第四章 佐那からお龍へ

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 1、千葉定吉道場

薄れ行く意識の中で、脳内の走馬灯は目まぐるしく過去を映し出す。
剣術修行と海岸警備の臨時御用で、龍馬は二度も国暇を許されて江戸に出ている。
父の八平からは、長旅の間違いや心得違いを諌めての「修行中心得大意」という注意書きを渡されている。高知から大坂までの海路を帆船で、大坂から京までは六本櫂の手漕ぎ船で行き、京からは海に近い東海道を歩いた。同行者もいたが初めての長旅だけに見るもの聞くもの全てが珍しく、街道筋それぞれの宿場町の風俗や言葉遣い、旅籠での人と人の触れ合いや郷土料理や名物を楽しみ、小田原に入る頃はすっかり旅慣れて、飯盛り女では飽き足らず遊郭にも出入りしたのも今は懐かしい思い出になっている。
品川から江戸に入った龍馬は身分柄、鍛冶橋御門内の土佐藩邸ではなく築地屋敷に直行して旅装を解き、直ちに留守居役に挨拶して指示を仰いだ。龍馬の江戸修行の推薦者が日根野弁時冶であることは、江戸藩邸内での心象をかなり良くしたらしく、江戸三道場の一つで日本一の隆盛を誇る神田お玉が池の玄武館千葉周作の実弟で兄をしのぐ実力者と言われる桶町の千葉定吉道場を紹介された。
北辰一刀流の達人で知られる千葉定吉師は五十歳前後の恰幅のいい温厚な道場主だったが、龍馬の受けた入門の洗礼は甘いものではなかった。
入門試験は、門弟が居並ぶ道場で代稽古の師の長男千葉重太郎との袋竹刀三本勝負で防具を付けての立会いとなった。長身の龍馬は手も長く面打ちに自信があった。年齢は重太郎が上でも背も腕も体力もはるかに龍馬が勝っている。「いざ!」の声が掛かって龍馬が間を詰めようと一歩動いた瞬間、踊り込んだ重太郎の竹刀がしたたかに龍馬の面を打った。
「一本!」
痛みにこらえて呆然と立っていると、重太郎が「いざ!」と促した。気を取り直して、今度こそはと先に激しく仕掛けたが竹刀にも触れぬうちに抜き胴を打たれて呼吸が出来ない。
(こんなはずじゃない。これは何かの間違いだ)
冷静に冷静にと心を落ち着けるように呼吸を整えて三度目の勝負に挑んだが、道場主千葉定吉の「始め!」の声を耳にした瞬間、小気味よく小手を打たれ手が痺れた。これでは勝負にならない。
続けて、対戦相手が重太郎から妹の佐那に代わった。まだ幼さが残っている若い佐那が自分の身尺に合ったた竹刀を持って板の間に立った時、龍馬の胸は屈辱の怒りと奇妙な期待と遠慮で落ち着きを失っていた。なにしろ、相手は龍馬の肩までもない小娘だし、面小手胴着で身を守っていても龍馬の一撃ではじけ飛びそうな柔弱な女性だから思い切って打ち込めない。ただ、この屈辱的な三本勝負に戸惑う龍馬の気持ちに反して、試合を見守る道場内には奇妙な静寂があった。
こんな小娘に負けてたまるか! その龍馬の気負いを見破ってか試合開始直後、目の前の娘の体が宙に舞い、竹刀とは思えない鋭い剣風が空気を裂き龍馬の面上で炸裂した。体勢を整える間もなく二本目も面を打たれて足が乱れ、三本目は辛うじて隙を見せた佐那の胴に龍馬の竹刀が払って面目は保てたが、佐那が勝ちを譲ったのは誰の目にも明らかだった。呆然と粗い息を吐く龍馬と、防具を脱いだ佐那の余裕のある笑顔を見ただけでも力量の差は歴然としていた。
入門の儀を終えて、門人総出の乱れ打ちに参加したが、やはり、龍馬の田舎剣術では誰にも通じない。これまで培ってきた剣への自信が音を立てて崩れて行くのを龍馬は思い知らされた。
これが千葉定吉道場における龍馬の初日だった。
それからの龍馬は、ひたすら重太郎と佐那に一矢報いることを目的に励み、道場主も目を見張るほど腕を上げていったが、結局、十五ケ月の期限内での稽古では残念ながら二人に勝つまでには至らなかった。
龍馬が千葉道場に入門したのが十九歳、佐那は龍馬より三歳下の十六歳の娘盛りだった。佐那は十四歳の若さで北辰一刀流の免許皆伝を受けた上に書を好み和歌をたしなみ、琴も奏で乗馬もこなすという才女だった。龍馬はそんな佐那に惚れ込み、修行の身をも省みず、真っ正直にひたむきに佐那を愛して情を注いだから、若い二人はたちまち恋に落ち深い仲になっていった。
龍馬は、十九歳の嘉永六年(1853)五月からの一年余と、再び江戸修行を許された二十二歳の安政三年(1856)秋から二十四歳の安政五年(1858)夏までの間を千葉道場に入り浸り、佐那とは結婚を約束して仲睦まじく過ごしていた。龍馬は、こんな意味の手紙を姉の乙女に送った覚えがある。
「馬によく乗りこなし、剣もかなり手づよく長刀も達人で、戦う気力も技も並の男など足元にも及ばない。顔かたちも平井加尾より少しよし。十三弦の琴をよくひき、絵も上手、その上、もの静かな女なり」、と、佐那をベタ褒めだったのは間違いない。
龍馬の江戸での修行期限の切れる寸前、安政五年(1858)の正月早々に、千葉佐那の添え名のある「北辰一刀流長刀兵法目録」を千葉重吉から授与された。これは、代稽古の重太郎に実力で三本に一本は勝たねばならぬ目録の腕に龍馬が達していないため、佐那が査定する長刀(なぎなた)の免許で土佐藩への龍馬の立場を救ったものだった。これが、龍馬に対する千葉道場の精一杯の好意であることが分かるだけに、龍馬が心から感謝したのは言うまでもない。その感謝の気持ちもあって、この目録を授けられた日に、二人は千葉定吉に願い出て正式に結婚の許しを得ていた。
定吉からは、千葉家からの結納として家宝としてきた「短刀一振り」が贈られ、龍馬は持ち合わせた越前福井藩主・松平慶永(よしなが)公から拝領した紋服を千葉家に誠意の証として贈った。
結婚を急ぐ龍馬に対して「正式の華燭の典はいずれ時期を見て」という佐那の思いがあり、これを定吉も了承した。これが、龍馬と千葉佐那との恋の顛末だった。これは未だに決着がついていない。  お龍に命を救われた龍馬が過去の佐那を想っている。これが龍馬の汚点の一つだった。

