1、伏見の夜
慶応二年(一八六六)一月二十三日、木枯らしが身にしみる寒い夜だった。
宇治川につながる濠川の岸近くに伏見の商人宿「亀屋」がある。太兵衛は伏見に来ると寺田屋に泊まるのだが、そこが満室の時はここに泊まる。太兵衛が伏見に来て三日目、太兵衛は、大坂薩摩藩邸から姿を現した坂本龍馬が伏見に潜伏したのを知って後を追い、移動して来ていた。
龍馬は十九日に大坂から船で伏見に来ている。その前日、長州藩が龍馬の身辺警護に付けてくれた三吉慎蔵を伴って幕府の要人である大久保一翁(いちおう)の大坂屋敷を訪ねて一刻(二時間)ほどを過ごしている。多分、形だけで終わった公武合体の今後について語りあったものと思われるが、幕府に刃向かった長州藩の責任者断罪や十万石減封、長州再征伐などを朝廷に奏請している幕閣の時代錯誤には、さすがの大久保一翁もお手上げで良案も出なかったに違いない。
一翁は、無血倒幕を主張する龍馬が両陣営の過激派から命を狙われていること、西大坂の町奉行に抜擢された新任の松平信敏(のぶとし)が、信州高遠の内藤家から養嗣子で上総桜井の藩主になったばかりで手柄を上げようと目の色を変えて不穏浪士の取り締まりに躍起になっており、危険分子として龍馬の手配書が町方の番屋にまで配られていることを知らせ、即刻、大坂から立ち去るように注告された気配がある。それでなければ、その翌日に密かに龍馬が大坂を脱出するなどあり得ない。
それを知った太兵衛は、急ぎ仕事を終えて龍馬より一日遅れで二十日に伏見に来て、龍馬が寺田屋に泊っているのをすでに知り、毎夜、その周辺を探っていた。
夕食を終えた太兵衛は黒足袋を履き替えて宿の半纏を羽織り、膳を下げに来た女中の肩を軽く抱いて嬉しがらせてから階段を降りた。懐中には巾着に加えて使い慣れた忍び道具を入れてある。これはいつものことだった。太兵衛は、帳場に座っている主人の吉蔵に「隣に行って来るよ」と言って外に出た。
宿に隣接する居酒屋「おかめ」に入ると、「いらっしゃい」と、無愛想な店主の辰吉のだみ声が太兵衛を迎えた。
「いつもの玉乃光を熱燗で、肴は任せますよ」
と、狭い店内を見回すと客はたった二人、夜も寒いが景気も寒いらしい。
奥の小座敷で飲んでいるのが、旅籠の常連客で顔見知りの薬屋の信吉と佐竹という浪人がいた。
佐竹という浪人が太兵衛を見た。
「おい。小間物や!」
「おや、佐竹さん。ご機嫌ですな」
「こっちへ来て、一緒に飲め」
薬屋の信吉はとにかく、この佐竹という浪人はたかり専門だから好ましい相手ではない。
「いえ、一人で飲みますから
半纏を脱ぎながら入り口に近い小座敷に太兵衛が上がると、浪人はさっさと薬屋に見切りをつけ、徳利と杯を持って立ち上がって近づき、太兵衛の前に腰を据えた。多分、薬屋の信吉も同じ手で付き合わされていたのだろう。
「まあ飲め」
髭面の浪人の佐竹が、自分の杯に酒を注いだが空徳利で数滴しか出ない。それを目の前に出したが太兵衛は無視した。
「結構です。わたしは安い酒にしますので」
「玉乃光なら伏見の銘酒じゃ、わしは不足はないぞ」
辰吉が燗徳利に盃、焼き干物と香の物を膳に乗せて運んで来た。
「追加をもう一本頼むよ」と太兵衛が言うと、すかさず浪人が「三本にしてくれ」と言い、太兵衛の膳から徳利を取り上げ、太兵衛の盃に少し注ぎ、自分の盃には並々と注いで一気に飲み干した。
店主の辰吉に、まだ左手に燗徳利を掴んだままの佐竹が言った。
「亭主。近頃は浪士狩りで、みぶろの探索がうるさいそうだな」
「今日の昼間も、ここに寄りました」
「みぶろの評判はどうだ?」
「存じません。やたらなことは言えませんからな」
「それにしても、江戸から離れた多摩などという田舎の町道場の一派を中心につくられた百姓出の連中が、京都守護職の会津藩に雇われたからって、武士を相手に切り捨て御免はないだろう?」
太兵衛は佐竹の言葉を笑顔で聞き流して、「まあまあ」と酒を注いだ。
