1、十四代将軍家茂(いえもち)
十四代将軍徳川家茂が面識のある坂本龍馬の名を、裏の遠国御用・杉山太兵衛の報告で聞いたのはこの日が初めてだった。
「寒い中、あまり待たせるのも気の毒じゃな」
家持は小さく咳き込み、青白い顔を松平康英に向けた。
慶応二年(一八六六)新春、昼食の七草粥を食した後、家茂は午後の日課である武芸を休み、新任老中で陸奥棚倉藩八万石の藩主松平周防守康英と二の丸御殿の御座の間で密議を交わした後、葵の紋付き黒羽二重の着流しのまま庭に出た。家茂はこの日、西国から戻った杉山太兵衛から直接、報告を聞くことになっていた。
「上様、お寒くはございませんか?」
「心配ない、今日は風もなくよき日じゃのう」
家茂は、裃姿の松平康英と、折り畳み床几を抱えた近習の小姓二人を従えて太兵衛の控える築山に向かった。従来の隠密に替えて、家茂からの命で康英が考えた新たな隠密組織は、全員が二十代から三十までの独り者だけを選んだから秘密保持という面でも心配ない。彼らには帰る職場もなく気になる家族もいない。それだけに、死すれば他国の土になるだけの孤独な男たちばかり、康英は意識して、そのような男達だけを集めていた。
家茂と松平康英とで築いた裏の遠国御用からの報告は、公儀隠密をはるかに凌ぐ密度の濃い内容で、各藩の混乱だけでなく藩主や主要閣僚の倒幕への会話や主張までも率直に伝えて来て、家茂の不安を取り除き、今後の方針や覚悟を決めるのにもかなり役立っている。
とくに、人物、技能ともに第一人者と認めた杉山太兵衛はまだ二十二歳の若さながら、その情報はつねに的を射ていて家茂を感心させる。正規の御庭番から報告を受ける場合は、本丸の西側で大奥との境界に近い御駕籠部屋で大目付か側用人帯同で謁見するのだが、御庭番が旗本格のお目見以上の場合は、家茂が人払いを命じて直接対面で報告を受けることもある。
その逆に、隠密が御目見以下で身分の低い場合は、障子を閉めたまま声だけを聞いて報告を受けることになる。杉山太兵衛の場合はさらに低位で、禄もない給金だけの裏の隠密ということで、御駕籠部屋も使えず対面もできない。家茂は、康英を従えて庭先を散策し、その途中で報告を聞くだけだ。
その杉山太兵衛からの文面には「薩摩と長州に和睦と盟約調印の疑いあり」とある。
「まさか?」
薩摩が長州を嫌う以上に、長州人は薩摩のことを薩賊と呼んで忌み嫌っていると聞く。その憎しみの絶えない薩摩と長州が和して結ぶなど、噂では聞くが現実にはあり得ないことだ。家茂はその密書に暗い表情で目を通して「まさか?」と呟いた。密書の末尾には「詳しくは口述にて」とある。
隠密に聞くまでもなく、長州の幕府への激しい抵抗が他の雄藩をも巻き込みつつあり、それが逼迫した状況にあることは家茂にも分かっていた。ただ、それが現実とは思いたくもない。
それでも、神経を病み内臓に疾患を持つ将軍家茂だけに、すでに覚悟は出来ていた。
裏の遠国御用・杉山太兵衛の報告は、他の公儀隠密と違って正確で曖昧さがない。従って飛脚からの急便に目を通した時点で家持は最悪の事態を察知していた。ただ、倒幕側との戦火の帰趨(きすう)が気になる。
江戸の民の安全も確保せねばならぬが、辛い思いで京から嫁いできた和宮だけでも安全な場所に避難させねばならない。戦いを避けるためにはどうすればよいのか? その方策はまだ見つからない。
フランス、アメリカ、イギリスなど諸外国の強力な圧力に対抗するには、閉鎖的で時代遅れな大名支配の幕藩体制を壊滅させて、天皇を中心とした一つの国にまとめるのが、近代化を早める最善の道、とする討幕側の思想にも一理がある。ただ、公武合体まで妥協した将軍としての家茂がそれを口にすることは出来ない。
この公武合体の大義のために、婚約を破棄してまで家茂に嫁いでくれた和宮親子(ちかこ)内親王のためにも、このまま平和を保たねばならないが、今は徳川家の永続を保証するものは何もない。
ここに来て、不穏な動きをしている西国の雄藩の姿が大きな脅威となって迫って来ていることも、家茂の心身疲労を早めていた。最近では、喉が弱く咳き込むと暫くは話すのも億劫なほど体力は落ちていたし、胃にも激しい痛みを感じることがある。その上に脚気とかの病いで足もだるい。法印医師や典薬医は口を閉ざして首を振るが、すでに家茂は、自分が余命いくばくもない身であることを知っていた。まだ二十歳・・・これで死んでは悔いが残る。