外で人声がしたように感じて、太兵衛が板壁の隙間から外を見ると御用提灯の灯りが三つほど揺らめいて小屋の入り口に近づくのが見えた。捕吏が小屋に入ったらどうするか? その時はその時と腹を決めて材木の陰に身を隠して様子を窺うことにした。三人の捕吏が小屋の前で話し合っている。
「まったく足の速い女だったな?」
役人達ががんどう提灯の灯りで小屋の鍵に触れて眺め透かしてから地面を見た。
「おい、足元を見てみろ! 血があっちへ続いてるぞ」
「鍵が開かなくて小屋に入れずに立ち去ったんだろう」
捕吏が血の跡を追って小屋から離れて行く。
役人が立ち去るのを待って立ち上ると、龍馬が太兵衛に気付いたらしい。
「水、水を・・・」
龍馬が力ない声で龍馬が救いを求めている。多分、喉の渇きと手の傷の痛みが激しい苦痛となって龍馬を襲っているのだろう。太兵衛は再び外に出て川に行き、短刀の鞘に水を汲んで戻った。
龍馬は喉に流れ落ちる冷水を飲むうちに意識が戻ってきた。目を見開いて闇の中を凝視すると見知らぬ男がいて、筒らしき物から水を飲ませてくれている。一滴も逃さずに飲み乾すと気持ちが落ち着き、闇の中で男の顔を見つめたが、微かに目が光るだけで表情までは読み取れない。
「おぬしは忍びじゃな、名は? 何でここにいる?」
「呉服の行商で太兵衛、ここを宿にしてる。帰って来たらお前さんが寝てたんだ」
「かたじけない。お陰で生き返った」
「まだ出血してるから、あまり喋らんほうがいいぞ、坂本さん」
「いかにも坂本じゃが、わしをどこまで知っちょるのじゃ?」
「短筒の弾が切れて指を切られたのと、窓から飛び降りたまでかな」
「そうか? それで合点がいったぜよ」
「何が?」
「天井から爆薬を投げ、わしらに、逃げろ! と言うたな?」
「お前さんを助けたのは、裸同然の身で役人の急襲を知らせたお龍さんですよ」
「確かに・・・おまはんはそこまで見たのか?」
「いや、何となくそう思っただけだ」
「お龍とは知り合いか?」
「そこから先は詮索無用ですな」
「分かった。命の恩人じゃきに余計なことは言わん」
「まだ遠いが壕川を下って来る舟の櫓音が聞こえる。血も止まったし、もう大丈夫だ」
「世話になった。おおいに感謝するぜよ」
「一日でも長生きしてお国のために役立ってくだされ」
太兵衛は龍馬の両手に巻いた包帯代わりの布を剥がし、身体に掛けた亀屋の半纏も脱がせて物証を消し「他言無用ですぞ」と念を押して材木小屋の梁を伝わって姿を消した。