確かに、壬生(みぶ)に屯所がある浪人の集団ということだけで壬生狼(みぶろ)などと呼ばれる新選組は、京の治安を守る存在でありながら単なる殺戮集団としか思われていないのも事実だった。
「彼らは、局中法度などという組織内だけで通用する変な掟を作って、それを守らないと切腹だの斬首だのと、まるで、自分たちが法の執行人のような顔で次々と仲間さえ殺しているらしいな」
「そうですか? そのぐらいしないと隊の規律は守れないのでは?」
「なにが 士道に背くまじきこと、局を脱するを許さず、みだりに金策いたすべからず、勝手に訴訟をするべからず、私闘を許さず、だ。そんなもの守れるか?」
「佐竹さん。そんな大きな声出すと、誰かに聞かれますよ」
「聞かれたっていいさ。おれは規律までそらんじて屯所に行ったのに入会を断れたんだからな」
佐竹が続けた。
「あそこに入れば、飲み食いと女には不自由しないと思ったのにな」
「それは残念でしたね」
「でも、あんな狂った集団はこちらからまっぴらご免だ」
酔いがまわったのか、佐竹の呂律が怪しくなっている。
「ところで太兵衛、おぬしは何で定宿にしている寺田屋に泊らんのだ?」
「満室だと断られました」
「まさか? 亀屋だって客は数人、宿はどこも閑散としてるぞ」
「そうですか?」
「寺田屋も薩摩藩の殺傷事件にも懲りず、薩摩藩専属に成り下がっているからな」
空になった徳利を十本近く横にしてから、酔った佐竹が立ち上がった。
「ちと酔った。夜風に触れついでにお登勢の顔でも拝んでくるか、亭主、拙者のはツケだぞ!」
「ここは、わたしが払います」
「いつも済まんな、小間物屋」
佐竹の横柄さが気になったのか、辰吉が近付いて来た。
「太兵衛さん、よろしいんですか? いつもおごるばかりで?」
「客の前で失礼だぞ!」
佐竹が口を尖らせ、太兵衛がとりなした。
「いいです。その分、明日の行商で稼ぎますから」
「若いのに話がよく分かる男だ。いつか店ぐらい持てるようになる。辛抱しろよ」
佐竹が店主の辰吉に言った。
「今宵は月がない。提灯を貸してくれ」
辰吉が火を移した旅宿亀屋の名入り提灯を渋い顔で手渡すと、佐竹が外に出た。
「おう寒い! こんな夜は何が起こるか分からん。亭主、戸締りをしっかりしとけ」
太兵衛は、佐竹が酔っていないのを遠ざかる草履の足音で知り、腰を浮かせた。
それを見た小柄な薬屋の信吉が、酒肴を乗せた膳持参で太兵衛の前に座った。
2、太兵衛と信吉
「太兵衛はんと顔を合わせるのは、久しぶりでんな?」
二人は、さほど親しい間柄ではないが同じ行商人だけにお互いに気は許している。
「しばらく京を離れていまして」
佐竹のことが気になったが、仕方なく太兵衛は腰を据えた。
他に客はいないのだが、信吉が声を潜めた。
「太兵衛はんは、寺田屋に寄って断られたと言うておましたな?」
「だったら?」
「寺田屋はここ数日、薩摩藩士も自営の三十石船から降りたお客も泊めておらんです」
「だとしたら、客は?」
「貸し切りかも知れまへんな」
薩摩藩の伏見屋敷が近いこともあり、寺田屋に薩摩藩士がいないなど信じられないことだ。
信吉が何が目的なのか太兵衛をあおった。
「寺田屋六代目の伊助が亡くなって二年、やり手のお登勢はんが自前の船を六人櫓から八人櫓の三十石に代えはったことで寺田屋は大坂から京までを半刻も早め、今では伏見で一、二を争う船宿になりはった。なのに、その寺田屋が常連の太兵衛はんを断わった。変だとは思いまへんか?」
「変ですね?」
酒は旨かったが、太兵衛は仕事柄酔うわけにはいかない。信吉がやけに酒を飲ませたがる。
「晩年の太閤殿下がここの酒だけを愛したほど、伏見の酒は旨い。まあ、飲みなされ」
「今夜はほどほど、信吉さんこそ心ゆくまで飲んでください」
「桃山丘陵の緑濃い森から伏流水になって湧き出る清涼な水でつくられた伏見の酒は、豊穣でまろやかでほんまに美味や、快い酔い心地が人の心を和ませます。この酒は太閤殿下じゃのうても愛しとうなりまんな。でも、伏見のよさは酒だけではありません」
