第二章 勝太の夜明け前
1、 勝五郎の武勇伝
勝太が近藤家に養子入りする前は、勝五郎という名であった。
父の宮川久次郎は力自慢の大酒飲みで村相撲の常勝大関、豪快な人柄で知られていた。その父は客と酒を飲み、いつも酔うと息子自慢をする。その内容が誤って周囲に伝わって噂になる。
「勝五郎が十三の頃だがな。ある夜、わしが寄り合い泊まりで留守中のことだ。甲州から武州一帯を荒らし回った疾風衆(はやてしゅう)という盗賊の群れが我が家に押し入った。それに気付いて布団から抜け出した長男の音五郎が、次男の粂次郎と勝五郎を誘って、刀を抱えて部屋を出
ようとするのを、このっ末っ子の勝五郎が落ち着いて止めたんだ」
「ほう?」
「相手は大勢だし気が立っている。今出たら斬られるかも知れん。逃げ出す時を襲おう、と勝五郎は兄達に言い、自分も刀を抱えて布団の中に潜り込んで様子を窺ったんだな」
「それで?」
「盗賊どもが我が家から盗んだ荷物を背負って裏木戸から出たとたん勝五郎が一喝した。驚いた盗賊を兄弟三人で切りまくったから、賊は奪った荷物を捨てて逃げ始めた。それを追おうとした兄達を勝五郎が止めた」
「なぜ?」
「窮鼠猫を噛むの例え通り、いざ反撃となれば多勢に無勢、こっちもケガをする。被害はないんだからここまでにしようぜ、とな」
「十三の子供にしては上出来ですな?」
「ま、日頃から三国志や偉人伝を聞かせた甲斐がありましたよ」
宮川家出入の者なら、こんな親バカ話を何度も聞かされて辟易しているのだが、旨い酒が飲めるから作り笑顔で相槌を打ち、何度も酒椀を傾ける。こんな話を本気にする者もいないから、当の勝五郎も素知らぬ振りをしているしかない。だが、事実はかなり違っていた。どうやら、酔って帰宅した久次郎が、興奮して話す子供らの報告を聞き違えたらしいのだ。
父の久次郎が、村の治安のことで江戸府内本所南割下水の江川担庵の代官屋敷に招かれ、村名主らと泊り掛けで出かけた留守中の真夜中に、多勢の盗賊が裏木戸をこじ開けて板塀に囲まれた屋敷内に忍び込んだまでは事実だが、その後の展開がまるで違う。
賊が、庭の西側にある文庫蔵前の広場に集結するかすかな足音で目覚めた次兄の粂次郎が、まず同じ部屋で寝ている勝五郎を揺り起こした。
「誰か来てるぞ」
その真剣な表情で異変に気づいた勝五郎は、隣室で熟睡している長兄の音五郎も起こして、それぞれが父から玩具替わりに与えられている安物の脇差を寝巻きの帯に差して部屋を抜け出し、裏廊下から雨戸の隙間から様子を窺った。
勝五郎ら三兄弟の他には、母屋と庭を挟んで東の農人納屋に住む作男の余市と作蔵とそれぞれの家族だけしかいない。母のミヨは勝五郎が五歳の時に病死し、久次郎が後妻を娶らないので、宮川家の賄いは作男の女房達が勤めている。したがって、戦闘力のある男衆は、勝五郎ら兄弟三人と作男二人だが、農業一筋の余市と作蔵は宛てには出来ない。
折りしも雲間から淡い三日月の光が夜の闇を照らし、勝五郎ら三人は薄明かりの中に視線をこらして闇でうごめく人影を凝視した。
当時、甲州から武州にかけて「疾風(はやて)衆」という甲州浪人を頭にする黒装束の騎馬盗賊団が豪農を襲うという噂があった。その盗賊らは、家人が寝静まった深夜に盗みに入り、気づかれて抵抗された時は容赦なく家人を傷つけ、奪った品を馬の鞍に括りつけて風のように走り去り、江戸府内の古物商に盗品を持ち込んで換金するという噂があった。
その噂の盗賊らしい一党を目の前にした勝五郎は、父の話に聞く戦国忍者の活躍を思い出して震えた。恐ろしいからではない、闘う前の武者震いというものだ。
人数を数えると十数人はいる。全員が覆面姿で黒装束だから噂通りの盗賊団に違いない。
勝五郎は逸る気持ちを抑えて、盗賊の動きを凝視した。
賊の頭領らしき男だけが覆面なしで総髪に髭面なのも姿がいい。勝五郎は、父から聞いた戦国動乱の時代の伊賀忍者の戦いぶりでも見ているような華やいだ気持ちになっていた。
勝五郎らの視線の先で、庭石に腰を降ろした髭面の頭領らしき男の前に膝まづいた黒装束に足軽胴着を身につけた軍師らしき若い小男が小声で報告している。この二人だけは見分けがつく。
どんな内容かと耳をそばだてると、このように聞えた。
「甚兵衛さま。手強いアルジの久二郎は外泊で不在です。家にはガキ三人と作男家族しかいません。蔵屋敷には、御鷹衆時代から貯め込んだ骨董や刀剣と武具や財宝、母屋の主部屋には大金が隠されていると見て間違いありません。二手に分けますが、いいですか?」
武具・骨董はともかく大金などは有るわけないが、甚兵衛という頭目らしき男が頷くと、軍師が右手に持った扇子を手際よく上下左右に振って合図をした。それを待っていたように賊の群れはさっと二手に別れ、一手は家財・骨董・武具などを積んだ蔵屋敷に向かい、早くも錠前壊しの作業に掛かっている。手慣れたものだ。別の一手は母屋の裏縁を回って行く。勝手口の引き戸をこじ開けて屋内に侵入するらしい。 それは実に見事な采配と無駄のない動きで、勝五郎が日頃
から父の久次郎の膝の上で聞かされた戦乱の世の軍師、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)、 竹中半兵衛、山本勘助などの指揮ぶりを見ているように感じて異様に気持が昂ぶった。
しかし、感心している場合ではない。襲われているのは我が家なのだ。
我に返った勝五郎は腰に差した脇差の鞘を左で握り、右手で柄を握っていつでも戦えるように構えたが、ガキ仲間での棒切れで叩き合う剣劇ごっことは勝手が違うから、いきなりは飛び出せない。ここで飛び出して斬り合うのもいいが、死ぬ覚悟はまだ出来ていない。この盗賊共が凶暴なら、自分が闘っている間に家人らが皆殺しにされることもある。
ここで勝つにはどうしたらいいのか? まずは心の臓が破けそうなほど沸き立っているこの興奮を鎮めることが先だ。冷静さを取り戻すことが出来ないようだと、戦いでも遅れをとる。気のせいか口が渇き、歯の根と膝が落ち着かない。
「勝五郎、聞こえないのか?」
われに返って振り向くと、長兄の音五郎が勝五郎の肩を掴んで声を荒げている。
「早く部屋に戻って布団にもぐれ! 粂次郎はもう寝てるぞ」
「戦わないのか?」
部屋に急ぎながら音五郎が早口でまくし立てた。
「斬り合いはいつでも出きる。だが、相手が用心している時は攻めづらい。敵が逃げ腰になったところを一喝して、怯んだところを一気に襲えば、こちらが優位に立つことで勝機が生まれる。
まさか、賊も寝ている人間を斬りはしまい」
「じゃあ、おれに一喝する役をやらしてくれ」
「いいだろ。勝の声はバカでかいだけが取り柄だからな」
勝五郎は、家の道場に教導に来る初老の近藤周助という剣術師範がいつも父に言う「気組み」という一言を思いだしていた。相手を頭ごなしに一喝して脅し、一瞬のひるみに乗じて先手を取って打ち負かすのが天然理心流の真骨頂らしい。それならば、日頃から声が大きい勝五郎が適任だった。
2、 盗賊殺し
勝五郎は急いで部屋に戻り、刀を抱えたまま布団に潜り込むと、次兄の粂次郎が布団の中から声を掛けた。
「遅かったな。音兄のいう通り、寝たふりをしてろ」
やがて、賊が屋内のあちこちを歩き回る足音がかすかに聞えてきた。
家人が寝静まっているとみた賊は、あるじの久次郎の座敷にも入り込んで手文庫や長持ちから金目の物を探し始めた様子が伝わって来る。賊が部屋を荒らす物音に我慢できず、頭に血が上った勝五郎が布団を跳ね除けて起き上がろうとするのを、「いかん!」と粂次郎が手を伸ばして制止し、「我慢するんだ!」と小声で叱った。隣室の長兄は動く気配はない。
勝五郎は気を静めようと布団を被った。
その直後、賊の一人が襖を少しだけ開けて勝五郎達の寝息を窺い、粂次郎が咄嗟に狸寝入りの軽い寝息を立てたのを聞いて安心したように、ガンドウ提灯で二人の寝顔を眺め、「なんだ、小僧か?」と拍子抜けしたように呟き、子供部屋には金目の物はないと思ったのか襖を閉め、隣室も覗いた様子だが、兄の音五郎も寝ていたのか荷物を担いだらしい数人の忍び足が遠ざかって行く。
賊の姿が消えたのを確かめて粂次郎が立ち上がると、勝五郎も起き上がった。粂次郎が石を打って行燈の脂に火を灯すと、隣の襖が開いて音五郎が脇差を抱えて飛び込んで来た。顔面蒼白で目が坐っている。
「寝た振りをしてたが、生きた心地しなかったぞ」
「こっちも二人で狸寝入りしてたんだ。すぐ斬り込もう」
「焦るな。盗賊が逃げ出すところを狙うんだ」
結局、長兄の計画通り、賊が馬に荷物を積む前に襲うことにした。
「粂は、八蔵ら小作人の家族全員に声を掛けて、鍋釜を叩いて騒ぎ立てるよう頼んでおくれ。男衆は脇差持参でな」
「分かった」
「勝は、大声で怒鳴ってから、おらと二人で切り込む。粂次郎達は後から加勢してくれ。新手が参加すると相手は怯むからな」
「斬られそうになったら?」
「賊が外に出たところを襲い、敵が向かって来たら家に逃げ込むんだ。やつらは二度と中には入って来ないよ」
「なるほど」
ほどなくして、二棟ある蔵と母屋から持ち出して中庭に山のように積んだ武具財宝衣類食糧などを、縄で括って夫々が目いっぱい背負って帰り支度を始めた。それを見た勝五郎と音五郎の二人が脇差を抜いて賊の背後に迫って待機した。粂次郎は農人小屋の棟に走っている。
やがて、粂次郎が、鍋や金盥に棒を抱えた作男と家族を集めて二人の後に続いた。
折しも月が陰ってまた闇夜になり、重い荷物を担いだ賊が動き出し裏木戸から全員が外に出たのを待って、すぐ背後から勝五郎が大声で怒鳴った。
「こらっ! 盗人ども!」