2、龍馬と女

やはり、死の前には瞬時の間に一生の出来事が思い出せるという俗言は本当だった。
この世には神というものが存在していて、信仰の篤い者には救いの手を差し伸べてくれるという説もある。ならば、隠れキリシタンを自負する龍馬にも救いの手が伸びてもいいはずだ。信仰によって死の恐怖が救われるなら、これほど心強いものはない。輪廻転生が事実ならば龍馬は何の迷いもなく、真っすぐ自分の道を進むことが出来る。大政奉還が成り、国が朝廷主導の統一国家になって列強の仲間入りしたとき、龍馬は世界と対等の交易をして国の財政を豊かにする役割を担う。
龍馬はおのれの強運を信じていた。人材にも恵まれ、国興しの仲間としては西郷、小松、高杉、桂など将来の日本を背負って立つ英才傑物にめぐり合い、家族身内、恩師や友人仲間達にも恵まれ、自分を愛してくれた女達にも恵まれた。
この恵みと強運は、死んでも輪廻転生で次の世に生まれたときにも引き継いでみせる。ただ、今までの半生での心残りは、愛する女に深い傷跡を残してしまったことだ。龍馬が江戸に出てすぐ千葉佐那との恋に落ち、婚約までしてしまったのも失敗だった。このことは、まだ龍馬自身の中で解決されていない。ただ、短期日での信じられないほどの愛の遍歴や変節には自分自身で驚いている。
男の隠れた下心や卑しい本性が女によって暴かれることはよくあることだが、龍馬に限って言えば女性との交わりによって秘めていた才能が次々に顕れて得ること多く、失うことなど何ひとつ無いような気がしてならない。好きな女性を悦ばせる濃密な愛情交流で自信も増し、それが日常の言動に好影響を与えるのを実感している。それがまた龍馬を女性にのめりこませる自分自身への大義名分となり、周囲の目など全く気にしない自然体の「女殺し龍馬」の異名で呼ばれるまでになっている。
これは、龍馬が女系家族の中で育ったからに間違いない。三人の姉たちから言われるのは、甘えん坊,寂しがりや、弱虫の性格だが、女性への依存心が強かったのは家庭環境からで、女性と見るとしがみついて離れないのは母親を早く亡くしたからとも言えないことはない。では、女体への執着となると幼児体験にまで遡ることになり、今の龍馬では説明がつかなくなる。
それにしても、龍馬が愛した女性たちは夫々が評判の美人ばかりで、その共通点は龍馬に対する母性的な面倒見のよさが決め手になっていた。龍馬にとっての愛する女は、才女である必要など全くなく、ひたすら心の安らぎを与えてくれる女性だけを求め続けている。それだけではない。本能的な欲求も満たしたかったのも事実だった。仲間内での「龍馬は女中部屋にも夜這いする」などという噂など気にすることもない。何故ならそれも事実だからだ。それに失敗は十に一つもないし、悦ぶのはお互いだから恨まれもせず告げ口される心配もない。男が女の体を求め、女が男を求めるのは五分と五分、本能に男女の差などありはしない。龍馬は、女性に関しては何ら後ろめたい思いはなかった。
龍馬が家族身内以外に好きになった女には加尾の他に、江戸の千葉佐那、江戸浅草にも、長崎の丸山遊廓の芸妓にも、遊女にもいたし、金銭的にも援助を惜しまなかった長崎のお慶や寺田屋のお登勢の他に数え切れないほどの女がいた。それらを隠すつもりもない。その誰もが龍馬の腕の中で歓喜の嗚咽を漏らした愛すべき女たちだったからだ。