「ほう?」
「伏見の人々の人情や女の情もまたよし、訪れる人の誰もがそう言いよります」
「なるほど」
「その、情に深くて気立てのええ女の一人が寺田屋のお登勢、どうです?」
「さあ、どうですか?」
「とくに地方から来た各藩の田舎侍にとっては、お登勢は格別な存在に思えたとしても不思議ではない。そう思わんかね?」
「わたしは行商人、田舎侍ではありませんので分かりかねますな」
「ところで太兵衛さん。目と鼻の先やから、も一度、お登勢に会うてきたらどうやね?」
「なぜです?」
「太兵衛さんも男やから、お登勢に気に入られた覚えがあるやろ? そう思いましてな」
「そんなこと・・・」
「生前の利助はんは、ほとんど家に帰らず木屋町の妾宅に入り浸っていた。それでも、お登勢は店の者に毎月のお手当を届けさせて、嫌な顔ひとつせんかった・・・この話は知っとりますか?」
「できた女ですな」
「実際は、利助はんの浮気が露見したのを機に、家から叩き出して店には寄せ付けなんだ。利助はんは結局、妾の家で野垂れ死にして店はすんなり、お登勢のものになった。これが真相です」
「でも、お登勢さんが必死に寺田屋を守ったから潰れずに済んだんと違いますか?」
「その代わり、お登勢も好きな客と寝るようになり、土地・家屋はお登勢の物になった」
「そいつは、お登勢さんに気の毒な言いようじゃないですかね?」
「言い方が悪かったらご免やが、お登勢が土佐の脱藩浪士を囲っとったのは知ってまっか?」
「さあ?」
「その男が自分の女を連れてきて、この女をここで働かせてくれ、とお登勢に預けた」
「そうですか?」
「普通の神経なら惚れられている女に、そんなこと頼めまへんな?」
「確かに」
「お登勢は、いっそ養女にと応じた」
「なぜ?」
「給金無しで働かせ、好きな男も離さずに済む。お登勢にとっても悪い話じゃない」
「信吉さんは、お登勢さんを愚弄する気かね?」
信吉が太兵衛の心を読むように「フフッ」と笑った。
「商売人の仰山おる伏見で生き抜いたお登勢は、そんな甘い女とは違いまっせ」
「信吉さんは、やけにお登勢さんに厳しいですね。何か有ったんですか?」
「お登勢が、義母とその娘との権利争いに勝って、寺田屋を乗っ取ったのは知っとるかね?」
「それは、お登勢さんがいじめ抜かれても我慢した結果がそうなっただけですよ」
「それだけ執着心の強いお登勢の性格からみて、自分を裏切った男を許すと思うかね?」
「思いませんな」
「だったら、恨みは晴らすんじゃないかね?」
「どうやって?」
太兵衛は信吉の目を見た。何を言いたいのか? 真意を図り損ねたのだ。
盆に乗せた徳利を運んで来た店主の辰吉が、冷めた声で言った。
「仲よく飲んでください。わしのおごりです」
二人が同時に「すまん」と武士言葉で礼を言い、信吉が試すような目で太兵衛を見た。
「その男が、寺田屋に泊ってるんだがね」
「だから?」
「奉行所に密告があったらしい」
敵か味方か、どちらもまだ腹の内が読めていない。
太兵衛もまた、密やかな交わりで知ったきめ細かく吸いつくようなお登勢の肌の温もりと情の深さを知っている。寺田屋泊まりの夜、部屋に忍んできたお登勢の「一夜限りの秘め事よ、いいわね?」
と、艶っぽく囁いた声をまだ忘れることができない。この「一夜限り」をその男にも守ったのか? だとしたら、その意思の強さもお登勢の魅力だし、その男が好きな女を連れて来ても受け入れる度量の広さも理解できる。そのお登勢が密告? 信じられないことだ。
太兵衛が先に負けた。
懐中から掴みだした一朱銀を膳の上に置き、信吉の顔から視線を外さずに口を開いた。
「信吉さんが何者かは知らんが、その回りくどい親切には感謝する。宿改めは今夜ですね?」
「そこまでは言えぬ。おまえさんは、その男を救う側か? 斬る側か?」
