どうやら、東京に新名所が出来たようです。
墨田区東向島にある私の会社(化学関連)の応接室からは、いま話題のスカイツリーが、かなりの至近距離で見えます。
昨月曜日の朝9時過ぎ、社員とお茶を飲みながらのミーティング中、なにやら上空が騒がしくて会話も聞こえ難くなり会議を中断して、
窓から空を眺めると低空を飛ぶ取材のヘリコプターが数機。驚いて屋上に上がって数えたら何とヘリが七機、その全てがスカイツリーの上
空を大きく旋回しているのです。自分の社内に戻ってテレビのスイッチを入れると、「日本の最も高い建築物の記録が塗り替えられました
」とのキャスターが目に入りました。この上空からの世紀の取材とやらが騒音の元でした。
東京タワーは333メートルで、スカイツリーの昨日の表示が338メートル・・・なぜ、334メートルのときに大騒ぎをしなかった
のか? その謎は、工事現場の最上階に据えたクレーンの荷揚げの機材を聞いたことで解けました。なんと、持ち上げていた建築資材が1
0メートルの側壁だったのです。それを完璧に接続して仕上げたのが昨日、平成22年3月29日だったのです。
それにしても、何の変哲もない土地から竹の子が伸びるような勢いでタワーが高層化してゆく様と、ゴマ粒のように見える高所での工事
就業者の姿は感動的でさえあります。しかし、タワーがこの倍も高くなるとしたら? そこで気がつきました。私の会社は、スカイツリー
から徒歩15分の1キロ圏内ですから、この倍の600メートル以上もの高さになると、タワーの展望台が応接室の窓からはみ出して、タ
ワーの胴体だけが見えることになり「いい眺め」とはほど遠くなります・・・残念!
それにしても、観光の新名所とはいえオープンまではまだ2年もあるというのに、すでに観光バスがおとずれ、カメラを持った観光客が
殺到しています。タワー周辺の商店も活気付き、日曜日など今までの100倍も売り上げがあるというソバ屋まで現れています。私も、占
いコーナーの出展で一度は申し込みましたが、2年後から5年契約の期間、責任者として拘束されるのは年齢的にも無理がありますので、
事業収益より健康を考えて辞退しました。これは、これからの私が本格的に小説を書くことを考えれば正解だったようです。
テナント希望の占いの弟子が曰く「監督をしながら奥に机を置いて小説を書けませんか?」・・・書けません! 一日何万人もでお祭り
騒ぎのような中で小説を書けるほど私は器用ではありません。私が占いのテナントを断ったことで口惜しがって不服を言う弟子もいますが
、私を含めてプロの占術家のわがままを知り尽くしてい ますあから、朝10時から夜11時までの年中無休を5年間、遅刻欠勤クレーム
なし経営なんて夢のまた夢です。クレームでのペナルティ覚悟での契約になるのは明らかです。
どんなに完璧なローティションを組んでも、動くのはそれぞれが自己主張の強い人間ばかりですから、5年間、無事に完遂できるかどう
かは全く分かりません・・・これで私の中での結論が出ました。
さて、小説に戻ります。
これからお付き合いする新撰組には、さまざまなタイプの隊士がいます。
幕末のほんの短い期間に華やかに咲き華やかに散った新撰組。歴史の上では線香花火のような儚い仇花でしかなかった新撰組。だが、こ
の三部作を書くと決めたときに私の背筋に走った戦慄こそが新撰組の歴史に流れる血の騒ぎのような気がします。
死と正面から向き合い、明日をも知れぬ身で出来ること・・・たとえ一瞬でも死を忘れることが出来たなら。そう考えると新撰組ならず
とも酒か女が共通項で、逆療法から考えれば死を賭して闘うことが死の恐怖から逃れる一番の良策かも知れません。
人は死と対峙したとき、どう対処すべきか?
逃げたくなる? これは新撰組では許されません。引き戻されて割腹という局内規則があるからです。
山南啓助がいい例です。新撰組から逃亡して捕らえられ、愛する女にも逢えずに切腹して果てました。悲しい恋、悲しい末路です。
原田左之助という隊士は、他の隊士らが遊郭で知り合った女と刹那的な情愛を交わして満足していたのと違って、相思相愛になった仏光
寺という土地の町人の娘まさと所帯をもち、本願寺筋の釜屋町七条下ルというところに借屋住まいをし、そこから屯所に出勤し、戦いにも
出動していた。結婚してすぐ男の子が生まれ、親子3人で幸せな日々を過ごしていたが、戦乱の世の常として命を投げ出して闘わねばなら
ぬ時が来る。鳥羽・伏見の戦いが始まり、新撰組は幕軍の先鋒となって参戦することになります。
左之助は、妻子に今生の別れを告げて戦いへと出て行った。その後の左之助はあちこち転戦した末に、上野の山に篭もった彰義隊に参加
して、慶応4年(1868)の戦闘で銃弾に倒れて帰らぬ人になった。
その後、まさは子供を育て、原田左之助との短くも充実した日々を人々に語りながら、幸せそうに天寿を全うしたという。
原田左之助らしい一途な愛が、短い結婚生活ではあったが妻の心に感謝の念を残したと思うと、ジーンと来るものがあります。
ではまた、次回にお会いしましょう。