鷹見泉石をご存知ですか?
花見 正樹
7月8日(土)、茨城県古河市中央町の文學資料館に行って参りました。
鷹見家11代当主の鷹見本雄(もとお)さんの「蘭学家老・鷹見泉石の来翰を読む」の出版パーティです。
私の住まいは埼玉県久喜市内栗橋という宿場町で、利根川の渡船場近くに関所がありました。
それ以外は、全くといっていいほど他に自慢できる史蹟もありません。
そこから利根川を渡ると茨城県古河市で、一般的には譜代大名・土井家八万石として知られ、歴史の宝庫でもあります。
古河城は鎌倉時代の初期に活躍した御家人・下河辺行平によって築城され、転々と城主を変えています。
天正18年に後北条氏が滅び、秀吉の命で駿河・東海に5カ国から関東に移討された徳川家康は古河を重要視し、嫡男松平信康の娘婿である小笠原秀政を3万石で下総国・古河に入部させます。ここから古河は譜代大名の城下町として発展します。
城主は、3万石(譜代).小笠原秀政から始まって、松平家、小笠原家、奥平家、永井家、第一期・土井家5代(16万石→7万石)、堀田家、松平(藤井)家、本多家、松平(松井)家、第二期土井家7代(7万石→8万石)となっています。
そして、前述の如く幕末期の土井家だけが飛びぬけて有名で、古河といえば土井家八万石といわれます。
その大きな要因の殆どは、幕末の城代家老・鷹見泉石(たかみ せんせき)の業績に負うところが多いのです。
鷹見泉石(天明5年・1785~安政5年・1858)は、江戸時代の蘭学者で古河藩家老、名を忠常、通称を又蔵、十郎左衛門。字を伯直(はくちょく)といいい、さらに号は泉石の他に楓所(ふうしょ)、泰西堂(たいせいどう)、可琴軒(かきんけん)などがあり、さらに、ヤン・ヘンドリック・ダップルというオランダ名もあるという名前大臣です。
幕末期の鷹見家は家禄250石、泉石は藩主に補佐して全国各地へ同行して「土井の鷹見か、鷹見の土井か」といわれるほどの力を発揮し賞賛されています。
弘化2年に330石に加増されながら翌年の弘化3年(1846)に罷免されて古河に隠遁します。
泉石は、対外危機意識の高まる幕末期に、早くから海外事情に関心をもち、地理、歴史、兵学などあらゆる学問の習得と書物の収集に努め、川路聖謨、江川英龍、渡辺崋山、桂川甫周、箕作省吾、司馬江漢、谷文晁高島秋帆、大黒屋光太夫、足立左内、潁川君平、中山作三郎、カピタン(オランダ商館長)など幅広い分野の博識者と広く交流を持って洋学にも貢献しています。
渡辺崋山筆による鷹見泉石像(東京国立博物館蔵)は天保8年(1837)、泉石53歳のもので、西洋の画法も取り入れた近世画の傑作として国宝に指定されています。下世話な話で恐縮ですが時価数億円・・・内緒話です。その肖像画を惜しげもなく名刺に用いている方が、上記写真み左の鷹見家第11代当主の鷹見本雄(もとお)さん12代目の好青年・忠雄さんはまだ用いていない様子でした。
鷹見泉石の功績の一つに『鷹見泉石日記』があります。
これは泉石が職に就いた12歳から、なんと60年間にわたって書き続けた公務中心の日記で、泉石の交友の広さと、客観的な視点での文章から史料価値の高い一級資料になっています。
とくに、大塩平八郎の乱については泉石自身が鎮圧に当たったことから事件の詳細が分かります。
その『鷹見泉石日記』をはじめ書状や地図、書籍や絵画など、古河歴史博物館が所蔵するだけでも鷹見泉石関係資料は3000点を遥かに超すそうですから、鷹見泉石の偉業も、それらに加えて広大な家老屋敷の管理に関係する第11代、12代の鷹見家ご当主のご苦労も察して余りあるものがあります。
隠居した泉石は、安政5年(1858)、古河長谷町の現在の古河歴史博物館・鷹見泉石記念館にあたる隠居屋敷で死没、享年74歳、墓地は古河市の正麟寺にあります。
さて、私の住む久喜市の市長とは旧知の仲ですが、今回、古河の市長、教育長と親しく話し合えたことは今後の古河史取材に極めて有意義でした。この出版パーティにお招き頂いた宗像善樹ご夫妻に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。