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長寿の実践


 

 先日、母の臨終に立ち会って、つくづく長寿での老衰死こそ人生の理想であることを悟りました。
たまたま95歳で命尽きかけた要介護度5で寝た切り重病の母を、我が家に引き取って、長寿法の一部応用で介護した結果、杖なしでも歩ける要介護度1までに回復しました。つい3ケ月前までは元気で外出も楽しんでいましたが、これが限界だったようです。
男5人の子育てで苦労を重ねて95歳で力尽きたかに見えた母が、元気を取り戻して幸せの絶頂での老衰死、どんでん返しの連続です。
杖なしでも歩ける痴ほう症なしの要介護度1のまま、103歳と5ケ月での老衰死、これではお目出度くて涙も出ません。
確かに誰がどうみても赤飯炊いてのお祝いごとなのですが、私は母の寿命は105歳と思い込んでいただけに残念です。
私が本気で長寿の研究を始めたのは昭和57年からです。
厚生省の人口調査で昭和57年度の満100歳は1680人で、まだ100歳は珍しい時代でした。
その調査研究を大義に厚生省から100歳の長寿者リストを頂き、早速、取材やアンケート調査を始めました。
取材の対象は、100歳超えても歩ける人で杖はOK、車イス使用は除外しました。
その結果、かなり対象者は絞られましたが、それでも約200人の高齢者からの解答を得ることが出来ました。
この調査申し込みには、どちらのご家族も喜んで対応して頂きましたが、これも長寿は人生の勲章と誇りだからこその現象です。
私は、20代の後半から運勢学に興味を持ち、浅く広く西洋も東洋もなく学び、それをいいところ取りをして実践して参りました。
25歳時に無一文で独立開業した花見化学も零細企業ではありますが、半世紀を超えて生き延びています。
この長寿の秘訣を活用してきた私自身も、男性の平均寿命を超えた82歳で医者いらず、今年も激流の大鮎釣りに挑戦します。
健康で長寿の人生を楽しむには、いくつかの条件があります。
1、ストレスが少なく毎日が楽しいこと。
1、金銭的な心配がないこと。
1、体が健康であること。
1、死後の遺族の心配がないこと。
1、家族を含めて周囲の人間関係に恵まれていること。
1、食事がおいしいこと。
全てがこの通りにはなりませんが、これに近づくのが長寿道です。

母も私も、これに近いづいていたからこそ長寿を楽しめたのです。
だからといって、今の私が得意げに長寿の秘訣を語るのは気がひけます。
せめて、100歳まで現役で仕事が出来たら、私が実行中の長寿法を本にします。
文芸春秋社元社長のTさんは、私に「介護の本を書け」とうるさいのですが母を材料に印税稼ぎは性に合いません。
書くなら小説、新たなペンネームも考えました。これなら母も草葉の陰から応援してくれるはずです。

