上巻第1章序文

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そもそもの発端は鯨だった。
日本が諸外国から開国を迫られたのは、鯨のせいだと歳三は聞いている。
鯨の油は、照明や機械器具の潤滑剤として欧米各国では生活必需品として欠かせないらしい。
アメリカ、イギリス、オランダ、ロシア、スペインなど諸外国の捕鯨船団は、大西洋の鯨を獲り尽くし、ついに太平洋にまで鯨を求めて出没するようになった。これらの国々は、日本近海に生息するマッコウ鯨から採れる油がもっとも良質であることを知り、捕鯨船団に護衛の武装艦隊を伴って出漁したから、日本近海は捕鯨争いの国際的な戦場と化していた。各国はそれぞれ自国の利益を求め、燃料や食料の補強基地を求めて日本に開国を迫っている。ここまでは、海外事情に詳しい伊豆韮山の代官江川太郎左衛門英龍(ひでたつ・通称担庵(たんあん)から、親類の本田覚庵宅で少年時代の歳三が直接聞いたのだから間違いない。歳三は幼い頃から担庵をタンナンと いう愛称で呼んでいる。
天保十二年(一八四一)の夏、土佐の漁師見習いで十五歳の万次郎が鯨漁に出て遭難した。
無人島に漂着した万次郎は、アメリカの捕鯨船に救助され、その船長に見込まれて養子となり、捕鯨船暮らしや通学で英語や数学、測量技術や航海術に加えて造船技術などをも学び、民主主義とかの政治経済の仕組みや日本とは大きく違う一般庶民の生活を身を以って体験した。その万次郎が望郷の念止み難く、十年近い歳月を経て帰国したのは嘉永四年(一八五一)の秋、万次郎は二十五歳になっていた。つい二年ほど前の話だ。歳三はこの話を、親しい江川家手代・根本慎蔵から聞いた。慎蔵は多摩代官手代として土方家にも姉の嫁ぎ先の佐藤彦五郎邸にもよく顔を出す。
根本慎蔵の話だと、海外事情に詳しい万次郎は攘夷派の幕閣には快く思われていないという。
アメリカの捕鯨船に送られて琉球に上陸した万次郎は、琉球を薩摩藩や長崎奉行所の厳しい取り調べを経て江戸に送られ、幕府の海外奉行などから徹底的に調べられた。それでなくても見知らぬ外国に恐怖心を抱き始めている民衆に異国かぶれの誤った風評を流されては困るからだ。
だが、この万次郎の話からアメリカの強大な国力を知った老中首席・阿部正弘は、幕府内では万次郎を活用できるだけの老中はいないと見て、海岸防禦御用係を任せた代官・江川太郎左衛門に万次郎の処遇を任せた。担庵なら万次郎の学んできた外国の知識を全面的に活用できるとみたからだ。
それから二年、今、万次郎が江川家の手代の一人になって担庵の手足として働いている。
歳三が望めばいつでも万次郎に会わせると慎蔵は言う。ならば、いずれ会って他国の風習などをあれこれ聞いてみたいものだ。万次郎は歳三より八歳ほど年上になる。その万次郎の助言を活用した江川坦庵は着々と海防対策を築いていた。だが、その担庵も最近では無理が祟ったのか体調がよくないか。歳三はここ暫く担庵に会っていない。

筆頭老中の阿部正弘はかつて、難破した日本の漁船の船員を救助したアメリカの船舶を、鎖国中にも拘わらず、人道的立場での例外としてて浦賀に寄港させ、救助された漁民全員を受け入れたことがある。その上、その船舶に薪水と食料を供給し、船長には人命救助への謝意を表して記念品さえ送呈している。人道上の例外とはいえ、この優遇処置が開国への蟻の一穴になり、外国捕鯨船団の日本寄港への突破口になった、と周囲から見られている。その情に弱い阿部正弘の性格が、政敵からも外国からも弱腰で骨のない男と見られていた。だが、担庵は周囲に「阿部殿は絶対に人を裏切らぬ」と言っていると歳三は聞いている。