重い荷を担いだ盗賊どもが腰を抜かすほどの迫力のある大声で一喝されて驚いた。ようやく表に出て安堵したところに背後からの怒声だから何事かと振り向いたら、闇夜の中に金属音と歓声が上がり、同時に刃物が迫って手や肩や腰を斬られて血が吹きだす。しかも、切れない刀ほど傷が痛む。抵抗して刀を抜こうにも荷物が重すぎてままならない。髭面の頭領が叫んだ。
「荷物を捨てて反撃しろ!」
その時はもう遅かった。全員がどこか傷つき、月が雲間に潜って闇になるから怒りと恐怖で錯乱状態になっている。それでも盗賊だから修羅場には慣れている。荷物を捨てて刀を抜き、誰彼れの見境いなく斬り掛って来た。
「逃げろ!」
長兄の音五郎が怒鳴った。
「全員退避、中からかんぬきを掛けろ!」
勝五郎は兄の指示を無視して屋敷の外を裏手に走った。馬のいななきを聞いたからだ。
「待てえ!」
勝五郎に右股を浅く斬られた髭面の頭領が、足を引きずり憤怒の形相で追って来た。
しかし、頭領が勝五郎にようやく追いついた時は遅かった。すでに勝五郎が、屋敷裏北側防風林の幹や枝に巻きつけてあった十二頭の手綱を解いて、次々に馬の尻を思いっきり刀の峰で叩いて馬を逃がしたのだ。見知らぬ男にいきなり尻を叩かれた馬も驚いた。馬はいななきもせず必死で逃げ出して何処えか走り去った。
「この野郎!」
怒った賊の頭領が斬りかかって来たが、傷ついた右足を庇うから力が入らない。
「おまえが頭の甚兵衛だな?」
「だったらどうする?」
「殺す!」
「ガキのくえに生意気な、てめえこそ死ね」
「甚兵衛、覚悟!」
相手が悪名高き疾風の甚兵衛なら容赦がない。相手を子供と侮って隙だらけの盗賊の脳天を、勝五郎が思いっきり叩いたから、「ギャ!」と短く叫んだ盗賊の頭領が卒倒して絶命した、と、勝五郎は思った。
だが、そうはならなかった。勝五郎の安物の脇差はすでに何人かを傷つけて刃こぼれした上に脂も浮き、さらに十二頭の馬の尻を思いっきり叩いて曲がってもいたから、少しは傷ついたかも知れないが致命傷には至らない。ただ、勝五郎の力任せの一打で倒れた甚兵衛の頭は大きく変形して凹み、気の毒だがこれは一生治らない。
「殺した!」
と、思った勝五郎は刀を握ったままその場を走って裏木戸側に戻り、傷ついてまだ逃げ損ねている賊の中に飛び込んで、一人殺すも二人殺すも同じだからと夢中で刀を振り回した。それを塀越しに見た二人の兄と小作人二人が、裏木戸を開けて飛び出し「助っ人するぞ!」と刀を振り回すからますます盗賊は混乱し、頭領の指示を待つが生憎と疾風の甚兵衛はこの場にいない。軍師が怒鳴った。
「引き上げだ!」
小男の軍師が怪我した足を引きずって真っ先に逃げ出すと、我先にと賊が続いた。もう誰も奪った荷物のことなど気にかけない。命さえあればまた稼げるからだ。
「一気にやっつけよう!」
興奮した勝五郎が追おうとするのを音五郎が止めた。幸いにこの時点で味方には怪我人もいない。
「これ以上の深追いはするな。荷物も戻ったしな。死人が出ると面倒だぞ」
これが逆に伝わり、勝五郎が止めたことになっている。その勝五郎が言った。
「一人だけ殺しちゃった」
「どこで?」
兄二人は半信半疑で、勝五郎に従って家の裏側の防風林に向かった。だが死体がない。鬱蒼とした樹林を透かし見ても闇が深くて何も見えず、風の音が枝葉を揺すっている。
「夢でもみたんじゃないか?」
「仲間が担いで逃げたんだ」
脇差を鞘に収めようとしたが、勝太の脇差は刀身が曲がって鞘に入らない。
「どれ、貸してみろ。安物の刀はこんなものさ」
兄の音五郎が膝で力任せに刀を曲げて元に戻すと、どうやらギシギシしながら収まったが二度と抜けそうにない。勝太は安物の刀は使い方によってはすぐ曲がることを知った。
勝五郎時代のあのとき、初めて人を殺した・・・勝太は今でもそう信じている。
3、 試衛館の兄弟子
人の運など分らぬもの、この盗賊騒ぎが勝太の運命を大きく変えた。
宮川家の道場に江戸から出稽古に通って来る天然理心流の第三代宗家・近藤周助が、久次郎の勘違い話を真に受けて、一年前から弟子になっていた勝五郎を養子に欲しいと言い出したのだ。
「賊を深追いしない、と決断するのは追うより勇気がいる。追うだけなら匹夫の勇、斬られたら笑いものですからな」
勝五郎が父の勧めで、自宅の道場で天然理心流に入門したのは十四歳の嘉永元年(一八四八)十一月、それから、わずか八ケ月で切紙から「目録」まで進んで師の近藤周助や周囲を驚かせている。本来は、序目録だが、周助の代から従来の序目録を格上げして単純に「目録」としていた。
勝五郎は免許の過程など全く意に介さず、ひたむきに基本に忠実に師の周助の教えを守って精進した。その朴訥で一途な少年の稽古熱心さも、周助が養子にと望んだ一因であったのかも知れない。
「まだ十五歳なのに腹が据わって度胸がいい。その上、子供のくせに地声も大きいし、角ばった顔も見るからに凄みがあって脅しが効く。天然理心流の極意は、最初の気合いで相手を圧倒することにある。これを生まれつき持っているとは稀有なことじゃ。これ以上の後継者は日本中探しても見つかるまい。この勝五郎こそ、天が与えてくれた天然理心流の申し子に違いない。是非、養子に・・・」
と、近藤周助は父に言った。
父が返事をする前に近藤周助が勝五郎を見て、「どうだ?」と、珍しく笑顔を見せた。
久次郎も末っ子の勝五郎は手放したくないのだが、近隣の若者を喧嘩で怪我させては苦情を申し込まれるガキ大将の勝五郎には手を焼いて、将来のことも案じていただけに渡りに舟、断る理由などどこにもない。
久二郎は勝五郎の気持ちなど確かめずに、二つ返事で応諾したのも無理はない。勿論、勝五郎にも異論などあろうはずがなかった。
勝五郎が天然理心流宗家の近藤家に養子に入ったのは、嘉永二年(一八四九)の十月、農家の収穫が終わり、秋が深まりつつある季節だった。
家族に別れを告げた勝五郎が、重い荷物と父から貰った脇差を腰にして生家を離れ、江戸小日向柳原・甲良屋敷の「試衛館」道場の狭い一室に住み着き、名も宮川勝五郎から島崎勝太と変えて、新たな人生の一歩を踏み出した。
江戸に出て数日間、養子とはいえ勝太の日々は想像を絶するものだった。
周助の四人目か五人目の若い後妻のアヤノに朝から晩までこき使われ、水汲み、薪割り、炊事、洗濯、雑巾がけ、肩叩きと休む間もない。
それでも勝太には楽しみがあった。
周助は、空いた時間は道場に出ていい、と自由な稽古を許してくれたのだ。
江戸に出て二日目に道場に出た勝太と、最初に手合わせをしたのは試衛館に居合わせた旗本の子弟ら門人達数人だった。彼等は、師が養子にするという多摩の少年に興味を抱き、稽古の厳しさを身をもって知らせようと闘志を剥き出しにして迎え撃った。だが、いずれも勝太の気迫の一撃に歯が立たない。勝太の木刀は寸止めではなく容赦なく防具に炸裂するから痛みと恐怖を呼ぶ。
十五歳の勝太の評判は、江戸に出て数日でまたたく間に門弟達の間に広まった。
師の周助は酒を飲むだけで一向に稽古をつけてくれず、たまに道場に出て手合わせをしてくれるが、勝太の撃ち込みに「いいぞ!」と目を細めるだけだった。
「稽古に焦りは禁物、まず先輩から学ぶのじゃ」
その意味はすぐ分かった。
ある日、出稽古から戻って来た師範代の一人、神奈川奉行所勤務の幕臣・福田平馬が、早速、勝太に稽古を付けるという。福田は勝太より八歳年長で、試衛館の竜虎と呼ばれる島崎一(はじめ)と原田忠司に次ぐ存在だというから、聞いただけでも震えが来る。
「養子とはいえ宗家を継ぐには実力がないとな。拙者は容赦はせんぞ」
「おらも遠慮しません」
師の周助が嬉しそうに、道場に出て高座敷で検分を勤めた。
「平馬、甘く見ると痛い目に遇うぞ」
さすがに師範代の平馬の剣風は鋭く、勝太は最初のうちは手も足も出ず、防具の上から好き勝手に思うまま叩かれ続けて痛い思いをした。しかし、体力に勝る勝太は打たれ慣れした上に腹が据わって恐怖感が消えて来ると反撃に出て、小半刻もしないうちに五本に一本は打ち込むようになっていた。これには福田も驚いたらしく本気で闘志を燃やして撃ち合った。やがて、息が上がった福田平馬が先に木刀を引き、面を外して額に巻いた汗止めの手拭いで顔の汗を拭きながら呆れ顔で勝太に言った。
「驚いたな。おまえはあと一年でわしを抜く。それからは島崎一(はじめ)と原田の壁を崩せるかどうかだな」
勝太が江戸に出て半月も過ぎた頃、師の周助の遠縁で小山村(現町田)出身の島崎一という師範代が、出稽古から戻った報告にと道場に立ち寄った。
島崎一は、勝太より十歳ほど年上の筆頭師範代で、他の数人の師範代と共に師の周助に代わって相模から甲州、武州と西関東一帯に出稽古に出て道場の運営費を稼ぐという。その島崎一が、師の養子となった勝太に「稽古を付けるぞ」と声を掛けてくれた。
勇んで道場に出た勝太だが、この小柄な先輩に全く歯が立たなかった。
大声で威圧して襲ってくる相手の木刀に自分の木刀が触れもしない。その間に目から火が出るほどの痛撃を浴びて、勝太は知らぬ間に道場の床にひっくり返っていた。何度立ち向かっても結果は同じで、どう対応していいかも分からなかった。
それでも、叩かれ続けているうちに勝太は気力で反撃に転じたが、打たれ疲れで体力を消耗し過ぎたのか腰から崩れて立てなくなったところで稽古は終わった。
ところが、さらに驚いたことがある。
4、 後継者争い
この強い島崎一師範代が、師に稽古を求めたのだが、五十一歳の師の周助には全く手が出ない。
老師の周助が、勝太が初めて聞く獣のような咆哮で脅し、素早い動きで木刀を振るうと、同じように大声で応じた島崎一が、成すすべもなく面,胴、小手と見事に打ち分けられて反撃すらままならない。これが真剣なら命など幾つあっても足りないことになる。周助は宮川道場での父や村人、勝太らに対しては遊び半分の手抜きで教えていたのだ。
(これは大変!)
