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古河藩家老・鷹見泉石資料展のご報告です

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

古河藩家老・鷹見泉石資料展のご報告です

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

久しぶりに古河市に行きました。
鷹見泉石のご子孫の鷹見本雄氏が「政治家・鷹見十郎左衛門忠常(のちの泉石)の実像は・・・」という講演をなさるということで、古河市地域交流センター(はなももプラザ)に出かけました。
鷹見本雄氏は幕末史研究会で知り合い、度々企画展や講演会にお邪魔しています。
今回も丁寧な資料を作成されていて、古河市民にとってわかりやすい内容だったのではないかと思います。
鷹見泉石は古河藩の家老で、蘭学者でもあった幕末期の政治家です。
その膨大な資料は古河歴史博物館に展示されています。
鷹見泉石関係資料(国指定文化財)については
古河歴史博物館に寄託されていたもののほか追加分を含めた鷹見家歴史資料約1万点が、平成14年に鷹見家から市へ寄贈され、翌平成15年、そのすべてが市指定文化財となる。それらのうち、古河藩家老であった鷹見泉石の職務および学問的関心から作成・収集された資料3,153点(内訳は文書・記録類686点、絵図・地図類768点、書籍類466点、書状類912点、絵画・器物類321点)がその歴史的価値により平成16年、国の重要文化財に指定された。当時の政治・文化・外交の中枢の動きを知る第一級の資料群である。

ということです。一回見学しただけでは不十分なので、また今度ゆっくり資料を見てみたいと思います。
今回は「はなももプラザ」という別の会場での講演でしたので、初めて訪ねました。
その会場に古河屋台という素晴らしい屋台が展示されていました。
この屋台は天保6年(1835年)に下野国(栃木県)で制作されたものを復元したものだそうです。
説明板によると
江戸時代から昭和40年代まで、雀神社のお祭りの期間には、この屋台の上で神楽や歌舞伎が演じられました。神への奉納儀礼の場であるとともに、娯楽の少なかった時代に、庶民を楽しませてくれる「舞台」の役割も果たしていました。
とありました。
また近くには日光街道があり、道しるべが四つ角にたっていました。
古河という町は史跡があちこちにあり、気になるところがたくさんです。
古河市は茨城県ですが、その一角だけが埼玉県と栃木県に挟まれれているという地勢です。
日帰りで十分史跡探訪ができますので、どうぞ足をお運びくださいませと古河市に成り代わって宣伝させていただきます。


カップヌードルミュージアム見学記

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

カップヌードルミュージアム見学記

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

横浜にあるカップヌードルミュージアムを見学体験してきました。
みなとみらい駅から徒歩7~8分、海に面して大きなビルでした。
前回の朝ドラ「まんぷく」のモデルになった安藤百福さんご夫妻が今回展示されていました。私も半年にわたって面白く見たものです。
食べ物のミュージアムのせいでしょうが、館全体がとても清潔で機能的でした。
ちょうどお昼頃に着いたので、まずカップヌードル製作の時間帯の申し込みをして、4階のレストランに行きました。
ここではチキンラーメンの屋台、タイ、韓国、ベトナム、イタリアなどの麺料理がそれぞれコーナーになっていて、一食300円で食べられました。
チキンラーメンだけは150円のハーフサイズで、トッピングを2種類選んで食べられました。
チャーシュー、ワカメ、コーン、ネギ、チーズ、タマゴなどが選べます。
150円の小どんぶりなので、それこそトッピングを変えて何杯でもお変わりができるようになっていました。
次にカップヌードルの製作です。
まず空のまさに日清カップヌードルのカップだけを300円で購入します。それに蓋をしてもらいカラーマジックペンで思い思いにイラストや字を書き込みます。
私は絵心が無いので、「NOBUKO made in YOKOHAMA」と日付を書き込みました。
次に中央にあるガラス張りのコーナーに並び、担当のお姉さんにカップをわたすと、まず
麺が入り、次に自分の好きなトッピングを4種類選び、次にビニールでカバーをしてもらい熱処理をすると市販されているカップヌードルになりました。
まさに私のオリジナルのカップヌードルです。それを今度はビニール袋に入れて空気で膨らませて中身が持ち歩くことでこわれないようにしました。
とても面白い体験でしたが、このカップヌードルをいつ食べるかが今後の問題です。
後は安藤ご夫妻の企画展示をゆっくりみて、朝ドラ「まんぷく」の復習をしました。
最初はなんだか子供だましのような気がしていましたが、結構しっかり大人も楽しめました。
半日は十分に楽しめますので、皆さまも横浜にいらした時は足をのばしてみてはいかがでしょうか。