だが、これまでに多くの女性を愛してきた龍馬ではあったが、今はただ一人の女がいて、その名がお龍。なに一つ才能があるわけでもなく、周囲に尊敬される人間性があるでもないが、ひたすら龍馬一筋に愛情を注ぎ続けるお龍だけは裏切れない。この女だけが命がけで龍馬のために尽してくれる。
晴れた空の下、大きな帆を掲げて大海原の波を切り分けて走る船舶にお龍を乗せて、世界の海に羽ばたいてみたい気がする。
早回しの走馬灯の如く一瞬の間に龍馬の脳裏を駆け巡った思い出は、結局は国でも家でも母でもなく、こうしてお龍に戻って来る。
そのお龍は、厳冬の深夜霜柱が長い土をはだしで踏み、長襦袢姿で髪を振り乱したあられもない姿で路地から路地、見知らぬ家の庭を横ぎって逃げ、天水桶の陰に隠れて追っ手をやり過ごし、材木小屋のある壕川から離れた帯刀町から大光寺をめぐって尾張藩屋敷の方角から薩摩藩の伏見藩邸にたどり着いていた。男物の羽織は他家の庭に投げ捨てて追手の目くらましの道具にした。
薩摩藩の名入り提灯がいくつも門前に出ていて、血だらけの三吉慎蔵が薩摩藩士と争っている。
そこに、裸足で長襦袢の女が髪振り乱して駆け込んで来たから驚いて争いが止んだ。三吉慎蔵の険しい顔が安堵の表情に変わった。
「お龍さん。よく来てくれた」
「あの人は、どこに?」
「お龍さんが教えてくれた壕川べりの材木小屋に寝かしとるが、出血がひどくて動けんのじゃ」
三吉慎蔵が安心したのか崩れるように腰を落とした。かなりの手傷を負っていたのだ。
「おまはんは、寺田屋の新入り女中のお春じゃな?」
「お龍です。大山さまに会わせてください。坂本龍馬が重傷とお伝えください」
寺田屋は薩摩藩指定だから、お春の顔は少しは知られているが、お龍となると知人は少ない。
「この長州っぽも同じことを言うとったが、長州は信用できんでのう。ちと待っちょれ」
「こちらの三吉慎蔵さんは、お味方です」
大山彦八とは龍馬を通じて知っている。彦八が着流しのまま現れた。
「なんだね、こんな夜中に? 坂本はんがどうなされたと?」
三吉慎蔵が傷の状態を説明し、多量の出血で命が危ないと言うと大山が慌てた。
「そりゃ、いかん。場所はどこかね?」
「壕川沿いの材木小屋です」
「舟を出そう。ところで、お龍さんもそいじゃ寒かろ?」
藩士に綿入れや帯や足袋などを持って来るように言い、大山は直ちに檄を飛ばして救助隊を編成し、藩旗、槍や提灯を揃えて船に乗せた。
「役人がいたら切りまくり蹴散らして坂本どんを救出せい! 戸板を忘れるな」
大山彦八が先頭に立ち、舳先に丸に十の字の旗印を立てた薩摩藩の櫓漕ぎ舟に三吉慎蔵とお龍、六人の武装した救援隊が乗って川を下った。
夜明けが近くなって急に寒さが厳しくなってきた。
「無事でありますように」
お龍が必死で手を合わせている。それを見た誰もが龍馬を羨ましく思ったのも無理はない。
材木小屋に近い岸辺に舟を寄せて、戸板を持った薩摩藩士らが提灯や槍を構えて小屋に走った。
「扉は鍵の裏の板を壊してあるで、すぐ入れるでよ」
三吉がお龍の肩を支えて舟を降り、岸に上がって急いだ。
龍馬は無事だった。両手の指先の出血も止まり顔色もよく、思ったより元気だった。
「よく来たな」
お龍の顔を見つけて微笑もうとした龍馬の顔が歪んだ。まだ、かなり痛むらしい。