将軍職がこれほどの激務であるとは、就任するまでは全く知らなかった。後宮三千人といわれる女人だけの大奥で、十三歳で将軍になって以来ねやごとも大事な公務と奥女中に教えられ、隣室で聞き耳をたてる老女の監視の中で、正室や側室らと夜毎の営みを重ねるのだが、最近ではその情事も思いのままにならなくなり、家茂の青白い顔から日毎に精気が抜けてゆくのは誰の目にも明らかだった。
家茂は、西国大名の幕府への信頼と協調が音を立てて崩れてゆくのを感じる度に、何故そうなってゆくのかを悩み、真実の情報が欲しいと思い、実戦向きの新たな組織を築くことを考えた。
家持は、赴任当時から気が許せる仲だった松平周防守康英を招き、少数精鋭の隠密部隊の組織化を命じた。そのために松平康英は、大目付から老中に抜擢されている。
筆頭老中稲葉正邦から上様から「緊急のお呼び出しである」と告げられ、人払いで図られたのが、この極秘隠密の組織化要請だった。この内容は稲葉正邦にも知らされていない。
この日から松平康英は、秘密裏に新たな仕事に専念することになった。
松平康英は、表向きは外国事務扱いだが裏の顔が将軍直属の相談役であり、情報交換や報告がある折りには密かに家茂と会い、共に遠国御用の報告を受けたりする。
従四位下に叙されて康直(やすなお)から改名した松平康英は、文政十三年(一八三〇)生まれの三十七歳。旗本寄合五千石の松平康済(やすずみ)の長男として江戸木挽町に生まれ、十七歳で家督を相続、駿府加番から火事場見回り役、寄合肝煎り、講武所頭取、外国奉行などを歴任していた。また、その鋭い洞察力や人脈を買われて大名監査を職権とする大目付も経て、短期間ではあるが、名奉行と称された遠山金四郎景元の後を継いで町奉行も勤めている。
幕府軍の主役だった薩摩の島津久光が倒幕側に寝返る動きについては、以前から公儀隠密を代々世襲する御庭番・梶野茂三郎からも大まかな報告を受けている。この報告があって以来、家茂は眠れぬ夜を過ごしている、と康英に語った。
公儀隠密の梶野茂三郎は、忍者とは無縁な羽織袴姿の禄高五百石の格式ある旗本御庭番で、その報告は世間の見聞書に過ぎず何ら目新しいものもない。その祖先の初代御庭番・梶野満実(みつざね)が三十俵二人扶持ながら忍びの技に優れ、剣を振るって戦場を駆けめぐり数々の武勲を立てているだけに、その先祖の遺勲にあやかっている羽織袴の公儀隠密の報告では、もはや緊急の事態に役立たない。御庭番には村垣、川村、明楽家など、勘定奉行、大坂奉行や函館奉行など役高を含めて千石以上の高禄を頂く名家もある。だが、これらの名家も武鑑に載るほどの名誉を得ての世襲だから数代目になると御庭番としての誇りも術も失い、いざとなると敵陣偵察にも使えない。恐怖が先立って敵中に入れず誤った報告をするからだ。
それでも、従来通りに各地に放った公儀隠密からは毎日のように情報が寄せられ、大政奉還か尊皇攘夷か、開国か鎖国か、公武合体か倒幕かで揺らいでいる各地各藩内の藩意の混乱ぶりは伝わって来る。だが、将軍家茂は、誰にでも分かる世間一般の風聞録に過ぎない従来の公儀隠密の報告では納得できなくなっていた。
そこで家茂が考えたのが、裏の遠国御用という極秘の隠密組織だった。
これから報告を受ける杉山太兵衛は、身分が低く顔も見たことのない忍びに過ぎないが、その報告書の全てが、何時どこで誰が何を話していたか、などと記載のある生の見聞録だから安心できる。将軍家茂は、杉山太兵衛をそこまで信頼していた。
その太兵衛が上方より立ち戻っての報告に何があるか? 不安もあるが多少の期待もあった。
2、杉山太兵衛
武鑑に載る役職の御庭番と、新しい組織の裏の遠国御用との大きな違いは、旧来の御庭番は甲賀・伊賀の上忍の出に限られていたのに対して、新たな組織では「出自の如何を問わず」とあり、忍びと武技に長けた命知らずの独り身の男であれば、商人でも百姓でも許され、その前職の如何によって採用の可否が左右されることはない。
それと、新たな裏の遠国御用は従来の二人一組の連帯責任方式を改め、単独での探索行動になったことで、その報告に個人的な偏りが出ることになるが、家茂はこれも容認した。