浦和の調神社

和の調神社

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

私は35年間浦和に住んでいます。浦和は中山道の蕨の次の宿場町として栄えておりました。
藩には属していない天領です。
現在は首都圏のベットタウンとして有名ですが、静かな住宅地です。この頃新宿湘南ラインと上野東京ラインなどが充実してきて、土地の価格が上昇しているそうです。
 そんな浦和には駅から徒歩15分で行けるパワースポット、調神社があります
正式には調神社(つきじんじゃ)ですが、地元の住民は「つきのみや様」と呼んでいます。
入口では狛犬ならぬ、かわいい狛兎がお出迎えしてくれますが、鳥居が無いのです。
なぜかというと伊勢神宮に奉納する貢物を運び出すのに邪魔になるからだと云われています。
平安時代からの神社なのです。
この神社の中にはいたるところに兎がいます。
神社ですので、中には手水がありますが、調神社では手水も勿論、兎です!
他にも社殿の彫刻や、灯籠、池の中など、色々なところにうさぎを発見することが出来できます。
御祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ) 豊宇気毘賣神(とようけひめのかみ) 素盞嗚尊(すさのおのみこと)の三柱。
「調」は「貢(みつぎ)」に同じで、調物=貢物を納めるための倉が建てられた事に由来しています。
調(ツキ)という名前から、調神社は勝負事のパワースポットとしても有名で、浦和レッズは毎年、新年の必勝祈願をしているそうです。
最近なんだかツイてないなぁ….なんて感じたら、兎だらけのパワースポット、調神社に御参りしてみては?ということで今朝お参りに行って参りました。
また神社の脇にはひょうたん池という池がありますが、ここは石井桃子の「ノンちゃん 雲にのる」の舞台になったところです。

緑の大木がたくさんありますが、春になると桜が満開になり、地元住民がお花見をして賑わいます。土曜日の夜など夜桜見物に行くと、あちこちで知った顔が宴会をしていて呼ばれてビールを一杯(?)ご馳走になったりします。
「調神社」には御朱印帳はありませんので、御朱印帳を持参するのを忘れないようにしましょう。その際、「神社」の御朱印帳でないと授与していただけないのでこちらもご注意ください。


暑いぞ!、熊谷

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暑いぞ! 熊谷

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

私は仕事で月に10日くらい熊谷に行きます。
何年か前に日本一の暑さを記録した時から、熊谷のキャッチフレーズは「暑いぞ!熊谷」です。
夏はもちろん暑く、しかも冬は上州というか赤城山のからっ風が吹き下ろしてきて特別寒いという土地柄です。
市役所の隣に熊谷中央公園という大きな公園があります。
日曜日の午前中でしたが、すでに暑いのであまり来園者はいませんでしたが、緑の多いきれいな公園です。

熊谷をちょっとご紹介します。この地の歴史的有名人といえば、まず熊谷直実だと思います。
平安時代末期から鎌倉時代初めにかけて活躍した熊谷郷の武士。源平の合戦での活躍が有名で、源頼朝をして「日本一の剛の者」と称えられました。しかし、一の谷の戦い(1184年)で、自分の息子と同年代の平敦盛を討ち取ってからは戦場に姿を見せなくなり、出家して名を「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」と改め、法然上人(ほうねんしょうにん)の門に入り、修行に励みました。その数奇な一生は、『平家物語』や歌舞伎(かぶき)・浄瑠璃(じょうるり)など文学や演劇の世界でも語られています。晩年、熊谷に戻った蓮生が念仏を唱えるために建てた草庵が、現在の熊谷寺(ゆうこくじ)の始まりと言われています。
と言われている人物です。
あともう一人荻野吟子です。
明治初期、女性は医師への道が閉ざされていましたが、数々の困難を克服して明治18年医術開業試験に合格。日本公許登録女性医師第1号となり、35歳にして東京・本郷湯島で開業しました。その後は北海道瀬棚町にわたり、晩年は帰京して東京本所で婦人・小児科医を開業しました。その生涯は渡辺淳一の小説「花埋み(はなうずみ)」などで広く世に紹介されています。平成18年5月には、生誕の地に荻野吟子記念館がオープン。
と紹介されています。
また今年はラグビーのワールドカップ大会の3試合が開催されます。
そのため市内あちらこちらで道路が掘り起こされて、きれいな道に変身しています。それにしても熊谷の夏は暑い! 冷えたビールが命の泉です。