 

3、新選組屯所

あの夜、遠国御用の杉山太兵衛は、材木小屋の天井の梁の陰から坂本龍馬が薩摩藩の武士によって救出され小舟に乗って去るまでを見届けた。それから夜明けに亀屋に帰ったのだが、喜美という女中が寝ずに待っていて、薬屋の信吉が太兵衛宛に残して去ったという封書を手渡してから熱い茶を運んで来た。
喜美に礼を言って引き揚げさせ、一人になってから信吉の伝文に目を通した。
「先刻は手粗い挨拶で失礼申した。拙者は推察通り新選組山崎丞、お味方と信じてお願い申す。薩長に不穏の動きあるは先刻承知、幕閣の尋問使随行して局長以下数名長州に先行、拙者も遅ればせながら急拠追尾致す所存。ついては、京・伏見が手薄になり薩長の浪士の動向探索の手抜かりが心残りにつき敢えて情勢報告について協力を願い申す。新選組屯所預かりの副長土方歳三に、太兵衛どの來所の説はよしなにと申し送りおきますので、興味がありますればお立ち寄り頂きたくお届け申す」
太兵衛は、一睡もしないその日の午前、小間物商姿で西本願寺内の新選組屯所に土方歳三を訪れた。近藤局長とは島原遊郭の美雪大夫愛用の呉服や小間物を通じて旧知の仲だったが、勤皇浪士に鬼と恐れられる新選組副長の土方歳三と直接会うのは初めてだった。
なぜ午前を選んだかと言うと、新選組のあるがままの姿を見たかったからだ。案の定、広い境内では、一番隊から十番隊までの隊士が、剣術、槍術、組みうち、鉄砲、大砲と順繰りにそれぞれ専門に指導する教授方の厳しい叱声を浴びながら、寒さの中でも汗にまみれて取り組んでいた。この時、新選組はすでに薩長の動きを察知していて臨戦態勢に入っていたのだ。
京都を代表する名刹でもある西本願寺の集会所を占拠することには寺側だけでなく新選組の内部でも強い反発があったと聞くが、ここに狙いをつけた土方歳三の強い意志と激しい恫喝で寺側が折れたという経緯が噂として流れている。
太兵衛が見たところ、戦いも知らぬ新入隊員を寝起きさせた上に調練や大砲の訓練が可能な場所は、京都中を探しても、広い板敷の部屋と広い境内を持つ西本願寺以外には考えられない。こう考えると、世間から蛇蝎のごとく嫌われようとも、隊のために最善の策を貫いた副長土方歳三の慧眼には恐れ入るしかない。
勤皇浪士には容赦のない鬼の副長と言われる土方歳三が太兵衛を玄関まで迎え出て、自分から名乗って挨拶をし、他意がないことを示すために刀を右手に持ち換え奥座敷に太兵衛を案内した。ただ、笑顔はなかった。上座も下座もなく座って太兵衛と対峙した土方の後方に、目の据わった青白い血の匂いがする若者が当然ように座った。
太兵衛は一目見て、この若者が沖田総司と分かったが素知らぬ顔でいた。巷間では飢えた狼のように言われる総司の表情からも殺意が消えている。これで、山崎丞からの申し送りが太兵衛に対してかなりの好感をもって受け入れられていることが理解できる。互いに名乗って本題に入った。
「お待ち申しました。昨夜は山崎が失礼をしました。その後が大変だったようですな?」
これが、土方の最初の挨拶だった。
「いえ。たいした事件ではありません」
「本名、お役目は聞かぬ。山崎は、おぬしが木から屋根に移るまでをしかと見たそうですぞ」
「その先の一部始終は、ご存じのことと存じます」
「では聞くが、おぬしが見た人物は坂本龍馬でござったか?」
青白い男に殺気が出て右膝がかすかに上がった。問答によっては抜き打ちの剣が来る。
「その通り、とお答えしたら?」
青白い男の膝が平常に戻り、殺気が消えた。
「杉山太兵衛どの、この男は沖田総司です。名前はご存じですかな?」
「昨年夏の夜、お見かけしました。三条蹴上の井筒という料亭から逃げた薩摩の浪士が必死で手向かうのを、見事に切り倒したのを見て、凄い腕であるのを確かめました」
「そうですか。あの夜は、井筒に薩長や土佐の浪士が集結しているとの探索を受けて、一番隊隊長の沖田が部下を引き連れて斬り込み、薩摩の人斬り・中村半次郎と土佐の中岡慎太郎こそ逃がしたが、示現流の名手で知られた新納喜一郎ら四人を倒して新選組の強さを京都中に知らしめました」
