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高田藩「忠干碑」-2

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

慰霊碑を読む〝碑のメッセージ

高田藩「忠干碑」-2

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、開運道顧問)

忠干碑

前回は原文を載せましたが今回は訳文を載せます。
ルビがつけられないので工夫したつもりですがどうでしょうか。
なお、碑陰には戦死者十六名の指名が列刻されています。

死節諸士碑  従二位子爵榎本武揚篆額

磐城国西白河郡釜子邨(むら)ハ、世(よよ)越後高田藩主榊原氏ノ支邑(しゆう)タリ。士卒五十余戸ヲ遣ワシテ戍(まも)ル。
【ここ釜子村は、代々越後高田藩の分領の村で、陣屋には本藩から五十余戸の藩士と家族が派遣されてきていた】
明治戊辰ノ乱ニ奥羽同盟シ、四隣騒擾(しりんそうじょう)、道路梗塞シテ、本藩ノ声息絶ユ。
【戊辰には、奥羽諸藩が反政府軍事同盟をむすんで内乱となり、高田との交通も妨げられ、本藩の動向の情報も絶たれた】
既ニシテ、西軍来討シテ、勢甚ダ急ナリ。諸士胥(あい)議シテ曰ク、「吾藩徳川氏ノ恩ニ浴スルコト久シ。義ハ其ノ盛衰ヲ倶(とも)ニセザル可カラズ」ト。
【西軍は早くも白河に侵攻。切迫した事態の中で、陣屋兵は東西両軍のいずれにつくかを決めなければならない。陣屋では合議した結果、「徳川家のご恩に報いるために幕府と運命を共にする」と決断した】
即チ 相率ヒテ東軍ニ興シ、各地ニ奮戦ス。百折屈セズ。死者十六人。以テ其ノ忠勇義烈ヲ見ル可シ。
【以後、同盟軍とともに各地を転戦。相次ぐ敗戦にもくじけない、勇敢な義士だった】
今茲(ここ)ニ庚寅(こういん)二十三回忌ノ辰(トキ)ニ値リ、故旧胥謀(しょぼう)シテ、其ノ邑(むら)ノ長伝寺ニ碑ヲ建テ、其ノ忠節ヲ表サント欲シ、来リテ余ニ文ヲ請フ。
【今年、明治二十三年(1890)庚寅二十三回忌にあたり、旧(ふる)い仲間らが相談して、戦没兵士の忠節をたたえる碑を、長伝寺に建てることになり、私(山川浩)が撰文を請われた】
嗚呼、余モ亦当時、東軍の敗将為リ。出テハ万死ニ一生ヲ得テ今ニ至ル。
敢テ為ス所有ル無ク、諸士ニ愧ズルコト多シ。
【私も敗残の将でありながら、なすところなく今なお生き延びているのを、英霊に恥じる】
乃チ今昔ヲ俯仰シテ其ノ概略ヲ叙ベ、之ニ係リテ銘シテ曰ク。
「生キテ主恩ニ報ヒ 死シテ馬革ニ裏ム。厥ノ節何ゾ烈シク 厥ノ心何ゾ赤キヤ」千歳摩セズ、深ク貞石ニ刻ム。
【今昔を想い、主君の恩義に報い戦死した勇士の壮烈な赤き心を、この石に刻み、永久に伝える】

明治二十三年歳庚寅十一月上澣ニ在リ

会津 山川浩 撰
高田 中根聞 書


高田藩「忠干碑」-1


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

 慰霊碑を読む〝碑のメッセージ

  高田藩「忠干碑」-1

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、開運道顧問)

白河方面には、越後高田藩の飛び地(分領)三万三千石があり、常陸街道の釜子宿に陣屋が置かれていました。陣屋兵は少人数ながら、鳥羽伏見の戦いに出兵し、彰義隊にも加わっています。
はるかな越後の本藩の動向を把握できずに、奥羽越列藩同盟に加わり、東西両軍が白河で開戦すると、陣屋兵も出兵。
六月二十四日、棚倉城が陥ると、翌日陣屋も襲われて焼かれ、以降白河・母成峠・若松城下で戦いました。

