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ウィーンで置き去りにされた旅行カバン。 宗像信子


このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

 ウィーンで置き去りにされた旅行カバン。

宗像 信子

ウィーン旅行の三回目です。前回の正装をしてオペラを聴きにいくために二人で着物を着たという話をしました。
その為に二人で約10キロの着物一式(コートから小物、草履まで)を持参しました。
行きは各自が着物を持ちましたが、帰りは私が二人分も持って帰ることになりました。
私は我が家にあった古い旅行カバンで行ったのですが、このカバンはなんと7.5キロもありました。がっしりしていて丈夫でしたが重くて一苦労でした。
これに着物を詰め込んで帰ると想像しただけでもがっくりきてしまいました。
最後の三日目の夕方、ようやく買い物に行けました。
何故かと言うと、ウィーンは観光の町というのに土日はお店が開いていないのです。
メインストリートはきれいにディスプレイされているのですが、まさしく見るだけでした。
コンビニすらなく、小さなお土産屋さんが何店舗か開いているだけでした。
ですから三日目の月曜日だけが唯一お買い物ができました。
そこで今風で軽そうな旅行カバンを見つけました。
早速買い、ホテルに持っていきました。
詰め込んだ荷物を入れ替え、カバンそのものが約3キロも軽くなりました。
そして、日本から持って来たカバンはひっそりとホテルの一室に置き去りにされることになりました。
ちょっと可哀そうで、写真に残しました。
こうして翌朝、このお部屋ともお別れしました。


慰霊碑を読む〝碑のメッセージ(2)


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 慰霊碑を読む〝碑のメッセージ(2)

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

慰霊碑を読む 〝碑のメッセージ〟

六月ニ至リ、棚倉城モ亦(また)守リヲ失ウ。内膳以下、前後戦没者五十又(ゆう)二人。
前藩主阿部養浩ハ、正静ノ高祖父ナリ。退老シテ多年事ニ与(あずか)ラズ。而シテ夙(つと)ニ王室を尊崇シ、王師ニ抗スルヲ深ク憂イ、コレガ義ニ非(あら)ザルヲ百方説諭ス。
臣下、是ニ於テ首(はじめ)テ、正静ト与(とも)ニ哀レミヲ請イ、帰順セリ。後数月、奥羽悉ク平ラグ。
朝廷乃チ寛仁ノ詔(みことのり)ヲ下シ、藩ヲ復ス。昨日ノ土人、人ミナ更生ノ恩ニ浴ス。是ニ至リテ和気藹然(あいぜん)、四海一家マタ遐迩(かじ)ノ別ナシ。蓋(けだ)シ、藩曩(さき)ニ総督ノ命ヲ奉ジ、出師シテ庄内及ビ会津ヲ討ツ。ソノ異志ナキヤ昭々タリ。ソノ僻在辺陬(へんすう)ヲ以テ、事情通ゼズ。朝旨ノ所在ヲ察セズ、遂ニ順逆ノ誤リヲ致ス。洵(まこと)ニ痛惜ナルベシ。然レドモ内膳等ソノ主ニ誠ヲツクシ百戦命ヲ致ス。マタ烈士トイウベシ。
頃者(このごろ)有志ノ士、胥議シテ白河南湖公園ニ碑ヲ建テ、余ニ之ニ銘スルヲ請ウ。余ハ当時奥羽追討総督ノ参謀ヲモッテ戎族旅(じゅうぞくじゅうりょ)ノ間ニアリ。親シクソノ情ヲ知リ、甚ダソノ志ヲ哀シム。
嗚呼(あゝ)、前日ノ仇敵、今則チ握手歓笑シ、相共ニ王沢(おうたく)ニ浴シ、王化ヲ頌ス。而シテ死者独リ与ラズ。豈傷(いた)マザラン乎(や)。
然リト雖モ、今日清明ニシテ、旧藩恩遇ニ至リ、昔日ニ廻優ス。民ミナ鼓腹(こふく)シテ業ヲ楽シム。死者而シテ知ルコトアリ、亦応(まさ)ニ地下ニ憾(うら)ミ無カラン。
銘シテ曰(いわ)ク。
軀(み)ヲ損(す)テテ主ニ報ジ、節義尊ブベシ。是非順逆、豈細論ノ遑(いとま)マアランヤ。白川ハ旧封ニシテ、夙ニ縁アル所、巋然(きぜん)タル豊碑長ク英霊ヲ鎮メン。