これが、勝太の実感だった。
天然理心流には、切紙 序目録、中極位目録、免許、指南免許とあり、切紙と序目録には剣に加えて柔術があり、組み合って相手を倒して動きを封じるのも天然理心流の極意の一つだった。
その後ある時、島崎一は勝太にこう伝えた。
「実際の戦いでは真向唐竹割りや袈裟切りなど派手な勝ちはいらん。斬るなら頸動脈、突くなら喉か心の臓、手強い相手は手首狙いじゃ。どんな相手でも手を斬れば動きが鈍る。当流の晴眼の構えは相手の左目に付けるが、これは相手が上段に振りかぶろうと動いた瞬間、そのまま踏みこんで素早く左手の手首か二の腕を斬るためだ。それも、刀を使えぬように傷つけるだけでいい。
これならどんな相手でも斬れる。仕留めるのは次の突きの一手だから相手には刀も触れさせんで済む。大勢との斬り合いでも刀は痛まず血脂が乗らないから何人でも倒せる。鍔迫り合いになったら指を斬り落とす。それを心掛けて稽古をしてみろ」
島崎一は小柄だが技に優れた剣客で、試合を挑まれれば百戦百勝の無敵の力で必勝の技を繰り出すが、自分からは争いを好まぬとか。
この島崎一は、師の周助が多摩の宮川家から養子にする少年を見つけたという噂を聞いて、自分が立ち会うまでは態度を決めかねていたが、道場で勝太と対峙してみて、勝太に備わった天賦の才能と将来性を読み取り、「醜い争いはしたくない」と周囲に言ったと後に人づてで聞いた。
それが、あの時の稽古だったのだ。
その福田、島崎の他に、原田忠司という師範代がいた。
試衛館の竜虎と言われ、龍の島崎、虎の原田と呼ばれる原田忠司は、江戸中の町道場を巡って木刀での他流試合を申し込み、無敗の実績を誇って恐れられているという。温和な島崎に対して、原田は戦闘的で攻撃型の師範代だった。
島崎一に稽古をつけて貰った数日後、道場に姿を見せた師範代の原田忠司とも勝太は稽古で立ち会った。
原田忠司は島崎と同じく勝太より十歳年長で、試衛館の虎と言われるだけあって、さすがに強く勝太には全く手が出なかった。勝太が打ち込むと原田は身をかわし、勝太が離れると勝太の懐に飛び込んで、足で急所を蹴りあげ、すぐ一歩飛び下がって勝太の頭に一撃を加える荒技を使った。それは勝太が子供の頃に使った必殺技そのものだった。
「そんなのずるい!」
勝太の怒りに原田が笑った。
「その台詞は地獄の閻魔に言え。生き抜くために戦うならどんな手でも使え」
勝太も負けてはいない。これなら得意の手だからだ。激しく原田に体当たりして倒し、面打ちの一撃をと思った瞬間、原田は身体を密着させて足払いで勝太を倒し、立ったまま上から喉元に木刀の切っ先を突きつけた。勝太は思わず叫んだ。
「参った!」
原田が木刀を引いて一歩下がってから言った。
「素早く喉を突いたら、そのまま横に跳んで身体を入れ替え次の敵に対応する。その場にいたら背後から斬られてひとたまりもないからな」
「すぐ振り向いて、咄嗟に刀で受ければ?」
原田がまた笑った。
「これは実戦だぞ。竹刀や木刀とは違うんだ。いいか勝太、実戦では咄嗟の時以外は相手の一撃を刀で受けてはならん。身をかわしながら打ち込むのだ。刀ってえヤツはな、お互いに滑って弾けるから次の計算が出来なくなる。それに、相手の刀が安物なら折れて刃先だけが飛んで来て致命傷を負う場合もある。これは避けようがないからな。それに、相手の打ち込んだ刀を刀を受ければ刀が痛む。だから出来るだけ刀に触れさせてはいかん。勝負手は突きだ。突きなら鎖帷子(くさりかたびら)でも貫ける」
原田と島崎一が江戸中に横行した辻切り退治に競って、何人もの不逞浪人や剣客を倒している
と、門人の噂話で聞いていた。だから、その教えを実戦から得た教訓として素直に聞くことが出来る。
「これからは、手厳しくいくぞ」
勝太は、原田の一挙一動を手本にして稽古に励むことにした。
それからの勝太は、福田、島崎(一)、原田の師範代三人を目標に激しい稽古を重ね、気付いた時は、いつの間にか夫々と五分に近い成績を残せるようになっていた。
天然理心流の伝意としては、切紙二十二本、序目録が十二本、中極意目録が五十三本、免許が二十七本、ここまでが一般的な免許で、その上に「指南免許」と「印下」もある。だが、「印下」
まで辿り着いたのは師範の周助を含めても何人もいない。周助門下では原田忠司と島崎一だけがその域に近づきつつあり、福田がそれを追っていた。今は勝太が、その三人を抜きそうな距離にいる。
その中で、勝太の才能をもっとも高く認めたのは、宗家の後継者に一番近い位置にいる原田忠司だった。原田は出稽古のない日、勝太とだけ血の出るような烈しい稽古をした。
ある日、原田が言った。
「ここでは、勝ち残った者が天然理心流を継ぐことになる。分かってるな?」
勝太は素直に頷いたが、宗家など全く興味がなかった。
5、 弟弟子・惣次郎
「義弟ですが、この子を預かって頂けませんか?」
近藤周助の古い弟子の沖田林太郎が、九歳の惣次郎を試衛館に連れて来たのは、嘉永三年(一八五〇)の秋だった。
惣次郎は弘化元年(一八四四年)六月、陸奥国白川藩士で二十二俵二人扶持の下級武士・沖田勝次郎の長男として江戸麻布の白河藩下屋敷内の裏長屋で生まれた。父の勝次郎は惣次郎が二歳のときに病死し、沖田家は惣次郎の十一歳上の姉ミツが十四歳のとき、日野の井上家から温厚な林太郎を婿に迎えて家督を継いでいた。奥州地方の習慣で長女が婿取りで家を継ぐことがあり、それで、長男の惣次郎が外に出ることになったのだ。
ただ、勝次郎の急死で家督相続が間に合わず、白河藩の藩籍を離れたことで無禄になったことが林太郎の誤算になっていた。沖田家に婿入りした井上林太郎は、八王子千人同心だった井上家の出で、以前から近藤周助の弟子だったが、剣技の才はあまりない。林太郎夫婦は惣次郎の将来も考えて、師の近藤周助か剣術の好きな惣次郎に目を掛けていたこともあり、試衛館に預けたら剣術で身を立てるのではないかと考えた。その上、米減らしにもなる。
勝太も、林太郎夫婦や惣次郎とも顔なじみだっただけに、惣次郎の試衛館入りは何の問題もなく決まり、惣次郎は勝太と同じ部屋で寝泊りすることになった。
惣次郎は明るい性格で、八歳上の勝太にすぐなついて実の兄のように慕い、使い走りや雑用などで目いっぱい下働きをしながら、暇があると庭に出て大人用の木刀で飽きることなく素振りを繰り返していた。ある日、勝太が声を掛けた。
「惣次郎は、そんなに剣術が好きか?」
「はい。武士の子ですから」
「では、本格的に教えてやろう」
勝太が、自分が子供の頃に使っていた実父手作りの剣道具を実家から取り寄せて与え、門人たちと手合わせさせたところ意外にも、大の大人の門人たちが、背もまだ伸びきらない幼な顔の惣次郎に追い詰められ逃げ回って撃ち据えられて悲鳴を上げている。
それからの勝太は惣次郎に天性の才を見て、暇さえあれば稽古をつけていた。
惣次郎が来て二年が過ぎた。
練習熱心な惣次郎の剣はめきめきと鋭さを増し、その鋭い突きを食らって勝太が転倒するという破天荒な出来事まで起こっている。
「これは凄い。ぜひ、入門を認めてやってください」
勝太の進言で、惣次郎がわずか十一歳で天然理心流・近藤周助門下として正式入門したのは、嘉永五年(一八五二)の正月だった。
それからの惣次郎は、わずかな歳月で充分に剣技を磨き、勝太に仕込まれた突きの技に工夫を凝らして、三段突きという無敵の技を編み出していた。手練れの剣士であれば、どんなに鋭い突きでも一度は避けることが出来る。本来は、それですぐ反撃が出来るのだが、最初の突きを避けて反撃に出ようとした矢先に間髪を入れずに一撃目より鋭い突きが来たら避けきれない。しかも、それが連続して一本の突きに見えるのだから始末に悪い。勝太の指導で惣次郎が身に付けたその技は、名こそ三段突きだが、実際には最初の突きか二段で相手を仕留めるから三段は全く必要なかったのだ。
江戸小日向柳原甲良屋敷にある天然理心流・試衛館道場は、勝太が代稽古をするようになって門人が飛躍的に増えていた。
「試衛館という芋道場に行けば、何とか飯を食わせてくれるそうだぞ」
これが評判になって、江戸に出ては来たが職に困っている浪人などが出入し、図々しく内弟子となって寝泊まりする者もあり、宿泊して修行に励みたいなどと立ち寄って一宿一飯の恩義に預かる武芸者などもいて、施設が手狭になったことから、近いうちにどこかに移ることにして近隣での物件探しも始めていた。
天然理心流に正式に入門して八カ月の秋、惣次郎は早くも師の周助と立ち会って三本に一本は実力で取るまでに成長していた。驚いた周助は、破格だが「目録」を認めざるを得なかった。
大概の入門者が五年で目録までいけば上首尾だから、惣次郎の天性の才は勝太以上なのは間違いない。しかも稽古熱心で早朝からうるさくて仕方がない。周助も手を焼いていた。
「先生、一手、稽古つけてください!」
「わしは今日は多忙でいかん。勝太に頼め」
「若先生は昨日から出稽古です」
「ならば、誰でもいいから道場に現れた門人に胸を貸しておれ」
「それは仕事ですからしますが、他の人では稽古になりません」
「そのうち、福田が現れるかも知れんから待っておれ」
「福田先生は他流試合に出掛けました」
「仕方ない。道場には誰もいないだろうな?」
天然理心流宗家の周助が、まだ幼な顔の惣次郎に撃ち込まれる図など誰にも見せられない。誰か玄関に来た気配を感じたら、さっさと木刀を引くから二人の稽古風景は誰にも知られていない。
そんな日々が続いていた。
