月別アーカイブ: 2017年10月

母も私も正念場


東京オリンピックまであと千日とか、テレビではお笑いタレントがお祭り騒ぎです。
私の目はその時まで持つのか?
曇り日の風冷たき秋の夕暮れ、ふと心によぎる慙愧の思いがあります。
オリンピックに出場するためのアスリート達の血の滲む努力が理解できるからです。
スポーツや武道だけでなく音楽など芸術の世界でも、日本一とか世界一になるにはいかに大変かは誰もが知っています。
私の一族で世界一は、イトコの子・武藤富士津夫六段(福島県警)が1991年の剣道世界選手権優勝者、私は応援団長でした。
自分自身は弓道5段で全くの鳴かず飛ばずで日本選手権3年連続出ると負け、名もない選手権優勝程度で挫折、早々に引退です。
あの時、未熟ながら一所懸命死力を尽くして頑張ったら、もっと何とか成ったのか?
暫し瞑目沈考して呟く言葉はいつも同じ「でも今が一番・・・」、今の自分が実力ですから過去に未練はないのです。
さて、その身内の期待を一身に背負って長寿記録に挑戦と張り切っていた母親が、どうやら103歳で失速気味です。
築地の事務所で仕事中だった私には寝耳に水の「39・1度の高熱で入院」の電話です。
つい先日の敬老の日間では健康で杖なしで歩いていた母親が、お世話になっている施設内で尿感染で発熱し近くの病院に緊急入院です。
27日(金)、入院から数えてまだわずか10数日、早くも担当医から「容態が急変」との緊急呼び出しです。
若い医師に別室に呼ばれて、いよいよ母の終焉かと覚悟を決めました。
以前、我が家に母を引き取る時の末期状態時も、医師に責任はない、かのようなサインをしたことがあります。
千葉県の病院では、「延命治療打ち切り」でサインをしたこともあります。
要介護度5で回復の見込み無しだった95歳の母が、今は要介護度1ですから、もう何も恐れるものはありません。
ギブアップの兄嫁から点滴と酸素吸入の母を引きとって8年を過ぎました。
医師は、母が何も食べないので体力が弱って肺に溜まった水も排除できず、点滴だけでは衰弱して死ぬのを待つだけだと言うのです。
食事さえ取れれば・・・その思いで売店からプリや冷たい飲み物を買って母親に与えたら、なんと旨そうなのです。
医師から「食べないと死ぬ」と脅されたというと、母曰く「食事がまずくて」です。
いままで世話になっていた元気村という施設は食事もまずまずでしたし介護士も親切でした。
病院の看護師はめちゃめちゃ忙しそうで、声をかけるのも遠慮がちになってしまいます。
担当の医師も学校出たてのようで、100歳以上は初めてらしく対応に困っているようです。
そこで私は決断しました。
このままでは、元気村に戻ることも出来ず、といってここも厄介払いしたいのが見え見えです。
母の終(つい)の棲家を探そうと・・・そこで今度は逆手をとって若い医師を呼び出して相談です。
昨日と今日の二日間、母をそっちのけで、その若い医師のプライドと私の意地を賭けた攻防が始まっています。
私の言い分は、母をもう一度健康に戻してくれたら、療養型病院に移して長生きさせて見せます、というものです。
これで、母に投げやりだった若い医師もなんとか、母を一時的にろ元気にしようとした様子です。
明日の日曜は、その医師は休養日だそうですから、私は母が食べるような食べ物持参で面会です。
あれ? たしか自分自身も風邪気味だったのに、すっかり治っているようです。母も私も正念場・・・ここ数日が運命の分かれ道になるかも知れません。

台風、選挙、どちらも大変!


