荒凡夫一茶の講演を拝聴して!


先日、知人に誘われて俳人・金子兜太氏の「一茶」講演を千葉県流山市の文化会館で拝聴して参りました。
 俳人気林一茶は、親しい俳友を訪ねて、流山を度々訪れ弟子たちと集う草庵も残されています。
 NHKテレビなどの俳壇では鷹羽狩行氏と並ぶ重鎮ですが、すでに齢い95歳の超高齢老人です。
 いわば聞き収めの気分で出かけたのですが、その若々しい気迫と瑞々しい感性に圧倒され、すっかり兜太ファン気分です。
 鷹羽狩行さんとは文芸協会の役員会でご一緒でしたが、金子兜太さんのことは全く誤解していました。
 私が知っている範囲内での知識では、埼玉県生れで幼児期を上海ですごし熊谷、水戸と転々として東京大経済学部卒で日本銀行入社、海軍主計中尉でラバウル戦線などに従軍した後に日銀に復職し労働組合事務局長を務めたまでは知っています。
 学生時代から前衛俳句の最前線で頭角を現し、氏は社会性俳句運動の主導者として知られています。
 私自身は俳句とは無縁ながら、金子兜多太の提唱する「季語はなくてもよし」とする自由句には抵抗がありますが、その小林一茶論や種田山頭火などの漂泊の俳諧人への高評価には感心していました。
 今回の講演の主題は「荒凡夫一茶」です。
 兜太さんは一茶の名を借りて、自分がいかに若々しく色っぽく過ごすか、その秘訣を語っていました。
 一茶が60歳を迎えたときの句、
「まん六の春と成りけり門の雪」
 その添え書きに「愚かな荒凡夫として一生を終えたい」と書き添えてあったそうです。
 荒凡夫とは、自由で平凡なごく普通の男、という意味だと兜太さんは説明しています。
 その兜太さんの口ぶりには、明らかに一茶への羨望、一茶のように自由奔放に生きたいという願望が垣間見られました。
 私はかつて図書館で一茶の電気で克明な日記の存在を知りました。
 軽い脳卒中で言語障害に悩まされながら一茶は60半ばで3番目の若い妻を迎えます。日記に寄ると、一茶はその初夜から連日連夜、妻の妊娠中も休むことなく夫婦の交わりを交わすという異常なほどのタフさを記録に残しています。
 兜太さんも老いてますます盛んにその意欲を燃やしているかのように、本能のままに生きた一茶に自分を重ねて、自分の欲に忠実であることがいかに美しいかを称えていました。
 俳句の心は、社会に生きる何らかの制約は必要だが、その抑制を法律や道徳ではなく心で行なうこと、本能は愚かな側面もあるが一面では美しい側面をも見せる。だからこそ欲と美の両面が絡み合ってこそ魅力ある人間、魅力ある俳句が生まれるのだ、と兜太さんは力強く語っていました。この迫力には、いささか参りました。
 さて、蛇尾ですが・・・
 この一茶が俳友として親しんだ土地の豪商秋元家は、新選組にも駐屯地を提供しています。若き日からの盟友・近藤勇と土方歳三が別れの水盃を交わしたのも秋本家の敷地内です。
 私は当然ながら、一茶庵と新選組史跡巡りをして返って来ました。
 一茶と近藤勇&土方歳三・・・私は水杯ではなくコーヒーを同じ敷地内で頂いてきました。その史跡は今、流山新撰組隊の拠点になって観光名所の一つになっています。

 一茶の句を添えます。
 我と来て遊べや親のない雀
足元へいつ来りしよかたつむり
寝姿の蝿追ふ今日が限りかな
ここから信濃の雪に降られけり
ざぶりざぶりざぶり雨ふる枯野かな
ほちゃほちゃと薮あさがほの咲きにけり
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
猫の子が手でおとす也耳の雪

 兜太さんの句も・・・
 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
 彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン
 人体冷えて東北白い花盛り
 梅咲いて庭中に青鮫が来ている
 おおかみに蛍が一つ付いていた
 一茶も兜太さんも、荒凡夫どころか、とんでもない才人でした。