「私は仕事上、その男を死なすわけにはいかん。佐竹さんが刺客なら倒す!」
「その前に・・・」
本能的に危険を感じた太兵衛が懐中に潜ませた短刀を掴んだ。その瞬間、すさまじい殺気を感じて土間に飛んだ。その時はすでに小柄な信吉の身体も宙を飛んで土間にあり、いつ懐から抜いたのか短刀の白刃が太兵衛の眼前に突きつけられていた。その速さは並みではない。
「動くと殺す! 綿入りの黒足袋で忍びと見抜いとったぞ」
(これは手ごわい・・・)
ここで死んでは犬死にだ。一か八か、咄嗟に感じたままを試してみる。
「その構えは鏡心命知流、必殺の小太刀と見た!」
一瞬、虚を突かれたように殺気が揺れた。これで負けはない。
太兵衛が構えを五分に戻し、後ずさりしながら感じたままを言う。
「以前から密偵とは気づいていた。薬屋といえば新選組監察・副長助勤の山崎すすむ!」
「ならばどうする?」
「近藤局長に伝言を。坂本をまだ殺すな! と」
「きさまは誰だ?」
「なじみの呉服屋と言えば分かる」
「誰からの伝言だ!」
それには答えずに引き戸を開けて夜の闇に飛び出すと、太兵衛は亀屋の半纏をひるがえし、身を低くして忍びの黒足袋で地を蹴り風を切って、岸の柳沿いに寺田屋に向かって走った。
寺田屋に辿りついた太兵衛は塀に背をつけて息を静めた。それから隣家との狭い隙間に育つ常緑の木を見つけて幹に登って葉に隠れ、周囲の闇に目をこらし耳を澄ませた。
無数の御用提灯が遠くに揺らぐのが見える。信吉の情報は正しかったようだが、なぜ太兵衛にそれを知らせたのかは謎だった。
3、お龍の入浴
「お春、湯加減はどうだえ?」
「おかはん、ありがとう。ええ湯加減です」
「そんな言いかた止めなはれ、十歳しか違わんのに」
「つい口癖で・・・」
「湯、冷めんうちに出や。もう薪くべんよってな」
「おやすみなさい」
「ほなら先に休みまっせ。あんたはこれか仰山、楽しみなはれ」
含み笑いをしたお登勢が、湯小屋の戸を閉めて去った。
龍馬や三吉慎蔵の後で家人も入って、しまい湯だったから夜は遅いが気は楽だった。
他に客もいないから、あの人と客人が酒酌み交わしながらの激論が筒抜けに聞こえてくる。
お湯から出れば、昨夜に続いての熱い秘め事が待っている。あの人のことだから、三吉さんやお登勢さん、若い娘たちが起きていようと寝ていようと気になどしない。思うがままにあたしを抱きしめて愛し合う。あたしも声を抑えきれずに叫んでしまう。これでは秘め事にもなりはしない。
湯船に身を沈めて目を閉じると、すぐ龍馬の人なつっこい笑顔が浮かんで来る。
「わしは、おまんが好きや」
二年前の扇屋の夜、愛され抱かれ歓喜の中で囁いたあの一言が忘れられない。
あの瞬間から呪縛にあったように、ほかの事は何も考えられなくなっている。
色街の客が女を呼んで遊ぶ安宿で仲居とは名ばかり、望まぬ客との交わりで汚れた体を浄化して余りある愛情で包んでくれた、あの人の溢れんばかりの心情には感謝の言葉もない。
貧しい暮らしに母の奉公だけでは賄い切れない生活費や病める弟の治療費、妹たちの私塾への学費など、いくらでもお金は欲しかった。あの人は、そのために心ならずも春をひさいできた自分の過去を承知の上で扇屋の主人に金を渡して話をつけ、この寺田屋に連れ出してくれた。
強引で強気なあの男気・・・つい昨日までの貧しさゆえに忍ばねばならなかった屈辱の日々が、遠い別世界のように思えてくる。
六年前・・・朝廷とご縁の深い青蓮院門跡で侍医も務めた漢方医の父楢崎将作が、井伊大老が断行した安政の大獄で尊王攘夷派に与した疑いで捕縛され、激しい拷問でやせ衰えた末に獄死した。
あの憎き井伊大老は天罰にあって誅殺されたが、それだけでは父が殺された恨みは消えない。
あれ以来の貧しく惨めな生活は、今でも忘れられぬ忌まわしい記憶になって頭から消えない。
その後の食事にもこと欠く貧しい生活で、自分の知らぬ間に女郎屋に売られた妹を取り返しに刃物を持って取り返しに行った日の必死の思いも気が遠くなるほどの出来事も今では妙に懐かしい。
