女性のための開運講座ー59&新撰組


 お正月気分は抜けましたか?
 暫く間が空きましたが新年第二回目になります。
 ところで、大相撲の初場所が始まりました。
 ここ数年、優勝はモンゴル勢二人に独占されている上に63連勝も許すなど、日本人としては全く歯がゆいばかりです。しかも、日本勢は野球賭博などで上位の関取陣がガタガタになっています。これでは、とても国技とは言えません。
 しかし、稀勢の里が白鵬を倒した一番を見る限り、まだまだ諦めることはありません。
 これからは、イキのいい若者に期待です。
 ところで、十両に昇進したばかりの力士で舛の山という若手がいます。
 千葉県出身の20歳、5場所連続勝ち越して十両入りした初の平成生まれの力士で、これから大いに話題になるはずです。
 まだ、幕内入りまでには時間がかかりますが、十両で揉まれて強くなって幕内に入ってくれれ
ば、と思っていますが、今場所の初日は速攻で楽勝でした。
 この舛の山の師匠が千賀の浦(元関脇舛田山)で、今は春日野部屋の部屋付き親方として千賀の浦部屋を経営して、自分も歯切れのいい土俵下での解説を続けています。
 その千賀の浦親方から再三の誘いがあり、私も暫く遠ざかっていた角界に顔を出すことにし、この場所の千秋楽の23日(日)には千賀の浦部屋の打ち上げパーティに参加する予定です。
 関脇時代の舛田山は、銀座4丁目の交差点近くにあった私の事務所兼サロンに出入りしていて、近所の焼き肉屋やステーキ屋に行くと10人前は平らげますから、大鍋、酸素ボンベなどを買い込んで、サロンでチャンコを食べることにしました。買い物は当時、弟分だった十両力士などが三越の地下で買ってくるのですが、購入価格など知れたものです。
 その日、私の事務所に寄った知人友人は大喜びです。なにしろ、当時全盛期の人気関脇が鍋奉行ですから美味なこと折り紙つきです。炊飯器で炊いたご飯とチャンコ鍋・・・足りなければ買い足します。
 この舛田山を連れて来て私に紹介したのが新日本プロレスのアントニオ猪木の主治医で、長期間の間に、順天堂大学の相撲部の監督もしていた医師の富家孝さんです。富家さんは順天堂大学時代に、托大の選手で準学生横綱だった舛田(本名)を反り技で倒しています。このまた仲間の医師で最近テレビや雑誌に頻繁に顔を出す山野大学教授の中原英臣氏も仲間で、一緒に仕事をしたことがあります。
 こんな仲間でしたから、チャンコに集まる連中もプロ野球からオリンピック選手、映画関係、いろんな仲間が集まっていました。
              つづく
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 さて話題を変えて、女性のための開運講座です。これは、恋愛、結婚、再婚に役立つ開運法です。途中からご覧の方は、遡ってご覧になってください。勿論、男性が見ても役立つはずです。
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 女性のための開運講座ー59 

 恋愛・結婚、さまざま模様

 10干からみた愛情運

 今までに、生れ年の12支占いを学びました。
 記憶にない方は、過去に戻ってご覧ください。
 男と女の出会いにはさまざまなケースがあり、結ばれたり、離れたり、再会したりと数限りないドラマが生まれます。
 そこで視点を変えて、10干という項目から愛情運をみてみます。
 東洋の運勢学では、「木、火、土、金、水」は、西洋の運勢学で用いる天体の星とは直接の関係はなく、自然現象の中にある生活に密着した五種をそのまま用いたものです。
 これを五行説といいます。
 よく「あなたのえとは何ですか?」と聞かれて、「寅です」などと答えますが、えとの語意は幹枝の一部をとった干支(えと)、「兄弟(えと)」、「姉妹(えと)」であり、十干と十二支の組み合わせのことです。干支(えと)は木の幹と枝の関係で、干が幹、支が枝です。
「木、火、土、金、水」の五種に、「え」と「と」という言葉を配し、「1・木のえ、2・木のと、3・火のえ、4・火のと、5・土のえ、6・土のと、7・金(か)のえ、8・金のと、9・水のえ、10・水のと」、と、十種に分類したものが「十干(じっ
かん)」です。その出し方を覚えてください。
 あなたの生年に昭和は+2、平成は+5で、その末尾数を上に合わせてください。
 昭和33年なら+2で末尾は5、上記から「5・土のえ」です。 昭和56年なら+2で末尾は8、上記から「8・金(か)のえ」となります。
 平成 2年なら+5で末尾は7、上記から「7・かのえ」です。
 平成11年なら+5で末尾は6、上記から「6・土のと」です。
 ただし、2月3日までの生まれは前年でみます。
 昭和32年2月3日なら、31+2で末尾は3で「3・火のえ」です。
 平成 7年1月5日なら、6+5で末尾は1で、「1・木のえ」です。
 あなたの10干は分かりましたか?
 では、下記をご覧ください。
 