明治十七年九月
元老院議官従四位勲三等 渡辺 清撰
平田 文書
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■棚倉藩阿部家は慶応二年(1866)に白河から転封となり次の年に移動。その翌年に奥羽越列藩同盟に加盟し、旧領の白河に出陣した。
棚倉藩「鎮英魂」碑は南湖公園鏡山に建っている。
■篆額(てんがく)とは、碑の上部に篆書で書かれた題字「鎮英魂」。棚倉藩最後の藩主阿部正功(まさこと)の書。棚倉藩知事。子爵。
■撰文は、渡辺清。肥前大村藩士。渡辺は奥羽追討総督の参謀として、平(いわき市)方面に出陣。維新後は新政府に任官。明治二十四年に福島県知事。男爵。阿部家の十三代阿部正備(のち養浩)は、大村藩主純昌の五男だった。
■撰文の文字は、阿部藩の家老千五百石取りの平田弾右衛門。維新後は文左衛門と改名。初代白河町長。書道に優れ、伯鶴と号す。西郷村の「甲子温泉」の扁額は伯鶴の書。
■阿部正静(まさきよ)。白河藩最後の藩主。幕府老中だった父の正外(まさとう)の致仕により、そのあとを継いだが、棚倉に転封された。
【注】
▲出師(すいし)出兵。▲白石(しろいし)宮城県白石市。▲悃誠  真心のこもっていること。▲壅蔽 ふさぎおおうこと。▲朔(さく)1日。▲晨 早朝。▲午(うま)昼の十二時前後。▲土人 土地の人。▲遐迩 遠いところと近いところ。▲辺陬(へんすう)僻地。▲戎族旅(じゅうぞくじゅうりょ)軍隊。▲鼓腹(こふく)世がよく治まり、食が足りて安楽なさま。▲巋然 高くそびえ立つさま。


慰霊碑を読む〝碑のメッセージ(1)

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 慰霊碑を読む〝碑のメッセージ(1)

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

百日におよぶ白河戦争での死者は1,000名を超えました。
白河には、討死した兵士の墓標や、戦死者に捧げた藩ごとの慰霊碑が、ここかしこに建っています。
その慰霊碑には、それぞれの立場から痛切な哀悼文が綴られております。
原文は漢字だけで読みにくいので、今回は、藩ごとの慰霊碑の前にたたずみ、後世への伝言が刻まれた碑文を、自己流に句読点などを補い書き下してみました。

