追悼・山中毅(つよし)!


 ここのところ身の回りの訃報が続きます。
昨年は、小川宏ショーの小川さん、私もレギュラー出演者の一人で、二人で山陰地方に講演旅行に出掛けたこともあり、家族付き合いだった仲だけに、思い出はいっぱいあり過ぎて辛いです。開運村HPの常連エッセイスト・村山恵美子さん、元ダイヤモンド社社長・岩佐豊氏の死も痛手です。さらに辛いのは、この1月に訃報に接した京都府綾部市の倉橋まゆみさん。私が執筆中の綾部市を舞台の小説の材料にと、エッセイでの情報提供を頂きながら出版前の突然の死ですから私にとっても大打撃です。早速、今日から日本文芸学院の投稿欄に掲載を始めました。故人の遺志を継いで、その旦那さんから引き続き情報提供を頂けるだけに、是が非でも「綾部の里に花が咲く」は出版しなければなりません。
そして先日、私にとって弟のような存在でもあった山中毅氏の訃報、これもまた辛いことです。昨年の暮れ、食事も喉を通らない体で、どうしても会いたいからと、途中の駅で休憩しながら私に会いに来てくれたのがラスト外出で、その後に入院したとのこと、古武士を思わせる律儀で不器用な男でした。私との縁は、私と親しかった友人が早大水泳部で山中氏の2年先輩の教育係りだった関係からです。その友人は、太田勝(まさる)といって平泳ぎでアジア大会は金でしたが五輪では活躍できませんでした。その太田勝氏は、フジテレビでプロ野球ニュースの担当プロデューサーとして活躍しましたから実社会では成功しましたが、かなり前に早逝しましています。
山中氏は、アニマル渡辺ら五輪組やプロ野球、力士などスポーツ仲間と私の事務所に入り浸っていた時期がありました。山中氏の選手時代の全盛期には100mから1500mまでの自由形で日本選手で勝てるのはいなかったのですが、先輩の古賀選手の貫禄で山中選手は100mには出場しませんでした。したがって100mだけは古賀選手の独壇場でした。
山中選手は石川県輪島市出身で、輪島高3年から五輪出場、1956年メルボルン、60年ローマ、64年東京オリンピックの3大会に出て、合計4ケの銀メダルを獲得しています。そのように大活躍だった山中氏本人はいつも、「銀4ケより金1ケでよかったのに」とボヤいていたものです。
肺活量も普通の人の二倍以上、そんな山中氏でも病には勝てず糖尿病で週3回の透析でつに肺炎を患って帰らぬ人になりました。
40年も以前のこと、プロ野球中日ドラゴンズの4番打者だった江藤慎一氏も私の事務所にいた時代がありました。江藤選手はセパ両リーグの本塁打王、引退後は監督もしたことがありますが、引退後、少年野球の指導団体を立ち上げていました。そこに山中氏と私が顧問という形で参加して江藤氏をバックアップしたこともあります。
その江藤氏もすでに亡く、徐々に櫛の歯が抜けて周囲がスカスカになってくる感じです。
そろそろ間違いなく自分の番なのですが、102歳で元気な母親を抱えているだけに、そう簡単には逝けません。もう少ししぶとく生きて、やりかけ仕事を出来るところからボチボチ完成させて参ります。