 十干からみた愛情アドバイス 

 1・甲(きのえ)生まれの人
  自分の愛する人に、ひたむきに尽くす人です。また、小さいことに、こだわらない愛情の持ち主です。気の短い事さえなおせば、きっと大きなことをする人です。子供のような素直さもあります。
 2・乙(きのと)生まれの人
  人一倍すぐれた持久力や、粘り強さで愛する人に接し、組織の中では目立たなくても、愛情面では強い意思で大切な役割をはたします。目立つことをあまり好まない人も多いようです。
 3・丙(ひのえ)生まれの人
  人生の中で、浮き沈みの多い人ですから、不運に見まわれた時のために、ふだんから地道な努力を続けることが大切です。愛情面でもわがままを押え、理屈をこねずに、好きな人とのコミュニケーションを大切にすれば愛情は安泰です。
 4・丁(ひのと)生まれの人
  ふだんも表に出すより内に秘めたものが多い人ですから、欲求不満になる恐れもあります。また、一つのことをいつまでもクヨクヨと考え、悲観主義になる人もいます。愛情面では、相手の気持ちを気にするあまり消極的になり、八方美人と見られたりもします。
 5・戊(つちのえ)生まれの人
  誰とでもすぐ友達になれる社交的な人です。その反面、深い付き合いは苦手で、大勢の人と広く浅くつき合いたがる傾向があり、それが浮気タイプにみられます。愛情面では理想主義者で、夢を追い続けます。
 6・己(つちのと)生まれの人
  おだやかでよく気のつく几帳面な人です。ものごとは、何でも細心の注意をもって正確に、また確実にやりとげます。愛情面は控え目で、義務や道徳に忠実な人です。しかし、迷いやすく決断力がないのが欠点です。
 7・庚(かのえ)生まれの人
  せっかちですが頭が良く、物ごとが見えすぎるタイで、あれもこれもと手を広げすぎて失敗することがあります。その上、頭の回転のいいのに似合わず自分の意見をあまり持たず、周囲に流されがちです。愛情面でも、自分の気持ちを素直に出せずに失敗しがちです。本当の心をストレートに出せれば愛情運は一気に満たされます。
 8・辛((かのと)生まれの人
  第一印象は少し変わり者に見えますし、頑固な面もありますが、それはプライドの高さから出たものです。愛情面でも誇り高く頑固ですから、なかなか相手に心を開こうとしません。そのために、素晴らしい出会いのチャンスを逃がさないためにも、最初から心を開くべきです。
 9・壬(みずのえ)生まれの人
  大きな心で愛する人を守ります。この人のそばにいれば安心できますし、どんな時でも豊かな愛情で包んでくれます。世の中のことにも詳しく、頭も悪くありませんから一緒にいて安心です。しかも、何をするにも現実的でしっかりしたことを考える人です。
 10・癸(みずのと)生まれの人
  正直で勤勉で、とにかく真面目な人です。その真面目さで、コツコツと小さいけど堅実な幸せをつかんでいきます。愛情面でも相互信頼を大切にしますので、一緒にいて落ち着く人です。ただ、少し気の短いところがあります。愛する人を信じて純粋な愛情を注ぐ人です。
                    つづく
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 書店発売中の「坂本龍馬異聞」に続き「新撰組3部作」を執筆中です。その内容を先にお届けします。ホームページでも挿絵入りで連載を始めました。
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 新撰組ー異聞