家茂の意を受けた松平康英は当初、密かに従来の御庭番の中から人選をはじめたのだが、忍びも武技も実戦に使える人材が皆無であることに気付き、長く続いた太平の世が忍者の誇りも技も失わせていたことを知って愕然とした。
あわてて、将軍の出身地である紀州藩と自藩の陸奥棚倉の領内から、将軍親衛隊という名目で、忍びと武芸全般に長じた者なら身分の如何を問わず「旗本並の高録で募る」、と実際の用務を隠して密かに募集したところ、両藩合わせて三百名近い応募があった。
文武両道の試技で厳しく選んだ結果、どうやら隠密として使えるのがやっと十人・・・これが裏の隠密御用の全容だった。この組織には育成期間という日時的な余裕はない。忍びの技を会得している者も含めて即戦力になる者だけが選ばれた。
その一人が、紀州藩内から応募した滋賀出身の呉服小間物の行商人杉山太兵衛だった。
杉山太兵衛の出自には不明な点も多く、その名も忍者特有の使い分けで幾つかあるが今は太兵衛の名を用いており、苗字は育て親の杉山の姓をそのまま使っているという。経歴や実績にもいささか不明な点はあるが自己申告による来歴を信じるしかない。
太兵衛の言によれば、幼児期の記録で定かではないが大家族の商家に賊が入り、何人かの家人が凶刃に倒れたのが記憶の片隅に残っている。幼い太兵衛は賊に浚われたが、伊賀の杉山源兵衛というお頭に助けられ、忍びとして育てられた。
太兵衛が十五の冬、親代わりの源兵衛が大猪の牙で受けた傷が元で病死したのを期に山を降り、頭の仲間が営む呉服商に丁稚奉公に入った。よく働いたのですぐ養子に迎えられ、十八歳の時に行商として独立させて貰った。と、いっても、主家の呉服屋から反物を預かって売り歩くだけだが利益もそこそこにあり、何よりも独立して仕事を出来る喜びを味わって何一つ不服はなかった。だが、平和な暮らしに飽き足りず、なぜか血が騒ぐので将軍の親衛隊とやらに応募した・・・この太兵衛の言葉が真実であるかどうかは問題ではない。その実技が飛びぬけて優れているからだ。
太兵衛は高い塀を軽々と飛び、石つぶてを投げて飛ぶ鳥を落とした。木刀での剣技で腕に覚えのある審査官の御徒歩目付を、一瞬の間に面上での寸止めで仕留めた腕前は並ではなかった。こうして、康英が迷わず採用した杉山太兵衛は、間違いなく使える男だった。
しかも、京・大坂、伏見などにある薩摩藩をはじめとする各藩邸や新選組の屯所などにまで呉服を売り歩いていたという過去の来歴もこの仕事には役に立つ。それが場合によっては両刃の剣になる危険性も考えられるが、あえて康英は太兵衛を裏の遠国御用の筆頭に選んだ。いざとなれば複数の腕の立つ刺客を送って抹殺すればいい、松平康英はこう考えたのだ。
康英の集めた十人の中には、太兵衛の他にも農民や郷士の出自などで、ある程度は忍びの技を習得した者もいたが、太兵衛と比べると技だけでなく人物としてもはるかに下なのは明らかだった。
「よき仕事さえすれば約束以上の報酬を払う」
康英は仕事の内容が遠国各藩の動向を調べる隠密であることを明かした上で、こう告げた。
「ここでは偽名でもよく、幕府に忠誠を誓う必要もない。ただし、与えられた仕事は完遂すべし」
康英のこの言葉に、全員が真剣な表情で頷いた。
従来の隠密は表仕事として、納戸衆、小普請方、鷹匠組など様々な職場が与えられ必要に応じて隠密の仕事をする。だが、家茂と康英が集めた新たな隠密組織の命知らず十人には帰る職場がない。将軍家茂に万が一のことがあれば、その時点でお役御免となる。
こうして選ばれた十人の裏の遠国御用は、松平周防守康英の訓示を聞くと直ちに多額の金子を与えられ、指示された地に向かった。三百人から選ばれた十人はそれぞれ互いの名も知らず、「今後、この仲間と会ってもお互いに赤の他人」と言った康英の訓示以前に、二度と会うことのない仲間であることも承知だし命を惜しむ者もいなかった。
太兵衛は、誰にも干渉されずに自由に動ける孤独なこの仕事が大いに気に入った。
しかも、仕事に必要な資金は前払いでふんだんに貰えるし、手許不如意になったら早飛脚で康英に知らせれば、その帰り足で指定した宿に届くからどこにいても心配がない。ただし、それら裏の遠国御用の名も人数も幕府の記録にはなく、全ては松平康英の腹一つにあった。