「お人よしの貞さん」と言われ、医師の妻にしては世間知らずの母が、自分が扇屋に住み込みで働いていた留守中に、妹二人を女中見習に出さないかという知り合いの口車に乗せられ、そこそこの支度金を貰って、借金の埋め合わせや生活費に使ってしまったことがある。おかげで、十歳そこそこの妹のきみは舞妓見習いで遊郭に、十五歳のみつは大坂の女郎屋に売られてしまっていた。
溜まった給金を家に持って行って、母の口からこれを知らされた時は驚いて声も出ず、無性に腹が立ったが、無知な母を責めても仕方がない。十五歳で客を取らされる妹の哀れを考えると居ても立ってもいられなかった。
母の手元にあるお金と自分の持ち金、それに着物や小物を質屋に持ち込んで借りた金と、相手と刺し違える覚悟の短刀とを懐中に、早舟を雇って大坂まで急いで妹のみつを取り戻しに行ったことがある。そこまでは真実だったが、ここからは作り話だ。女だてらに凄んで短刀を振りまわして用心棒の浪人や荒くれ男らを脅し、妹と証文を取り戻したことになって世間に流布され、男勝りの強い女という名札が付いてまわっている。
いくら死にもの狂いでも女は女、人を殺すのを何とも思わぬ多勢の荒くれ男に囲まれて一人で暴れて勝てるほど世の中甘くはない。腕に覚えのある雇われ浪人らに手もなく押さえつけられて短刀を取り上げられ、殴られ蹴られた揚句に帯を解かれ着物を脱がされ、「姉妹の体で利子まで払ってけ!」と脅されたのだ。ただ妹可愛さで自分の身を投げ出し、必死の思いで相手の親分を説得した結果、妹だけは無事に無疵で返してもらうことが出来ただけでも不幸中の幸いだった。しかも、金銭の貸し借りも帳消しで、妹を思う心根に免じて朱銀をいくらか添えるからと言われ、皆の相手をしろという交換条件は飲まざるを得なかった。その後のことは全て忘れた。死んでも思い出したくない。
見張り付きで妹が別室で休まされている間、奥の間に引き込まれて夜明けまで続いた出来事は、一生、自分の胸の奥深く秘めておかねばならない。ひたすら歯を食いしばって呻き声が妹の耳に届かぬことを祈り続けているうちに頭の中が真っ白になり、いつしか身も心も宙にさまよいあるがままに喜悦の声を出し続けていた自分は一体どんな女なのか・・・妹を連れての帰路も屈辱感以上に、妹を無事に取り返した達成感が勝っていたのも事実だった。それ以上に、口入れ屋から貰った金で暫くは一家が飢えないで済むという損得勘定が働く打算が働く自分が厭だった。
だが、この忌まわしい出来事が妙に懐かしく思えるのは、好きな人に大切にされている今が一番幸せだからに相違ない。だからこそ真実は人に言えない。人は、命がけで妹を救った気性の強い女だという。それならそれでいい。
4、愛憎紙一重
お龍が龍馬と初めて会ったのは、土佐の脱藩浪士の会合だった。
場所は京の金蔵寺の庫裏で、ここに匿われている勤皇の志士の集まりに、客が来て決起集会を開くという。そこに扇屋に出入りの客が何人かいて、どうしても扇屋のお龍を呼んで酌をさせようということになった、と聞いている。その寺は母の貞が寺のお尚と親しい仲だけに、行くことを渋ったが、宿には既に日当が払われていて、悋気な店主からどうしても行ってくれと懇願されては仕方ない。
渋々、顔を出して料理の手伝いを考えたのだが、そこで客人の龍馬に会ったのだ。
そこの和尚も仲間も、龍馬には深い信頼を寄せているらしく、龍馬が熱く語る開国論に耳を傾けて真剣に質疑応答を交わしていた。
ただ、あの人の初対面の印象はあまりよくない。なにしろ、堂々としているのか茫洋としているのか判別がつかず、酌をしながら会話の糸口を探しても無駄だった。お龍のことなど全く無視しているのか会話もはずまず、二人の会話で共通するものは何もなかった。ところが、お龍の帰り際にさり気なく「近く寄るによって優しうしてや」と恥じらいのある笑顔で囁いた。その数日後に扇屋に現われて泊まって情を交わし、一夜にして二人は深みに落ちたのだ。
