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特別展・「きものKIMONO」

宗像 信子
(開運道芸術部顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 特別展・「きものKIMONO」

 国立博物館において2020年6月30日から8月23日まで「特別展きもの」が開催されました。
本来は4月14日から6月7日までに開催される予定でしたが、このコロナ騒動で延期になっていました。
ロンドンナショナルギャラリー展を見学した日の午前中に見に行きました。
つまり先に国立博物館に行って着物展を見学し、博物館内にあるホテルオークラのレストランでランチし、それから国立西洋美術館に行ったという次第です。
疲れましたが、とっても充実した一日でした。
きもの展には重要文化財に指定されている鎌倉時代からの着物が展示されていました。
それは鶴岡八幡宮で保存されている着物ですが約800年も前に織られた着物とは思えない着物でした。
ちゃんと鳳凰の模様が織られているのです。
室町時代、安土桃山時代、江戸時代とたくさんの着物が展示されていますが日本人の美に対する情熱がひしひしと感じられました。
男物としては織田信長所用、羽柴秀吉所用の陣羽織、徳川家康所用の胴服などびっくりするほどきれいに保存されていました。ただ布のすれや糸のほつれはありました。
そして日本人はやはり小さかったんだなとは思いました。
江戸時代になると友禅染が一世風靡、それまでの刺繍、縫い取り、絞りとは違ってますます華やかになってきました。
どんどん町民や大奥などがぜいたくになっていくので奢侈禁止令が発令されたりしました。
そこで羽織の裏や下着にお洒落をしたりと江戸時代の庶民の知恵がみてとれます。
明治時代からだんだんと今の着物の姿に変化していきますが、大正時代にほとんど現在の着物文化が確立したと思います。
今の若者は何でもありの着物姿ですが、あまり形式にはうるさくなくして、たくさんの若い人にも着物を着ていただきたいです。
でも着物は日本の大切な文化です。
ぜひ大事に伝えていきたいと思います。

 


ロンドンナショナルギャラリー展

 

 ロンドンナショナルギャラリー展

宗像 信子
(開運道芸術部顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 今年の猛暑とコロナ自粛の中、7月末に国立西洋美術館で催されているロンドンナショナルギャラリー展を見に行ってきました。
人数制限のためのネット予約からはじまり、入場券代金のネットでの送金と私には手に余ることばかりでしたが、娘の力を借りてようやく見学にいくことができました。
しばらくは海外旅行もままにならないでしょうから、とてもロンドンに見にはいけないのでここは暑かろうが人数制限があろうが、娘の入場券代を負担しようが頑張りました。
でも行った甲斐は十分ありました。
人数制限のせいかとても見やすい入場者数でしたので、ゆっくり名画を楽しむことができました。

レンブラントの「34歳の自画像」、ゴッホの「ひまわり」、セザンヌの「プロヴァンスの丘」
ゴーガンの「「花瓶の花」、モネの「スイレン」、ドガの「バレエの踊り子」、ルノアールの「劇場にて」等々、どれも素晴らしい絵ばかりでした。
ついでに常設展も企画展のチケットで見学できるのでたっぷりと見学しました。
こちらもさすがに国立西洋美術館だけあって素晴らしい絵が展示されていました。
彫刻はロダンの作品がずらりとあり、絵画もクールベ、コロー、セザンヌ、マネ、ルノアールそして
モネは睡蓮だけでなく、他の有名な作品もたくさん展示されていました。
感激した一日でした。


北海道江刺紀行-2

 

宗像 信子
(開運道芸術部顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 北海道江刺紀行-2

幕末最後の軍艦「開陽丸」は、榎本武揚等の艦隊として品川沖を出港し、北海道での蝦夷共和国を夢見ていました。そして新政府軍と旧幕府軍との間で熾烈な戦いになりました。

しかしながら江差沖に停泊中、突然の局地風で座礁し、土方歳三も見守る中、沈没しました。

慶応4年(1868年)の開陽丸の沈没をご説明します。

ウキペディアによると、

10月20日に蝦夷地鷲ノ木沖に到着した開陽丸は、しばらく鷲ノ木沖に停泊。10月25日に旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃った。旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始。その援護のために開陽丸も11月11日に箱館を出港して江差沖へ向かった。11月14日に江差沖に到着、陸地に艦砲射撃を加えるも反撃がないので、斥候を出すと、松前兵は既に撤退していた。榎本は最低限の乗組員を開陽丸に残して上陸し、江差を無血占領した。