本来であれば従来の公儀隠密は、命を帯びるや直ちに帰宅して玄関先で「主命である」と家人に告げ、家には入らず、そのまま幕府御用達の大丸呉服店に行き、幕府が手を回して作らせた神社や江戸の大庄屋発行の往来手形などの他に、柳行李に印籠、火打道具、磁石、巾着、早道(小銭入れ)、矢立、雨具、道中記など持参で、薬売り、小間物屋、呉服商、虚無僧、飴売りなどに変装して、その日のうちに江戸を離れなければいけない規則だった。
だが、その規則もいつの間にかは建前だけになっていて、彼等は堂々と家で妻と別れを惜しむ一夜を過ごし、翌日出立することも暗に認められていた。その上で翌日、家族から夫々の上司に御典薬頭の病状証明付きで面会謝絶の長期病欠として届け出る。これで形式上はどこからも疑念を抱かれないのだが、御庭番として武鑑にも載っているだけに業務内容は筒抜けになっていて、もはや、真の隠密仕事とは言えないのが公儀隠密の実態だった。これでは家人から周囲に秘密が漏らされても仕方がない。
ところが将軍家持の考えた裏の遠国御用は、全員が家族もいない。主命が出ればそのまま旅立て秘密も保たれる。しかも、太兵衛などは、油紙に包んで行李に入れた大金と鑑札と道中手形が増えただけで、服装も持ち物も全く今までと同じだから旅立ちに気負いもない。
こうして杉山太兵衛は、康英の命で京に出て一年、数度目の直接の報告日が訪れている。
この「裏遠国御用」のための諸費用とて、将軍家持の名の元に、大奥の予算を削った特別予算から捻出していた。当然、大奥の老女達からは猛烈な反対が出たが、幕府存亡の危機を防ぐための調査費という大義名分に加えて、和宮親子(ちかこ)内親王が賛同したことから誰一人逆らう者はいなくなり、予算を確保できたという経緯もある。
徳川御三家の紀州から、十三歳の若さで将軍として迎えられた家茂は、就任早々難問と取り組まねばならなかった。幼名菊千代から慶福(よしとみ)となり、わずか四歳で紀州五十五万石の藩主となった家茂は、家老が取り仕切る逼迫した藩の財政を見聞きして新しい着物も着られなかった幼年期、子供心に貧しいことは辛いことだと思ったことがある。
それだけに、江戸城の華美に過ぎる贅沢な暮らしは目を見張るばかりで、大奥にはびこる女の集団を見る度に、何もかもが無駄に思えてくるのだった。
江戸城に入ったばかりの少年期は辛かった。十三歳といえば本来、自由にのびのびと広い庭を駆けめぐり、木登りや池遊びで過ごして好きなときに食べたり寝ていたい年頃なのに、朝早くから床に就くまで休む間もないほどの公用に追われていた。それでも幼少期は懐かしい。今は遊ぶ気はないが、無性に一人になる時間が欲しいときがある。
黒書院近くの築山をめぐると、家茂が将軍になって二年を経た十五歳の頃、老中の入れ智慧で、将軍の慣習とか聞かされて何度か、家臣が集めた処女の髪の毛でタナゴ釣りをした小池がある。その処女を大奥に差し出され、怒って送り帰したこともある。
家茂が振り向いて、松平康英に語りかけた。
「もう、タナゴ釣りも出来まいのう」
康英は、気の毒そうに下を向いたまま応えた。
「お体が癒えましたら、またお楽しみ頂けます」
「そうか・・・」
家茂の追憶はそこで切れた。
3、梅香る
白鳥の池を半回りすると、お小座敷南前に築山があり松など常緑の樹木が繁っている。
「ここでよい。下がっておれ」
松平康英が声をかけると、小姓二人が持参した床机を広げてそこに置き、頭を下げて立ち去った。
まだ、風は冷たいが五分咲きの梅の花が春の香を運んでくる。二人だけになると康英が家茂に告げた。
「ここで、西から戻った探索方から報告を受けます」
頷いた家茂が床机に腰を下ろすと、康英は家茂の斜め後ろの地面に片膝を付いて腰を落とした。
それに気づいた家茂が、床机を見て康英を促した。
「周防、遠慮は無用。そこに坐って、わしの言葉不足を補ってほしいのじゃ」
「かしこまりました」
恐縮して頭を下げてから床机に坐った康英が、築山の植え込みに向かって告げた。
「では、聞こうか?」
樹木に包まれた築山の陰から低い声が届いた。身分が低いので将軍と顔を合わせることはない。
「遠国御用、杉山太兵衛にございます」
「上様の御前であるが遠慮は無用、そちの知るところを包まず述べよ」
「恐れ入ります」
家茂も労りの声を掛けた。