鎮英魂
従五位 子爵 阿部正功 篆額
明治元年(1868)三月。棚倉藩主阿部正静、奥羽鎮撫総督ノ命ヲ奉ジ、出師シテ将(まさ)ニ庄内ヲ討タントス。
総督更ニ令シ、転ジテ仙台等ノ兵ト与(とも)ニ会津ヲ討タント、即チ戦イニ赴ク。
会津既(すで)ニ降リ、奥羽諸藩白石ニ会同シ、連署シテ状ヲ上(たてまつ)り、会津ノ罪ノ赦(ゆる)シヲ請ウ。
朝廷聴カズ。尚(なお)ソノ罪ヲ数エテ、兵ヲ征討ニ発ス。
是(ここ)ニ於テ諸藩憤慨シテ、以謂(おもえら)ク。
「伏見ノ事ハ過誤ヨリ出デ、モトヨリ深キ罪ニ足ラズ。況(いわん)ヤ既ニ悔悟シ、且ツ我ガ諸藩ノ悃誠(こんせい)哀レミヲ請ウモ、無有不聴ノ理ニテ、兵ヲ征討ニ発ス。コレ奸臣壅蔽(ようへい)ノ然ラシムル所ニシテ、決シテ聖旨ニヨルニ非ズ。事ココニ至リテ豈(あに)坐視スベケンヤ。遂ニ兵ヲ挙ゲコレヲ拒マン」ト。
棚倉藩老臣阿部内膳ヲシテ、将ニ一大隊ヲ仙台・会津等ノ兵ニ与(くみ)セシメ、白川城ニ拠ル。
五月朔。官軍城ヲ囲ミ攻メ、兵コレヲ禦(ふせ)グ。奮激戦闘、晨(あした)ヨリ午(うま)ニ至リ、雷轟電撃(らいごうでんげき)、殺傷相当タリ。
而(しこう)シテ衆寡敵セズ、守兵弾尽キ刀折レ、城遂ニ陥イル。乃(すなわ)チ金山・釜子等ノ地ニ退キ守リ、転戦スルコト数十百合ニ延(の)ブ。


ウィーンオペラ座

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ウィーンオペラ座
宗像信子

先週に続いてウィーン旅行のご報告です。
ウィーンにはたった3日間の滞在でした。
4泊5日ではなく、4泊3日だったんです。
この3日間を無駄にすることなく、毎日18000歩は歩きました。
この間のことはまたご報告しますが、ウィーン少年合唱団に次いでぜひともしたかったことは、オペラ座でオペラを鑑賞することでした。
こちらは幸いにも日本でチケットを予約することができていたので、安心はしていました。ただどんな席かはいってみなくてはわかりませんでした。
今回はただ見に行くのではなく、オペラ座に正装していくことも考えていました。
やはり日本人は着物でしょう!
ということで娘と二人分の着物を持って行きました。
何と着物だけで10㎏、カバンの重かったこと。
というわけで写真のように二人で着物を着て、いざオペラ座へ。
席は想像した以上に良い お席で、それにも感激しました。
回りはあまりイブニングドレスの方はいませんでしたが、男性はタキシードでお洒落な
女性をエスコートしていました。外人男性は本当にタキシード姿が決まっています。
あら~私もエスコートしていただきたかったわ!〈笑〉
オペラは「トスカ」でした。
幸い座席には日本語の字幕が出る端末があり、助かりました。
ですからストーリーはわかっていたのですが、歌詞がわからないから心配していたのですがばっちりでした。
心ゆくまでウィーンでオペラを堪能しました。
帰りはザッハトルテというチョキレートケーキの発祥のカフェに寄って、甘いケーキが
苦手な二人はビールを飲んで、ウィーンのカフェの雰囲気を楽しみました。回りにもオペラ帰りの人が多かったので、高揚した余韻も十分楽しみました。
最後の夜もこうして終わりました。
ホテルはオペラ座から徒歩5分でしたので、最後のお散歩をしながら帰りました。


