秋が深まり朝晩がめっきり寒くなりました。
落ち葉が風に舞い、歩く人も背を丸めています。
季節がら肌寒いのは我慢できますが、心が寒々とするのはご免です。
母の入院が1ケ月になり、入院の原因だった尿感染症も完治し肺に溜まった水も抜け、病気は治りました。
だったら退院だと思いますがそうはなりまん。理由は食が細くてやせ衰え点滴ではもう体力が回復しないのです。
病気を治したのですから主治医からすれば当然退院です。
かといって家庭では点滴生活は無理ですから、医師は当然、そういう患者を受け入れる病院を紹介します。
ずいぶん親切な病院だと思って行ってみたら、末期症状の寝たきり患者だけで車椅子に乗る人もいない病院でした。
母がお世話になっても面会の部屋もなく病室で会うだけ、リハビリなどもありません。
こんなところはまっぴらごめんで、次に行ったところは大いに気に入ったのですが、一般入院は空き待ちでOK、長期入院はダメです。
理由は簡単、なんと要介護度3以上でないと療養入院が出来ないのです。
そこで、一般病棟に入院してから役所に要介護度の見直しを申請することになりました。
今なら間違いなく要介護度3以上、折角の1を悪くするのですから妙な話です。
ここは療養型病院でリハビリもOKですので、母にはピッタリ・・・ベッドが空けば移れます。、
母は、入院前までは杖なしで歩ける状態で要介護度1、1ケ月で病気も治ったのに痩せ衰えて死に面しているのです。
つい1ケ月前には普通に楽しく暮らしていた母が高熱のため病院食を食べなかったため点滴にされ、自分で行けるトイレも大っ嫌いなオシメにされて人間の尊厳を奪われたまま一気に体力を失ってしまったのです。
若い男性主治医は百歳以上の患者をみるのは初めてですから「もうダメ」の先入観があっても仕方ありません。
母がお世話になっていた施設・元気村の担当者も母の容態を見に来て「点滴がとれてもこの衰弱じゃ」と逃げ腰です。
人間の理想の死は老衰です。
意識は徐々にかすれて食が細くなり、やげて水も飲まなくなって穏やかに呼吸が止まるそうです。
もしかすると母もその域に達しつつあるような気がします。
だとしたら、私もまた穏やかに母の死を看取るのが親孝行なのかも知れません。
なんとしても105歳まで! これは私の手前勝手な無理難題、母にとっては迷惑な話だたのです。
いま母は103歳と3ケ月・・・よく男5人(長男は故人)を育ててくれました。感謝感謝です。
と、悟ったつもりでも子としては親の長生きを願うもの、これから病院です。
もう持ち込み自由ですから、毎回栄養価の高い食べ物を一口でも、と親不孝ですが頑張ってきます。
月別アーカイブ: 2017年11月
3連休終了です。
文化の日からの3連休の最終日もほぼ終わり、今年もまた文化的でない連休が幕を閉じます。
「文化の日」が祭日として制定されたのは昭和23年(1948)で、それまでは明治天皇の誕生を祝う「天長節(明治節とも)」でした。
同年に公布された国民の祝日に関する法律(祝日法)によれば、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」のが文化の日の趣旨です。
この3連休は長女家族、次女家族、長男家族が集結して久し振りに賑やかでしたが、夫々がお目当ての買い物ツアーだっだり、ライブやコンサートだたり我が家を拠点としてジジババを財布代わりに車3台で出たり入ったりで落ち着きません。
しかも11月生まれが3人いるからと3人の名入りケーキで誕生会ですから主役も曖昧です。
いつもなら施設から外出帰宅の103歳長寿母と主役を分ける7歳小2の男孫が、誕生月でもないのに蝋燭の炎を消していました。
私は、その騒乱の合間にHPの掲載に追われ、入院中の母の元に連日通い続けますから目茶目茶忙しいのです。
この3連休、孫との鯉釣りの時間もなく、潮が引くように子供や孫が去った日曜日の夕暮れ時にこの一文を書いています。
母は熱も下がり肺に溜まった水も引き始め、食が細いため回復は遅れていますが命には別条ないようです。
それにしても母を見ていると、人間の生命力の凄さをつくづく感じさせられます。
食欲がないと病院食を食べないので、いろいろ栄養価のあるものを用意して持ち込むと面白いように食べるのです。
つい先日まで何も食べなくて衰弱していたのがウソのようなのです。
その切っ掛けは、私が「このまま食べないと死んじゃうって医師が言ってたよ」の一言からです。
やはり、「もっと生きたい」のです。
昨年の七夕の短冊は「この幸せが続きますいうに」、今年は「もっと長生き出来ますように」です。
元気村という県内一の評価を得た老人施設にいて100歳以上ただ一人で皆さんから大切にされますから楽しくて仕方ないのです。
しかも、ここ数年でイケメンの介護士が一気に増えていますから余計張り切っているのです。
何故、男性介護士が増えたのかケアマネに聞いてみたら、母体の会社が介護士学校を経営していて、卒業生を傘下の施設に送り込んでいるそうで、母が世話になっている施設が県下一の評価を得たことで優秀な成績の卒業生が送り込まれているそうです。
そんな若い元気な異性に身の回りの世話をしてもらっていたら母の長生き願望は当然・・・これは我が身に置き換えれば理解できます。
と、精神的な若返りが肉体的な若返りを呼び起こす現象で長寿に寄与するのは間違いありませんが、食生活はどうでしょうか?
母親が好きな食べ物は、ご飯、野菜入り味噌汁,漬物、納豆、生卵、煮魚、柿や焼き芋など原始的で、文化的食生活とは思えません。
「文化の日」があるなら「原始の日」や「文明の日」があってもいいような気がします。
もっとも「海の日」「山の日」がありますから「原始の日」は不要でした、失言です。
では「文明の日」は?
文化とは? で調べると「人間の生活様式全体」「人類が築き上げた有形・無形の成果全体」「諸民族それぞれの地域・社会に固有な生活様式」などと定義されています。
さらに、文化的生活となると、それらの生活様式に添った暮らしぶりをいい、それらは学習によって伝習され、相互の交流によって発展し続けること、などと少し複雑になります。
その文化の中に、哲学、芸術、科学、宗教などの精神的活動や所産があり、物質的所産としては、便利さやモダンな感覚などで表現する衣食住関連の全ての物質があり、さらには、民族や社会の風習、伝統、思考方法や価値観など、過去から未来に継承される「文化遺産」「文化住宅」などの聞き慣れた言葉が沢山出てきます。
それに対して「文明」という言葉は、「文化」ほど細かく広範囲には用いられず、時代や地域が限定される上に経済や技術の進歩に重きを置かれているのが特徴です。例としては「黄河文明」などがあります。
そこで、「文化の日」はあっても「文明の日」はなくても不思議ではないことに納得です。
こうして今年もまた「文化の日」からの連休を文化とは無縁に終えることになりました。
さて、ここで自らを省みると、山が好きで川が好き、ご飯・味噌汁・生卵・・・やはり原始人の子は原始人でした。