水ぬるむ季節になりましたね。
山奥の雪解け水の清流にはイワナやヤマメが嬉々として相方を求めて泳ぎ、街のあちこちでは若い男女が恋を囁いてイチャイチャし、それを屋根上のカラスがアホーアホーと妬き喚きます。
男と女の結びつきは千差万別、さまざまな出会いがあり、つい昨日までのアカの他人だった男と女がいつの間にか心身ともに結ばれて一生離れ難くなったり、熱烈な恋愛から別離の悲しみを味わい、劇的な再会をして幸せいっぱいで暮らしたりと、人生は多くのドラマに彩られています。
しかし、どんな道でも一本道ばかりではありません。曲がり角もあれば岐路もあります。
そこで意見が食い違えば右と左に分かれることになりますが、一度や二度はどちらかが妥協して同じ道を歩みますが、どんなに我慢強くても三度目には堪忍袋の緒が切れて、プイとお互いに横を見たまま別れの挨拶もそこそこに別々の道を進むことになります。
この岐路が二人の一生の別れとなる場合が多く、その後の再会や再度の合流は神のみぞ知るのです。
では、どんな場合に別れることになるのか?
その過程を大別すると、さまざまな別れの形が浮かび上がり、そこにはそれぞれの岐路があることが見えてきます。
愛が冷める、これだけでも致命的なのに暴言暴力、さらに生活が困窮する・・・致命的ですね。
では、最初から愛が薄かったら? これなら長続きしますが面白くも何とありません。それでも、燃え上がる愛情はなくても、並みの思いやりがあれば何とかなります。生涯を通じて平凡が何よりという夢のないカップルも存在しますが、これはこれで立派なものです。ただし、このカップルには外敵がいます。万が一にも外で好きな人が出来たらアウトです。もう夢中になって家庭を顧みずに不倫の恋に熱中し、下手すると別れ道どころか崖から墜落・・・それも落ちるのは一人だけ、などとなって万事窮すです。
このような視点から多くの男女を見てくると、愛情はそこそこでも、お互いに信頼と尊敬がありその上で共通の目的をもつ組み合わせが一番安定しています。これは、別れ道だからといって別々の道に進んだらお互いに自滅するからです。設計士と建築士、デザイナーと縫製家、パンとバター、紅茶とケーキ、靴と靴紐、文と挿絵、時計の長針と短針、相撲取りとまわしのようなもので、いわば腐れ縁のように、誰も気にしないのに無かったら不便なもの・・・こんなカップルが長続きするのです。
このように、お互いが必要で結ばれたカップルは、それぞれ相手の人生を支える役割をしますので、結局は別れることを諦めて同じ道を進むことになります。
さて、今週もNHK大河ドラマの中の「女と男」の物語です。
龍馬の女好きは今更、断るまでもありませんが、平井加尾、千葉佐那、お徳と並べてもピンときません。龍馬ともっとも親しかったのは、お龍を除けば寺田屋の女将のお登勢以外にはいません。
幕末維新の嵐のさ中、明日をも知れぬ命の中で、龍馬という風雲児はお登勢の中に安らぎを求めたものと思われます。何といってもお登勢ほど龍馬に尽くした女性はいません。龍馬の服装がいつもバリっとしていたのはお登勢が買ってあげていたという説は的を射ていています。龍馬が寺田屋に出入するようになってからは黒羽二重の羽織や玉虫色の袴でバリっとして急におしゃれになりんますが、これらは全てお登勢が買ってあげていたようです。
慶応二年の一月、薩長盟約の直後、寺田屋で龍馬が捕吏に襲われたあと、龍馬がお登勢から貰った手紙が残っています。
「かへすがへすもよろしきお便りお待ち申し上げ侯。これのみたのしみ暮らし侯」と、あるのを見ただけで、二人の情の深さが偲ばれますが、さらに、宛先は「龍君様御元へ」、差出し人は「血の薬御存じより」とあるのです。
血の薬、とは漢方では「四物湯(しもっとう)」という子宮と卵巣に働きかける不妊用の薬でもあるのですが、他にも葛根湯とか胃腸の妙薬とかもありますが、親密な男女の仲を現す隠語とも言われます。
伏見の船宿「寺田屋」の女主人のお登勢は、龍馬がこの船宿に泊まるようになった神戸海軍操練所の塾頭になった文久三年あたりの三十代に入った頃だった。この頃のお登勢は、亭主の六代目伊助は京都木屋町の妾宅に入りびたりで家にも帰らず、さびしく空閏を守っていた状態だから龍馬とお登勢が親しくなることは必然だったともいえます。
商売上手で世話好きで男好きする気丈者のお登勢は、国の改革を夢見る薩摩藩の尊攘志士たちに庇護と援助を惜しまず尽くしました。その中でも龍馬に対する愛情は別格だったのは間違いありません。間違いなく、お登勢は本気で龍馬を愛していましたが、それは誰にも言えない悲しい恋で終わってしまいます。龍馬が、「この娘を住み込みの女中に使ってくれ」、こう言って楢崎龍と女を連れて来たからです。私が、お龍や千葉佐那、平井加尾らより、このお登勢に思いが残るのは何故か、未だに答えは出ていませんが、もしかすると、私も似たような思いをけいけんしているからかも知れません。