それにしても、龍馬を知ってからのお龍はどんどん変わっていった。あれだけ気が強く周囲に反抗的だったお龍が龍馬の言うことなら何でも素直に聞けるようになったし、寺田屋に連れられて来たときも不安はなかった。とくに、寺田屋の女主人のお登勢会った途端、噂通りの侠気に溢れたふところの深い女傑であることをお龍は直観で知った。
「あんたの言うことなら何でも」と、龍馬の頼みを二つ返事で受けた寺田屋のお登勢は、自分の感情を押し殺して何も言わずに、お龍を住み込みの女中として受け入れてくれた。お龍は、お登勢の龍馬を見る眼に、深い愛情が宿っているのをすぐ見抜き、それでもなお自分を受け入れてくれた大きな慈愛に心から感謝した。
お登勢は、「冬の次は春だから」と、寺田屋を再出発として新たな人生を歩もうとしているお龍を赤飯で祝ってく励まし、宿での名前も春の訪れを祝して「お春」と付けてくれた。それからは、ここでのお龍は、お春という明るい名で呼ばれている。
お龍は湯船に浸かって目を閉じ、幸せな自分にこころよく酔っている。
恥ずべき立場だった自分を、龍馬はためらいもなく抱いて心の傷を癒してくれた。過去のことは口が裂けても言えないが、この愛があれば何も恐れることはない。かつては秘めやかな男女の仲だった二人だが今は違う。堂々と愛しあうことが出来るのだ。龍馬が今までにどれほど多くの女を求めて来たかは知らないが、もう、自分以外には考えられないようにする。こう覚悟を決めた以上は、女の命を賭けても他の女には負けたくない。過去に早まって婚約までしたという佐那という女剣士、こんなのは問題外だ。この女は多分、龍馬の体は満たせても心までは満たせなかったはずだ。あれこれ考えるてゆくと、龍馬と接触のある全ての女が恋敵に見えてくる。どんな女でも、優しい言葉と同時に実際に行動し自分を好いてくれる男には弱いもの。だからこそ龍馬を絶対に手放せない。ということは惚れた男を奪おうとする敵には絶対に負けないことだ。それが仮にお登勢さんであっても、もう二度と龍馬に抱かせたくない。それが女の戦いに勝つことだ。それと、これほど好きになった男に裏切られたら・・・その時は迷わず殺すだけだ。
この寺田屋には、歴史に残る大きな事件の跡があるのをお龍も知っている。
四年前の春、この寺田屋で起こった薩摩藩の内紛による惨劇は、今もなお語り草になっていて記憶に新しい。宿のあちこちの柱や欄間に残る刀創や血の染み跡がその凄惨さを残していて、一時は気味悪がって誰もこの宿には近づかなかったから、一時は休業にする話もあったという。
その後、妾狂いで家を出ていた伊助というご主人が病死したのを契機に、薩摩藩が以前にも増して贔屓にしてくれるようになり、景気を盛り返し、寺田屋は伏見に五十軒近くある船宿の中で一番の船宿と言われるまでに繁盛して名を上げた。寺田屋は旅籠の鑑札こそあったが本来は、大坂と伏見を船で往来する客の休憩所として食事は出すが泊めることはしなかった。それが、経営方針の変換から薩摩藩士と藩邸に出入りする武士や商人を相手に宿泊も認めるようになり、それからは収入も安定して余裕もできている。だが、この宿には怨念が宿っている。お龍は人一倍カンが鋭いから、うすら寒く夜が更けた丑三つ時に、今でも惨殺された薩摩武士の怨みの声が隙間風に乗って、喉笛のように細く長く聞こえて来ることがある。なぜか今夜も、冬の夜寒の隙間っ風が気味悪く吹き込み、ぬるくなり始めた湯で少々のぼせが消えてきた肌に寒い。もちろん錯覚なのは承知の上だが、生理的に感じるものは仕方がない。逢い引きを前にこんなことを考えるのは、今までの例で思うと、何か厭な予感がする。今も耳を澄ますと、ピューピューと口笛のような音が聞こえたよな気がする。気のせいかも知れないが空耳にしても不気味なことだ。いや、気のせいでもなさそうだ。
ひょっとすると・・・?
