月別アーカイブ: 2014年11月

師走への覚悟


 お元気ですか?
 今年もあと1ケ月、どこもかしこもクリスマス商戦から歳末年始を見据えての大型商戦の戦略に必死の様相を呈しています。銀座周辺の夜はクリスマスに向けてのイルミネーションでまばゆく輝き、夜の商売もそこそこ忙しくなっているようです。
 私もこの暮れは身辺多忙、人のことを心配するどころではなくなっています。同世代の友人知人の本人身内の訃報も多く、今年は”忌中につき年賀遠慮”の通知が早くも10通を超え、昨年の16通を上回るのは確実という状況です。私自身も来春早々満79歳、そろそろ広げ過ぎた風呂敷を畳む時期が迫っているようです。私は、家族にも周囲にも隠居後の自分の所業で広言しているのは、たった三つです。
 1、もの書き
 2、占いの普及と弟子の育成
 3、大鮎釣り
 ところが、今年は全てに誤算が出ました。1と2が両立せず、3は惨敗でした。それと、もの書きには思考と執筆と取材という孤独な作業が必要なのに時間が足りません。今までの弟子も隠居仲間も当然のように、入れ替わり立ち代わり押しかけて来ます。それでまた時間がなく
なります。そこで、新規の会員募集を1年、中止しました。すると、収入が激減でとんでもない赤字決算になりました。
 なにしろ、隠居後は年金と印税、授業料などで全てを賄う計画ですから本業(花見化学)からは1円も出しません。その結果、個人事務所か集会サロンの持続に赤信号が点りました。家族は、寿命を考えて上記三つのどれか一つにしたら、と善意の提案をします。そうなると、好きな一つは大鮎釣りで晩夏だけの仕事ですから、残った時間をどうするか?
 結局、今の生活に戻り三つの事項を守り続けることになります。残された道は、時間の有効利用で小説を書き上げて印税を稼ぎ、有能な弟子を育てて自分のやり残した万人への幸せづくりを継いで貰うことを続けながら身辺整理も急ぎ、温泉付き道楽の大鮎釣りも激流に流されてギブアップするまでは続けることにします。この師走入りにこの覚悟・・・なんだかまた楽しみが増えました。

横浜人形の家に惹かれて・・・


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 私は人形に興味があったわけではありません。たまたま坂本龍馬展が横浜人形の家の展示場を借りて開かれたご縁で訪れただけのご縁です。
 しかし、龍馬が生きているかのような人形に接して、がぜん興味を持ちました。
 幕末維新に活躍した著名人の書に触れて、心を洗われての帰途、ついでに立ち寄っただけのご縁です。そこで展示されていた世界の人形の様々な表情に接して、民族の壁を乗り越えた親しみと安らぎを感じました。明治維新の文明開化発祥の地の横浜で文化活動と児童文化の推進を目的に建てられた人形の家は、まさしく文化の殿堂でした。
 横浜人形の多目的ホールや会議室は講演&講座の開催や会議や会合、展示室としても幅広く利用出来ます。
 場所は、横浜市中区山下町18番地、電車の場合はん、みなとみらい線「元町・中華街駅」4番出口より左に徒歩3分です。
 最近では「鳴子こけしまつり」「人間国宝 平田郷陽(とうよう)作品展」「人形劇公演・クリスマス・パペットパーティー」「手作り人形教室」などのイベントが行われていたようです。
 私が立ち寄った人形展示室では「世界の人形展」が行われていて、取材の名目で撮影許可を頂き、その一部は本ホームページの写真館で個別に掲載を始めたところです。実際の展示物は、ここに載せた写真のように各国の人形が混然とガラス張りの棚に並んでいたものです。それを撮影し、編集で個別に切り離したものを”写真館”の「村長の日々のつぶやき」に載せました。是非、立ち寄ってみてください。

横浜人形の家ー1


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過日、横浜人形館に顔を出してきました。
 横浜人形の家開館28周年特別企画として坂本龍馬展&幕末維新遺墨展が開かれ、それに招かれたからです。なにしろ毎週木曜日には昼食を共にし幕末を語る友人(小美濃清明氏)が全国坂本龍馬会副会長で「坂本龍馬と黒船来航」の講演をし、幕末偉人の子孫を壇上に上げてのパネルディスカッションの司会をやるのですから行かないわけにはいきません。
 さて、会場に着いたところ、驚いたことに坂本龍馬本人がお出迎えなのです。
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なにしろ私も「坂本龍馬異聞」などといういかがわしい本を出版していますから挨拶は抜かせません。「あそこは間違ってるぜよ」などと文句を言われても困ります。
 チラと見ただけで右側のは間違いなく偽物と分かりますから、和服姿の本人に向って握手を求め「初めまして」と声を掛けたのですが返事がありません。よく考えたら、ここは人形
の家でした。

山形県庄内地方取材の旅


 お元気ですか?
 今回の取材旅行は山形県の庄内地方でした。
 同行は友人で坂本龍馬研究家の小美濃清明氏、当初は二人で出かける予定です。ところが前日になって、小美濃氏の奥方が参加を希望されて同行3人、私のマイカーで賑やかに出かけました。
 季節は秋たけなわの季節、出羽の山々は紅葉の真っ盛り、全山華やかな秋の彩に包まれていました。3人共通の取材目的は、明治維新のきっかけをつくった浪士組とされる京都守護を目的として浪士組を結成した清河八郎の遺品や資料が展示されている清河八郎記念館です。記念館は、清河八郎を祭った清河神社の広い敷地内にありますので、神社にも近くの歓喜寺にある清河一族の墓にも詣でて手を合わせて参りました。
 館内の取材では広田館長の特別許可を得て、清河八郎の妻お蓮が獄中から夫に出した手紙や八郎直筆の書、戊辰戦争で使われたゲーベル銃など展示物の写真も充分に撮らせて頂きました。
 清河八郎の幕府への献策で明治維新の先駆けとなった浪士組は京都に赴任してすぐ清河八郎が勤皇の立場を明確にしたため二つに仲間割れし、京都残留組と江戸への帰還組とに分かれます。京都残留組は新選組となり、江戸に戻った組は新徴組となって江戸の治安を任されます。
 幕府の委託を受けて浪士組をまとめた清河八郎は、勤皇に寝返ったことで刺客に倒されますが、新徴組は庄内藩に託されて戊辰戦争では新政府軍をおおいに苦しめます。
 戊辰戦争の奇跡として知られるように、庄内藩は会津落城後も孤軍奮闘し、新徴組を前線に勇敢に戦い、最後まで新政府軍を自軍の領地に進行させなかったことで西郷隆盛を感銘させた実績があり、寛大な戦後処理によって被害を最小限で食い止めることが出来ました。その戦いは凄惨を極め、弾薬尽きての白兵戦もしばしばだったとも聞きました。いずれにしても、庄内地方の戦場の雰囲気はしっかりと目と頭に刻み込んで参りました。
 その勇猛で鳴る庄内藩新徴組が拠点としたのが山形県鶴岡市湯田川温泉地区で本部跡が私達が泊まった300年の歴史をもつ隼人旅館です。若主人の庄司庸平さんに案内されて新徴組戦死者の墓地にも詣で、有意義な取材旅行になりました。