この嘉永六年(一八五三)の六月、巨大な鉄製のアメリカ合衆国東インド艦隊四隻が江戸湾の浦賀沖に現われた。ハワイを基地として四百とも五百隻ともいわれるアメリカの捕鯨船団は、太平洋の鯨を制覇すべく、総指揮官の艦長マシュー・ペリー提督率いる艦隊の護衛で日本近海に現れたのだ。
ペリー提督は、アメリカ合衆国フィルモア大統領から徳川将軍に宛てた国書を幕府に提出した。
国書の内容は、「石炭・食料の供給と難破民の救助並びに通商のための国交」とあるが、捕鯨船団の補強基地を恒久的に日本に確保するための口実なのは、歳三でさえ理解出来た。
幕府が即答できないのを知ったペリーは、再度の来航を約して去った。それからの幕内は蜂の巣を突いたような騒ぎになり、連日のように会議が続いていた。海防を任されている坦庵は、万次郎の話と辻褄の合う巨大な鉄製の黒い巨艦を自分の目で見て強大な外敵の脅威を肌で感じ、戦って勝てる相手ではないのを知った。しかし、鎖国を国是とする幕府としては、海外交易の窓口として開いた長崎以外での外国艦船の寄港など許せず、戦いも止むなしとする意見が大勢を占めている。
それでも、幕閣内では異国との戦争を望まぬ者もいて、和平案を模索する動きもあり、両者の意見は激しく錯綜していて、一向にまとまる気配はない。外敵を完璧に叩くにはどうすれば?
これは、歳三でさえ悩んでいるぐらいだから誰もが考えあぐねているはずだ。

相次ぐ緊急事態に際して、国防に危機感を抱いた江川坦庵は、積極的に洋式砲術の導入を老中筆頭・阿部正弘に進言し、江戸湾に台場を築いて砲台を設置する許可を得た。坦庵は、万次郎から学んだ外国の軍事事情から圧倒的な国力の差を知って危機感を深め、相模沿岸から江戸湾への海防上重要な地域の防備を固めるべく奔走した。さらに万次郎の助言を入れ、軍事力の強化に農民兵の起用も考えた担庵は、まず伊豆韮山周辺の農民を集め、密かに西洋式軍隊を組織して調練を始めたのだ。歳三はこの話を根本慎蔵から聞いて、自分の出番が近いことを確信した。
すでに士農工商の壁など考えていない担庵は、支配地域内の村名主など有力者に檄を飛ばし、表向きは禁じられていた農民の剣術の普及を積極的に奨励していた。坦庵は伊豆でに続いて多摩での本格的な農兵育成を考え、江川家の執事でもある神道無念流・練兵館道場の斎藤弥九郎に命て、多摩の農民に圧倒的な人気で広がる天然理心流を以って武力強化を急がせた。このことは歳三とも無縁ではない。
京都におわす朝廷は大の異国嫌いとあり、幕府より天皇を尊ぶ西国各大名は外国排除の攘夷論で固まっていて、国を挙げて外敵を撃退するように幕府に迫っていた。攘夷か開国か、幕内の意見も二つに割れて激しく対立し、アメリカから突きつけられた条約締結を巡って二転三転の策が飛び交う狼狽ぶりだった。中には、今まで無視してきた朝廷に勅許を求める、という責任転嫁策さえ幕内から出るほどの狼狽ぶりだった。その結果、公武合体案が浮上し、朝廷と徳川家の縁組が真剣に検討されたという噂もある。幕府直轄の天領に住む歳三にとっても、今まで遠い存在で気にもしなかった皇室が急に近付く気配がして親しみを感じたのも事実だった。
それにしても、たかが鯨から発した事件が「攘夷か開国か」の争いを生み、天皇家と幕府を合体させる策まで出ようとは信じられないことが起きつつある。その上、日本近海をめぐる各国の捕鯨争いが日本征服に発展し、その防衛策のために多摩の農民剣法が奨励されている。いわば、歳三が剣の道を極めるようになった遠因は鯨にある・・・と、歳三の思考はここに戻ってくる。