「西国各藩への探索、日ごろの密書も大儀である」
「有り難きお言葉、恐れ入ります」
杉山太兵衛、さほど恐れ入った風もなく落ち着いた口調で応じた。
「さっそくご報告申し上げます。薩摩と長州が軍事同盟の密約を結ぶ様子にございます」
「やはり、真実か・・・あれだけ毛利は島津を憎んでおったのにな」
家茂が嘆き、太兵衛が続ける。
「しかも昨年から長州が大量の武器弾薬を、薩摩藩経由で買い求めております」
「それは、公儀隠密頭の梶野からも聞いたが、百挺ほどであろう?」
「新品の銃が四千三百挺、中古が三千挺、それを薩摩の船で下関まで運んでいます」
「薩摩の船で七千余の銃か?」
思わず、康英が将軍の顔を見た。信じられないことが起っている。
薩摩と長州とは昔からことごとく対立して犬猿の仲だったが、その両藩が手を組むなど絶対にあり得ない。だが、それが事実でなら大きな脅威になる。
康英が冷静な口調で太兵衛に聞いた。
「誰がそのような、大量の銃を長州に斡旋したのか?」
「土佐の坂本龍馬という者です」
将軍が声を発した。
「坂本? 存じおる。勝安房の助手をしておった。あれはいずこの家臣じゃ?」
「上さまが坂本を? あれは土佐の脱藩郷士でございます」
太兵衛が驚いて答えた。康英は坂本の名を知らない。
家茂がまた驚いた。
「勝は、そのような身分低き者を助手としていたのか?」
康英がとりつくろった。
「その坂本がなぜ長州に銃を? 幕府に恨みでもあるのか?」
「商いです。わたしが呉服を売るように坂本は船や武器を売ります」
「それで、どれほどの利があったのか?」
「推定では、それに軍艦一隻を加えて千両ほどの儲けと思われます」
「まるで商人だな?」
「本家は酒と質屋を営む豪商でして、坂本の家は商人郷士でございます」
「その坂本が何を企んでおる?」
「長州の桂小五郎に、長年の宿敵でもあった薩摩の西郷吉之助を結び付けました」
「それらは家老か?」
「いえ、どちらも下級武士でございます」
今度は康英が驚いた。
「脱藩した郷士と、下級武士らが藩を動かしとるのか?」
「それらの者は、藩主にも直接会うことも出来ます」
「重役を越えて藩主にか?」
「坂本は、土佐藩も薩長の同盟に参加するように藩主に勧めています」
家茂が「あり得ぬことだ、あの坂本が・・・」と、空を仰いだ。あの屈託のない茫洋とした男が徳川に弓を引くことなど考えられない。
「世界を相手に」と、胸を張って言った、あの時の坂本なる者の輝いた表情が目に浮かぶ。家茂は三年ほど前の初春、大坂から幕艦道順丸に乗って江戸に下った折に幕臣勝麟太郎から「助手の坂本龍馬です」と、目が細めで大柄などことなく憎めない男を紹介されていた。
当時の家茂はまだ十七歳、その三年前にジョン万次郎らと咸臨丸で渡米した勝麟太郎の豊富な体験談は、目を見張るほど新鮮で興味深いものだった。
随員の重臣らを「甲板に出てよし」と遠ざけ、船室に籠って地球儀や地図、写真や絵図を広げながらの勝麟太郎のアメリカ話を共に聞いた坂本龍馬の名は忘れられるものでもない。家茂に代わって初歩的な質問を軽妙に繰り出して、さり気なく家茂に海外の政治経済から一般の日常生活までを知らしめようとする坂本という助手の気配りが快く感じられて実に楽しかった。
この時の、坂本龍馬の海外に向ける熱した気持の昂ぶりがちの積極さが、家茂の心を大きく海外に向けさせ開国こそが正しい道だと知らしめたのは間違いない。
家持は、その折の坂本龍馬の目の輝きが羨ましかった。家臣が居ないのを幸いに家茂も自由に会話が出来た。龍馬もときどき夢中になってか、家茂に対しても遠慮がなくなり、「日本も世界と対等にならにゃあかんぜよ」などと仲間言葉で話かけては勝海舟に叱責されていた。それを家茂がとりなし、「アメリカでは誰もが平等と言うではないか」と、許したことも覚えている。
坂本は全く悪びれた風もなく言った。
「わしは、日本国の利益のために海外の国と大きな商いがしたいがです」
「いずれ国を開いたら、海外交易はそちに任せよう」
「有難うございます。坂本龍馬、確かに承りました」
目を輝かした坂本が、従順に深く腰を曲げて謝意を表したのを覚えている。
あの時、坂本の師の勝海舟は何も言わずにただ嬉しそうに笑っていた。坂本には、また会ってみたい・・・家茂はこう思った。