東京のオアシス・代々木公園で涼んで? まいりました。

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東京のオアシス・代々木公園で涼んで? まいりました。

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

東京のオアシスの一つである都立代々木公園に行ってきました。
先月に行った時は桜が満開でしたが、今回はとっても緑が多くてすてきな公園でした。

代々木公園の所在地は、大日本帝国陸軍の代々木練兵場であったそうです。これが第二次世界大戦での日本の敗戦後にはワシントンハイツとなり、1964年(昭和39年)の東京オリンピックで代々木選手村として一部が使用された後に再整備され、1967年(昭和42年)に代々木公園として開園したそうです。
代々木公園の敷地は540,529.00m2(およそ東京ドーム11個分)であり、東京23区内の都市公園のなかでは、葛西臨海公園(約79ha)、水元公園(約76ha)、舎人公園(約71ha)、光が丘公園(約60ha)に次いで5番目に広いとのこと。また代々木公園は原宿駅、代々木公園駅、明治神宮前駅、代々木八幡駅に隣接しているのでたくさんの人たちが集まってきています。
また代々木公園は入場料は無料です。多分これも大きな魅力なのでしょう。
しかしいろんな規則があり、びっくりでした。
代々木公園の禁止事項
テント、タープ類を組み立てたやロープ張り
野球、サッカー、ゴルフ、ラグビー、アメリカンフットボール、スケートボード等の練習
集団での音楽演奏又は大音響・高音を発する楽器の練習
サイクリングコース内の歩行
鳥獣魚貝の類を捕獲
木竹などの伐採又は植物の採取
木に登ったり、枝にぶらさがったり、ハンモックやブランコを吊るす行為
立入禁止区域への立ち入り
公園内の各種施設を損傷したり汚損する行為
まあでも普通にお散歩するくらいなら大丈夫でした。
行った日はお天気も良く気持ちもいい日で、見ているといろんな違反はありますが、それはそれでいいのではと思いました。
翌日熊谷の中央公園に行ってきました。
ここも緑が多くてすてきな憩いの公園でしたが、暑いぞ熊谷!でその名に恥じない暑さでした。

 


龍踊り(じゃおどり)を楽しみました!

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龍踊り(じゃおどり)を楽しみました!

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

皆さま、龍踊りはご存じですよね。
長崎や横浜の中華街でよく踊られているのがニュースなどで放映されています。
長崎は「おくんち」という九月にあるお祭りの時に、どこかの町会が出るのですが毎年ではありません。
中華街は新年のお祭りの時に踊っています。
大型連休の最後の日に、「ミニ咲いた祭」というさいたま市のイベントで龍踊りが披露されました。

東龍会という長崎出身で龍踊りが大好きという人達で構成されている会が特別出演です。
その会に私の友人(もちろん長崎出身)が、出演するので見に来てと誘われたので大宮駅そばの公園まで行ってきました。
金の玉を龍が追いかけるのですが、結構重い龍を10数名の人達がまるで龍が本当に動いているかのように踊るのです。
そして龍が退場すると「持ってこーい!持って来い」と観客が掛け声をかけるとまた龍が戻ってきて踊るのです。
体力の限界まで踊り手は戻ってきてアンコールにこたえます。
今回は観客がこちらの人なので、「持って来ーい」コールが今一でしたが、長崎のおくんちではそれはそれはすごーい「持って来ーい」コールがあるので、力の限り踊ります。
またこの「咲いた祭」はいろんな団体が踊ったり、歌ったり、演奏したしたりでした。
その中でひときわ目立ったのが、サンバのグループでした。
初めて生でみたのですが、なかなか綺麗で華やかでしたよ。これでまた、明日への元気が横溢した感じです。


北軽井沢から温泉三昧!

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

北軽井沢から温泉三昧!

