阪神・淡路大震災に想う


 あれから20年、一度見た悪夢は死ぬまで消えないのかも知れません。記憶も悲しみも年々が薄れているのですが・・・あの日みた光景は今でも瞼に焼き付いています。まだくすぶっている家屋の傍らの人形と花束や、ビルの廃墟からやっと救出された瀕死の男性が目を見開いたまま息絶えるのも見ました。焼け落ちたばかりで消火活動のさなかに死体が運ばれているのも見たし、崩れた家の瓦礫の下から救助された老婆や、救出が間に合わずに息絶えたという死体も見ました。さらに、住宅街の焼け跡で救出活動中の自衛隊員の横で、泣き叫んで子供の名を連呼している母親も見ました。救急車に運ばれる重傷者は数限りなく見ました。
 20年前の1月17日、私はパリにいて阪神地方大地震の発生を知り、急ぎ帰国して取材と見舞いと救援に向かいました。米沢新聞という小さな郷土紙の東京支社長だった私は、マスコミの一員としてもこの大地震の記録を紙面に残さねばならなかったのです。
 この2ケ月後に地下鉄サリン事件が発生し、私はマスコミ在任中、この二つの大きな事件を取材する羽目になっていました。
 地震の被害が甚大だった神戸ポートピアの高層ビルの1フロアーに主要な取引先のスイスの化学会社の日本支社があって、そこが壊滅すると本業の花見化学が大打撃を受けることになります。その上、親しい知人が何人か芦屋、神戸地区にいて、その災禍見舞いにもと気は焦ります。
 成田空港から新橋駅近い旧知のレンタルショップに直行して旅の荷物を預け、折り畳み自転車と寝袋を借り、非常食や飲料水など救援物資も持てるだけ買って、身支度を整えてから家に電話をし神戸出張を告げたのを覚えています。多分、先に家人に先に電話をしていたら、一度帰宅して出直していたかも知れません。その半日か一日の差が緊迫感の差になって取材力を半減させていたのは間違いありません。
 撮影機器も旅支度も旅行帰りですから揃っています。そのまま大きな荷物を抱えて超満員の新幹線(自由席)に乗り、荷物に身を預けて仮眠しつつ被災地に向かいました。本数を減らして運行を始めていた新幹線は新大阪が終着駅で、神戸地区は全てが不通です。
 新大阪に着いて交通事情を調べると、阪神電鉄が西宮まで運行していることが分かりました。そこからは各社とも臨時バスを運行させているとのこと、そこで西宮まで行ってバスでの神戸入りを考えました。
 ところが、西宮のバス停はどこもかしこも人が溢れていて折り畳み自転車は積載禁止です。覚悟を決めて西宮から自転車で被災地に向かうことになりました。ところが驚いたことに西宮がすでに被災地で国道沿いの家が倒壊していたり、橋が壊れ、道路がひび割れています。
 この時点では、私はまだ現地の本当の悲惨な被害は分かっていませんでした。
 暗くなり掛けた中央区三宮あたりまで来た時に、ふと動物が焼けたような異様な死臭を感じたところから、凄惨な災禍の結果を私の本能が感じ取って背筋が寒くなるような恐怖感と切迫感を感じ始め、その感覚は今でも思い出せるほどの迫真で鮮烈なものでした。
 その時は、知るべくもなかったのですが、平成7年(1995)1月17日(火)の早朝に発生した兵庫県南部地方・・・正確には淡路島北部沖の明石海峡の深さ16キロを震源として発生した震度7という最大級の激震で、兵庫県を中心に、大阪府、京都府などが大きな被害を受け、中でも震源に近い、東灘区・灘区・中央区の三宮・元町・ポートアイランドなど・兵庫区・長田区・須磨区など神戸市市街地が甚大な被害で壊滅状態になっていました。
 港を埋め立てた新市街のポートアイランドに渡る橋は、自転車でさえやっと渡れて振興地は泥状化でぐちゃぐちゃ、車が何台も崩れた岸壁から海に落ちていました。取引先も知人も私の突然の災禍見舞いの来訪に驚き歓迎してくれて、恐怖と混乱で狂乱状態だった地震発生時の状況を話してくれました。その時、持参した飲食品も喜ばれましたが、次回への差し入れで欲しがられたのは日曜大工用品と風呂を沸かす防水防温の電気ヒーターでした。これは、私の本業の取り扱い品ですからすぐ間に合います。私は社員に品ぞろえを支持し、トンボ帰りで帰京して、すぐ同じパターンで二度目の訪問を果たしました。宅配便はまだ再開していなにので自分で運ぶしかないのです、
 水はタンクで運ばれ、電機は復旧してもガス管は容易に回復できませんので風呂が沸かせなかったのです。そのヒーターを近所中がしばらくは回し使いをしたそうですから私の行為も少しは役立ったと自負している次第です。
 地下鉄サリン事件についてはいずれまた・・・