青く澄んだ新春の空から注ぐ午後の柔らかな陽光が、沈みかけた家茂の心を和ませてくれる。
「それと、親藩の尾張が大きく尊皇攘夷に傾いております」
「尾張には、神君家康公が差し向けた竹越、成瀬の両付け家老が目を光らせていように」
「竹腰は親幕ですが、成瀬は倒幕側に加担しており、尾張の藩意は真っ二つに割れております」
「それも難儀じゃな」
「尾張も心配ですが、ともあれ、長州だけは早めに潰しませんと・・・」
康英が毅然として言った。
「上様のご決意も固まった。すでに詔勅は下りておる」
「では、すぐにでも」
「まだ軍資金が足りぬ。江戸、大坂の幕領内の豪商・豪農・寺社に命じた征長費の献金が集まり次第、長州征伐を始めるから心配ない」
「それでは間に合いません。薩摩もすでに軍事訓練を始めました」
「外敵に対しての訓練であろう?」
「いえ。彼らの銃口はすでに幕府に向いていると見て間違いありません」
家茂が詰問した。
「三郎久光の指令か?」
「いえ、島津久光様はまだ迷っております」
「では、まとめ役は誰だ?」
「重役で人望のある小松帯刀です。すでに西郷吉之助など下級武士が倒幕の流れを作っています」
「そういえば、あの寺田屋の事件もそのような輩の集まりだったな?」
康英の声に反応した家茂が呟いた。
「京の街が焼き払われるところじゃった」
二年前の悪夢がよみがえって来る。
京の伏見の船宿寺田屋に、倒幕を叫んで決起した尊皇派の薩摩や土佐の藩士や脱藩浪士らが五十人ほど集結し、幕府擁護派公卿の関白・九条尚忠を誅殺し京都所司代を襲い、夜陰に乗じて京の町に放火すべし、などと過激な談合を重ねていた。
それを知った、上洛中の薩摩藩主・島津久光が、大久保一蔵など腕利きの藩士九名を血気に逸って命を無駄にせぬようにと説得に送り込んだ。しかし、話し合いは決裂して切り合いになり、決起派からは有馬新七ら六名が死亡、二名が重傷、鎮圧側からも一名の死者を出している。いわば、薩摩藩の内紛に近い騒動で、大久保一蔵らが身を挺して必死で止めなかったら悲劇的な大惨事になっていたのは間違いない。家茂はそれを覚えていた。
4、公家の謀略
「尚忠様が無事であったのも何よりじゃった」
将軍が公家の尚忠に様を付して尊称するのには理由がある。九条尚忠は、公卿で唯一の徳川幕府擁護派であり、平和裏に行われる公武合体こそが日本の国力を強める唯一の道であると信じて、孝明天皇を説得し、既に婚約をしていた有栖川宮に婚約の解消を通告し、孝明天皇の妹君である和宮親子内親王を、家茂に降嫁させて幕府との絆を深めた陰の立役者だった。
その尚忠の尽力に応えた幕府は、九条家に五百俵の加増を行なったが、家茂にはさらに、九条尚忠には借りとも言える恩義があった。
それは、紀州五十五万石の藩主だった家茂が十三歳の若さで将軍職に就けたのも、九条家の家令であった島田左近と、大老井伊直弼の懐刀で国学の師でもある長野主膳とが画策して、水戸派が推す一橋慶喜(よしのぶ)を排したからに他ならない。
今や、その直弼も桜田門で凶刃に倒れ、長野主膳も断罪、京都守護の新撰組に与して暗躍した島田左近もすでに勤皇の志士らに討たれて京の街に首を晒されて今はいない。
こう考えると、九条尚忠暗殺を企んだ池田屋騒動の遠因は家茂にもあった。あの過激集団の目標の一つが、公武合体を企み和宮降嫁を成功させた九条尚忠の誅殺だったのも、将軍家茂にとっては皮肉なめぐり合わせだった。
「杉山太兵衛、気になることがある」
「いかがなことでございましょう?」
「坂本は、何を目的に薩摩と長州を結びつけたのじゃ?」
「倒幕以外に考えられるのは、外国人代行での武器の売買です」
「危険だな?」
家茂が呟くと、康英が床机から降りて腰を低くし、片膝を地に付けて伺いを立てた。
「いかがいたしますか? 幕府に仇なすようなら、早めに芽を摘まねばなりません」
康英が床机に坐りなおして、また築山に向かって語りかけた。
「薩長を結びつけて討幕を考えているのは、その男だけか?」
「意外な人物が裏で糸を引いています」
「大政奉還論の三条実美(さねとみ)卿か? たいそう幕府を憎んでいるそうだからな」
「確かに三条卿は、父君を先年の大獄で処断され、母は土佐藩主の出、長州とも縁が濃い宮様ですから仕方ありません。しかし、三条様は目立ちたがり屋ですから裏方にはなれません」
