9月8日(木)、靖国神社・游就館において執り行われた清河八郎慰霊祭に、友人の小美濃清明氏(幕末史研究会会長)に誘われて参加して参りました。先年、山形県庄内にある清河神社に詣で、清河八郎記念館で資料調べもさせて頂いた関係もあって、この会に参加することは戊辰戦争を執筆する身にとっては意義あることでした。
考えたら妙なもので、清河八郎や坂本龍馬を斬った会津の佐々木忠三郎の墓参もしますし、清河八郎とケンカ別れした新選組局長・近藤勇の墓前祭は毎年常勤の私ですから、節操がないとも思います。それでも、こんな機会がないと靖国神社とは縁がありませんし、清河八郎も私の小説に登場しますので、それなりの意義はあります。人数は17人と少なめでしたが、さすがに参加メンバーはなかなかで、清河八郎ご子孫は当然として、千葉周作、藤本鉄石など歴史上名のある方のご子孫も参列されていました。
靖国神社は、明治2年に建てられた東京招魂社が元で、明治12年に改称されて靖国神社になりました。国家のために命を捧げ人々の御霊を祀るのが目的で、明治維新、戊辰の役、西南の役、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などで亡くなった246万余の方々の霊が祀られています。ところが、戊辰戦争の奥羽列藩同盟を含めて、東軍の死者は、たった1名の例外を除いて、あとは誰も祀られていません。東軍は賊軍? 果たしてそうだったかどうか? これから私は自分の小説の中で検証して参ります。もちろん、天皇の軍隊で錦の御旗を掲げた軍隊の将兵が、略奪、殺戮、強姦などの悪行を働くわけがありません。もしも、そんなことをしたら天皇の軍隊どころか人間としても失格です。もしも、そんな極悪人までが英霊として祀られているとなると靖国神社の存在理由すら揺らいできます。それに、賊軍とされた奥州列藩の将兵が、国を思わなかったとも言えず、孝明天皇の信頼厚かった会津藩主・松平容保公が賊だったとも考えられません。
それに、靖国神社のパンフレットのどこにも戊辰戦争の勝者のための神社とは書いてありません。明治維新150年、靖国神社創建150年は目の前に迫っています。それに合わせて、戊辰戦争で賊軍の汚名を被せられて不遇な歳月を耐えて生きた東北各地の敗者の怨念を、そのご子孫に替わって晴らせるかどうか、あるいは、それが当然の因果応報で、東北各藩は、やっぱり天皇に反逆する賊軍でしかなかったのか? きっちりと自分なりの決着をつけさせて頂きます。ちなみに、東軍で唯一人、靖国神社に祀られたのは、奥羽列藩同盟を裏切ったとされる三春藩の藩主ではありません。なんと小藩ながら藩の重役以下ほぼ全員が虐殺同様に全滅した唯一の藩である二本松藩の農兵隊指揮官・三浦権太夫義彰で、二本松城落城と共に壮烈な戦死を遂げていますが、戦後、純粋な勤皇論者であったことが知れて、靖国神社に合祀されたのです。
この多くの少年、老人、農民が戦死・全滅した悲惨な「二本松の戦い」もいま執筆中、いずれHP上での連載も考えています。