ところが翌15日夜、天候が急変する。開陽丸は、タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁。江差沖の海底は岩盤が固く、が引っ掛かりにくいことも災いした。回天丸と神速丸が救助に向かったが、その神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、開陽丸は岩礁に挟まれていよいよ身動きが取れなくなる。留守を預かっていた機関長の中島三郎助は、艦内の大砲を一斉に陸に向けて撃ち、その反動で船を離礁させようと試みたがこれも失敗に終わり、乗組員は全員脱出して江差に上陸。数日後、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消した。

主力戦艦たる開陽丸の喪失により、旧幕府軍は新政府軍に対する海上戦力の優位が一挙に崩れ、その後の戦局(箱館湾海戦)に大きく影響を及ぼすことになる。

とあります。

現在開陽丸は引き上げられ、復元されて開陽丸記念館となっています。

内部は引き揚げた本物の遺物を多数展示してあります。

ぜひお立ち寄りくださいませ。

復元された開陽丸(江差町)

開陽丸 - Wikipedia

 


北海道・江差町紀行ー1

 北海道・江差町紀行ー1

  宗像 信子
(開運道芸術部顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 江差は北海道の南部の日本海に面している町です。
江戸時代には北前船の航路停泊港があり物流で町は繁栄していたようです。
もちろん鰊も大量に獲れたときには小樽と同じように鰊御殿がたくさん建てられていたそうで、今も何軒か歴史遺産として残っています。
 また少し北に上がっていくと「繫次郎の面白い像」、

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「北緯42度岬」、「箱館戦争官軍上陸の地」というモニュメントがあります。
この繫次郎には昔ばなしがあります。

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中村純三が昭和23年(1948)ごろに聞いた昔話
ある晩、繁次郎という男が隣へ遊びに行くと、そこではちょうど汁粉を煮ているところでした。
繁次郎は一杯ご馳走になろうと思って座り込みましたが、いつまでたっても食べさせるとは言ってくれません。
繁次郎はしびれを切らし、大きなあくびをして立ち上がりながら、「あぁ、近ごろはさっぱり面白いこともないし、生きていることも癪にさわる。家に帰って火でも付けてやるか」と言いました。
驚いた隣の人は、「繁次郎、バカなまねはやめろ! お前の家に火を付けるのは構わないが、おれの家まで焼けたらどうする」と言いました。
すると繁次郎は、「おれの家の火事がおまえの家にまで移るわけがない。おまえさんの家で汁粉を煮たところで、おれの家にただの一杯でも持ってきたかよ」
この話は江差町内だけでなく、北海道や東北地方で「繁次郎話し」が伝わっています。
その内容は、繁次郎(しげじろう)という機転の利く男が繰り広げるおどけ話しです。
江差町内でも古くから語り継がれていましたが、昭和23年(1948)の新聞連載から広く知られるようになりました。
ただし、聞き取りを基にした話しは数話で、多くは創作であるともいわれています(阿部敏夫「中村純三版『江差の繁次郎』話生成とその影響」)。

なんて伝わっているようです。
像の前に立ってみると思わず笑ってしまいます。
また「箱館戦争官軍上陸の地」から官軍は榎本武揚率いる幕府軍を攻めるために五稜郭へと向かったのですね。
        <つづく>

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 平和へのへのメッセージ  2

              宗像善樹

 戦争が終わったとき、戦友は長野の実家に帰らず、遺骨を抱いて、埼玉県浦和市の亡くなった戦友の家を訪れた。
そして、そのまま、戦友の奥さんと子供のたかお君の生活を守るために、一緒に暮らした。日々の生活は、長野の実家が経済的な支援した。
おじさんは、亡くなった戦友の気持ちを推し量って、死んだ戦友の子供を「たかお」と呼ばずに、「ぼうや、ぼうや」と呼んだ。そして、自分の身体の状態を世間に見せたくないから、いつも褞袍を着て暮らした」