「では黒子は誰じゃ?」
「上さまのご前で言いにくいのですが・・・」
「苦しゅうない」
家茂が許した。
「では、恐れながら申し上げます。和宮さまとの婚約を破棄された有栖宮織仁(ありすのみやたるひと)親王が旗頭で、東久世通禧(みちとみ)卿がまとめ役として裏で動いています」
「有栖宮は分かるが、あの温厚な東久世までが?」
東久世通禧、三条実美ら勤皇の公卿七人は、元治元年(一八六四)の禁門の変で薩摩・会津など公武合体派に敗れて京都から追放され長州から博多に追放されたが、その後、錦小路宮が病没し、澤宣嘉(のぶよし)卿が脱出したため、五卿が大宰府に送られていた。
康英が口を挟む。
「上様のご婚儀の席でご挨拶いたしましたが、東久世卿は幕府にも理解があるお公卿です」
太兵衛が答えた。
「その通りでございます。ご本人は腹の据わった度量の広いお方で、五卿が九州五藩にそれぞれ別にお預けと決まったときにも強硬に反対して五卿共々大宰府に落ち着くことが出来るようにした方で、敵味方共に人望のある立派なお方です」
家茂が康英に言った、
「東久世家は村上天皇から出た久我源氏の子孫で、久世、千種、北畠、大河内、赤松などの公卿や豪族とも縁戚になる家柄じゃ」
「では、武士に近い公家でございますね?」
「この東久世一族は戦う公卿でな。大権現様の天下統一の折には加藤清正公の脇軍師として活躍して手柄を立てている。太兵衛とやら、他の公家衆の動向はどうじゃ?」
「いずれ、大政奉還になれば、天皇中心の世の中になり、自分たちが政治の中枢に戻る・・・こう考えて動いているようです」
そこからまた康英が訊いた。
「公家の五卿は、自分たちを追い落とした薩摩に対する恨みは深いから簡単にはまとまるまい」
「それが違うのでございます。坂本が、大宰府の延寿院に謹慎中の三条実美卿と東久世卿を別々に訪ねて、薩長連合の密約を了承させ、大儀の前には私憤を捨てよう、と言わせております」
「なるほど、坂本が三条と東久世を抱き込んだのだな?」
「それが逆なのです。坂本だけではございません。大政奉還を見据えた各藩の重役が、今後の政局に公卿の政治力が必要だと考えて大宰府の五卿詣でを重ねているのでございます」
「倒幕後の政局か?」
「そう考えて間違いございません」
「坂本は何を考えておる?」
太兵衛が、しばらく沈黙した後、言いにくそうに口を開いた。
「海外交易が目的ですが、どこにいても女と絡んでいて、とても武士の鑑とは思えません」
「それだけの男だ。女の一人や二人がいても当然であろう?」
「一人や二人なら、ここで報告すべきことではございません」
「では、三人も四人もおるというのか?」
「私の知るところだけでも八人、多分、十人以上はいると見て間違いございません」
「まさか?」
家茂が絶句した。築山の梅の枝に遊ぶ鶯が春を告げて囀っている。
5、九条尚忠
康英が呆れたように、ため息をついてから口を開いた。
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「ならば、その坂本とやらは、単なる女好きに過ぎぬのか?」
「私にも判然と致しかねますが、この男、戦火を防ぐという強い信念を持っております」
「武力倒幕ではないのか?」
「勝先生の請け売りで、大政奉還と公武合体論の一辺倒です」
「安房守は以前から、徳川家を一大名に戻す気だからな」
「坂本も勝様の教え通り、それが徳川家を存続させる唯一の道だと信じているようです」
「坂本の今後はどうなる?」
「薩長が手を結んだ今、坂本の役割はもう半ば終わっております」
「と、なると坂本は邪魔な存在になるな?」
「薩長、土州、幕府、見回り組、新選組、どこから見ても坂本は邪魔者と思われております」
「坂本の立場を、見回り組はどう見ている?」
「佐々木只三郎は、殺すと言っております」
「新選組は?」
「土方副長は坂本切るべし、近藤局長は勝手に泳がせておけ、と言っております」
「それだけか?」
「薩摩、長州、土州は、それぞれ秘密裏に動くはずでございます」
「刺客を送るか?」
「断定はできませんが、薩摩も長州も武闘説ですから坂本が邪魔なのは確かでございます」
「坂本という男も哀れだな? 坂本は、なぜ幕府の肩をもつ?」