ある夕べ、少し酔った周助が、勝太と惣次郎を前に講釈を始めた。
勝太にとっては聞き飽きた内容と分っているから、聞いている振りをして小刀で竹を削って楊枝を作っている。惣次郎だけは、どんな話題でも師の教えとして受け取るのか目を輝かして、時折は質問を交えたりして周助を喜ばせている。
「天然理心流はな。香取神道流宗家の子孫で、浜名湖から近い遠江(とおとおみ)生まれの近藤内蔵助という武士が、馬上の接近戦で鍛えた古武術を、地上の格闘技に改良した実戦型剣術なのだ」
「今でも馬上で?」
「騎馬での戦さは二百年以上も昔のことだ。その近藤内蔵助が江戸の薬研堀(やげんぼり)で天然理心流の看板を出して道場を開いたんじゃが、話を聞きに来る者はあっても入門者がいない」
「何でですか?」
「江戸での剣術修行者は、戦闘のための実技を学ぶより、免許目録の剣術が目当てだから、実際の戦闘を意識して木刀で一撃する激しい当流よりは、袋竹刀で派手に撃ち合う当世流の道場に日本中の田舎侍が集まるんだな」
「それで、百姓相手の剣術なのですね」
「余計なこと言うな! そこで内蔵助は、家を盗賊から自衛する意欲の強い、甲斐や北条の落ち武者が豪農になって土着した多摩を中心に武州、相州の目録より実力を求めて剣術を志す名主や百姓に的を絞って出稽古に出向くことにしたら、それが当たった」
「農民の武術禁止令は?」
「そんなもの武州には通じんよ。太閤さまの刀狩りすら山深い多摩では不可能だったんだ。天然理心流は農民剣法と呼ばれるが、実際には八王子千人同心など下級武士の間にも広がっている。
代官の江川さまは外国の襲来に備えて、幕府に願い出て、農民兵の組織化を図っている時代だぞ。
天然理心流が農民の間で実戦用の最強の剣術として普及するのは時代の流れだろうな」
武士は形を求め、農民や下級武士は実を求める・・・これなら惣次郎も納得できる。
6、 沖田勇
周助が続けた。
「天然理心流初代の近藤内蔵助は、元郷士の多摩郡戸吹村の名主・坂本右衛門の長男の坂本三助方昌(かたまさ)に優れた剣術の才能を見出して、後継者として育てようとしたんじゃ。ま、この三助がわしの義父だがな」
「なるほど」
「坂本右衛門も豪胆でさっぱりした直情型の人柄だから、その近藤内蔵助の申し出を歓迎し、名主の座を継ぐべき三助が名主の座を捨てて江戸に出ることになった」
「名主のほうが何倍もいいと思いますがねえ」
「剣術道場に魅力を感じたんだろうな」
「大先生がその立場だったら?」
「わしだったら当然、名主を継いでるさ」
「そうですね。貧乏しないで済みますし酒も飲めます」
「だまって聞け! 貧しいのは弟子が不甲斐ないからじゃ。ともあれ、内蔵助の弟子には、三助の他に小幡万兵衛という凄い達人の兄弟子がいたが、その刃物のような鋭利な鋭さを師が嫌って、鈍重で豪快な三助師を後継者に選んだんじゃ」
「それで分かりました」
「何が?」
「先生も、切れ味鋭い島崎先生や達人の原田先生を避けて、愚鈍な若先生を選んだんですね?」
無言で楊枝を削っていた勝太が、手に持った竹を投げつけると軽く右手で受けた惣次郎が、そっと勝太に返して詫びた。
「ご免なさい。愚鈍は取り消し、短気で怒りっぽいと訂正します」
「うるさい!」
「二人とも静かに聞け。養子になった三助は何の遠慮もなく小幡万兵衛に教えを請うて、万兵衛の弱点まで聞いてくるから万兵衛も呆れ果て、三助を後継者として認めるようになり、宗家争いは何とか収まった」
「よかったですね」
話に飽きた惣次郎が話の腰を折ろうとするが、周助の話は止まらない。
「第二代天然理心流を継いでからの三助は、師の内蔵助の指導に自分の工夫を加えて無敵の剣法とし、徹底した他流試合で形にこだわる武士の剣術を片っ端から叩き潰して、天然理心流ここにあり、とばかりに江戸の町道場の間に広めていった」
「気持ちよさそうですね」
「当然ながら、その反発で当流は、多摩の農民剣法、と蔑まれたが三助師は意にもせず多摩の剣法のまま他流試合を続け無敗の記録を伸ばしたのだが、この天然理心流二代目の坂本三助師は、江戸の剣術に愛想を尽かして、故郷の多摩郡戸吹村に帰って道場を開き、その後継者にと選んだのが同じ多摩郡小山村名主・島崎休右衛門の五男・島崎周助・・・このわしだ」
「ようやく主役登場ですか」
そこで、周助が五杯目の茶碗酒を煽った。これでは身体にいい訳がない。
「おやじの休右衛門は、わしが五男だったし、二十歳にもなって先が見えないことから養子になることを大いに喜んだ」
「米べらしになりますからね」
「お前らと同じだ。とにかく、当流の三代目を約束されて近藤家に養子に入ったわしは、義父の教えに加えて新たな技を創いて日夜研鑽を重ねて、師の意思を継いで他流試合に挑むのを励みにしたんじゃが抵抗も多かった」
「どんな抵抗ですか?」
「わしを後継者にすべく養子にしたのだが、わしの三代目披露を直前にして義父が四十六の若さで急逝してしまった」
「襲名は?」
「兄弟子達は、養子とはいえ流派の跡目相続の件は単なる内示の域を出ていない、と言い、わしの三代目襲名は無効と裁定し、後継者は実力で勝ち取るものとする、と多数決で決めたんじゃ」
「実力とは困りましたね?」
「わしをバカにするのか? それこそ、わしの望むところだった。わしの兄弟弟子には、秋間源平、増田蔵六、松崎正作など錚々たる剣客がいてな」
「そのぐらい知ってますよ。皆さん、道場荒らしで有名ですから」
「惣次郎は。どこでそんなの聞いた?」
「一通りは義兄から聞いてます。義兄は先生の酒の相手をしては聞かされたそうです」
「それを早く言え。ともあれ、各地の有力道場からの出稽古依頼が、それぞれ引っ切りなしに入っていたが、当流の出稽古はわしを入れて甲乙付け難い剣豪揃いだったから、わしを含めて弟子四人の出稽古は、一人でも欠けると順番が狂うんじゃ」
「じゃ、誰も休めませんね」
「それが、それぞれの勢力拡張と弟子達のためにも一歩も引けず、お互いに休めなかったのさ」
「それで、競争相手を倒して休ませたいのですね?」
「それぞれが真向からぶつかり合い、凄まじい争いを繰り広げることになった」
「どのように?」
「道場の稽古で相手を倒し、自分がより多く出稽古に出て枝道場の支持を得て、三代目宗家の座を射止めようと本気で争ったんじゃ。その結果、お互いの技も上がり、天然理心流はますます無敵になり弟子も増えた」
「四人の競争がいい方向に働いたのですね?」
「そこで勝ち抜いたのがわしだ。お互いに道場を行き来して試合を重ねた結果、わしの工夫が生きて三人を何度も倒し、名実共に後継者として兄弟子達からも認められた」
「よかったですね」
「この争いのために天然理心流三代の座は十二年という長い年月を空白にしたが、お互いの意地を賭けた研鑽は無駄ではなかった。跡目相続で揉めた兄弟弟子は、勝ち残ったわしを祝福し、それぞれが分派をたてて潔く去っていった。もちろん、それぞれが自分について来る弟子をそっくり連れて出たのだが、こちらもそれでスッキリした」
「十二年もの間、宗家不在でゴタゴタしたんですか?」
「わしが二十歳で養子に来て、天然理心流三代目を正式に継いだのは三十二歳の天保元年(一八三〇年)、長かったな」
「優秀な三人が弟子を連れて独立したら、本家は空っぽですね?」
「少しは残ったさ。わしは義父の築いた戸吹村道場はそのまま温存し、新たに自分の故郷の小山村にも道場を開いて、小山村と戸吹村を往来して弟子を育てたんじゃが、江戸にも出たかった」
「それで、ここへ?」
「わしが、養子に入った近藤姓を名乗ったのは、この牛込甲良屋敷に「試衛館」道場を構えてからだからな。勝太を養子にした弘化元年(一八四四年)から、わしは近藤姓も使うようにしたが、いまだに勝太はそのまま島崎姓を継がせて、島崎勝太と名乗らせている」
「なぜ、近藤勝太じゃないんですか?」
「兄弟子達が勝太を天然理心流の四代目に認めたら、襲名披露後に名を改めて近藤勇昌宜(いさみ・まさよし)と考えておるんじゃ」
「近藤勇? いかにも強そうな名ですね。大先生、勝太さんの襲名はいつですか?」
「まだ決められん。原田ら三人がごっそり門人連れで抜けたら試衛館はもたんからな」
「大先生のときの宗家争いと、そっくり同じですね?」
「そういえば、そうだな」
「大先生はそこから出発して成功したんだから、勝太さんも心配ないですよ」
「惣次郎はそう思うか?」
「おれがいますから・・・それに」
惣次郎が笑顔で勝太を見た。
「勝太さんが襲名を急がないと、おいらに抜かれますよ」
「おまえに?」
「名前も、おいらが頂いて沖田勇・・・どうです?」
勝太が睨むが、十一歳の惣次郎は人の顔色など気にもしない。
(このガキ、案外本気かも知れない)と、勝太はそら恐ろしく思った。
7、 原田忠司
ある日、原田忠司が師の周助の酒の相手をしながら話すのを惣次郎が聞いた。
「宗家を継ぐのは、私か勝太のどちらかですね?」
「まあ、そうだな」
「勝太がわたしに勝てるようになれば、宗家継承を認めますよ」
「そうしてくれ。おまえに負けてるうちは宗家は継がせん」
最近は、誰もが避ける師の周助の酒飲み相手を、まだ十一歳の惣次郎が勤めさせられている。
その折りに、たまたま居合わせた原田忠司と師が酒飲み話ではあったが、こんな会話があった。
原田忠司は日頃から、周囲にそう広言して憚らないが、それを師が認めたのは初めてだった。
さらに忠司は、「宗家争いが面白くなりますね」と、師の前で豪快に笑った。