その夜、太兵衛は龍馬との関連で中岡慎太郎の行動を追っていた。その中岡はいち早く裏口から消えていた。総司が鋭い目でじっと太兵衛を見つめてから、ぼそりと言った。
「井筒の西三軒目の乾物屋の軒先で、野次馬に紛れて誰かを目で追っていましたね?」
「ほう、それを何故?」
「町民にしては隙がない精悍な男、その目の動きは気になります」
やはり、沖田総司は恐ろしい男だった。
「総司、席を外してくれ」
土方の気遣いを、太兵衛が制した。
「いや、同席されて結構です」
総司が上げ掛けた腰を降ろし、隊員が運んで来た茶に手をつけてから土方が本題に入った。
「山崎からの伝言の通り、太兵衛さんに折り入って頼みがあります」
土方が深々と頭を下げた。
「私にはさっぱり意味が分かりかねますが、山崎様の伝言の件でしたらお断りします」
「何故だね? 報酬なら望み通り取らせるぞ」
「私にはそのような力はありませんし、こちらにも都合があります」
「そうか。では、次の件でお主の意見を聞きたい」
冷酷と噂のある土方歳三が熱く話すところによると、元冶元年の第一次長州征伐以来、その後の始末で幕府は尋問使として大目付の永井玄蕃頭尚志を正使に、新選組を警護として長州の動きを牽制して来た。ところが最近になって、蟄居を命じられている長州藩主毛利敬親に不穏な動きありという探索方の報告から、長州藩が倒幕の軍備を整備中であることが明らかになり、その現況を問い糺すべく永井玄蕃頭尚志が広島に乗り込むことになった。これは場合によっては暗殺されかねない危険な大役だけに警護にも屈強の者が必要になる。京都守護職・松平容保の命を受けた新選組局長近藤勇は自らが随行し、伊東甲子太郎、武田観柳斉、吉村貫一郎など八名を連れて尋問使警護として旅立った。
近藤は、同行するという歳三を押しとどめ、自分が長州で斬り死にした場合いは迷わず「局長となって新選組を束ねてくれ」、こう言い残している。その一行に名を連ねている山崎も昨夜、数日遅れで近藤局長らの後を追ったという。さらに局長は、「薩長を結ばせたのは土佐の坂本龍馬」との探索方の報告を受けて「龍馬を斬れ」と土方に言い残して出かけていた。
しかるに、坂本は武力行使を嫌っていると山崎から聞いた歳三は、その真偽を確かめるべく、「坂本を追っている公儀隠密と思われる太兵衛という小間物屋の意見を聞いて欲しい」との伝言を受けて太兵衛の現われるのを待っていたとのことだった。
「おぬしは、坂本を殺すな、と山崎に言ったそうだが何故だね?」
土方歳三が急に態度を変えて、冷たい口調で聞いた。沖田総司の全身から再び殺気が揺らめき、手がいつでも刀に届く位置にある。太兵衛は二人の殺気を削ぐように落ち着いて話した。
「私も坂本龍馬という男を調べております。現時点で言えるのは、確かに倒幕の志で薩摩と長州を結びつけたのは坂本ですが、坂本は勝海舟様の愛弟子で、幕府との戦いは全く望んでおらんのです」
「では、なぜ坂本は薩長を結び付けたりしたのかね?」
「アメリカ、フランスなど列強に並ぶよう日本を変えるには、今の幕藩体制では無理だから、薩長の力を借りて幕府を脅し、政権を天皇に返還し、徳川家が一大名に戻ることで平和裏に大政奉還がなされ、誰も血を流さんで済むことを望んでいるのです」
「あんたは、そんなことが可能だと思っているのかね?」
「わたしの考えは横に置いて・・・薩長は圧倒的軍事力で戦争に持ち込み幕府を壊滅的に叩き潰すつもりになっています。それを止めるのは、薩長にも幕府にも伝手(つて)のある坂本しかいない。だから生かさなければならない。これが、さるお方のお考えです」
「その言いようだと、さるお方とは上様以外には考えられんな。お主は御庭番か?」
「それ以上の詮索は無用に願います。自分は命を受けて幕府に仇なす西の雄藩の倒幕の動きと、それに関わる坂本の動きを見守っておりますが、もしかすると、かなり遠方に行くやも知れません。したがって、土方さんの要望には応えられないのです」
「坂本の逃亡先まで見届けるのか?」
「ま、行商のきまぐれと思って頂ければ結構です」
沖田総司が納得したように頷き、警戒を解いたのか殺気が全く消えていた。