「幕府ではございません。坂本は倒幕派です。ただ上様を守ろうとしているだけでございます」
「何ゆえに?」
康英の驚きに家茂が応じた。
「坂本には、海外との交易を許した覚えがある」
「上様はこの身分低き郷士と、お約束などなされたのでございますか?」
「勝安房守の助手として、多少なりとも幕府の禄を食んでおる。身分などどうでもよい」
康英が納得できない表情で太兵衛に聞いた。
「坂本の言うように大政奉還後も徳川家が執政に加わる? 薩摩や長州が納得するのか?」
「納得いたしません。薩長は徳川家を完膚なきまでに壊滅させるつもりでおります」
「そうなれば戦さだな? 幕軍は勝てると思うか?」
「わたしには分かりかねます。ただ、士気と武器の差は歴然と薩長に分があるように思います」
「戦わずして解決できる道はあるのか?」
「坂本が、それを模索しております」
「坂本一人では無理じゃろ?」
「勝海舟様、大久保一翁様、公家衆ではただ一人、九条尚忠卿も同じ意見でございます」
「関白の尚忠様だけが、なぜ幕府の肩を持つ?」
「すでに故人にはなっていますが、大原幽学という者の意見と聞いております」
「それは何者だ?」
「諸作法指南役だった元熱田神宮権宮司の遠縁の者で、剣客で思想家と聞き及んでおります」
「その者と九条家はどのように縁があるのじゃ?」
「九条邸内に住んだ元権宮司を訪ねて、九条家に寄宿するうちに二歳上の大原幽学と尚忠卿が意気投合して、尚忠卿は大原から新陰流の剣と民を束ねる思想を学習したそうでございます」
「新陰流? お留め流ではないか、その大原なる者はどこの出じゃ?」
「尾張藩家老大道寺家の出と聞き及んでおります」
将軍家茂が、口を挟んで康英に言った。
「尾張藩の大道寺? 代々玄蕃を世襲する、あの大道寺か?」
「上様も、ご存知でございますか?」
「幽学なる者は知らんが大道寺家の祖は、太閤の小田原攻めに最後まで抵抗して上州松井田の城を守った猛将だったと聞いておる。康英は知らぬのか?」
「私も大原は存じませんが、豪勇で鳴る大道寺家の祖のことは学んでおります。前田軍に敗れて斬首されるところを、大御所さまの助命嘆願で救われ、徳川家の重臣になったと伝えられております」
「前田利家公も家来にと望んだが、大道寺が当家への志願を望んだそうじゃな?」
「大権現様は、西の押さえとして尾張城を築き、幼い九男の義直様を城主として送った折に、付け家老として竹腰、成瀬、平家老として大道寺様を付けたとお聞きしております。その大道寺家の出の者が、天皇家にもっとも近い関白九条家に出入りして武家教育をして幕府を救おうといている・・・これも不思議なご縁でございます」
家茂が、何を思い出したのか羨ましそうに康英に聞く。
「その坂本なる者は、本気で女に惚れるのかのう?」
「そのようでございます。杉山太兵衛の探索が誤ったことはございません」
「ならば坂本は捨て置け。戦さは許せんが、女ならいいではないか」
康英が憮然とした表情で、杉山太兵衛に告げた。
「新選組と見回り組に伝えよ。上様のお言葉である、坂本を斬るな、とな」
「かしこまりました。私としても、そのご裁定を有り難くお受けいたします」
「待て! そちは職務に私情をはさむのか?」
「申し訳ありません。しかし、報告には私情は入れておりません」
「聞こう。何故じゃ? なぜ坂本の肩を持つ?」
樹木の陰から杉山太兵衛の控えめな声が届いた。
「この者、必ずや我が国を海外に雄飛させる、と聞いております」
「誰だ? そのようなことを言う者は?」
「勝海舟さまでございます」
「また安房守か? 勝との師弟関係はまだ続いているのか?」
「勝さまの命であれば、水でも火の中でも飛び込むほどの仲と思われます」
松平康英が困惑したような表情で家茂に告げた。
「上様、坂本という男が敵か味方かますます分からなくなりました」
「死なすには惜しいか?」
康英が太兵衛に命じた。
「直ちに西に戻って坂本を見張れ。それによって諸藩の動きも分かろう」
「いざとなったら救けますか?」
「そこまでは無用。見たままを知らせればよい」
「かしこまりました。そのように致します」
家茂がしみじみと呟いた。
「坂本龍馬か? 自由でいいのう」
家茂はこの時ほど、他人の生き様をうらやましく思ったことはない。