月別アーカイブ: 2016年9月

二本松少年隊の悲劇


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 二本松少年隊の悲劇

 半年ぶりに会津に所用があり、帰路、二本松に立ち寄りました。 二本松の霞城(かすみじょう)内では、10月中旬からの日本一と称する{菊祭り」会場の設営に市を挙げての工事が急ピッチで進んでいました。
いま、私は、この霞城と二本松藩を舞台にした小説を書き始めたところです。 戊辰戦争では、将兵約千人、農兵や老人子供などを併せても2千人、これで優秀な武器を持つ圧倒的多数の侵略軍と戦って2日で全滅します。 家老以下12歳もいる少年隊の壊滅を含めて勇猛果敢、実に見事な戦いぶりで玉砕しますが、ここでも藩主だけは逃げ延びています。藩主が切腹して、家来の命乞いをする、そんな気概のある藩主であってほしいものですが、この時藩主は病床にありましたから仕方ありません。小説では、城と共に運命を共にするという藩主を、家老が無理やり逃します。これも武士の情けです。
それにしても、肩に背負った長刀を自分では抜けず、仲間同士で抜きあった幼い少年たちの戦いぶりは見事なものでした。 戦い慣れた多勢の横暴な敵と白兵戦で斬り合って一歩も引かずに死んでいった幼い少年たち・・・ 二本松市に立ち寄った目的の一つは少年たちと、城内で自刃した家老一族の眠る大隣寺です。その墓前に線香を手向け冥福を祈りました。
私は東京府世田谷若林町生まれですが、両親は会津喜多方市出身、父方は祖先は神官の出、母方は郷士で穴沢流薙刀術関連の穴沢家野で出で鳥羽伏見でも一族に戦死がいますから、当然ながら会津白虎隊びきのはずですが、今は二本松少年隊びいきです。
綾部市を舞台の小説が未完なのに、二本松を舞台の小説までとは思いますが今がチャンス、幾つかの仕事を併せ持って書き続けます。そのうち、ご要望があれば、このHPでも連載を始めるかも知れません。楽しみにお待ちください。

(注)写真館もご覧ください。

佐藤彦五郎忌


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「坂本龍馬は好きだけど新選組は嫌い!」というあなた、好き嫌いは横に置いてご一読を。
9且19日(月・祭日)、日野市にある大昌寺(浄土宗知恩院末寺)における佐藤彦五郎・のぶ夫妻忌法要に参加して参りました。
幕末時の日野の大名主だった佐藤彦五郎の妻・とく(のぶ)は、後の新選組副局長・土方歳三の実姉です。その佐藤彦五郎は、代官・江川太郎左衛門英龍に見込まれて、わずか11歳にして祖父の後を継ぎ日野宿名主の名跡を継いでいます。彦五郎は歳三の義兄であると共に、天然理心流・試衛館道場を継いだ近藤勇とも義兄弟の盃を交わしており自らも免許皆伝、近藤&土方らが京都市街警備の新選組結成後は、近藤勇の代稽古として多摩地区各道場の指導を始め、精神的にも経済面でも全面的に新選組を援助し、新選組の甲州進攻には、農兵隊(春日隊)を組織して甲陽鎮撫隊に加わり実戦にも参加しています。
佐藤彦五郎は、私の描く戊辰戦争(小説)にも登場する主要人物で、佐藤彦五郎なくして新選組は語れなません。私は、戊辰戦争の会津侵略の遠因は、京都守護の新選組が長州浪士を倒した池田や事件の私怨も絡んでいるとしています。そう考えると、佐藤彦五郎もまた日本の歴史を動かした陰の人物として見逃すことが出来ません。その意味では、今回の佐藤彦五郎忌は私にとっても大事な法要となり、佐藤彦五郎・のぶご夫妻のご冥福を心から祈念申し上げる次第です。
また、本年は佐藤彦五郎新選組資料館(館長・佐藤福子さん)の開館10周年、その節目となる記念イベントとして、新選組研究家の菊地明・伊東成郎・山村竜也各氏3人による新選組講演会トークショーが行われ、それを目当てに新選組ファンの若い男女が大勢参加し大盛況。私は所用で参加できませんでしたが歴史マニアの増加は嬉しい限りです。