ウィーン少年合唱団  宗像信子


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ウィーン少年合唱団
その美しい歌声は心に響きました。

宗像 信子

新年早々本当に駆け足でウィーンに行ってきました。
そして長年の夢を実現するために日曜日の朝、ウィーン少年合唱団が歌う教会(WienerHofmusikkapelle)へ娘と二人で行きました。
日本ではチケットを購入できなかったので、当日券を求めて早くに教会に行きましたが、残念ながら当日券も手に入らず、立ち見席で入場できる列に並びました。
開始の20分前にキャンセルが出たが購入しないかと教会の職員が立見の列に声をかけてくれました。
私たちは6番目だったのですが、幸いにも前に並んだ方々が購入しなかったのでに私たち回ってきました。
夢かと思った瞬間でしたが、すぐに「買います」と答え、お金を支払って入場しました。
指定席は4階でしたが、なんとそれは少年たちが歌う席の真横でした。
また、リハーサルの最中で、すぐに彼らの歌を聴くことができました。
ソロの男の子はアジア系の少年でしたが、もちろんとってもきれいな歌声でした。
ミサが始まる数分前まで何度も何度も繰り返し練習していました。
その練習の様子を写真にとることができました。
ミサが始まりましたが、私たちは4階からなので、神父さんたちの頭のてっぺんしかみられませんが、美しい儀式で荘厳な時間でした。
ミサの最中に少年団の合唱が聞け、その美しい歌声に心が洗われるようでした。
これが私が55年前から一度ライブで聞きたいと願っていた歌声だと思ったら何だか涙がでてきました。
新年のミサだったので、プログラムより30分も長い一時間半も続きました。
そしてミサが終わり、神父さまたちご一行が退場した直後、少年たち全員がさっとミサを行っていた檀上に整列し、3曲歌ってくれました。
それは4階からは残念ながら良くはみられませんでしたが、美しい歌声は教会全体に響き渡りました。
全部が終了し、参列者たちがお帰りになった後、じっくりその由緒ある教会の内部を見学できました。
それから教会の外に出たら、そこには少年たちの何人かがいて、話をすることができました。
ぜひ日本に来てくださいと声をかけたら、一人の少年の母親が日本に行くことが決まっていますと答えてくれました。
娘は日本の風景の絵葉書を持っていたので、少年たちに渡したところとっても喜んでくれました。
今度は日本で聴きますねと言って、彼らと別れました。
そんなときもとっても可愛い少年たちでした。
長年の夢がかなったウィーンの日曜日の朝でした。


楢崎屋敷物語-2 安司弘子


このコーナーは
安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)が担当します。

白虎隊

「戊辰・白河戦争」ものがたり

楢崎屋敷物語(高見フサ口伝)~白虎隊士と長州藩士の秘話~2

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

以下に、「恩愛の碑」建立に至る経緯を、白虎隊士飯沼貞吉の孫・飯沼一元氏の文章により紹介します。

◇◆◇今から19年前、「飯沼貞吉が長州の美祢市楢崎屋敷で養育されていた」という怪文書が届きました。
悪い冗談は止めて欲しい。飯盛山で自刃に失敗した貞吉は、「生き返るような切腹の仕方は会津武士らしくない」として会津から白い目で見られ、その上、あろうことか長州の世話になったなど、あってはならないことでした。
必ずや事実無根の証拠を見つけ出してみせる。私の白虎隊研究はこうして始まりました。情報を幅広く集めるために、白虎隊の会も結成しました。
その後、2006年(平成18年)11月に山口県美祢市小杉の楢崎屋敷跡に美祢市教育委員会が「楢崎屋敷跡説明板」を設置しまた。その説明文の中に、「会津藩士飯沼貞吉がここで養育された」と明記されていました。楢崎屋敷は、長州藩士楢崎豊資(とよすけ)の知行地であり、養子となった頼三が凱旋後、貞吉を連れてきて住まわせた。なお、この屋敷はその後、高見家の所有となったと記載されていました。

○高見家の伝承
貞吉の身の回りの世話をしたのは高見フサ(1855年生まれ)、貞吉の1歳年下で当時は楢崎屋敷に奉公していました。
高見家は女系だったので、後に養子を迎えフサはトシとサトという2人の娘を産んだのです。長女トシは1873年(明治6年)生まれで、後に養子を迎えて高見家を継ぎました。その長男高見広義氏は市会議員を勤め、次男高見三郎氏は佐藤内閣の文部大臣を勤めました。フサは90歳の長寿を全うし1928年(昭和3年)に没しました。

筆者は2006年(平成20年)広義氏の長女吉井綾子さん(当時84歳)にお会いしました。そのご長男吉井克也氏からは「高見家の口伝が現在も毎年本家に集まるたびに繰り返されている」との話を聞き、楢崎屋敷の見取り図も入手しました。克也氏は下関教育委員会で教育に関する仕事をされています。
8年前に、実際に楢崎屋敷跡を訪ね、高見家の伝承を聞き、吉井綾子さんにお会いしてみると作り話ではないように思えてきたのです。
「140年も前の話をなぜ、5世代にも亘って語り伝えてきたのですか?」
「それは高見家の誇りだからです」との回答が明快でした。