埼玉北部の我が家の周辺は、夕方は雨も風もなく不気味な静けさでしたが、夜になってやはり雨脚は強くなり、雨戸を揺らす風の音も何やら騒がしくなりつつあります。
九州・四国や近畿地方では住民避難の勧告が出たりして大変のようですが、関東でも千葉県などでも同様で、全国的に被害が出始めているようで心配です。
首都圏も明日未明には1時間に300ミリという豪雨を伴った台風21号が襲来すれば、どうなるか分かりません。
多分、通勤時間帯のダイヤの乱れどころの騒ぎではないような気がします。
気象庁によると、今回の台風は、過去最大規模の大型台風だというのですから大変です。
無事に何事もないことを祈るばかりです。
気象庁の予報が当たるか外れるかは別にして、つい数か月前までは台風の目だった小池旋風もついに色あせて負け戦さになりました。
なにしろ、自公合わせて3分の2を獲得する勢いなのですから、自公の躍進を許した野党の敗因は、民主党の分裂や、その一部を受け入れた希望の党との間に生まれたドロドロした醜い分裂劇の影響による自滅とも言えます。
希望の党の敗因は、民主党前原派との野合にもあります。しかも、踏み絵のように受け入れた人と、排除した人を振り分けた横柄な態度も国民の意識を希望の党から遠ざけた一因になります。それらも含めて小池離れに拍車がかかったようです。
しかも、希望の党に排除された側は、枝野氏を党首に立憲民主党を結党して頑張った結果、なかなかの善戦です。
こう考えると、小池さんは組む相手を間違えたのも敗因の一つとして数えられます。
しかも、これで希望の党の爽やかなイメージも消滅しました。
選挙当日を前に出張と称してパリに去った小池党首は、鳥羽伏見の戦いの最中に敵前逃亡した徳川慶喜そっくりです。
て頭部をパリに
それにしても、政治の世界は一寸先は闇・・・つい先日のようにも思える、あの熱狂的な小池人気はどこに消えてしまったのか?
この日、嬉しかったのはボクシングの村田選手のリベンジ圧勝と母の体調回復、それにHPの書き込み完遂です。
これからも宜しくお願いします。

103歳母39度超の発熱で・・・


今週は、「村長の一言」の掲載が母の発熱で少々遅れました。
選挙にも国際問題にも触れずに恐縮ですが、今日も私ごとで失礼します。
この15日(日)は母がお世話になっている施設の年に一度の秋祭りでした。
ところが、生憎の雨で、いつもは施設の中庭で盛大に行われるイベントが室内になります。
これでは、大勢の来客を含めてのイベントですから集客しきれません。
家族ごとに集まる長テーブルは、ここかしこの廊下に並べられ踊りや太鼓集団の演技は見えない場所もあります。
ともあれ、職員の皆さんは揃いのハッピを着て楽し気に立ちまわっていて、利用者も続々と会場に移動中です。
母もこの秋祭りをたのしみにしていて、週末の自宅外出もせずに施設でこの日を待っていました。
なぜ楽しみかと言うと、この日は弟夫婦達も集まって大いに賑わうからです。
それが、朝一番に施設からの電話で、母が高熱で寝込んでいるとのことです。
すぐ行って看護師に状況を聞くと、早朝37度だった熱が、今は39。1度まで上がっている、と言うのです。
「すぐ入院?」と聞きますと、この日は医師不在ですぐ入院とは決めかねるので、抗生物資の投与で様子をみると言います。
この日は介護士や職員全員が祭りの支度や次々に訪れる利用者のご家族の応対でテンヤワンヤの大忙しで会話もできません。
母は、高熱の割りに意識ははっきりしていて、朝から点滴で「何も食べていない」、というので職員のいないのを幸いに、持参した皮をむいて小片にした冷たい柿を出すと「美味しい!」と、旨そうに食べます。
そのあと恒例の手揉みをすると軽いイビキでひと眠りです。その後、看護師が来て熱を測るとなんと37度5分に下がっていました。
顔色も良くなったので、ひとまず私は帰宅しましたが万が一に備えていつでも緊急入院の準備だけはしておきました。
あれから二日目、今日17日(火)の午前10時現在、37度で小安を保っていますので事務所に出勤しました。
肺炎の可能性がありますので、まだ予断は許しませんが105歳の目標達成まであと2年、ここまでは私も一緒に頑張れます。
この状況の中で、折しも昨16日(火)、「占い+長寿の本を書かないか?」と知人からの打診です。
なんだか少しばかりタイミングが悪すぎて、返事は「保留」です。
母がまた今回の危機を乗り切ったら、この話に乗ってみてもいいような気がします。
今日は、午後からの予定が、お相手が風邪で38度の発熱でダウン、用が一つ減りました。
ここ数日前から急に冷え込み、北海道ではあちこちで初雪があったそうです。
急の温度差で体温調整がうまくいかなかったりで体調を崩す人が増えています。
くれぐれもお体大切にお過ごしください。

