁となって立ち塞がっていている気配です。その自分のこころはまた一方では残酷で、己の不甲斐なさに容赦なく鞭打って咤激励し、我が身を奮い立たすべく追い詰めます。
私は家人との約束で、「忙しい」「疲れた」「時間がない」を一切、口にしない約束をしています。それは、私の生活の全てが趣味道楽の類であり、誰に頼まれたものでもなく、自分が好きでやっている事象ばかりだからです。
それらに関わっている友人知人親しい身内は一様に「時間をつくれ」と忠告してくれますが、では何を削ればいいのか? それを考えて無駄時間の断捨離を考えると、他人の目からみる私の日常と、私の考える時間づくりでは、理解できないほどの大きな隔たりがあることに気づきました。私の周囲の誰もが、本人自身は別として考えますので、それを個々に照らし合わせると切り捨てるものなど何一つありはしないのです。

かなり、私と親しい友人が、ある時にふと、「釣りは時間のむだ使いの最たるもの」と喝破したことがあります。そう言われると一言もありません。まったく空と樹木に囲まれて流れる水に身を浸けて、たかが鮎ごときに自分の大切な時間を奪われているのです。それもガキ時代から数えて70年以上、かつては四季を通して海や川に通った日々を入れると、人生の数分の1の時間は、魚に奪われていたのです。その対象は正月のタナゴ釣りに始まって、寒バヤ、寒ブナ、イワナ、ヤマメ、オイカワ、キス、鯉,クロダイ、メジナ、鮎、セイゴ、スズキ、ナマズ、雷魚など、自分が手にした獲物がなおさら憎く思えてきます。こうなれば、その恨みを晴らすべく、令和の時代になっても大アユ釣りに怒りをぶつけるのが当然、これで釣りはやめられなくなりました。
しかも、現在の私の下手な大アユ釣りは晩夏の一週間だけ、たいした問題ではありません。
この程度の枝葉末端の時間をカットしたところで、大作が書ける道理もありません。しかも、今の私には、人に会ったり、人の世話をしたりする無駄な時間が大切に思えて仕方ないのです。しかも、「私に「もっと上手に時間を作れば」と忠告してくれる友人知人ほど私の時間を共有し食い潰しているのです。
そこでまたふと気づきました。私はいままでは有言不実行で、プレッシャーを感じ恥を搔いて参りましたが、令和に入ったら、不言実行、仕事は水面下で行ない、人には結果だけ知って頂く、これで自分らしく生きられます。
ここでようやく結論が出ました。
怠けず奢らず語らず欲張らず焦らず、「穏やかに日々を過ごす」、これが私の令和に向けての覚悟です、
宜しくお願いします。