その夜、惣次郎が、けしかけるような口ぶりで忠司の言葉を勝太に告げ、さらに煽った。
「勝太さんが本気で闘えば、絶対に負けませんからね」
勝太と寝起きも稽古も共有している惣次郎は、勝太の成長を肌で感じとっていたのだ。
酒の上の会話とはいえ、兄とも師ともあおぐ勝太が宗家になる内容だけに、惣次郎としても気が気ではない。しかし、宗家争いなど意中にない勝太にとっては迷惑なことだ。
勝太は、島崎という姓をもつ武術家になれただけでも満足だった。その上、相州から武州一帯に鳴り響く天然理心流の宗家など、自分の器量からして望むべきではないような気がした。
だが、五十半ばの義父周助の老いを思うと、自分がやらねばという思いに駆り立てられ、少しは心動く自分があるのも感じていた。それには、心技体共に三人の兄弟子を凌駕するまでに高める必要がある。勝太はそれを痛感していた。
師の周助が勝太を養子にした時、原田忠司は師に言った。
「将来、勝太が宗家を継ぐ場合は、門人一同が認める力を蓄えてからにして欲しい」と、条件を出していることを勝太は周助に聞いている。勝太がまだ宗家への野心がない頃のことで今は違う。
勝太が試衛館に住み着いて四年、試衛館の竜虎の一人で原田の競争相手の島崎一が天然理心四代宗家の座をあっさりと諦め、別派を立てて宗家の勝太を側面から援助する策を考え、試衛館を去って故郷の小山村に帰った。島崎一は、以前から任されていた周助の旧道場も復活させて、そこで天然理心流の別派を開くつもりだったのだ。
これで、天然理心流の名跡を継ぐのは原田忠司か勝太か、この二人に限られた。
師範代の一人でもある幕臣の福田平馬は、勝太にこう言った。
「原田の本心は、自分が継ぐつもりだった宗家を勝太に譲るつもりだ。ただ、その条件として勝太が無敵の武術家になること、これ以外には考えていないだろうな」
「心して修行します」
「師が養子に望んだほどの勝太だ。わしらは後継者としてのおぬしに文句はない。ただ、人間は誰しも上に立つと唯我独尊になり、慢心して成長が止まる。これが心配なのだ」
「有り難く承ります」
素直に頭を下げた勝太だが慢心については全く予測もがつかなかった。
原田は迷っていた。
原田忠司は、徐々に自分が勝太を認めていることには気づいている。
勝太が師の近藤周助から学んだ天然理心流の技は、剣術の立会、居合に小具足、気合術などだが、原田忠司は、これに棍棒術などを含めて天然理心流百三十種の技のかなりの技を身に付けていた。勝太は、原田忠司が十年で身に付けた技を、その主要な部分だけとはいえ、わずか四年あまりの歳月で身に付けたことになる。
原田は、その勝太の努力に驚嘆し、十年前の自分の少年時代を重ねた目で勝太を見ていた。この勝太の強い意志と激しい気性、さらには天性の剣術の才能をも認め、天然理心流の後継者に相応しいとも考えた。それと、自分は家督を継がねばならないこともあり、師の周助の許しを得て分教場として国領に自分の道場を持つことが得策であるとも思ったりする。この時点ですでに、原田の心には勝太に宗家を継がせて天然理心流の行く末を任せてもいい、こんな思いもあったが大きな不安があった。
勝太は武術に秀でた好青年だが、貧しさから這い上がって経済面で苦労した周助師と違って金銭感覚に欠けている。お人好しの勝太が継ぐ試衛館は、いずれ道場主を慕うと見せかけたタダ飯タダ酒目当ての口だけ達者な剣客崩れの浪人共の巣窟になり、出稽古にも出られなくなって経済的に行き詰まる。その時に経営の才のあるよき弟子が現れるかどうかが、将来の繁栄の鍵を握ることになる。それだけが原田にとって心配の種だった。
ただ、この勝太への信頼感と、原田自身の男の意地は別だった。
試衛館の虎と言われた自分が、負け犬になって外で道場を構えても強い弟子は集らない。宗家の道は諦めても自前の道場は繁栄させたい。それには、勝太以上の激しい稽古を積んで、完膚なきまでに勝太を叩きのめして自立する以外に道はない。それには、この突出した弟弟子と激しい稽古を重ねるのが一番の近道なのは間違いない。
これまでの凄まじい稽古によって勝太は、誰と闘っても負けない気迫をも身に付けていた。だが、厳しく仕込めば仕込むほど自分以上に勝太が強くなってゆく。勝太と二人で激しく稽古を積む限りはこの矛盾からは脱け出せない。原田忠司は、これに気づきながらも稽古を続けた。これでこそ天然理心流は無敵になる。これは先代の後継者争いの時と全く同じ図式だった。
門弟達は、この勝太が後継者争いに加わったことで島崎(一)、原田、福田の試衛館三羽烏が四羽になったなどと言っている。ただ、門人の誰もが、若い勝太が周助の後継者争いで頭一つ抜け出しつつあるのを感じていた。
他流試合も道場破りも勝太の得意技になったが、今は、天然理心流の島崎勝太と名乗っただけで二流の町道場主は逃げ腰になって、さっさと草鞋銭を包んで差し出して逃げた。
勝太としては、軽い竹刀での形にこだわった道場稽古では何の益もない。ただ、懐紙に包まれたわずかな金子は貴重な道場の維持費になる。それに、周助の酒代稼ぎや食客の食事代も稼がねばならない。だから出稽古のない時は、道場破りも止められない。
それも、今はもう顔も名も知られ過ぎてままならない。天然理心流に「島崎勝太あり」の声は江戸西部から多摩一円に鳴り響きつつあった。
8、 出稽古解禁
ある日、義父の周助が朝から酒を飲みながら、木刀を磨いている勝太を見た。
「明日から初仕事だったな?」
「はい。原田さん福田さんにご一緒させて貰います」
「そうか、出稽古は厳しいだけじゃいかん。手加減も忘れるなよ」
周助が、勝太に体当たりされ投げられて擦りむいた額の傷を撫でた。
勝太は養父の言葉に素直に頷いたが、兄弟子の原田は稽古で遠慮などするなと言う。
「はい。怪我をさせない程度にします」
どちらが正しいか、勝太は実際に出稽古を始めてから自分で確かめようと思った。
最近では、甲州武田軍団の子孫を中心に甲源一刀流の牙城でもある幕府槍奉行支配下の八王子千人同心でさえ、実戦的な天然理心流に乗り換える者が続出している。今では「試衛館」からの出稽古も増え、疲れ気味の周助に代わって勝太の兄弟子・福田、島崎、原田らが交代で出張し、それぞれが休む間もない。そこで、新たに勝太も代稽古に加わることになった。
「小野路の小島には、そのうち勝太を連れて行くからな」
養父はいつもこう言いながら、未だに実行したことがない。それを知っている原田が、しびれを切らして勝太を連れ出し、手が足りない代稽古の師範代の手を増やそうと考えて提案したのだ。
「小野路には私が勝太を連れて行きます。先生は後日、勝太を日野に連れて行ってください」
「そうか。小野路はおまえに任すか」
「勝太も初仕事で疲れますから、せいぜい七日で二か所、府中と小野路だけ行って来ます」
五十を過ぎて酒びたりの周助は、出稽古が億劫なのかめっきり出不精になっていた。
代稽古の新顔は必ず宗家同伴で挨拶する長年の慣習が、これであっけなく破れた。
それを知った惣次郎は、勝太の日野行きも多分、原田が引率することになる、と勝太に言った。
朝、食事の合い間に惣次郎が真顔で言った。
「おいらは、いつ代稽古に出られますか?」
周助の横でご飯を食べていた無口で目立たない後妻のアヤノが思わず噴き出した。
めったに笑わない女だけに、惣次郎の発言が余ほど突拍子もないものだったらしい。
惣次郎はまだ十一歳なのだ。
原田忠司に連れられて小野路村に行く勝太は十九歳、これでも若過ぎるのだ。
義父・周助の話だと、小島家は先代名主の小島政則以来の門人で、天然理心流には経済的にもかなり貢献しているという。多少はその功に報いたとしても、名主の身で「免許皆伝」まで上り詰めた小島鹿之助の努力は賞賛に値いする。父・小島政則から名主を継いだ鹿之助が十八歳で天然理心流・近藤周助の門人となっていた。
出稽古が明日という夕べ、食事の席で周助が酒の肴に勝太に言った。
「出稽古は、普通十日ほどの日程で四か所か五か所を回るが、今回は二か所七日だけだ」
「なぜですか?」
「効率を考えると上石原、小野路、日野が道筋だが、日野にはわしがお前を連れて行く」
「その上石原って?」
「お前の実家だよ」
「まさか、そこでおれが?」
「当たり前だ。代稽古だぞ」
「弱ったな」
「そこで何日か稽古をしてから小野路村だ。日野は素通りになる」
「近くを通るのに挨拶もしないんですか?」
「原田が気を利かして一人で立ち寄ってくるさ」
ふと、周助が言った。
「日野の彦五郎の義弟に妙な若者がいてな。こいつがなかなかの使い手なんだ」
その佐藤彦五郎の義弟は、小野路村の小島鹿之助とも親類で、時々稽古に参加するという。年齢は勝太より一歳下の十八だという。
「どこで修行したのか、甲源一刀流や柳剛流の真似ごとだが、わしが稽古をつけた感じでは見た目より遥かに筋がいい。相当な負けず嫌いらしいから、正式に入門させて基本から教えれば、間違いなくおまえの代稽古に使えるぞ」
「名前は?」
「石田村の歳三ってやつだ」
「トシ!」
その名を聞いた瞬間、勝太は武蔵の国の国府跡で知られる六所宮の祭りを思い出して頭が熱くなった。武蔵国総社である府中の六所宮の例大祭といえば、古代の歌会から始まった関東三大奇祭の「くらやみ祭り」だが、これは大人の祭りだから勝太には縁がない。子供が夢中になるのは相撲祭りだ。秋風の吹く季節に行われる八朔子供相撲祭りは、天正十八年(一五九〇)に徳川家康が江戸城入りを祝って、天下泰平・五穀豊穣を祈って始まった子供の祭りだった。