 

4、呉服小間物商太兵衛

伏見奉行所では、寺田屋での捕り物で五十人余の捕り方を出して不逞浪士捕縛に向かい、二人を射殺され十数人が槍で突かれて重軽傷を負っている。その上、犯人を逃しているだけに誰もが怒り心頭で死に物狂いで伏見中の家々を探っていたが、裸同様で逃げた寺田屋の女中すら捕縛できずにいた。
寺田屋では、客は常連ではなく宿帳の住居には不在で連絡先は不明。逃げた女中は春という臨時雇いで、客を守るために勝手な行動をしただけで宿では解雇処分にした。
奉行所に不審な宿泊客ありと投げ文をしたものも詮索したが宿にはいない。競争相手の船宿の嫌がらせではないか? 寺田屋の女主人のお登勢は徹底してこれで通している。
伏見の薩摩藩邸に匿われた龍馬とお龍、それに三吉慎蔵の三人は、事情を知った国許の西郷吉之助が近く上京して対策を練るから、それまでに充分の休養をとっていて欲しいとの伝言を受けて、悠々自適の日々を過ごしていた。
伏見藩邸を預かる大山彦八が、藩出入りの呉服小間物商・太兵衛に三人の性別と凡その身長を伝えて、今からの縫製では間に合わないから出来合いの着物や小物を持ち込むように話したらしい。
裸同然で逃げ込んだでお龍が藩士の女房の衣類などをかき集めて身につけていたり、龍馬や三吉慎蔵が激しい戦いでボロボロになった着衣を捨てて大山彦八の古着を着ていたりだが、龍馬の場合は身長が違うから袴から脛が見えて珍奇にさえ見える。そこで、藩費で三人の衣類を新調してくれることになった。
薩摩屋敷では、三人夫々に別部屋を与えられてはいるが、毎日、お茶を飲んだり碁を打ったり書物を読んだりして過ごす座敷が別に用意されていて、女手の少ない台所を手伝って重宝がられているお龍が手隙になる午後、その部屋に大量の羽織袴や女物の着物が持ち込まれた。長身でおっとりした呉服小間物商の太兵衛が、大きな荷物を担いで現れたのだ。
「当屋敷ご用達の呉服小間物商の太兵衛にございます。ご注文の品々をお持ち致しました」
どこに視線を合わせているのか分からぬ茫洋とした顔の呉服商が、何の愛想もなく挨拶をして黙々と荷物を広げた。
「太兵衛さん、あんたとは前にお会いしてるな?」
「寺田屋のお春さんでしたら、船でも宿でも何度かお世話になっております」
「そうでしょう。でも、あの太兵衛さんとは何となく違うみたいで?」
「最近、腹が出て太めになってますし、もの覚えが悪くなりまして」
「そう言えば、太兵衛さんの印象は精悍な感じだったのに」
お龍が並べられた品々を見て目を見張った。
「これはお見事、わたしの好みをご存じだったのですね?」
龍馬が口元に笑みを浮かべて太兵衛をまじまじと見た。
「太兵衛さん、あんたの本当の仕事は何だね?」
お龍が笑った。
「いま、小間物や呉服だって言ったでしょ。聞いてなかったの?」
「そうじゃが、わしは太兵衛さんがますます分からんようになってしもうた」
それには応えず、太兵衛がお龍を見た。
「いかがですか?」
並べた品は、腰巻から襦袢、二重の着物や帯から簪(かんざし)、帯や帯止め、足袋や雨具まで全てが揃えてある。
「地の色もいいけど、小紋で絞ったこの桔梗の花柄も素敵だわ」
お龍は何もかも気に入った様子で、うっとりと眺めて感心している。
「京の流行は、数年ごとに変りますので、またご注文ください」
「全部頂きます。それにしても素晴らしいわ。何一つ無駄がないのねえ」
続いて男ものを並べると今度は龍馬と三吉慎蔵が驚く番だった。こちらも絹の羽織袴に着物一式、足袋、草履の類まで揃えてある。しかも、何もかも無駄がないどころか寸法までぴたり決まっていて、どう考えても竜馬と三吉慎蔵のことを熟知して誂えたとしか思えない。
「何だ? 羽織には家紋まで入っちょるぞ」
「拙者もだ」
龍馬の羽織には、組み合わせ角の桔梗紋が染め抜いてある。
三吉慎蔵が感心した。
「お龍さんの着物の柄も、坂本さんの紋の桔梗に合わせたようですな?」
「わが家は明智光秀公の流れで桔梗じゃ。正しくこれが本物よ」
三吉慎蔵の羽織の紋には五三の桐、見事に決まっている。
「これは、我が家の裏家紋、大山どのが知るわけないが?」
「多分、手をまわして調べたんじゃろう」
「ま、有難く頂いておくか」
三人の喜ぶ姿を見ても太兵衛はニコリともせず、懐中から小物を出した。
「何だそれは?」
「ご自分の家紋が使えない場合は、こちらをお使いください」
「家紋か? 三つ柏、矢羽、剣菱・・・ずいぶんと用意したな?」
「裏は乾いた糊です。油紙を剥がして、糊を少し濡らして貼れば少々のことでは剥がれません」
「何から何までかたじけない」
「では、不要なものはお戻し頂き、不足な品は後ほどお持ちします」
三人が顔を見合わせた。不要なものも、不足している物など何もない。
「結構だ。これで、晴れて長崎や鹿児島に行けるな。なあ、お龍・・・」
三吉が嬉しそうに笑った。
「わしまで便乗して船旅ができるとは、今回の件は怪我の功名ですな」
太兵衛が無愛想に呟いた。
「薩摩ですか? お伴したいものですな」
「よそ者は薩摩には入れんが、途中までなら」
「どちらまで?」
「長崎まででどうじゃ?」
このあと、太兵衛だけに聞こえるように囁いた。
「おぬしは、命の恩人じゃきに」
「さっそく、大山さんに通行手形を頼んでおきます」
「そうか、おまはんは薩摩藩と昵懇だったな」
「なにかご用は?」
「わしらの身の回りの雑用をしちょくれ。それでどうだ?」
「有り難う存じます」
三吉が不安そうに忠告した。
「坂本さん、そんな安請け合いはいかんぜ」
「なに構わん。こん人は特別じゃ。大山、西郷のお二人にはわしからも言うておく」
着物や飾り物に夢中だったお龍が晴れやかな表情で太兵衛を見た。
「今日はすっかり気にいりました。これからもよろしゅうお願いします」
「では、品物は全てお買い上げ頂いたと、大山さまにお伝えします」
太兵衛が愛想のない顔のまま去った。
暫くして大山が現われた。
「よろしかったですな。皆さま気に入ったそうで」
お龍が笑顔で頭をさげた。
「有難うございました。大山さまが家紋まで指定されたのですね?」
大山がけげんな顔をした。
「おいどんは、みなさんの大体の背丈を話しただけですばい」
思わず、三人それぞれが怪訝な表情で顔を見合わせた。