東軍慰霊祭に参加して。


10月7日(土)、土曜日恒例の電話でのラジオ放送を終えてJR宇都宮線と新幹線を乗り継いで新白河駅まで行ってきました。
目的は、白河市の高台にある通称「山の寺」こと龍興寺で行われる第26回戊辰役東軍殉難者慰霊祭への参加です。
東北への関門でもある白河は、戊辰戦争の数多い戦いの中でも歴史に残る長期に渉る激戦地でした。
この白河に集結した東北各藩連合軍を撃破したことで西軍の優位は動かなくなり、会津への突破口も出来上ったのです。
その白河はすでに秋風冷たく、新幹線の車窓から眺めても北関東の埼玉・茨城から県境を越えて福島県に入ると明らかに紅葉の色合いが明らかに違って見えてきます。
案の定、午後2時30分から、戊辰戦争での戦没者を祀る龍興寺の海野仁兆和尚が厳かに読経を始めた頃は、本堂の入り口近いイスに座った私は足元が吹き込む冷たい風の餌食になって少々涼しい思いをしました。やはり、東京近郊と東北の入り口では気温に差がありました。
祭文奉読と焼香が終り、主催者でもある大出俊幸・元新人物往来社社長の司会で、歴史上著名なご先祖を持つ方々の紹介があり、その後、記念講演として、白河での最後の藩主・阿部正外(まさとう)のご子孫である阿部正靖氏(阿部家22代当主)が、徳川家と阿部家の関係、幕閣における安部家の役割、白河と阿部家、戊辰戦争と阿部家などについて数字を交えて詳しく話されまし
た。


その基礎になる資料のコピーを頂きましたが、これを見ると阿部家だけでなく当時の他藩の状況も推察できますし、つい幕末に思いを馳せて胸が騒ぎモノ書きの血が騒ぎます。

その後、お寺の大座敷での懇親会では、住職自ら作務衣(さむえ)に着替えて調理場に入っての山菜料理や魚介類、白河名物の角のない豆腐入り味噌汁や冷たい日本そば、私はとくに野菜たっぷりで皮がバリっと焼き上がった春巻きが気に入って赤飯と一緒に大いに食べました。
なにしろ、慰霊祭では僧侶の装束で読経をした住職が料理の特徴などを話すのですが、素朴な郷土料理という趣があってなかなかの味で料亭顔負け、お寺さんもなかなかやるものです。
ともあれ、喋る人は喋る、飲む人は飲む、食べる人は食べる・・・何だか楽しい山寺の慰霊祭&懇親会でした。
翌日は、白河の史蹟巡りツアーですが、私は103歳母との付き合いもありますので、夜の新幹線&在来線で帰路につきました。

 

 