勝太がまだ勝五郎だった十三の夏、あの日も近郷の各町村から選りすぐりのガキ大将を一堂に集めて、日ごろ自慢の腕力を競い合わせたのが腕白祭りのことだった。
神主による払い清めの跡、村の代表による団体戦と個人戦があり、黒山の人だかりの大声援の中、大いに盛り上がった。とくに、ここで個人優勝することは村の名誉だけでなく、将来この地の顔役として一目置かれる存在になるだけに、本人も必死だったし村を挙げての狂気じみた応援や周囲の後押しも異常に盛り上がっていた。
この大会では、上石原村の勝太が十歳の頃から数年間、年長者を倒して横綱を張って腕白大将として君臨していた。この常勝の勝太に決勝戦で土を付けて連勝を阻んだのが石田村のバラガキ(薔薇垣=悪童)で知られる歳三だった。それまでの二年間も勝太は圧勝していたから、気にもしていない相手だった。
力と気迫では誰にも負けない勝太が、決勝戦でこの歳三と対戦することになった。
気合よく立ち上って、右四つに組んで土俵際まで御一気に寄った時、左足の内側を思いっきり蹴飛ばされ、不覚にも痛みで一瞬気を抜いたところを小手投げで敗れた。その時、歳三が「ざまあ見ろ」と言った一言が争いの元だった。試合後に大ケヤキの下に呼び出して殴ったのがきっかけで、敵味方、大人も混じっての見境のない殴り合いに発展し、結局、大会の運営に携わっていた世話人、村役人総出の仲裁でようやく騒ぎは静まった。
喧嘩は収まったが、当事者の勝太と歳三だけが随神門の裏に呼ばれ、土方家と縁が深く、宮川家とも親しい本宮司の猿渡左衛門容盛(さわたりさえもんひろもり)から説教を受けた。二人とも宮司には別々に国学を学んでいるから頭が上がらない。
「相撲は相撲、勝ち負けに遺恨を残すではない」
二人は和解を条件に宮司から結構な小遣いを貰ったが、「借りは返す」「返り討ちだ!」と、お互いに次回の勝利を告げて別れた。
その翌年、勝太が天然理心流に入門し子供相撲を辞退したことで再戦の約束は果たせず、歳三が強敵のいない八朔祭りで圧倒的強さで優勝したことを聞いた。勝太には苦い思い出のある石田村の歳三だった。あの男だけは許せない。
9、 里帰り
嘉永五年(一八五二)春三月、十九歳の勝太は兄弟子の原田忠司と福田平馬に連れられて、江戸小日向柳原の道場から四日ほどの旅程で多摩への出稽古を兼ねた師範代入り披露の旅に出た。
つい最近までは、義父の荷物持ちでお供をしていたが、義父もすでに五十四歳、前夜の酒が身体に残って黎明の早立ちは苦手とかで、ごく自然に高弟達が代わって出稽古に出るという役割分担が出来上がっていて、いよいよ勝太も参加する。
その挨拶と代稽古の見習予行に兄弟子二人が同行することになった。竹の皮に包んだ握り飯を三人に手渡しながら惣次郎が羨ましそうに言った。
「福田さん。おいらも連れてってくださいよ」
「バカ。どこの世界に十一歳の師範代がいる。十年早いだろ」
「剣の腕は、年齢じゃないでしょ?」
「いい加減にしろ。おまえは道場の床でも磨いてろ」
口では叱るが、惣次郎の才能を認めている福田平馬は嬉しそうだった。
近藤周助の一番弟子で、天然理心流の龍虎の一人、龍の島崎一(はじめ)は、師の周助と同じ小山村(現町田市)出身で、師の周助が江戸に進出する前の戸吹村(現八王子市)道場時代の筆頭師範代だった。その島崎一は、養子の勝太や沖田惣次郎など若くて優秀な弟弟子が続々と入門するに及んで、宗家の後継者争いから一歩引き、故郷の小山村に道場を開いて引きこもり、江戸甲羅屋敷の試衛館道場には滅多に現れない。それでも、出稽古だけはきちんと自分の出番を守ってくれるから誰からも不満は出ない。
龍虎の虎の原田忠司は、試衛館を勝太に任せ、故郷の国領(現狛江市)にも道場を開いていたが、出稽古と道場荒らしだけは積極的で、つい先日も江戸神田お玉ケ池の北辰一刀流・千葉道場に乗り込み、玄武館四天王の一人とか言われて天狗になっている海保という男を完膚なきまでに叩き潰して「天狗の鼻を少し折って来た」と涼しい顔をしていた。
「今回は上石原の宮川道場に三日、小野路の小島で四日、日野宿の佐藤家は素通りだぞ」
試衛館支部扱いの佐藤彦五郎道場には、後日、周助自らが勝太を連れて行くというのだ。
長身で精悍な原田忠司と、一見ひ弱そうで芯の強い福田平馬、鈍重ながら頑健そうな勝太、三人とも紋付羽織姿に縦縞模様の袴に黒足袋に草鞋姿、着替えや稽古衣なども何着か武具と一緒に担いでいるから荷が大きくて大変だが、当人達は気にもしていない。
まだ暗いうちに道場を出て、東の空が明るくなる頃には内藤新宿を背に、桜がほころびかけた春の気配を感じながら小鳥囀る街路樹の茂る旧小沢村に入って小休止したところで朝日が日が東の空から姿を現し一日が始まった。
街道筋に軒を並べた商いの店々や家屋がめっきり減って、緑濃い田園風景が広がっていた。道脇の岩に腰かけて小休止して、惣次郎が用意した味噌漬け入り握り飯を食べ、竹筒の水を飲んだ。
原田忠司が先に立ち上り「さあ、行くぞ!」と、二人を急かせた。福田平馬があわてて支度をしながら勝太に話し掛ける。
「この先はな、三代将軍家光さまがよく鷹狩りに来たところだ。村内にある高円寺って寺に寄って休憩し、餡入りのミタラシ団子を食べながらお茶を楽しんだそうだ」
「食べてみたいですね」
「家光さまが利用したことで、小沢村が寺院の名をとって高円寺村になり、ミタラシ団子がお狩場餅と変って名物になったが、中身は同じだ」
「名前なんかどっちでもいいです。おごってください」
「まだ茶屋が開いておらんよ。それに今、朝飯を食したばかりじゃないか」
「昼は、深大寺蕎麦でもいいですよ」
原田が呆れたように言った。
「今、握り飯を食っただけなのに、もう腹が減ったのか? ここまで来たら昼は勝太の家で宮川のオヤジさんの手打ち蕎麦が一番だろ?」
「だったら急がなきゃ」
三人は西に向かって街道を急いだ。
やがて、甲州道中を右に折れて武蔵野台地の府中領上石原宿辻に屋根付き板塀に囲まれた広大な宮川家の屋敷が視界に入って来た。一行を遠くから見かけた門人の注進でか、勝太の長兄の音五郎と宮川道場で剣術稽古の村人らが弟子数人が長屋門から走り出て、馴染みの原田と福田の荷を競って奪うように引き取って担ぎ、「カツ、暫くだな」と懐かしく声は掛けるが、勝太の荷物は誰一人として持とうとしないのが気に入らない。
玄関前に並んで迎えた父や兄が勝太をチラと見ただけで、原田と福田には深々と頭を下げた。
「お待ちしました」
足を濯ぎ、着衣の埃を払って座敷に入ると、父の久次郎が原田と福田に頭を下げた。
「勝五郎がお世話になっております」
原田忠司が改まって報告した。
「師の命により、島崎勝太も師範として本日から代稽古に参加します」
「代稽古? 勝五郎が?」
「そうです」
「まさか? 悪い冗談ですな」
父の久次郎は本気にしないから、周囲も全く取り合わない。
長男の音五郎が顔を出して挨拶した。勝太も代稽古になったことはまだ知らない。
「父が蕎麦を打ちましたので、一口食べてから稽古をお願いします」
「いや、稽古が先でも」
「いえ、今、村中に触れを回していますので、その間にお食事を」
久次郎が手打ちでこねた香りのいい卵つなぎの生蕎麦を、ワサビの効いた葱入りの汁に浸け、一行は宮川道場の幹部と一緒に喉を鳴らして食欲を満たした。
「ああ旨かった」
三人共満足の意を表現してから腰を上げた。
10、 勝太の稽古
庭に出ると、宮川屋敷の庭にある野外道場いっぱいに門人をはじめ近隣の若者が四十人ほど集まって、久しぶりに来た試衛館の師範代の稽古を受けようと集まって来たが、そこに勝太の姿を見て口々に声を掛けてくる。
「勝五郎、先生方の荷物持ちで里帰りか?」
「養子に行って、少しは剣術も覚えたか?」
原田忠司が大声で一言触れた。
「本日より島崎勝太も、原田、福田、本日不在の島崎一(はじめ)同様、天然理心流師範として、この宮川道場の稽古にも参加することになった。ご一同、よろしく頼みます」
福田と勝太も頭を下げたが、誰もがきょとんとして声もない。知らない名前だからだ。
「よろしく頼みます」
そこで勝太が改めて前に出て頭を下げた。これで事情が分ったが誰も納得した顔ではない。
「勝五郎がおれらに稽古を?」
「それは無理だ。おらの方が強いだべ」
福田平馬が毅然として言った。
「今日は、島崎勝太師範だけで稽古をつけ、われら二人は明日から参加します」
それからは、道場備え付きの防具を取り換え引き換え、門人や昔の悪ガキ仲間が次々と防具を付けて勝太と撃ち合うが、勝太の木刀にもろくも打ちのめされて呻いている。
父の久次郎、兄の音五郎にも容赦なかったから勝太の強さが際だった。
稽古が終わった時は、怪我人が続出していた。
音五郎が酒瓶と薬袋を持って、茶碗を持つ一人一人に声をかけている。
「茶碗酒一杯と一包みだぞ。これで、打ち身が治り痛みも消えるからな」
「これはなんだね?」
疑問に思った勝太が兄に聞くと、師の近藤周助がどこからか貰ってきて置いていった「石田散薬」という薬だという。
「どこで造ってるんだ?」
福田平馬が言った。
「なんだ、知らんのか? 石田村だから石田散薬だ。試衛館でも使おうか?」
「そんなもの要らんですよ」
石田村と聞いただけで勝太は不快になる。
その夜は宮川家泊まりだったから、三人を囲んでの盛大な酒宴になった。
中村余吉という庄屋の道楽息子から質問が出た。
「勝五郎が近藤先生の養子になって島崎勝太になったのは分ったが、宗家も継ぐのか?」
福田平馬が応じた。