 この話を聞かされたとき、私の脳裏に、蝉しぐれの騒がしい鳴き声とともに、次のような情景が浮かび上がってきました。
 それは、私が中学2年の夏休みの時でした。
療養していたたかお君のお母さんが亡くなり、しばらくした後、突然、おじさんとたかお君が、我が家に挨拶にきました。
おじさんが、戦友だった『たかお君のお父さんの『遺骨箱』を抱き、たかお君が、『お母さんの遺骨箱』を抱いていました。
おじさんが両親に向かって言いました。
「これから、ぼうやと、そして、ぼうやのお父さんとお母さんのお骨と一緒に、長野の私の実家に帰ります。ご近所の皆さんが、長い間、この子を見守り、面倒をみてくださいました。本当にありがとうございました」
 話を聞きつけた近所の人たちがぼうやの家の前に集まり、涙をぬぐい、揃って四人を見送りました。

 おじさんが去るとき、そっと私に小さな紙袋を渡してくれました。
その日の夜、自分の部屋で袋を開けました。
 中には、HBのトンボ鉛筆二本と手紙が入っていました。手紙に書いてありました。
「よしきちゃん。いつもたかおと遊んでくれて本当にありがとう。たかおの父より」
おじさんの代筆による、たかお君のお父さんからのお礼文でした。
そして次に、おじさんの名前で、次の一文が書いてありました。
「戦争は、二度としてはいけない」

 このように私は、少年期に、日常の市民生活の中で、戦争の生々しい傷跡を見て育ちました。あの日、おじさんが私に書き残した『戦争は、二度としてはいけない』という言葉を胸に刻んで、今日まで生きてきました。
私は、おじさんが残した大切な言葉を、私たちの次の世代にしっかりと伝えていかなければならないと思っています。

 喜寿を迎えた私は、自分の机の上のトンボ鉛筆を見るたびに、あの時、両親や近所の人たちと一緒に、ぼうやとおじさん、そして、たかお君の両親の遺骨を見送った光景がセピアカラーのように目の前に浮かんできます。
 私の両親も、あの頃の近所の大人たちも、とうに、みんな逝きました。 
 小学校でたかお君と同じクラスだった、私の年子の弟も、先年、逝きました。そして、『おしくらまんじゅう』『缶けり』『だるまさんがころんだ』などのあそびを一緒に楽しんだあのときの友達もみな次々に想い出を残して散りました。  合掌


平和へのメッセージ-1

 

    平和へのメッセージ-1
              宗像善樹

 私には、先の大戦がもたらした悲劇について、少年時代の大切な思い出があります。
 私が小学生だった昭和二十五、六年頃の話です。
 私が住んでいた浦和市の家の近くの長屋に「たかお君」という名前の一歳年下の遊び友だちが住んでいました。
たかお君の家族構成は、胸の病気を患って臥しているお母さんと、たかお君が「おじさん」と呼んでいた四十歳くらいの男の人と、「たかお君」の三人でした。
男の人は、たかお君のことを「ぼうや、ぼうや」と呼んでいました。
 私は『不思議な家族だな』と内心思いながら、いつしか、たかお君を『ぼうや、ぼうや』と呼んで、一緒に遊ぶようになりました。他の遊び仲間も、私に習って、『ぼうや、ぼうや』と呼ぶようになりました。
ただ、私の両親を含め近所に住む大人たちは、常に『たかおちゃん、たかおちゃん』と呼んでいました。
 「おじさん」には左の腕がありませんでした。
そして、いつも足元が見えないくらい裾の長い褞袍(どてら)を着ていました。めったに家の外に出ず、部屋の奥に座って、長屋の前で遊ぶ私たちを眺めていました。まったく、働きにも行きません。
私は子供心に、『どうやってご飯を食べているのだろう』と思いました。
 そういう私の疑問とは関係なく、たかお君は明るく、素直な子供でした。回りの大人たちも、たかお君を大切に見守っていました。
 私を含め子供たちは、それぞれの母親から、
「たかおちゃんが家に帰るまでは、一緒に遊んであげなさい」
「たかおちゃんと一緒にいてあげなさい」
と言いつけられました。
私は、事情が分からないまま、親の言いつけ通りにしました。辺りが暗くなってから家に帰っても、親の小言はありませんでした。謎めいた親の態度でした。