 

5、 西国へ

西郷吉之助から伏見の大山彦八に、龍馬、お龍、三吉慎蔵の身柄を京都二本松にある薩摩藩邸に移すように指示があったのは、三人が伏見藩邸に匿われて十日ほど過ぎてからだった。すでに奉行所では、寺田屋で多数の役人を殺傷したのは坂本龍馬と短槍の名手は長州の三吉慎蔵であると断定し、発見次第に逮捕、抵抗したら切り捨て容認の手配が関係先に回っていた。
二人が匿われているとみられる薩摩藩邸の周囲には絶えず伏見奉行所の役人や京都見回り組の目が光っていて、三人を無事に移動させるには、どうすればいいか、大山彦八も頭を悩ませていた。
龍馬の怪我はまだ完治してはいなかったが、布でしっかりと巻いている時は痛みが大分和らいでいた。それでも、いくら笠で顔を隠しても手に布を巻いた男が屋敷を出れば、すかさず役人が人別改めに走り寄るに違いない。
そこで、大山は陽動作戦を考え、藩士を動員して二本松藩邸までの往復を駕籠つき武装した十人ほどの隊列で何度か歩行訓練を繰り返して役人の目を幻惑した。初めの何回かは、すぐ役人が駆けつけて駕籠改めと隊員の顔改めを繰り返したが、それを中止した のを見極めたところで、手に布を巻いた龍馬を駕籠に乗せ、髪を上に纏めて男装したお龍と三吉慎蔵には笠を目深に被せ鉄砲を担がせて歩兵に化けさせ堂々と二本松の藩邸に送り込んだ。
藩邸に着くと、西郷が歓喜して一行を出迎えた。
龍馬が、伏見藩邸の大山彦八らに救助された礼を言うと西郷が破顔一笑でこう言った。
「大山からの書面で、凡そは承知しとるが今回の件は、お龍さんの大手柄でごわした」
その夜は、後から駆け付けた伏見藩邸の大山ら数人を交えて京都藩邸を上げての歓迎会があり、五十人もの幕府の役人を相手に存分に戦って無事に脱出した二人の活躍が、身振り手振りで何度も語られて称賛を浴びた。
さらに、風呂上りの下着姿のまま裏階段を駆け上って捕吏襲来を知らせたお龍の活躍によって、二人が素早く迎撃態勢を整えることが出来たのが酒の肴で話題になって盛り上がった。
大山彦八が言った。
「お龍さんがいなければ、坂本さんも三吉どんも今頃は三途の川を渡っているはずでごわすな」
その話が発展して西郷が言った。
「坂本さんがお龍さんと祝言を挙げるなら、おいどんが仲人になるでごわす」
これがまた拍手喝采で二人をその気にしたらしく、お龍は恥ずかしそうに俯いた。
だが、この時は龍馬が笑ってごまかしたので立ち消えになったが、結婚の芽は残った。
薩摩藩邸での一ヵ月近い滞在は、二人の仲をますます近づけ、お龍はこの幸せをいつまでも続けたいと思うようになっていた。
龍馬にとっても、これほど長く一人の女を抱き続けるのは間違いなく初めての体験だった。
西郷吉之助は、事件を知った時から龍馬の九州への逃亡生活を画策してくれたのだが、まさか女連れになるとは思いもよらなかったらしい。だが、太っ腹の西郷らしく、龍馬の化膿した手の傷が治るまでは不便もあり、女手があったほうがいいと考えを切り替えた。
「腫れものに効くいい温泉が国元にござる。そこでゆっくり湯治して養生すればいい」
しかも、嬉しいことに他の藩士の前で「お龍さんもどうかのう?」と誘ってくれたのだ。
お龍は二つ返事で礼を言い龍馬を見ると、龍馬も満更ではない顔で頷いている。これで決まった。 お龍はもう寺田屋には戻れない。奉行所の手配も回っているに決まっているから戻ればお登勢に、迷惑をかけるだけだ。
翌日、お龍はお登勢に手紙をしたため龍馬係りの藩士に手配を依頼した。
「お登勢さま。この度は坂本さまのお為とはいえ、お店にも多大なご迷惑をお掛けしました。深くお詫びします。今の状況ですとお店に戻ることで更なるご迷惑をお掛けすることになるのは明白ですので、このまま坂本さまに付いて行く所存にございます。養女にまでして頂きながらの勝手なお願いばかりで申し訳ありません。さらに、お登勢さまの侠気にすがってのお願いがございます。楢崎家の旦那寺に預けたままの弟と妹の将来について何らかのご指導ご支援を頂けますと幸いです。以上,勝手ながらお願い申し上げます」
お龍は、龍馬に付いて行く以外に道のない自分を再確認して覚悟を決めた。

二月も末になると風もさわやかに春を思わせ、水も徐々にぬるみ、木々の枝も芽吹き人の心も浮き立って来る。そんなある朝、待ちに待った西郷から声がかかった。
「明日の夜、伏見から舟を出します。よって、今日中に伏見屋敷に戻って頂きます」
こうして、龍馬らは再び変装して西郷と共に伏見の藩邸に戻った。すでに警戒体勢が緩んでいるのか、あちこちに役人はいたが眺めてはいるのだが、先頭に立つのが威風堂々とした巨躯の西郷だけに気後れしたのか声を掛けようともしない。
一行は無事に伏見藩邸に入った。
薩摩藩邸にいる間は龍馬の警護も必要ないために退屈の日々を送っていた三吉慎蔵も、これでようやくお役御免になることが決まり安堵の表情で喜び、下関まで同行することになった。
龍馬が雑役に連れてゆく約束をした太兵衛のことを切り出すと、大山がさり気なく言った。
「太兵衛はあれから、漕ぎ手まで引き受けて張り切っておるでごんす」
翌朝、川べりに出ると鉢巻に半纏姿ですっかり漕ぎ手仲間に溶け込んでいる太兵衛が待っていて、挨拶もそこそこに三人の荷物を運んだり、西郷と打ち合わせをしたりと余念がない。
龍馬が西郷に聞いた。
「太兵衛とは知り合いですか?」
「あん人は、わが藩出入りの呉服小間物屋で誠実なお人でごんす。身元は知りもうさぬが」
「信じられんと?」
「その逆でごわす。何を聞いても余計なことは一切言わぬ。あれはなかなかの者でごわすぞ」
伏見藩邸から薩摩藩の旗印をなびかせ、太兵衛を含む屈強な漕ぎ手が交代で六人づつ漕ぎまくる十石舟に乗って大坂までを一気に下った。
一行は大坂の薩摩藩蔵屋敷に立ち寄り、薩摩藩家老小松帯刀、土佐陸援隊の中岡慎太郎らと合流した。小松と中岡は密かに薩摩と土佐の倒幕構想についての意見交換をしていたらしい。その夜、蔵屋敷内で龍馬らの無事を祝って宴がもたれたが、なまじの料亭より豪華な料理が並んでいた。
小松、西郷、龍馬、お龍、中岡、三吉、それに数人の薩摩藩士がいて、どのような巡り合わせかは知らぬが、商人姿の太兵衛という男が当然のような顔をして末席に座っている。
だが、その太兵衛を不思議そうな目で見るのは中岡慎太郎一人だけだった。