そして、楢崎頼三の玄孫に当たる松葉玲子さんにお会いしたのは5年前でした。
楢崎家では「死に損なったのではない。生かされたのだ」と言って貞吉を励ましたと伺いました。
一方、高見家では13歳の娘フサが貞吉の傷を癒すために、献身的な働きをしたことでしょう。物的証拠は未だ見つかっていませんが、飯沼家としてはこれで十分であると納得しました。

この地に記念碑を設立する話が持ち上がり、本日実現の運びになりました。
貞吉が楢崎屋敷に来たのは満14歳。2年後にはこの地を離れ上京しました。
こんな些細な出来事を記念する意義はどこにあるのでしょうか?
しかし、自刃に失敗し、生きる希望を失い死に場所を探していた貞吉が回生のきっかけをつかんだのは、まさにこの2年間でした。
飯沼家が今あるのもこの地での営みがあったお蔭であり、過去に遡って御礼申し上げます。
「恩愛の碑」には、過去の恩讐にこだわるのではなく、恩愛の絆によって
問題を克服し、未来を拓いていくという普遍的な願いが込められています。
この碑が、「人間愛と平和を希求する道しるべ」となれば素晴らしいと思います。◇◆◇


楢崎屋敷物語  安司弘子


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)が担当します。

皆様、明けましておめでとうございます。
安司弘子です。

昨年4月から訥々と書かせていただいている、〝白河アピール〟の拙文。
今年もお付き合いいただけますよう宜しくお願い申し上げます。

内戦で対立した幕末期。立場によって「明治維新と戊辰戦争」と呼び名が違いますが、あれから150年が経った節目の今年は各地でそれぞれの冠を付けた記念行事が進行しています。
そこで、新年の第1稿は、白河特化ではなく・・・
薩長の遺恨の歴史を乗り越えて建立された、「恩愛の碑」のきっかけになった口伝とその経緯をを紹介します。

楢崎屋敷物語(高見フサ口伝)~白虎隊士と長州藩士の秘話~

安司 弘子

◇◆◇小雪の今にも舞いそうなある日、楢崎の殿様が戦争が終わって戻って来られるということで、小杉中の者たちが総出で集落の一か所に集まって出迎えたげな。
しばらくすると、遥かふもとの嘉木峠(かぎだお)の方から、軍服に身を包み馬に乗った殿さまとその一行の姿が見えてきた。
だんだんと近づいてくる一行をよく見ると、殿さまの馬の轡を持っている者は、村人たちが初めて見る少年じゃったげな。
後で分かったことじゃが、その少年は会津の白虎隊士で、飯盛山で仲間と一緒に自刃したが、知り合いの者に助けられて、ただ一人生き残った『貞さあ』という名の少年じゃった。
その日の夜は殿さまの凱旋のお祝いということで、殿さまのお屋敷に村の者たちが集まって、飲めや歌えの酒盛りになった。宴が進む中で、末席に座っていた「貞さあ」に、一人の村人が話しかけた。「お前、生きちょってよかったなあ。まあ、一杯飲め」この言葉を聞いた「貞さあ」は、さっと顔色を変え、土間に飛び降り、今にも自害しようとする気色じゃったそうな。
ただ事ではない様子に駆け寄った楢崎の殿様は、「貞さあ」を別室に呼び、次のように諭されたそうじゃ。《「貞」、よう聞けよ。お前も知っちょると思うが、今我が国の周りにゃ黒船がうじょうじょしており、この国を領土にせんと、虎視眈々とねろうちょるでよ。会津・長州ちゅうて、日本人同士がいつまでも喧嘩をしちょる時じぁないでよ。今からは皆が心を一つにして、この日本を豊かで強い国にせんにゃあいけんのじゃ。そして、その中心はお前たち日本の若者じゃ。命を粗末にしてはいかん。ええか「貞」、しっかり勉強せい!そして、日本の役に立つ人間になれ!お前の学費はわしが出す。「貞」安心して勉強せえよ!・・・・》
殿さまの話をじっと聞いていた「貞さあ」は次の日から殿さまの書斎を借りて、生まれ変わったように勉強に励んだそうじゃ。
(文責:高見フサ子孫・白虎隊の会下関支部長 吉井克也)◇◆◇