スマホのない日々。


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 お元気ですか?
ほぼ6日間、携帯(スマホ)のない生活を味わいました。おかげで友人知人や仕事関係、家族身内などあらゆる人との連絡がパッタリと途絶えて静かな日々を過ごすことが出来ました。なかには緊急の用事もあったのを帰京後知りましたが、そんなのは後の祭りです。
ところが、平均寿命を超えた後期高齢者の私ですから、友人の中には何回メールや電話をしても私が出ないので、我が家にまで電話して、
私が九州に鮎釣りに出かけたことを知り、家族はいつものことで何とも思っていないのに、「溺死?」「急病?」「失踪?」「認知症で徘徊?」などと勝手に推測していた不届きな友人もいました。ま、私自身は携帯など使えなくても痛くも痒くもないのですが、一週間近く連絡不能となると急用のある人からみれば、「家出=失踪}と疑われても仕方ありません。
その携帯を巡る経緯は次のようなものです。
11日(日)から九州球磨川の大鮎釣りに出掛けてきました。その折りに、河原に置いたリュックが豪雨で「ずぶ濡れになり中に入れておいた携帯がやられました。リュックに被せておいたポリ袋が風で飛んでの不測の事故です。鮎釣りで携帯をダメにするのは初めてではありませんので慌てることではありません。これは釣り仲間の誰もが経験していることです。帰京して16日(金)の午後、事務所近くのドコモショップに行き、故障したタイプと同じ品がありましたので早速購入しました。ところが、受信メールの再生は出来ましたが、受信電話の再生記録がありません。これを用いて返信スタイルで電話をしていただけに不便で面倒、こちらからは一切電話しないことにしています。それにしても、携帯、パソコンのない一週間近い山の宿の生活・・・度重なる勧誘や売り込みの電話もメールのない生活は素晴らしものと知りました。
なのに、帰京してすぐ、スマホを購入しないと日常生活が成り立たないような錯覚での日常生活。ここからの脱却は、そう簡単ではなさそうです。
さて、そこまでして夢中で大鮎を追った釣果は? やはり、下手の横好きでいつも通り、自慢できるほどではないのが残念です。

靖国神社に思うこと


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9月8日(木)、靖国神社・游就館において執り行われた清河八郎慰霊祭に、友人の小美濃清明氏(幕末史研究会会長)に誘われて参加して参りました。先年、山形県庄内にある清河神社に詣で、清河八郎記念館で資料調べもさせて頂いた関係もあって、この会に参加することは戊辰戦争を執筆する身にとっては意義あることでした。
考えたら妙なもので、清河八郎や坂本龍馬を斬った会津の佐々木忠三郎の墓参もしますし、清河八郎とケンカ別れした新選組局長・近藤勇の墓前祭は毎年常勤の私ですから、節操がないとも思います。それでも、こんな機会がないと靖国神社とは縁がありませんし、清河八郎も私の小説に登場しますので、それなりの意義はあります。人数は17人と少なめでしたが、さすがに参加メンバーはなかなかで、清河八郎ご子孫は当然として、千葉周作、藤本鉄石など歴史上名のある方のご子孫も参列されていました。
靖国神社は、明治2年に建てられた東京招魂社が元で、明治12年に改称されて靖国神社になりました。国家のために命を捧げ人々の御霊を祀るのが目的で、明治維新、戊辰の役、西南の役、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などで亡くなった246万余の方々の霊が祀られています。ところが、戊辰戦争の奥羽列藩同盟を含めて、東軍の死者は、たった1名の例外を除いて、あとは誰も祀られていません。東軍は賊軍? 果たしてそうだったかどうか? これから私は自分の小説の中で検証して参ります。もちろん、天皇の軍隊で錦の御旗を掲げた軍隊の将兵が、略奪、殺戮、強姦などの悪行を働くわけがありません。もしも、そんなことをしたら天皇の軍隊どころか人間としても失格です。もしも、そんな極悪人までが英霊として祀られているとなると靖国神社の存在理由すら揺らいできます。それに、賊軍とされた奥州列藩の将兵が、国を思わなかったとも言えず、孝明天皇の信頼厚かった会津藩主・松平容保公が賊だったとも考えられません。
それに、靖国神社のパンフレットのどこにも戊辰戦争の勝者のための神社とは書いてありません。明治維新150年、靖国神社創建150年は目の前に迫っています。それに合わせて、戊辰戦争で賊軍の汚名を被せられて不遇な歳月を耐えて生きた東北各地の敗者の怨念を、そのご子孫に替わって晴らせるかどうか、あるいは、それが当然の因果応報で、東北各藩は、やっぱり天皇に反逆する賊軍でしかなかったのか? きっちりと自分なりの決着をつけさせて頂きます。ちなみに、東軍で唯一人、靖国神社に祀られたのは、奥羽列藩同盟を裏切ったとされる三春藩の藩主ではありません。なんと小藩ながら藩の重役以下ほぼ全員が虐殺同様に全滅した唯一の藩である二本松藩の農兵隊指揮官・三浦権太夫義彰で、二本松城落城と共に壮烈な戦死を遂げていますが、戦後、純粋な勤皇論者であったことが知れて、靖国神社に合祀されたのです。
この多くの少年、老人、農民が戦死・全滅した悲惨な「二本松の戦い」もいま執筆中、いずれHP上での連載も考えています。