私が大学生になってから、母親が謎を明かしてくれました。私がこの話を聞いた時には、たかお君は長屋から引っ越して、すでに浦和からいなくなっていました。
「たかおちゃんの本当のお父さんは、昭和二十年に、福岡県にあった太刀洗飛行場でアメリカ軍の空襲に遭って亡くなった。
おじさんという人は、亡くなったお父さんの親しい戦友で、空襲で左腕を失い、爆弾の破片で身体中に傷を負った。
たかおちゃんのお父さんが息を引き取るとき、戦友に『身寄りのない妻と子供が心残りだ』と訴えた。
戦友は『安心しろ。後は、俺にまかせろ』と答えた。その戦友は、たかお君のお父さんの一族が、東京大空襲で全員焼死したことを知っていた。
その戦友の実家は長野県にあり、戦友は裕福な農家の次男坊だった。

 


浜離宮恩賜庭園ー3


宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

浜離宮恩賜庭園ー3

今回の写真は汐留にあるコンラッドホテルの28階に上り撮影した浜離宮公園の眺望です。
このホテルは東京湾や浜離宮を一望できるということを特色にしています。
本当に28階に上がってみると前面に東京湾と浜離宮が見え、その眺望を楽しみながらお食事やお茶ができるようになっています。
この季節はほとんど緑の森と池の水色ですが、梅、桜、菜の花のときはとてもカラフルになります。
なんでこんなに浜離宮にこだわるかというと、村長のお言葉にあるように私は代々この浜離宮の浜奉行を勤めた木村家の末裔になるからです。
幕末の歴史に登場した木村摂津守喜毅の玄孫(孫の孫)になるからです。
木村喜毅は1830年にこの浜離宮で生まれました。
12第将軍家慶にその父喜彦共々可愛がられ、まだ満12歳の時に17歳ということにして江戸城に浜奉行見習いとして初出仕したそうです。
その後も昌平黌の先輩の岩瀬忠震らに可愛がられ引き立てられたことによって出世していきました。
歴史に登場する最初は長崎海軍伝習所の2代目伝習所所長になったことです。
この時に伝習生に勝海舟や榎本武揚がいました。
またオランダに幕府が依頼していた軍艦咸臨丸が長崎に到着しました。
その後長崎海軍伝習所は築地に移転しました。
この海軍伝習所がまた浜離宮に移転するというご縁に感動します。
そしてその後、平成になって私が築地の花見サロンに出入りさせていただいているご縁にもご先祖さまはびっくりしていらっしゃるのではないでしょうか?
木村喜毅が歴史的に有名なのは1860年にあの咸臨丸でサンフランシスコに提督として航海したことです。
この時の乗員には艦長の勝海舟、従者としての福沢諭吉がいました。
またあまり知られてはいませんが、江戸城を新政府に明け渡す時の最後の勘定奉行で、幕府の財産を清算して新政府に引き継ぐという大仕事をし終えました。
その数日後まだ39歳でしたが、引退をして政治の舞台から去りました。
その後は明治政府から何度も出仕を請われましたが、一切固辞して一介の市井人になりました。
そして生涯幕臣として生き続けました。ただ福沢諭吉先生とは生涯の友でした。
二人とも仲良く1901年に残念ながら亡くなりました。
ではこれで浜離宮についての物語は終わらせていただきます。
3回もお付き合いしていただきありがとうございました。