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

令和になった5月2日に北軽井沢に行ってきました。
大宮から新幹線に乗って約40分、軽井沢に着きました。
下車したとたんに空気が美味しくなり、浅間山がみえました。

宿泊先は北軽井沢のお友達の別荘です。
軽井沢からバスで約50分、旧軽井沢まではとても車が多くさすが連休中だと思いましたが、山を登って行くにつれ、車は減って行きました。
白糸の滝、浅間牧場などを通りながらどんどん登って行くと周りの景色は木々が多くなり、うっそうとした林の中を通って行きました。
ようやく旧北軽井沢駅のあるバス停に着きました。この北軽井沢への線路が無くなったために車を利用するしかなくなりました。とてもおしゃれな駅でこの周辺が町の中心地だったそうです。
友人が迎えに来てくれて彼女の車で別荘まで行きました。その道すがらに浅間山がとても綺麗に大きく見えました。この時の浅間山が一番きれいで大きく見えるのですが電線がどうしても入ってしまうのが残念でした。
今回、北軽井沢へ行った大きな理由は温泉三昧をしたかったからです。
早速着いた晩は地蔵川温泉に行きました。いつも行っていた絹糸の湯がリニューアル中とかで行けなかったので初めての温泉でしたが、北軽井沢駅のすぐ近くでした。
地蔵川では趣の違う3種類のお風呂があり、それは敷地内にある鉱泉を利用したお湯で源泉自体は低温なので加温してあり、ゆっくりと温まるという感じです。またシンボルのライオンが一際目立つ大きな露天の岩風呂が庭園に囲まれてあり、夜空を見ながらのんびりつかりました。
翌日は鹿沢温泉の紅葉館に行きました。
床に木の板が敷かれた歴史を感じる源泉かけ流し大浴場(炭酸水素塩泉)があり、湯温が高いので、まず何杯も体にかけ湯をして熱いお湯に体が馴染んでからお湯に入りました。約2時間ほど入っていて、そのせいでしっかり体を温められました。
この宿の日帰り温泉の料金にお蕎麦付きで一人1200円というコースがありましたので、昼食におそばを食べました。それからまた温泉に入りましたが、今度はさすがに2時間は入れなかったので1時間くらい入り満足して帰りました。露天風呂はありませんでした。
3日目は半出来温泉の登喜和荘に行きました。この温泉の源泉は「恵の湯」と呼ばれ、露天風呂・内風呂ともに掛け流しの温泉です。
名前は半出来という名称ですがその効能は多種にわたるそうで、塩分を多く含んだ泉質の効果があり湯温はあまり熱くなりませんでしたが、ゆっくり入ると湯上り後も体がポカポカでした。
目の前に吾妻川が流れていて、混浴の露天風呂に入ると川を眺めながら入れるのですが、私たちが行った時はすでに男性が入っていたので、女性専門の露天風呂で我慢しました。
でもお庭にとてもすてきなたくさんのお花が咲き乱れていて、なんとも素晴らしい雰囲気の半出来温泉を心行くまで楽しみにました。
帰りにその吾妻川にかかっているつり橋を渡ってみましたが、揺れたりしたので少し怖かったですが、景色は素晴らしかったです。
10連休の中の2泊3日を温泉で過ごせて幸せでした。


ポルトガルから北スペインへ-10(最終回)

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ポルトガルから北スペインへ-10(最終回)