「師の近藤周助先生は、天然理心流の宗家争いに十二年かけた。島崎勝太も十二年かけてこちらの原田と争ってくれれば、その間に漁夫の利で拙者が宗家になれる。どうだね原田?」
原田が笑った。
「十二年は長すぎるから勘弁してくれ。勝太が宗家になるのは反対はせんが、襲名披露までには兄弟子全員を完璧に倒すのが条件だ」
「全員? わしに島崎一、原田の三人をか? どうだ勝太、出来るか?」
勝太には返事のしようがない。いつでも倒せると思っているからだ。
その話を聞いて、宮川家の家族だけでなく全員が勝太には十二年かかっても無理だと思うから、溜め息をついて顔を見合わせ、気の毒そうに勝太を見た。
三日の滞在を終えて四日目の早朝、朝飯を食して出立、府中の六所宮に詣でて猿渡宮司に挨拶し、分倍河原の古戦場跡を通って関戸の渡船場から小野路村(現町田市)に入った。
義父の話だと、小島家は先代名主の小島政則以来の門人で、天然理心流には経済的にもかなり貢献しているという。多少はその功に報いたとしても、名主の身で「免許皆伝」まで上り詰めた小島鹿之助の努力は賞賛に値いする。
寄場組合・小野路村の小島鹿之助為政は、今は二十三歳だが弘化四年(一八四七)、十八歳の時に父・角左衛門政則からの委譲で名主になり、嘉永元年(一八四八)七月に他の仲間五人と連れだって近藤周助の門人になっていた。勝太の入門は嘉永二年(一八四九)十一月、十四歳で二人の兄と共に天周助の門人となっている。したがって、四歳上の小野路村名主・小島鹿之助は一年と四ケ月だけ勝太の兄弟子になる。
鹿之助の父の角左衛門は天然理心流の免許皆伝で、屋敷内に道場を持っていた。鹿之助もまた剣術に熱心な名主で、天然理心流入門四年目で目録を得ており、今は小野路村の若者を指導するまでになっていた。
その小島鹿之助は、一行三人を丁重に迎えた。
名主の鹿之助以下、小野路の小島道場関係者門人一同が屋敷の門前に並び、門人数人が近付いて来る三人に駈け寄って荷物を預かり、いつも指導されている両師範代と話しながら歩いて来る。
試衛館の高弟二人に加えて、後継者と目されている師の養子までが揃って小野路を訪れるなど、大変な出来事なのだ。このような名誉は滅多にない。門人一同が門前に出迎えるのは当然だった。
「島崎勝太です」
「お待ちしました。若先生からご来訪頂き恐縮するばかりです」
ひとまず、座敷にて粗茶などを、と屋内に案内された勝太は、ふと人の気配を感じて横を見た。
襖や障子が開け放たれて、少し離れた先の部屋が見え、どこかで見たような顔の若者が、庭の見える部屋の廊下に単衣の着流しで足を投げ出して右手に筆、左に短冊を持って、宗匠ぶった顔つきで視線を宙に投げている。気になる男に似てはいるが、他人の空似ということもある。
原田もその男に気づいた。
「おや、豊玉(ほうぎょく)師匠、また下手な俳句かい?」
原田の冷やかしに、男が照れたのか軽く頭を下げた。だが、足は投げ出したままで態度がでかい。
「済みません。行商で立ち寄った親戚です」
あわてた鹿之助が勝太に言い訳をして座敷の襖を閉めたから、勝太の視界から男が消えた。改めて挨拶を交わし、お茶を飲みながら勝太が聞いた。なにか気になるのだ。
「鹿之助さん。豊玉って方は俳諧師ですか?」
鹿之助の困ったような顔を見て、原田と福田が交互に笑いながら言った。
「ここの親戚の薬屋さ。禿鷹みたいに稽古で怪我人が出るのを待ってやがる」
「ヤツは俳句の出来は知らんが、生意気に喧嘩は強いぞ」
鹿之助が言った。
「試衛館の出稽古で怪我人が出ますので薬を頼んだのです。石田村の歳三といいますが」
「石田村のトシ!」
勝太はまた、六所宮での屈辱を思い出して苦い顔をした。
11、 兄弟分
雨の日なら納屋だが、晴れた日の道場は屋外になる。
道場主の鹿之助の挨拶に続いて、原田が勝太を天然理心流四代目候補として紹介した。
勝太はただ「よろしく願います」と、腰を折って辞儀をしただけで挨拶を終えた。
まず、原田忠司と福田平馬が、防具なしの稽古着で天然理心流の攻めと受けを交互に入れ替えての攻撃と防御の組型を披露した。
二人の裂ぱくの気合いが多摩の空を裂いて型試合が始まった。
二人の白刃が舞い、中極意の「表太刀五本」という基本形から始まって、「向抜き打ち」「山影剣」など凄まじい剣風が火花を散らして、身体すれすれの寸止めまで鋭い風音を鳴らす。それは真剣勝負そのものの迫力で見る者の魂を奪った。
師範代二人の型稽古が終って、小島道場門人との総当たり稽古が始まった。
ここでも、宮川道場の稽古同様、初顔の勝太が最後まで一人で相手をすることになる。
小野路の門人も、若い勝太なら御し易しと見てか我がちにと向って来る。太めにした袋竹刀に防具を着けての撃ち合いだが、他流のように華麗に舞う軽くて細い竹刀での遊び芸とは違うから気絶することもある。
道場主の鹿之助も、師の選んだ養子の力を試すべく勝太に立ち向かった。
小島鹿之助はさすがに免許皆伝だけに筋がよかった。基本に忠実だから本来は師範代の出稽古がなくても門人に教えらのに不自由はない。それでも、江戸の試衛館を継ぐ天然理心流宗家候補の勝太には手も足も出なかった。散々叩かれた末に、勝ちを譲られて逆胴を抜き面目を保って稽古を終えた。
いつの間にか、歳三が草履履きで庭に出て、鹿之助と勝太の立ち会いを冷めた目で見ていた。
稽古を終えた鹿之助が防具を脱いで汗を拭きながら歳三を誘った。
「歳、お前もやってみるか?」
歳三は黙って首を振った。顔が蒼ざめている。
「どうした?」
「こんなはずじゃなかった」
「なにが?」
「あいつだ。どこでどう変わったのか別人になっている。これじゃ勝てん」
「勝てん? 当たり前だ。相手は宗家になる身だぞ」
「信じられん。天然理心流だろ。あの近藤先生の?」
「そうだ。周助先生のご養子だ。歳は、若先生を知ってるのか?」
「ガキの頃から知ってるさ」
「遊び仲間か?」
「六所宮の八朔相撲で足を蹴とばして勝ち、大喧嘩になって殴り合っている」
「歳は、彦五郎さんの道場で近藤先生に教わってたって言ったな?」
「代稽古の福田、原田さんにも稽古をつけてもらったが、嫌がられてるんだ」
「なぜ?」
「脛を狙ったり、接近戦で足技を使うからかな?」
鹿之助が笑った。
「天然理心流だって、何でもありだぞ」
「なんだ、おれのやり方でいいのか?」
「ここで、六所宮の続きをやってみたらどうだ?」
「よし、ケリをつけてやる」
「そうだ。その意気だ」
歳三は稽古着に着替え、薬箱の上に括った防具と木刀を外して準備をし、順番を待った。
一通り小野路の門人の稽古が終わり、歳三がこの日最後の立ち会いになる。
勝太は義父の周助から、日野の佐藤彦五郎道場で教えているという歳三のことは聞いていたから驚かないが、歳三の木刀を見て「オヤ」と思った。勝太のと同じ試衛館独特の太い樫の木刀で、以前、義父が用いていたものだった。よく見ると木刀の頭の部分に「義」の一字が刻まれている。
ただ、かなり乱暴に使われているのは木刀の瑕や凹みを見れば分る。こいつは相当に修行を積んでいる。
「稽古じゃなく、試合にしないか?」
「結構!」
原田忠司があわててとび出して来た。
「歳さん。試合は構わんが木刀はいかん。袋竹刀でやってくれ」
勝太が「そのままで構わん」と言い、袋竹刀のまま歳三を迎えた。
二人は防具の隙間から遺恨の恨みの目で睨みあい、稽古ならぬ試合が始まった。
「土方歳三、一手、願います」
「よろしく!」
「一本勝負、はじめ!」
型通りに挨拶をするのを待って審判に立った福田兵馬が試合開始を告げた。
その声の終る前に歳三が、勝太に攻める間を与えまいと凄まじい勢いで激しく打ち込んで来て攻めまくって来る。その勢いは尋常ではない。
だが、勝太には余裕があった。歳三の突きを身をかわして避けながら歳三の頭を狙って打ちこみ、歳三が横に逃げたところをすかさず胴を狙い、それを避けられると小手を撃つ。激しい一進一退の攻防の中には、柳剛流で習ったのか歳三の脛斬りが何度かあり、その都度、勝太は軽く跳ねて避け頭を狙って反撃した。だが、どの手も決まらない。こうなると、勝太としては手段を選ばぬ天然理心流、決着を早めるためには奥の手を使うしかない、と勝太が思った瞬間、まるで、それを待っていたかのように歳三から先に打ち込みながら身を寄せて接近戦を仕掛けて来た。
勝太も逃げず鍔攻め合いになったところで歳三の得意技の蹴りが出た。それをわざと脛で受けた勝太が面の中でニヤッと笑い、低い声で「おあいこだぞ!」と、歳三の前垂れの防具の上から急所目がけて右膝に力を込めて蹴り込んだ。「ウッ」、と歳三が呼吸が詰まって前屈みになって隙が出来た頭上に、勝太の袋竹刀が防具を砕く勢いで炸裂した。これで歳三の意識が飛び、激しい音を立てて昏倒した。小島道場内は静まり返って音もない。その二人の凄まじい殺気に呑まれたのだ。
この夜の酒宴は盛り上がった。
「勝さん、急所蹴りは卑怯じゃねえのか?」
濡れ手拭いで頭を冷やしながら不服顔の歳三が口をとがらせた。
「武士が卑怯という手は必殺技になる。誰も使わんからな」
「なるほど、天然理心流は噂以上に凄いな」
「やってみるかね?」
「おまえさんには教わらん。正式に弟子入りするなら大先生がいい」
「好きにしろ。ところで、木刀の頭の義の字は何かのまじないかね?」
「我が家の家紋みたいなもんさ、強いて言えば{義に生きて悔いなし}かな」
「なるほど、義に生きる・・・か?」
「土方家は義の字が世襲だからな。ま、どっちでもいいや」