5、捕吏集結
常緑の木の幹で木の葉に隠れた太兵衛が、湯船に向かって何回も注意深く口笛を吹いていた。
二階建ての寺田屋の裏には平屋の部分があり、その下が湯小屋だった。太兵衛は湯小屋を覗こうとして木に登ったのではない。捕吏の接近を入浴中の家人に知らせるために登ったのだ。
当初、ひたひたと歩み寄る遠い足音を察知した太兵衛は、寺田屋の斜め前の蓬莱橋の陰に隠れて、何事が起こるのか様子を見ることにしていた。ところが、伏見奉行所の御用提灯を先頭に、捕り物三具と言われる突き棒や刺す股と袖絡み、あとは六尺棒などで武装した捕吏の 一行は、寺田屋を囲むように忍び寄って行ったのだ。これが信吉が知らせてくれた密告のせいなのか?
それを見た太兵衛は、行燈の灯る二階の窓に向って小石を投げようとしたが、風を切る石音に気づかれると後が面倒になると考え、屋内の誰かに直接知らせることにした。半纏を脱ぎすてて頭を低くして素早く橋から道を横切って他人の家の庭を通って迂回し、勝手知ったる寺田屋の裏に出ると、深夜にも関わらず湯小屋を囲む板塀の隙間から漏れる灯火が見えた。
まだ誰かが湯浴みしている・・・声を出せば、すぐ近くの流し場を板塀から覗いている捕吏に聞かれると判断した太兵衛は、湯小屋脇に立つ常緑の木の幹を登り口笛を吹いた。その時点ではまだ湯に入っている者の髪の上部だけで顔は見えない。
もしも湯桶にいるのが坂本龍馬だとしたら、この状態では逃げ切るのは不可能になる。その場合は切り込んでも救うべきか、そこまでの義理はないのだから傍観すべきかを考えた。しかし、迷っている時間はない。太兵衛は相手に口笛が通じたのを感じてから思わず息を呑んだ。
あわてて立ち上がった姿が板塀の隙間から見え、それが意外にも女だと分かったからだ。感情を抑えてさり気なく見ると、女の顔が見え隠れして、お春という女中であることが分かった。小間物商としても、寺田屋の客としても泊るから何度か太兵衛はお春に会っている。
板塀の隙間にゆらめく灯火に白い肌がまぶしい。お春は湯桶を大きく跨いでスノコの上を急ぎ、板窓を細く開き背伸びをして外を見た。湯小屋の壁は人間の背丈では湯船が見えないように漆喰で固めた白壁になっていて、その上部が板壁になっていて小窓があった。
お春からは闇にまぎれて木の葉に隠れた太兵衛の姿は見えないが、表にうごめく御用提灯にきらめく槍の穂先や役人の姿が見えたらしく、小さく悲鳴をあげたお春が脱衣所に走り、濡れた体を拭きもせずに湯文字を腰に巻き、長襦袢を掴んで脱衣所を飛び出して裏階段に向かった様子だった。狭い板塀の隙間から見えた色白の裸体と大きく揺れた豊満な乳房がくっきりと太兵衛の目に焼き付けられた。一瞬、太兵衛の意識の中に微かではあったが男の劣情が芽生えたが、逼迫した状況だけにあわててそれを打ち消し、太い屋根裏で半纏は邪魔だから脱いで幹に隠し、枝を伝って平屋部分の出屋根に飛び移った。その時、玄関前に騒がしい人声と激しく戸を叩く音がした。
出屋根の上から注意深く周囲を見渡すと、先刻まで自分が潜んでいた蓬莱橋の橋際に立つ二つの人影に気づいた。体つきからみて薬屋の信吉と佐竹という浪人に違いない。二人はどちらも新選組探索方だったのか? 彼らは太兵衛の正体を知るべく、妙な会話で試したのかも知れない。
太兵衛は隠し持ったクナイという両刃の忍び道具を懐中から出して、二階上の板壁を剥がして素早く屋根裏に忍び入り、内側から外した板をはめた。
お春の低い悲鳴を聞いたのか、台所を覗いていた捕吏が表に走って知らせたらしく、「行け!」という声があって、表戸を開ける音が太兵衛の耳にも聞こえていた。その時、裏階段を上ったところで悲鳴に似たお春の声を聞いた。
「役人です。早く裏から逃げてください!」
同時に、玄関からもお登勢の落ち着いた声が聞こえてくる。
「うちは、お取り調べを受ける謂われはありません」
「伏見奉行林肥後守さま命による御用である」
「どのようなお調べですか?
