月別アーカイブ: 2014年4月

荒凡夫一茶の講演を拝聴して!


先日、知人に誘われて俳人・金子兜太氏の「一茶」講演を千葉県流山市の文化会館で拝聴して参りました。
 俳人気林一茶は、親しい俳友を訪ねて、流山を度々訪れ弟子たちと集う草庵も残されています。
 NHKテレビなどの俳壇では鷹羽狩行氏と並ぶ重鎮ですが、すでに齢い95歳の超高齢老人です。
 いわば聞き収めの気分で出かけたのですが、その若々しい気迫と瑞々しい感性に圧倒され、すっかり兜太ファン気分です。
 鷹羽狩行さんとは文芸協会の役員会でご一緒でしたが、金子兜太さんのことは全く誤解していました。
 私が知っている範囲内での知識では、埼玉県生れで幼児期を上海ですごし熊谷、水戸と転々として東京大経済学部卒で日本銀行入社、海軍主計中尉でラバウル戦線などに従軍した後に日銀に復職し労働組合事務局長を務めたまでは知っています。
 学生時代から前衛俳句の最前線で頭角を現し、氏は社会性俳句運動の主導者として知られています。
 私自身は俳句とは無縁ながら、金子兜多太の提唱する「季語はなくてもよし」とする自由句には抵抗がありますが、その小林一茶論や種田山頭火などの漂泊の俳諧人への高評価には感心していました。
 今回の講演の主題は「荒凡夫一茶」です。
 兜太さんは一茶の名を借りて、自分がいかに若々しく色っぽく過ごすか、その秘訣を語っていました。
 一茶が60歳を迎えたときの句、
「まん六の春と成りけり門の雪」
 その添え書きに「愚かな荒凡夫として一生を終えたい」と書き添えてあったそうです。
 荒凡夫とは、自由で平凡なごく普通の男、という意味だと兜太さんは説明しています。
 その兜太さんの口ぶりには、明らかに一茶への羨望、一茶のように自由奔放に生きたいという願望が垣間見られました。
 私はかつて図書館で一茶の電気で克明な日記の存在を知りました。
 軽い脳卒中で言語障害に悩まされながら一茶は60半ばで3番目の若い妻を迎えます。日記に寄ると、一茶はその初夜から連日連夜、妻の妊娠中も休むことなく夫婦の交わりを交わすという異常なほどのタフさを記録に残しています。
 兜太さんも老いてますます盛んにその意欲を燃やしているかのように、本能のままに生きた一茶に自分を重ねて、自分の欲に忠実であることがいかに美しいかを称えていました。
 俳句の心は、社会に生きる何らかの制約は必要だが、その抑制を法律や道徳ではなく心で行なうこと、本能は愚かな側面もあるが一面では美しい側面をも見せる。だからこそ欲と美の両面が絡み合ってこそ魅力ある人間、魅力ある俳句が生まれるのだ、と兜太さんは力強く語っていました。この迫力には、いささか参りました。
 さて、蛇尾ですが・・・
 この一茶が俳友として親しんだ土地の豪商秋元家は、新選組にも駐屯地を提供しています。若き日からの盟友・近藤勇と土方歳三が別れの水盃を交わしたのも秋本家の敷地内です。
 私は当然ながら、一茶庵と新選組史跡巡りをして返って来ました。
 一茶と近藤勇&土方歳三・・・私は水杯ではなくコーヒーを同じ敷地内で頂いてきました。その史跡は今、流山新撰組隊の拠点になって観光名所の一つになっています。

 一茶の句を添えます。
 我と来て遊べや親のない雀
足元へいつ来りしよかたつむり
寝姿の蝿追ふ今日が限りかな
ここから信濃の雪に降られけり
ざぶりざぶりざぶり雨ふる枯野かな
ほちゃほちゃと薮あさがほの咲きにけり
雪とけて村いっぱいの子どもかな
大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
猫の子が手でおとす也耳の雪

 兜太さんの句も・・・
 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
 彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン
 人体冷えて東北白い花盛り
 梅咲いて庭中に青鮫が来ている
 おおかみに蛍が一つ付いていた
 一茶も兜太さんも、荒凡夫どころか、とんでもない才人でした。