母の大往生  花見正樹


母はこの1月17日(水)お昼時の12時29分、103歳5ケ月の波乱の人生をおだやかに閉じました。
病院からの電話で、母が入院中の加須市の大久保病院に着いて私が手を握ると、母は力なく握り返したまま息を引き取りました。
痛みも苦しみもない穏やかな表情で静かな中にも見事な大往生でした。
医師の書いた死亡診断書には理想の死である「老衰」とあります。
病気のデパートのような母が「なぜ?」と聞きますと医師の答えは明快でした。
心筋症も肺欠陥も肝臓ガンも死には至らず死因は、食事も水も喉を通らなくなって死に至る「老衰」だそうです。
この老衰こそが人間の理想的なの状態で、恍惚となった状態で死に至るそうです。
しかし、つい3ケ月前までは杖なしでも歩ける要介護度1からの急な老衰死ですから、私には納得できません。
昨年の10月下旬、突然の尿感染症で39・1度の高熱で南栗橋の済生会病院に緊急入院、それが癒えて12月4日には療養型施設のある前述の大久保病院に転院するはずでした。ところがその転院日12月4日の朝、また39度を超える急の発熱で転院は取りやめ、それどころかほぼ危篤状態なのです。
主治医は慌てて原因究明に乗り出しました。
なにしろ、尿感染症は治っているのですから高熱の原因は他にあるのです。
そこで、肝臓ガンが発見され、そのために胆管閉塞で担汁の流れずに発熱に至ったと分かったのです。
主治医の言葉によると、このままだと母は確実に年内に亡くなります。
担管に管を広げるプラスチックパイプを挿入する手術をして溜まっている担汁を流せば発熱の原因は失せ一命はとりとめます。ただし108歳の高齢でもあり高熱で奪われた体に、口から管を入れる難手術に絶えるだけの体力が残っているのか疑問だと主治医はいいます。
しかも、私達兄弟の意思統一で母が苦しむような延命処置はしない、との話し合いが出来ています。
そこで、すぐ主治医からの紹介で実際にその手術を施行する内科医に会って説明を受けました。
その医師はきっぱり、「お任せください」です。そこで私の腹は決まりました。
形式として、家族の了解で万が一の時は医師に責任はない、との書類に捺印し、その日のうちに手術は行われました。
手術室から戻った母は痩せ衰えた蒼白な顔でぐったり死んだように眠り、声をかけても返事がありません。
その日は、なかば諦めましたが、翌日はこちらが驚くほどに元気を取り戻していました。
その後、再度の転院届けが認められて無事に12月20日に加須市の大久保病院に転院しました。
新天地に移って母は食欲を取り戻し、好物のカキイモ、ミカンを美味しそうに食べました。
そこで迎えたクリスマスでは、見舞に行った姪家族と一緒に車イスで、病院主催のパーティに出て皆さんと一緒に歌を歌いケーキを食べ、おおいに楽しそうだったと看護師さんからも聞きました。
その日を境に母は一日一日衰え、永眠する数日前からはお粥も喉を通らず水も飲めなくなっていました。
その様子で母の死期を悟った私は、母の亡くなる数日前に兄弟で予定した斎場を訪れ、大まかな打ち合わせをしました。
したがって、心準備が出来た上での母の穏やかな他界ですから、私自身も穏やかなのです。
なお、私が母の手術や危篤寸前の状態で病院や医師に提出した誓約書への署名捺印は5通、これもかなりの記録だと思います。
母が40代だった市川市国府台病院でのかなりの重症だった子宮ガン手術、松戸市一条病院での闘病時、南栗橋済生会病院入院時、同胆管手術、加須市大久保病院入院時、この5回の死の壁を見事に乗り切っての老衰死・・・私の手モミも多少は効果があったとしても母のすごさに言葉もありません。
と、通夜の挨拶で私が語りそうなことをここで書いてみました。
なお、火葬場が混雑していて葬儀が伸び、遺体は斎場の霊安室にあり、連日兄弟身内が交替で出入りして賑やかです。
葬儀は兄弟身内の家族葬で22日通夜、23日が本葬、喪主としてそれを終えたら一人で泣きます。

仕事を始めました。


 正月もはや7日、松飾りも取れ明日の成人の日が過ぎれば仕事も平常に戻ります。私は4日に岩手テレビの初仕事で盛岡、5日は花見化学、6日はいつもの山口放送ラジオの持ち番組でフル回転です。


なのに、何だか気合が入っていない感じでもどかしいのです。
本来なら、初詣から張り切ってスタートするのですが今年は少々違います。
昨年の10月に体調を崩して入院した母が、正月までは無理という医師の診断を裏切って年を越しました。
なんだか、これだけでホッとしてしまい気が抜けた感じで正月を過ごしたのです。母は、すでに食欲はなく点滴だけで命をつないでいる状態ですが意識はしっかりしています。
殆どの親戚身内は暮れのうちにお別れ見舞いを済ませていますから、母も気づいています。
私が差し出したミカンの人房を美味しそうにしゃぶりながら淡々と言います。
「なかなかお迎えが来ないねえ?」
私は「あと2,3年は来ないから長生きしちゃおう」と、もう何年もこれが口癖です。
今年の我が家の正月は悲喜こもごも、運命の女神は微笑むのか悲しむのか?
次女の長女が婚約者同伴で、父母より先に祖父母宅への来訪です。
結婚式も近く若い二人は輝いていて、家の中が明るくなります。
しかし、我が家の正月はいいことばかりではありません。
母の死が近いだけでなく、一番上の孫(長女の長女)が腫瘍の手術で入院中、いまは退院待ちです。
母は103歳で人生の元はとりましたが、孫の人生はこれからです。
こんな我が家ですから、私の初詣では、家族や周囲の人たちの健康安泰祈願、これだけです。

初詣も例年通り、近所の神社で淡々と済ませました。
私の今年の抱負? こればかりは例年と何も変わりません。
もの書き、弟子づくり、大鮎釣り・・・今年もこの三本柱で楽しみます。