再び介護について考えます。


 つい先日、この欄で母の介護の話を載せたところすぐ男女数人の方から相談がありました。
どなたも実父母か義父母の介護で悩んでいられますので、私の場合の心構えなど実際の気持ちをお伝えしました。
私はつい自分のことだけに捉われて「母親」「高齢者介護」についてのみ体験談を申しあげましたが、お問い合わせの中に「認知症高齢者介護」の方がいらして、その大変さに気付かされました。
私の母の場合、役所の介護度審査でも痴呆はゼロで要介護度1ですから、今は全く何の苦労もしていません。
実際、私の親しい友人の奥方(80歳)が認知症で方向音痴の徘徊癖があり、友人は仕事をセーブして家にいて、奥方から目を離さないようにしていて、その大変さはよく分かります。
以前、私が若い頃は「老いた親や身内の障害者は、家族が介護するのが当たり前」という風潮がありました。
そのために私は、酸素吸入、点滴補給で寝たきりの母を兄嫁が預けた病院から引き取った時に悲壮な覚悟を決めたのです。
自分の手で母を看取る・・・介護のカも知らない私にとっては無謀な挑戦で舌が、幸に老妻の手伝いもあって何とかなったのです。ただ、妻は、私から息子に引き継いだ本業の花見化学の経理をみていて私どもは共稼ぎ(少額ですが)、隠居の私より現役なのです。
ともあれ、はじめの1年は無我夢中で母に掛かりっきりでした。
まず築地の事務所を畳み仕事を止め、介護に専念出来る態勢を作らねばなりません。
占いの弟子には急ピッチでラストランさせて免状を出し、月一で開いていたプロ占術家対象の気学教室も中断、夫々に古い書物などを分け与えて終了、隠居仲間の飲み会も閉鎖し、もの書きやNET仕事やラジオ(電話対応)は家でやることに決めました。
訪問介護士(ホームヘルパー)を頼むという選択肢もあったのですが、死期が近い母を看取るのが子の役目、と私は考えたのです。
そのうち、地元の介護施設に勤めるケアマネの協力もあって、母は肩を添えれば自力でトイレに行けるまでで回復し、要介護度も5から4、4から3と下がった頃から、デイサービスで、ケアマネの勤める元気村という施設に通うようになり、私も短時間出勤で築地の事務所に通えるようになり、ホッと一息つけるようになりました。
この「介護」が国の施策として始められた歴史は古く、1970年代から戦争障害者の恩給支給から始まって徐々に公的介護保障が制度化されてきたようです。
その後、1980年代に入って介護人派遣事業の制度化、地方自治体による高齢者の訪問介護などが、家族介護への支えになってきます。
ただ、母が世話になっている介護施設の役員に聞くと、介護の仕事は公的な縛りもあり、高利益を期待できる仕事でもなくボランティア的な側面もあるために従業員に高級は払えず、働く側も知識や資格を必要とし、介護福祉士、訪問介護員など介護支援専門員は、仕事の肉体的・精神的負荷が大きく、仕事の難易度の高さの割には低賃金のために、恒常的な労働力不足の状況にある、と言うのです。
今は昔と違って介護保険法や支援費支給制度によって障害者が在宅介護や施設介護を受けやすくなっていますので、自分だけで悩まずに公的機関の助けやサービスを積極的に受けて労力や精神的な自己負担を出来るだけ軽減すべきです。
この介護の専門性を考えると、いずれは系統だった介護福祉学的な学問分野が確立されてもいいような気がします。これには、現在まだ地道な活動で知られつつある日本介護福祉士会や、その内部組織である日本介護学会の積極的な啓蒙運動が必要不可欠となります。
私は前述のように最近になってようやく、高齢者介護施設の取材を始めています。
以前、文芸春秋社の元社長から介護の話で書籍出版を勧められて、母が世話になっている施設に取材を申し込んで経営者から断られた経緯があります。取材拒絶の理由は、どんなに良くても細かく調べれば、「人材や設備などで不備が出たり陰の部分も見えるかも知れません」とのことでしたが、ここでお世話になった母が、103歳のいまも元気で杖なしでも歩ける状態でいられるのは、この施設での介護のお蔭であるのは間違いありません。今年は100歳以上が私の母だけでしたからといって、特別扱いされているわけでもありませんから、やはり、何かが違うのは確かですので、幹部にはお断りして、地元の市長と約束した地域振興小説の中に取り込むための取材を開始しています。
ここで気づいたのは、高齢者施設の入居者は100%、食事、入浴。排泄の三大介助のいずれかで介護士のお世話になっていることです。
しごく当然のことですが、何もかも自分で出来る私の母でさえ入浴は一人では出来ません。いくら一人で入浴する、と頑張っても、転んだら大変だからと介護士がつきっきりで体まで洗ってくれていて母は不服でも為す術もありません。
この作業には、この施設では数少ない看護師も医療行為だけではなく、積極的に介助に参加していることも知りました。
それにしても、81歳の私が介護する側にいて、高齢者施設には要介護度3以上の70代の入居者がゴロゴロいる事実には驚きます。
健康で長生き・・・日本初のストレス解消サロンを開き、同時に長寿の研究を始めた私としては、「健康で長寿」を旗印に、築地の事務所を整理しての「開運道・癒しサロン」開設も考慮中・・・それにはまず自分自身が健康でもっと長生きしてからのことです。

いま、介護で辛い思いをしている方へ・・・
介護する側のストレス解消と明るい笑顔は、必須項目です。
その心の余裕をつくるには、介護を嫌なものと思わないで済む心構えが必要です。
私は、そのためのお手伝いを考えました。
教えるのではありません。私の実践してきたことをお伝えするだけです。
まずメールで状況をお聞きし、深刻度や重要度など必要に応じて優先順次を決めさせて頂きます。
開運村HP常連で、いま介護中か、これから身内の介護をしなければならない人だけにお伝えします。
私の意を汲んで、その必要性を感じた方は、masaki94581@nifty.com 花見正樹 にメールをください。
出来るだけ速やかにご返事を差し上げます。