 浜離宮恩賜庭園ー2

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 お浜御殿という徳川将軍家の別邸は12代将軍家慶の時代までは将軍家の鷹狩りの場でもあり、華やかな歴史で彩られていました。
ただ別荘といっても、宿泊施設はありませんでした。
その当時の将軍さまは、どこを訪れるのも日帰りが基本だったそうです。
ですから今でいう別荘とは違っていました。
広い敷地だったので、浜奉行は薬草を栽培し、大きな薬草園があり、海に面していたので製塩もしていたそうです。
そこから収穫される薬草や塩を将軍さまに献上し、また勘定方に納め、その残りは売却して収入を得ていました。ですからこの浜御殿には町人もかなりに出入りしていました。
そういう意味では普通の武士の仕事だけではなく商売にも通じていたようです。
このような優雅なお浜御殿がペリー来航からだんだん軍事的な場所へと変化していきました。
14代将軍家茂が京都でなくなられて、そのご遺体が大阪から幕府軍艦で浜離宮に運ばれてきました。
また15代将軍慶喜は京都から開陽丸で逃げ帰ってしまったときに、やはり浜御殿に到着しました。

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築地にあった海軍練習所をこのお浜御殿に移転してからは、もう優雅なお庭ではなく軍事基地的な意味合いをもった場所になってしまいました。

(注1)写真は汐入の池の端にある松の御茶屋ですが、現在は利用することはできません。
(注2)宗像信子さんは、お浜奉行・木村家のご子孫です(村長)。


浜離宮恩賜庭園

 

浜離宮恩賜庭園 

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)


築地からほど近い江戸湾よりに浜離宮という庭園があります。
新橋・汐留から新大橋通りを築地の花見サロンに向かって歩いて行くと、右手に緑のこんもりした木立ちがある公園が見られます。
それが浜離宮恩賜庭園です。
近代的なビルもそばにたくさんありますが、この庭園は昔からの歴史的な所です。
この庭園の歴史についてご説明いたします。
徳川家四代将軍家綱が弟の甲府宰相綱重に与えた15000坪の海水面埋め立て許可に始まりました。
そして綱重の子綱豊が跡継ぎのいない家綱の跡を継いで六代将軍家宣になりました。
それに伴いこの浜庭は18世紀初頭に将軍家の所有になり、浜御殿として誕生しました。
それからは将軍様の気晴らしになるようなお庭として管理されてきました。
将軍家斉が一番利用したそうです。
池での釣り、鷹狩り、お花見と御台所、大奥のお女中などもお庭に行くときは随行したそうです。
またお武家さまたちも浜庭に招待されるということはすごい名誉だったそうです。
その浜庭を管理したのが浜御殿奉行木村家でした。
庭内に役宅を持ち、生活をしながら管理したようです。
今はその役宅は存在しないのが残念です。
この木村家はそもそも甲府宰相の家来で家宣が将軍になったころから浜御殿奉行となりました。
そして家禄も20表から100表に加増されますが、異例の出世だったようです。
この後、幕末までの歴史については次回お話いたします。

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(注)宗像信子さんは上記の木村家ご子孫です(村長)。


山手線の近況報告   宗像信子

 

山手線の近況報告

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

今年になって山手線で二つの大きなことがありました。
1つ目は3月14日に「高輪ゲートウェイ」駅が西日暮里以来の新駅ができて、山手線と京浜東北線の2線だけですが停車します。
早速品川に行った帰りに途中下車をしてみました。
駅の中は写真のように現代的でとてもスッキリしていますが、大きな空間に圧倒されるようでした。お店もあり使い勝手はいい駅かもしれません。
駅の外には出なかったので、駅舎自体は見ませんでしたが、報道によると結構和風のようですね。
今度は改札から出てゆっくり見学しようと思っております。

次に原宿駅です。
レトロな駅舎でとても好きな駅でした。
この7月に、今までの駅舎に並んで近代的駅ビルが出来上がっていました。
今までのレトロ駅舎は壊してしまうのでしょうね。
何だか寂しいです。
原宿の駅付近も大きな歩道橋が撤去され、歩行者にはとてもやさしい交差点になりました。
また原宿駅前にはGAPの大きな店舗がありましたが、閉店して何のお店になるのかと思っていたら、化粧品のお店がたくさん入っていました。
多分海外からの旅行者向けに変えたのだと思いますが、このコロナ騒ぎでお客様は少ないみたいでした。

今は仕事で都内を歩いてみても人通りはやはり少ないし、自分でも余計なことはしないで目的だけを済ませて帰宅するようにしている今日この頃です。