お元気ですか?
先日、テレビのニュースで来日中のユニセフ南スーダン事務所代表・ジョナサン・ベイチさんが、南スーダン共和国の悲惨な内戦について語り、難民救済への援助を訴えているのをチラと視聴しました。
地図で見ると南スーダンは、北にスーダン、東にエチオピア、南東にケニアとウガンダ、南西にコンゴ民主共和国、西に中央アフリカなどに囲まれたアフリカ中央よりやや東寄りのる内陸国です。
つい5年前にスーダン共和国南部10州が独立して、アフリカ大陸54番目の国家としてうぶ声を上げたばかりで、もう激しい内戦で民族抗争を續け、国内は殺し合いでめちゃめちゃです。
南スーダン独立前のスーダンの内戦では約250万人の南部住人が殺され、独立後の南スーダンでも内戦の構図は何ら変わらず武力紛争は激しさを増し、サルバ・キール大統領派と、クーデターに失敗して解任されたマシャール元副大統領派の戦闘で、すでに数十万人が殺害され、220万人以上が避難民となり、少年は少年兵として武装勢力に徴用され、多くの女性が浚われて性奴隷にされているそうです。
さらに、食糧不足で約25万人の子供が栄養失調に陥り、餓死寸前の子供は3万人を遥かに超えて6万人とも言われます。
国連を通じての救援物資の殆どは難民キャンプまで届かず、ほんの一部の救援物資が一部の難民に届くだけです。
南スーダンは、白ナイル川沿いに熱帯雨林もあり、世界第二の多様な野生動物の宝庫で石油資源も豊富で、天然資源としても鉄鉱石、銅、金、銀、ダイアモンド。農産物としては綿花、ピーナッツ、サトウモロコシ、雑穀、サトウキビ、マンゴー、パパイア、コムギ、サツマイモなど豊富な産物があります。しかも、主要輸出品の木材でもアフリカ最大のチークの産地で、潜在的電力資源もたっぷりとあります。なのにインフラも教育も進まず国民は飢えています。その原因が最大部族・ディンカ族とその他少数部族との抗争による内乱です。
内乱とは対立する派閥間の戦争ですから当然のように殺し合いになります。
奴隷解放を旗印に戦ったアメリカ北軍のリンカーン大統領の戦い方は、徹底して相手を殺すことでした。あの4年間の南北戦争での死者は62万人と言われます。
内乱とは少し違いますが、イギリスから不良白人が大量に入植した時は、1千万人いた先住民のインディアンの約950万人を殺して完全に駆逐し、ドイツのナチススターリン、中国の毛沢東、ソ連のスターリンなども数百万人あるいはその上の単位で人を殺していて、その残虐性は日本人の遠く及ぶものではありません。古代中国の蓁の始皇帝も二万人の村を皆殺しに焼き殺しています。
アメリカの南北戦争で不要になったスペンサー銃が、武器商人を通じて大量に日本に運ばれ、主として西軍の主武器になり戊辰戦争での殺し合いに使われました。
その戊辰戦争の資料は幕末維新全殉難者名鑑など数種あり、新政府軍の死者は3588~6400人、幕府軍は約4690~8625人で、とされています。教科書に載っているのが最小人数で、戊辰戦争での総死者数は8、420人で、内訳は、新政府側3,550人、旧幕府側4690人)。このうち薩摩藩514人、長州藩427人、会津藩2557人(女性194人を含む)。会津藩の戦死者が最多であることに変わりはない。
また、戊辰戦争の中で双方合わせた戦死者が最も多かったのも会津戦争。ちなみに越後長岡藩を中心とする北越戦争も激戦だったが、戦死者は最大級に見ても双方各1000人余り(新政府軍の被害としては最大だった可能性あり)、鳥羽・伏見の戦いでの戦死者は双方で390人に過ぎない。
函館戦争の戦死者は、ウィキペディアによると、幕府軍約1000、新政府軍約300の計約1300人。最後の激戦には違いないが、戦死者は会津戦争より少ない。旧幕府軍は当時、アジア進出で出遅れていたプロイセンに北海道を割譲し、自らは傀儡政権を樹立して旧幕勢力の生き残りを図ろうとまでしたが、普仏戦争直前で余裕がなかったプロイセンにも断られ、命運尽きた。
この数字を世界の内戦と比較してみると、いくら岩倉具視が「皆殺しに!」と叫んでも、他国から見たら町内の争いのようなものです。
現代では交通事故死、自殺、どちらも年間3万人以上で、戊辰戦争は約1万人、いかに民間人を犠牲にしなかったが窺える数字です。
それでもなお、私は夢想します。
戊辰戦争が大砲・小銃などの重火器なしで、刀、槍での戦いだったら死者は数百人?
新選組数名の天然理心流と薩摩の示現流、土方歳三と中村半次郎の一騎打ちなど、幾つかの名勝負が歴史に残ったものと推測します。