赤い桜を想う


 今週も桜についてです。
 前回、これからは桜吹雪の下を歩く喜びが加味される、と書きました。すると早速、会員の方から「同感です」とのメッセージがありました。
 日本の春は草花の成長で知らされますが、雪国でも雪解けと同時に地中から芽を出す草花で春の訪れを感じるそうです。
 梅に続いて満開の桜の輝くような美しさを眺めるとき、私は無心に満足感を感じます。それでも、その満開の桜に何か物足りなさを感じているのも事実です。
 桜は散るのを眺めてこそのお花見だからです。その春爛漫の満開の桜の盛りもわずか数日、散り急ぐように舞う桜吹雪は路上に花の絨毯を敷き詰めます。
 桜の木の下にゴザを敷いて、茶碗酒を重ねるとき花びらが舞い落ち、椀に落ちた花びらを酒と共に口にして逝く春を惜しむのも粋な趣があります。
 花の命は短いゆえに、桜吹雪のその美しさが際だって感じられます。しかし、散り始めた桜の花の後からは、すでに青緑の若い桜葉が枝を覆い始めているのです。
 私は、この新緑の若葉を眺めるのも春の喜びの一つとして大好きです。この季節になると私はつい桜について書いてしまいます。それだけ桜には鮮烈な思い出もあり特別な思い入れもあるからです。
 これは過去にも触れたことがある桜景色の思い出の一つです。以前、シャンソン歌手の芦野宏さんと同行して飛騨高山から白川郷に行ったことがあります。まだ山を抜けるトンネルもなく、合掌造りの里の白河郷が世界遺産に登録される前のことでした。
 車で長野県側から上高地を抜けて狭く険しい山道を岐阜県側に抜けると開けた道にでます。そこに御母衣(みぼろ)峠があり、その眼下に御母衣ダムが広がっていました。
 そこで小休止したとき、そこに立つ桜の巨木が満開の桜を散らし始めたときでした。
 その花の色の赤さに私は目を奪われました。
 それより数年前に取材で訪れた、大奥女中絵島の幽閉地の信州高遠城跡で見た高遠桜にも劣らない赤い桜です。その真っ赤な桜の花びらがダムの水面を一面に染めた光景を見たときは、絶句、それだけでした。
 そこに家族連れで来ていた初老の男性が話しかけてきました。
「父は、この桜を湖底に沈む村からここに運ぶ作業を手伝い、花を見ないで逝ってしまいました」
 それからは毎年、家族でお花見に通っているそうです。
 御母衣ダムは、白川村の上流の庄川を堰止めて東洋一の規模の石を重ねて築くロックフィル式ダムです。高度成長期の電力供給を大義名分に閣議決定され、荘川村住民らは、反対運動も空しく保証金を餌に強制退去を迫られました。そのダムの湖面に沈む村から、せめて村のシンボルでもあった「桜の移植を!」との村人の願いは叶えられました。
 巨大クレーンで50メートル以上も引き上げられて土堤に移されたた数本の荘川桜は、今、花を咲かせています。すでに半世紀過ぎて、毎年行われる元村人が各地から集まる花見の会はまだ細々と続いているそうです。
 ただ不思議なのは同じ桜なのに、村にあった時より堤にある今の桜のほうが花が赤いそうです。きっと、村の水没で心を痛めて死期を早めた村の古老たちの怨念の血の色が乗り移ったのだ、と噂されています。
 これは、織田軍と死闘の末に全滅した武田軍の将兵の血で赤くなった高遠城の桜と同じ言い伝えです。いずれにしても、移植して半世紀を経ても満開を誇る御母衣ダム堤の赤い桜は見事なものでした。

散る花、咲く花


 都内の桜は今週いっぱいが見ごろのようです。
 これからは桜吹雪の下を歩く喜びが加味されます。
 そんな春爛漫のこの季節に、次のようなメールが飛び込みました。
 東京近郊在住の開運道会員さんからです。

「息子の入学式が無事に終わりました。
 今、息子のアパートにおります。
 入学式同日に、娘に子供が生まれました。
 初孫です。
 そして、同日の夜に入院中の実の父親が亡くなったと連絡が入りました。夜が明けましたら、いったん家に帰りますが、すぐに実家へ帰省します。
 父は息子と娘の要件を待ってくれていたように感じます。不思議な感覚です。でも、そんな気がしていました。
 いろんなアクシデントもありましたし・・・」

 私は複雑な気持ちで返信をしました。
 お父上様のご逝去へのお悔やみ、初孫のお誕生祝い、息子さんの大学入学祝いです。
 それにしても人の生き死にの不思議さを感じますね。これだけで見れば人は間違いなく輪廻の中で生きています。
 生まれた子は一生、この祖父を精神的支柱として敬うはずです。しかも、祖父がいつも見守ってくれている・・・
 この強い意識がこの子を大きく逞しく育ててくれることでしょう。たまたま、私は22歳になる孫娘とその友人数人と食事をします。
 その孫娘の子が生まれるとき私は? やはり、この話題には触れないでおきます。
 散る花も咲く花も幹は同じ・・・そんな感じです。