明治は遠くて近きもの


 私は今、明治維新の功罪を問う戊辰戦争について調べています。
 東大史料編纂室で官軍の出納簿を調べたところ、その潤沢な資
金源に行きあたりました。東征軍(いわゆる官軍)は各藩を脅し
て巨額の軍資金を供出させています。
 各藩から何万両という供託金を集めての戦争ですから物量に不
自由はありません。薩長土を主体とする西軍の兵士には、きちん
と月給も支払われていました。
 最下級の兵士で月3両、衣食住は軍持ちですから宿場で遊ぶの
にも不自由しません。武器弾薬も豊富で支給済みですが、足軽級
の農民兵が27両出して7連発の最新式銃を自前で買った記録も
兵士の日記から見つけました。これでは、貧しい東北各藩の武士
が旧式の武器で戦っても勝てるわけがありません。
 この絶望的な環境の中で戦った東軍を、どう書けばいいのか?
 迷いながら今、私は執筆中ですが心は痛みます。
 ところで、この11月末日、北海道美唄市内の民家で、戊辰戦
争で用いた砲弾が見つかりました。直径約10センチ、長さ約18
センチの大筒の砲弾です。
 消火栓の点検で地域を回っていた消防隊員が発見し、美唄署に
通報したというものです。警察から処理依頼を受けた陸上自衛隊
で調べた結果、戊辰戦争で使われた「4斤砲弾」と判明しました。
 その民家に住む老女(84)は、自宅納屋で見つけたて何も知
らずに玄関に飾って置いたそうです。
 爆発の危険があったら大変でしたが、信管が抜かれていたそう
で一安心です。
 それにしても美新戦争の函館で生き残った新選組隊士が死んだ
のが昭和13年。昭和11年に私が生れた時、まだ戊辰戦争の戦
士が生きていたのにも驚きます。
 各地を旅をして感じるのは、この半世紀に都会は時代の変遷を
感じても、父母の故郷の会津喜多方地方には、たぶん江戸時代と
何ら変らぬ田園風景が広がっています。それは、私が第二次世界
大戦時代に疎開していた68年前と何ら変わらない景色であるこ
とでも証明できます。
しかも、そこに住む親類なども自動車や電化製品の恩恵に預かっ
てはいても、昔のままの囲炉裏の生活もまだ健在なのです。
 こうして考えると、戊辰戦争などつい先日の出来ごとのように
さえ感じますし、遠いと思った明治がすぐ手が届く目の前にある
ような錯覚にとらわれることがあります。
 その思いで今、私はゆっくりと筆を進めつつ、いやローマ字変
換のキーを叩き続けているところです。