 第二章 勝太の心象風景

(8)気になる男-2-1

 ある日、義父の周助が朝から酒を飲みながら、木刀を磨いている勝太を見た。
「明日から初仕事だったな?」
「はい。原田さん福田さんに一緒させて貰います」
「そうか、出稽古は厳しいだけじゃいかん。手加減も忘れるなよ」
 周助が、勝太に体当たりされ投げられて擦りむいた額の傷を撫でた。
 勝太は養父の言葉に素直に頷いたが、兄弟子の原田は稽古で遠慮などするなと言う。
「はい。怪我をさせない程度にします」
 最近では、甲州武田軍団の子孫を中心に甲源一刀流の牙城でもある槍組の八王子千人同心でさえ、実戦的な天然理心流に乗り換える者が続出している。
 今では、江戸の「試衛館」からの出稽古も増え、疲れ気味の周助に代わって勝太の兄弟子・福田、島崎、原田らが交代で出張し、それぞれが休む間もない。そこで、新たに勝太も代稽古に加わることになった。
「小野路の小島には、そのうち勝太と一緒に行くと伝えてくれ」
 養父はいつも勝太にこう言いながら、未だに実行したことがない。それを知っている原田が、しびれを切らして勝太を連れ出し、手が足りない代稽古の師範代を増やそうと考えたのだ。
 勝太が原田忠司に連れられて小野路村に行き、名主の小島鹿之助に初めて会ったのは勝太が十九歳の嘉永五年(一八五二)の初夏だった。
 義父の話だと、小島家は先代名主の小島政則以来の門人で、天然理心流には経済的にもかなり貢献しているという。多少はその功に報いたとしても「免許皆伝」まで上り詰めた小島鹿之助の努力は賞賛に値いする。父・小島政則から名主を継いだ鹿之助が十八歳で、天然理心流に入門したのは嘉永元年(一八四八)七月だった。それから四ケ月後の嘉永二年(一八四九)十一月に、勝太は十四歳で二人の兄と共に天然理心流・近藤周助の門人となっている。
 したがって、四歳上の小野路村名主・小島鹿之助は勝太の兄弟子になる。
 勝太は、原田、福田と上石原の自分の生家に寄り、その足で小野路村の小島屋敷、帰路には日野宿の佐藤彦五郎屋敷の道場に立ち寄ることになっている。
 佐藤彦五郎は、嘉永二年(一八四九)の日野宿の中心部を焼き尽くす大火事で脇本陣屋敷を失った上に、火事のどさくさに紛れて本陣で先輩名主でもある隣家の上佐藤家を放逐された先代に祖母を殺され、自衛手段としての剣技を必要として剣術修行を考えた。
 そこで、彦五郎は親類の小島鹿之助が入門している天然理心流に紹介を頼み、嘉永三年(一八五〇)に近藤周助に師事し、年齢は彦五郎が七歳上だが勝太の弟弟子となって入門している。
 原田が言った。
「日野の佐藤の義弟に妙な若者がいて、こいつがなかなかの使い手でな」
 佐藤彦五郎の義弟で、小野路村の小島とも親類になる若者がいて、時々稽古に参加するらしい。
 年齢は勝太より一歳下の十八だという。
「どこで修行したのか、甲源一刀流や柳剛流の真似ごとだが、見た目より遥かに筋がいい。相当な負けず嫌いらしいから、入門させて基本から教えれば、間違いなく代稽古に使えるぞ」
「名前は?」
「石田村のトシ、土方歳三ってヤツだ」
「歳三!」
 その名を聞いた瞬間、勝太は武蔵の国の国府跡で知られる六所宮の祭りを思い出して頭が熱くなった。
                 つづく
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 では、次回をお楽しみに・・・・
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