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 安土桃山時代から江戸時代に至るまで,ポルトガルは南蛮渡来の貿易品だけでなく実に様々なものを日本に伝えました。例えば,16世紀末,豊臣秀吉はきらびやかな刺繍を施した深紅のビロードのマントやカッパなどの南蛮ファッションを好んで着用し,家臣にも勧めたと言われています。京都では,ポルトガル人が着ていた袴(カルサン)や下着(じゅばん)などが,庶民の間で大流行し,南蛮モードを安価で仕立てる店まで出現したそうです。また,当時の日本人が初めて見聞きする品物にはポルトガル語がそのまま使われ,徐々に日本人の暮らしになじんでいきました。今でも日常的に使われるボタン(botao),パン(pao),タバコ(tabaco),てんぷら(tempero),こんぺいとう(confeito)などは,ポルトガル語が転じて日本語になったものです。
しかし何故、豊臣秀吉や徳川家康がキリスト教布教やスペイン・ポルトガルの危険性を知り得たかと言うと、当時日本に勢力を伸ば始めた『イギリス』が警告してきたからです。 イギリスとしては、この期にヨーロッパで勢力が衰えつつ有るスペインとポルトガルを排除して、隙あらば日本を侵略しようとしていたのではないでしょうか。
ちなみに戦国時代に日本に来ていたスペインやポルトガルは、日本人を奴隷売買の商品にして豊臣秀吉の逆鱗を買ったことは周知の事実だし、不正に権益を得た金鉱山から、金を大量に持ち出していたこともポルトガルが日本との貿易から排除された理由だと思います。
1860年にまた日本との通商修好条約が調印され、またお付き合いが始まったわけです。実際にポルトガルに行ってみて、風土がとても日本と似ていると思いました。
海に囲まれて平地が少なく、坂、山が多かったです。またその景色はとても美しかったです。私が行った間は、気候は乾燥して暖かかったです。体力と時間があったらまた行きたい国でした。
記念に16世紀初頭より3百年かけて建設したポルトガル建築の最高峰といわれる世界遺産でもある白亜の大寺院・ジェロニモス修道院の写真を載せて、ワインと景色に恵まれたポルトガルから北スペインへの旅情記を閉じさせて頂きますていただきます。


最後まで旅行記にお付き合い頂きまして有難うございました。

宗像信子。


ポルトガルから北スペインへ-9

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ポルトガルから北スペインへ-9

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 私達の旅行記も次回が最終となります。
私がポルトガルを旅行先に選んだ理由は、ポルトガル人が最初に日本に来て、日本に海外の風を吹かしたことと、私自身がヨーロッパ大陸の西の果てに行ってみたかったからです。
私は九州の西の果ての長崎の島で生まれたので、何かそこに共通するものがあるかと思ったからです。
もう皆さまご存知のことではありますが、日本とポルトガルの歴史に少し触れてみます。
ポルトガル人が日本に初めて到来したのは1543年,ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着したからです。その時、鉄砲(火縄銃)の技術が日本に伝わりました。その6年後ポルトガル国王の命でイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル(スペイン出身)が鹿児島に上陸し,日本にキリスト教を伝えました。1550年からポルトガルは,日本・中国・ポルトガルの間で「南蛮貿易」をスタートさせ,戦国武将の織田信長や豊臣秀吉らもそれを後押して経済基盤を強化していきました。しかし,一方で,西国大名が南蛮貿易で財力を増したり,カトリックに改宗したキリシタン大名が出現したりするようになり,これに危機感を抱いた江戸幕府は,海外貿易を制限し,キリスト教の信仰を禁じるといった鎖国政策に転じました。そして,1639年,江戸幕府はポルトガル船の入港を禁止することになりました。
(注)写真は、リスボンのベレンの塔・Santa Maria de  Belém です。


ポルトガルから北スペインへ-8

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ポルトガルから北スペインへ-8

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

今回の旅行の最後の目的地はシントラ宮殿です。
リスボンから電車で約40分、ロカ岬と同じ方向にあります。
高さ33メートルの2本の煙突が目印の王室の夏の離宮です。
何かの雑誌でシントラ宮殿の美しい写真を見たことがあり、ポルトガルに行ったらぜひ行ってみたいと思っていました。
実はこの旅行のオプショナルツアーにこのシントラ宮殿の見学がありました。
しかしその費用が結構高かったので、娘が自力で行こうと言い出し、電車に乗って行きました。
その電車の旅もなんだかローカルで行き帰りとも座ってのんびりしました。
駅を下りてからは、その宮殿の塔を目指しながら結構坂道を登って役20分ほど歩きたどり着きました。

おとぎ話から抜け出したような「ペナ宮殿」があり、その周辺は様々な緑豊かな庭園で囲まれていて、さすがに世界遺産になったと思いました。
イギリスの詩人バイロンが「エデンの園」と讃え、19世紀のポルトガル建築の傑作と言われています。
また宮殿の中も素晴らしく時間をかけて見学し、その写真を全部アップすることができないのは残念ですが、まるでアラビアンナイトの気分になれました。
お城までの山登りと宮殿の中の見学で喉もかわき、疲れたのでその周辺にあるカフェに入り、娘と二人でポルトガル最後の観光を終え地ビールで乾杯しました。
乾いた喉に冷たい美味しいポルトガルビールがとっても心地よかったです。