水の恐ろしさ


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 激しい豪雨を伴って東北・北海道を襲った台風10号の被害が続いている中、台風12号が奄美大島から九州に接近中、かなり強い暴風雨らしいので大雨洪水、高波にも警戒が必要です。この台風は、4日(日)から5日(月)にかけて西日本では大雨になるとの天気予報です。
それにしても、過ぎ去った台風10号による岩手県では、未だにあちこちで被害が續いていて、道路寸断などで29集落が孤立し、岩手県和泉町乙茂の高齢者グループホーム「らんらん」では9人の高齢者が洪水の犠牲になって溺死していて、死者は12人となっています。
岩手県災害本部によると、岩泉町で孤立集落の住民は、まだ千人以上、20人近い住民と連絡が取れていません。なんだか、被害はまだまだ増えそうです。ともあれ、102歳の母を介護する身にとっては他人事ではないような気がします。いくら高齢でも母にはなお生きて欲しいのが子の心です。お亡くなりになった方々には心からご冥福を申し上げます。
それにしても、川沿いの低地に建てられた高齢者施設への疑問は尽きません。
なんで、こんなところに? です。
しかも、このような時の関係者の釈明は決まっていて「このような事態は予測できなかった」です。
過去に、崖下の家に住み、土砂災害で家を潰されて「予測できなかった」との被害者のコメントを聞いたことがあります。
私が大鮎釣りに通う、球磨川県球磨郡一勝地の鮎宿近辺も、球磨川沿いの土手上の道沿いに家が並び、山側は高い崖が迫っています。
鮎宿を含めて地元住民は、赤松が密集して根が張っているから土砂崩れは無い」と言い切っていました。ところがここ数年、大型台風が九州を襲う度に、近辺のどこかが崩れて道が塞がれて車両通行禁止になって、釣り場に直行できず大きく迂回したりしています。
先月のお盆過ぎは渇水で釣行を取りやめたのに、今度は台風襲来と釣り相棒の緊急入院で2日からの球磨川行きが延期・・・何だかここ数年、いい釣りを忘れていますが、激流の恐ろしさも忘れている自分がいて、ふと不安に襲われることもあります。
80歳を超えた自分が、果たして日本三大急流一番の球磨川の激流に胸まで立ち込んで、大鮎を掛けた時、弓なりになった竿を立てて下流に引き込まれながら流れに耐えて獲物を取り込めるか? それだけの体力があるのか? こればかりは実際に体感しなければ結論が出ません。
日延べを何回か繰り返した今回は9月11日からが決定行です。いつか、激流に吞まれて「予測できていた」と呟いて流されゆく自分を想像はするのですが・・・それでもなお「今年だけはまず大丈夫」、こう自分に言い聞かせているのも例年のことです。