「忠干碑」は、陣屋が置かれていた白河市東釜子の長伝寺に建つ慰霊碑です。
篆額の題字は榎本武揚。旧幕府海軍奉行。旧幕府軍を率いて函館で政府軍に抵抗し、維新後は海軍卿・外務大臣等を歴任しました。
碑文の書は、旧高田藩士・中根聞。号は半嶺。隷書に優れた当代一流の書家で、この碑文の書体も隷書です。
碑の文章は山川浩。日光口の会津軍を指揮し、籠城戦では防衛総司令官。維新後は陸軍少将や東京高等師範学校長を歴任します。晩年は白河桜山の、私淑する松平定信の別荘跡の荒廃を嘆き、この地を購入して住み、元会津藩主松平容保をはじめ多くの人が訪れました。「ここにきて 我も庵をむすぶかな 花の匂いをしたふ余りに」
忠干碑

死節諸士碑  従二位子爵榎本武揚篆額
磐城国西白河郡釜子邨 世為越後高田藩主榊原氏之支邑 遣士卒五十余戸戍焉 明治戊辰之乱 奥羽同盟 四隣騒擾 道路梗塞 絶本藩之声息 既而西軍来討 勢甚急 諸士胥議曰 吾藩浴徳川氏之恩久矣 義不可不倶其盛衰也 即相率興東軍奮戦各地 百折不屈 死者十六人 可以見其忠勇義烈矣 今茲庚寅値二十三回忌辰 故旧胥謀欲建碑其邑長伝寺 以表其忠節 来請余文 嗚呼余亦為当時東軍敗将 出万死得一生以至今 肯無有所為 愧於諸士多矣 乃俯仰今昔 叙其概略 係之銘曰
生報主恩 死裏馬革 厥節何烈 厥心何赤 千歳不摩 深刻貞石

明治二十三年歳在庚寅十一月上澣

会津 山川浩 撰
高田 中根聞 書

今回は原文を載せましたが次回は訳文を載せます。


古河文学館で童謡とシャンソンを聞きました。


このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

古河文学館で童謡とシャンソンを聞きました。

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
ミニ旅行の最後は、古河文学館のレストラン唐草でイタリアン料理を頂き、その後文学館の中のホールで「コドモノクニ」に載った童謡とシャンソンを聞く会に参加しました。


この古河文学館は古河歴史博物館と隣接しており、古河城諏訪郭跡の閑静な佇まいの中に平成10年10月、茨城県内初の文学館として開館しました。
この建物は「茨城県建築文化賞最優秀賞」」全建いばらき賞」等を受賞しています。瀟洒での大正ロマン雰囲気が漂い、ゆったりとした雰囲気の中で展示物を見学できます。
展示室は3つにわかれて、「古河ゆかりの文学者たち」「鷹見久太郎と絵雑誌『コドモノクニ』」、「歴史小説家 永井道子」の貴重な資料を展示してあります。

サロンでは幻の名器と言われているEGMマークの手作りの蓄音器によるSPレコードの演奏などが、美しい木組みの空間でくつろぎながら聴くことができます。

2階に私たちがディナーをした「レストラン唐草」があり、おいしいイタリアンを頂くことができます。
イタリアンのコースとワインを頂いた後、1階のホールでいよいよコンサートが始まりました。
まず「コドモノクニ」に発表された童謡、アメフリ、兎のダンス、鞠と殿様、あの町この町、雨降りお月さん
、他を楽しく懐かしく小さい声で歌いながら聴きました。
次は出演の方々がガラリと衣装を変えて、さっきの童謡の世界とは打って変わって大人の雰囲気になりました。
恋ごころ、サントワ・マミー、愛の賛歌、等々3人の歌手とピアノの演奏により、どっぷりとシャンソンの世界につかりました。
素敵な歌の余韻にひたりながら、夜の古河の町を後にして、今日の1日古河ミニツアーはおわりました。
古河駅で安司さんは北の白河へ、私は南の浦和へと別れました。
またこのような企画ができたらご報告いたします。