「不逞浪士の取り締まりじゃ」
「うちは不逞浪士は泊めません」
「本日、二名宿泊と調べは付いている」
「お二人とも、薩摩藩士です」
「問答無用、役目によって宿を改める」
大勢の役人が玄関からなだれ込む気配があって、階下が騒がしくなった。
太兵衛は手探りでクナイを懐中の皮袋に短刀に並べて収め、真っ暗な天井裏の梁の上に両足を乗せて屈み、両手で天井板をずらして下が覗けるようにすると天井裏が明るく見通せた。
お春の姿はすでにすぐ下にはない。目で追うと、階段の中途に長襦袢姿で立ちはだかっている。
「邪魔だ、そこをどけ!」
朱房付きの十手を構えた与力が脅したが、長襦袢の合わせ目がはだけたままのお春が両足を踏ん張って立ちはだかったまま悲鳴に近い声で叫んだ。
「今夜は誰もいません。帰ってください!」
「誰もいないなら、そこをどけ!」
与力が女と見て侮り、十手を伸ばしてお春の片口を突く所作をしたが、お春がそれを左に避けて階段を一歩下り右手で与力の胸を突いたから、与力は階段下の板の間にもんどり打って腰を打ちつけ唸っている。代わって刺す股や槍を持った捕吏が重なるように階段を登ってきてお春を追いたてて階段を上がってすぐ右の部屋に押し込み、自分たちもその部屋に次々に入った。
お春は「放してくださいっ」と叫んだが、その目線からみて一つ置いた梅の間にいる誰かに、そこに捕吏がいることを知らせたのは間違いない。
太兵衛はゆっくりと埃だらけの梁を伝って移動し、人の動く気配のある梅の間の屋根裏の天井板を少し動かして覗くと、太兵衛が何度か見かけたことのある三吉慎蔵という袴姿で両刀を腰にした武士が慌てる風もなく手早く襷をかけ、床の間に立てかけてあった短槍を手に穂先の鞘を払って二三度しごいて「よしっ」と気合いを入れて仲間の男を見た。太兵衛はこの男は出来る、と思った。
三吉に並んで、何度も顔を会わせたことがある坂本という男がいる。坂本は羽織っていた宿の綿入れ半纏を脱ぎ捨て、「袴が・・・」と、左手で隣の空部屋の襖を少し開いて覗き、敷いてある蒲団の横に脱ぎすててある袴を取るかどうか迷った様子だが、廊下を忍んで来る複数の足音が近づくのを感じて諦めたらしく、着流しのまま帯にあわてて刀を差し込み、床の間に置いてあった短筒を持ち、右手で構えて怒鳴った。
「お龍、そこの襖を開けろ!」
この瞬間、太兵衛はお登勢から紹介されたお春が、坂本の愛人のお龍であることに気づき、こんな危険な場所に愛する女を預けた龍馬の神経を疑った。捕吏に押さえつけられていたお龍が、龍馬の声に応じて体当たりで襖を倒すと小走りに龍馬の背後に逃げ込んだ。それとほぼ同時に、梅の間の廊下側の障子戸も激しい音をた立てて開かれ、攻守ともに姿を現して六畳の間一つを隔てて対峙してにらみ合った。
「役目により取り調べる。ご同行を願いたい」
「知らぬ。薩摩藩士と知っての狼藉か!」
「申し開きは後でしろ」
朱房の十手をのばして与力が怒鳴ったが、龍馬が構えた銃を見て声が震えている。
龍馬がまず、脅しで外に向けて一発放った。轟音が響いて雨戸が砕けて夜風が吹きこみ、硝煙が部屋に籠もって捕吏が怯えた。坂本龍馬と言う男、修羅場の機微は知っている、と太兵衛は思った。
「御用だ、抵抗するとためにならんぞ!」
与力が頭を下げて身をひるがえして、二十名近い捕吏のひしめく階段横の部屋に逃げて叫んだ。
「坂本龍馬、三吉慎蔵の両名とみた。この期に及んでの抵抗は無駄である」
与力の背後に固まった捕吏の誰もが腰が退けたまま「御用、御用」と叫んで前に出ない。
しかし、この嵐の前の静けさはほんの短い間でしかなかった。