歳三が、照れたように話題を変えた。
「おれは、あんたを若先生とは呼ばん。勝さんでいいか?」
「いいさ。おれも歳さんでいくからな」
「いや、おれが年下だから弟分だ。歳と呼び捨てでいいさ」
「じゃあ、歳、仲直りだな」
「勝さんの力は認めたが、まだ負けたとは思ってないぜ」
「いいさ。同門になれば勝ち負けなんかどうでもいいことだ」
酒に弱い勝太が飲み干した大盃に酒を満たして手渡すと、一気に歳三が飲み干した。
これで二人の遺恨は霧散し、言葉もなく兄弟分の約束が固まった。
12、 くされ縁
原田忠司が振り向いて、勝太と歳三を手招きした。
「若い二人、こっちへ来て仲間に入れ」
二人の会話を聞いていた小島鹿之助が笑った。
「歳が逆立ちしたって、若先生には勝てんよ」
福田平馬が鹿之助をたしなめた。
「いや、この歳三ってやつは底が知れん。いずれ、勝太といい勝負になるぞ」
小島道場の弟子達も集まって酒宴となり、剣術談議に花が咲いた。
歳三が勝太に言った。
「勝つために手段を選ばぬ天然理心流、これならオレの性にも合うな」
「きちんとした技も使うぞ」
勝太が応じたのを聞いて福田が笑った。
「勝太はスッポンだ。食いついたら相手を倒すまで放さんからな」
勝太がすかさず話題を変えて、先輩二人を褒めた。
「聞いてはいたが、兄弟子達の真剣組立ちの型見せはさすがですね」
それを聞いた鹿之助が口をはさんだ。
「真剣って? もちろん刃は潰してあるでしょうな?」
福田平馬が平然と手で顎を撫でた。
「髭も剃れますぞ」
鹿之助の顔から笑みが消えた。
「福田さん。そんな危ないこと、誰とでも試すんですか?」
「誰とでもじゃない、原田とだけですよ。島崎や師匠が相手じゃ殺されますからな」
勝太が感心したように頷いた。
自分も、このような深い信頼関係を持てる相棒が欲しい、と思って横を見ると歳三が、我関せずという顔で酒を飲んでいる。やはり、こんな身勝手な男とでは真剣での組太刀までは無理なのか。
勝太の心を呼んだのか、ふと歳三が顔を上げてぼそっと呟いた。
「勝さん。いつか我々も真似してみますかね?」
勝太はこの男のふてぶてしさの中に人の心を見抜く繊細さがあるのに気づき、思わず頷いた。
この出稽古を境にして、原田忠司が勝太に距離を置くようになった。
過日、島崎一は勝太と稽古で互角に戦った時に、「もうすぐ追い抜かれるな」と、いって若い勝太の伸び盛りの力を認めて小山村に道場を開いたように、原田忠司も故郷の国領に道場を持ち、福田平馬も「勝太に任せるよ」と言って試衛館には滅多に姿を現さなくなったのだ。それでも、それぞれが交代で与えられた日程で各地の道場に出稽古に出掛けて師に報いるのは今までと変らない。
勝太にとって、原田忠司に命じられた「わしらに勝って宗家を継げ」という一言が、天然理心流襲名の前に大きな壁となって立ちはだかり、修行の励みともなっている。
ある日、二人で稽古中に、いつも胸三寸まで目にも見えぬ速さで鋭く迫ってくる忠司の突きが、まだ勝太の胸元に伸びる前によく見えたので、左に体を避けると、大柄な忠司の腹部に隙が見えた。そのまま素早く逆胴で右脇腹一寸で木刀を止めたところ、忠司が「よし!」と叫び木刀を引いて真顔で言った。
「この突きをよくぞ見切った。わしの稽古は終わりだ。あとは襲名前の試合で試すぞ」
忠司はそれから間もなく荷物をまとめて道場を去り、国領に戻って道場開きの準備を始めた。
その後は、江戸市谷の試衛館道場には盆暮れ正月には義理堅く挨拶に来るが、本家の道場では師の周助に勧められても絶対に木刀を握らない。
だが、勝太が出稽古の途中に国領の原田道場に立ち寄ると、忠司は喜んで迎えて酒食でもてなし、相模や秩父などへの数日掛りの出稽古でも快く引き受けてくれた。ただ、勝太からの稽古の手合わせは何度頼んでも「後の楽しみにな」と、やんわりと断るのだった。
勝太は、この豪快な原田忠司が好きだった。勝太を天然理心流の四代目宗家にという忠司の強い願いは、いつも勝太に届いている。
勝太が江戸小日向柳原・甲良屋敷の「試衛館」を任されるようになってから、連日のように、相模から多摩、上州地方の天然理心流の道場から若師範代の勝太への出稽古依頼が殺到した。一つの道場には月に一、二回の出張なのだが、各地の名主、庄屋からの新規の依頼が増え続けたのだ。
これは、真剣と同じような重さの太い袋竹刀や木刀を使っての実戦型の臨場感が受け入れられたこともあるが、手抜きをしない勝太の朴訥な人柄と、稽古に対する真摯な姿勢が好まれたのだ。
各地の門弟道場での勝太の人気は、すでに師を超え、殆どの道場は勝太を名指しで招くのだが、兄弟子が出稽古を手伝う回数はめっきり減って、勝太は殆ど休む間もない。
ただ、江川坦案が目論む農民剣法の波に乗った天然理心流の道場は、試衛館の他にも宗家周助の兄弟弟子だった兄弟出師理心相模や上州、多摩一円から甲斐路にまで広がっていて、門弟数は孫弟子を加えると末端六百人とも千人ともいわれていたが分派が枝葉のように広がっていて、その実数は誰にも分らない。
日野宿の名主・佐藤彦五郎の道場には、義父の周助に連れられて行った。
嘉永二年(一八四九)一月に農家から出た不始末火が日野宿を焼き尽くした。この大火で、脇本陣の佐藤家は屋敷を失った上に火事のどさくさに紛れて、宿場から追放されていた元隣人によって祖母を殺された過去をもつ。彦五郎は、この事件で祖母を救えなかった己の不甲斐なさを恥じて剣術の修行を思い立った。
彦五郎は、親類の小島鹿之助が道場をもつ天然理心流への入門を決意し、嘉永三年(一八五〇)に入って間もなく小島鹿之助の紹介で正式に近藤周助に弟子入りした。
彦五郎は自宅に道場を開いて近隣の若者にも開放し、試衛館に出稽古を依頼して剣術の修行に励むようになり、先代まではいがみ合うことの多かった隣家の名主で本陣を構える佐藤芳三郎にも剣術を習うように誘い、今では励まし合って共に日野の発展に尽くしている。
彦五郎は、多摩代官・江川太郎左衛門の肝入りで十一歳の若さで日野郷四十四ケ町村二千五百石の名主を下佐藤として、隣家の上佐藤の芳三郎と共に継ぎ、半月交代で日野郷一帯の名主と問屋を兼任して施政を行った苦労人だけに、七歳も年下の勝太を兄弟子として丁重に扱ってくれるから居心地もよかった。
この時代、農民の武術禁止令の行き届かなかった多摩の村々では群盗に対しての自衛手段という大義名分を掲げた江川代官の農兵育成策に乗って、各村の名主が自邸の庭に剣術道場をもって村人に開放することで、多摩の農兵策は実りつつあった。こうなると、佐藤彦五郎の立ち場はごく自然に農兵を束ねる立場になりつつあり、周囲もまたそれが当然と見ていた。その意味では、遅まきながら天然理心流を修めたた彦五郎の行動は地域の統率者として正しかったことになる。
江川坦庵の肝いりで、若くして代を継いだ本陣・脇本陣の両佐藤家は、かつては過去の因縁を乗り越えて和解し、力を合わせて日野宿周辺町村の発展に尽した。一時期、幕府代行の代官江川家からも両本陣として認められ、両家の若い名主が並立して善政を施したことで日野宿はますますの発展をみた。
佐藤彦五郎は勝太より七歳上だが、入門が少しだけ早い勝太が兄弟子になる。
その彦五郎の厳しく真摯な修行もまた「鬼気迫る」ものがあった、と義父は言った。
勝太が、周助に連れられて初めて彦五郎と会った時、いくら稽古熱心で腕に自信があるといっても名主の余技としての剣術と甘くみて軽い調子で立ち会ったが、彦五郎は全力で掛かって来て油断がならなかった。少しでも手抜きをすると鋭く打ち込まれてしまう。彦五郎からみれば、いくら宗家の養子といっても勝太が若過ぎるから道場主としては一方的に負けるわけにはいかないのだ。
周助と違って手加減をしない勝太は、気を引き締めて立ち向かった。
その結果、彦五郎をこっぴどく袋竹刀で叩きのめした後に小手を打たせて頭を下げた勝太は、義父の周介のいう花を持たすのが下手な自分を恥じた。だが、彦五郎は容赦のない勝太の指導こそ、自分が望んでいたものと歓迎し、一層の厳しい指導を勝太に望んだ。それによって彦五郎はさらに強くなるからだ。
周助によると、以前からの特別な「試衛館」の理解者である小島家に加えて、その親類の佐藤彦五郎が後援者になったことで試衛館の経営は万全になったという。確かに鹿之助も彦五郎も年下の勝太にいつもよくしてくれたし、勝太もまた気心の知れたこの二人を別格扱いにした。この小島鹿之助と佐藤彦五郎の両名主は、お互いに研鑽を積んで、今では天然理心流の中目録以上まで進んでいる。
勝太と小島道場で意気投合した彦五郎の義弟の歳三とも、何度か佐藤道場で顔を合わせたが、歳三は二度と勝太と立ち会うこともなく酒席にも顔を出さない。義父の周助に言わせれば、まだ正式入門ではないが、歳三には他の者にない独特の凄みがある、と言い「だがな」と続けた。
「あいつは稽古嫌いだし他流の癖が抜けきれん。本来なら免許皆伝だが、当流としては、せいぜい目録というところまでしか出せんぞ」
義父は歳三を稽古嫌いと言ったが、勝太はそうは思わない。勝太が門人相手に稽古を始めると、稽古には加わらない歳三が食い入るような鋭い目で勝太の一挙一動を追い、一つ一つの技を自分のものにしようとする貪欲な気迫をその視線から発していた。勝太は、歳三の木刀の無数の傷跡から、歳三が森の灌木相手に千本打ちで技を磨いているのを見抜いていた。
(こいつとは腐れ縁になる)
勝太が歳三の目を見つめると、挑戦的な歳三の目が何時もふっと笑い返してくる。