つづく


白河市観光スポット1・小峰城と名物の桜

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)が担当します。

安司弘子です。
明けましておめでとうございます。
新年の挨拶が二度めになりますが、何度でもお正月は目出度いものです。
本年も、東北の表玄関白河市を宜しくお願いします。
今日は、白河市内の観光スポットについて触れてみます。
白河の観光スポットといえば一番は小峰城・・・まず異論はないでしょう。

1、白河小峰城

 小峰城は、かつてこの地を治めた結城氏が築いた城郭です。
奥州を代表する名城と呼ばれた城でもあり、東北南部エリアでは人気の高い観光スポットです。

ここには奥州の覇者伊達政宗公が植えたとも言われる樹齢400年の紅シダレザクラと乙姫桜があります。

 高さ13メートル、胴回りが3メートルもある桜の大木は見る者を圧倒します。


飛鳥寺ご本尊大仏はイケメンでした。

明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。
 今年も私達二人でこのコーナーを盛り立てて参ります。
   平成30年元旦 
     宗像信子&安司弘子 

鳥寺ご本尊大仏はイケメンでした。

宗像 信子

日本最古の飛鳥大仏にお会いしに行って来ました。

飛鳥寺のパンフレットによると、588年に蘇我馬子が発願し、596年に推古天皇に創建された日本最初の寺で、本尊飛鳥大仏は推古天皇が609年に詔して鞍作鳥(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像であると書かれています。

「高さ3メートルで当時銅15トン、黄金30キロを用いて造られている。平安・鎌倉時代の大火災で全身罹災、後補を受けているが、概形には飛鳥彫刻らしい形をとどめ、細部にもかなりはっきりした飛鳥の特色を伝えている」と説明されているこの大仏さま、今風に言えばちょっと渋めのイケメンです。

眺めていると心が落ち着くし、わくわくもしてきます。

奈良の明日香村にひっそりと佇んでいらっしゃるそのお姿に胸がいっぱいになりました。

ぜひ皆様もこのハンサムな仏像さまに会いにいらっしゃいませんか。

 


何と艶やかな市杵島姫神社

何と艶やかな市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)

宗像 信子

前回ご紹介しました大神(おおみわ)神社の中に、何とも艶やかな神社がありました。

大神神社のパンフレットには、「この神社は九州の宗像の神様の一人、市杵島姫命を祭っています。海の神、水の神であり、芸能をつかさどる弁天さんとしても親しまれている」と書かれています。

大神神社は静謐な広大な敷地にいくつもの神社ありますが、その中でもちょっと雰囲気が違う美しい神社です。

今年ユネスコの世界文化遺産に登録された「神宿る島 宗像沖ノ島と関連遺産群」に祀られている三女神のお一人です。宗像三女神は「宗像大社の社伝」によれば沖津宮の田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮の湍津姫神(たぎつひめのかみ)、と辺津宮の市杵島姫(いちきしまひめのかみ)です。

この市杵島姫神は弁天様とも呼ばれていて、私たちの身近なところにも祀られています。なぜかというとインドの神様である弁財天と同一視されているからです。水の神様であり、見目麗しい女神であることも一因しています。

この宗像大社と三女神については私の夫であり開運道の顧問兼講師である宗像善樹著の「史料にみる宗像三女神と沖ノ島傳説」(右文書院発行)をお読み頂けたらと思います。

ぜひ大神神社にいらした暁にはおみ足をのばして参拝して下さいませ。