古河歴史博物館を訪ねて。

このコーナーは宗像信子講師(左)、安司弘子講師(右)の担当です。

古河歴史博物館を訪ねて。

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 前回ご紹介しました茨城県古河市の観光案内の第二弾です。
ここで紹介するのは城下町・古河市内にある「古河歴史博物館です。
この博物館は日本建築学会賞、作品賞「古河歴史博物館とその修景」1992年、公共建築賞「古河歴史博物館」1996年に授賞している景色も素敵な博物館です。
展示室1は「鷹見泉石と洋学」、展示室2は「古河の歴史」、展示室3は「古河の文人たち」と分類されています。
鷹見泉石は古河藩の家老で洋学に関心が高く、彼の集めた資料は国の重要文化財に指定され、定期的に展示替えをして公開されています。
「古河」という地名は『万葉集』の歌に詠まれているほど歴史をもっています。
江戸時代には徳川幕府の城下町として、そして日光道中の宿駅として発展します。また藩主の泉石が仕えた土井利厚・利位は大阪城代、京都所司代、老中を務めるなど幕府政治の中枢にいました。家老の泉石はその藩主とともに活躍し、たくさんの資料を集めたそうです。今日、洋学史研究会の片桐一男先生の講演でたまたま泉石の資料がレジュメで出されました。
出島における貿易の荷物の一覧表です。これはこの古河の歴史博物館にしかない貴重な資料だそうです。こういう資料を集められたのは泉石の力だそうです。
この事からお分かりのようにこの古河の歴史博物館には一級の資料が保存されているのです。
先日行った時には残念ながらこの資料は展示されていませんでした。
次に隣接している文学館に行きました。古河ゆかりの作家とその作品を中心にやはり貴重な資料が展示されていました。
なんといっても筆頭は歴史作家の永井路子です。
近くに彼女が高校生まで過ごした家も公開されていました。
また道を挟んで向かい側に茅葺き屋根の泉石が晩年過ごした家が鷹見泉石記念館として公開されています。
ここも竹林と珍木楓樹や、古河城にあったとされる石灯籠があり、約160年前の雰囲気があって、なかなかな家でした。
(写真左から、安司さん、鷹見さん、私・宗像、松本さん・鷹見家旧宅前にて)
このように歴史博物館、文学館、泉石記念館と固まってあり、お堀もあったりと歴史を感じさせる一角でした。
ぜひ古河は東京からも1時間ちょっとでいかれます。
静かな歴史と文学が漂う町を訪ねて下さいませ。


鷹見久太郎「コドモノクニ」展

 


コーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

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鷹見久太郎「コドモノクニ」展

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
・・・・・・・・・・・・(協力・安司弘子)

先週、このコーナーを担当している二人、安司弘子さんと私・宗像信子は共通の知人と3人で古河に行きました。
古河藩家老鷹見泉石のご子孫でいらっしゃる鷹見本雄様からシャンソンのコンサート付き古河見学に誘われたからです。
私は既に2回ほど古河に行っておりますが、安司さんは初めてということで、早めに行っていろいろ見学いたしました。
まず古河駅に直結している駅ビルで「鷹見久太郎と絵雑誌コドモノクニ乗物絵展」を観ました。
この鷹見久太郎氏は泉石の孫で、本雄氏の父親です。
「コドモノクニ」は久太郎氏によって大正11年に創刊されました。
「子どもたちにホンモノの芸術をに触れてもらいたい」という編集方針に貫かれた日本出版史に燦然と輝く名雑誌です。
野口雨情、北原白秋、西條八十、中山晋平等や画家の東山魁夷、安井小弥太などが紙面を飾っていました。
その中の乗り物を描いてある秀作の絵が60点大きなパネルに展示されていました。蒸気機関車の勇姿、地下鉄銀座線、中央線高架、秋葉原駅付近の俯瞰図、銀座を走る自動車、搬出の汽船、飛行機、ケーブルカー等々の名作がデジタル複製画で展示されています。(4月5日まで入場無料)
見ていると楽しくなります。
前述のように、鷹見久太郎氏の曽祖父は、古河藩の家老として藩主以上に知名度が高い鷹見泉石(たかみ・せんせき)です。
幕末期の激動の時代にあって、国際情勢の変化に対応しながら家老の要職を全うした類まれな国際感覚を持った人物でした。
その孫の久太郎は、幼い頃から祖父が集めた、オランダをはじめ欧米各国のさまざまな文物を目にして育ちました。
久太郎が編集責任者となって大正11年に創刊した絵本「コドモノクニ」は、従来の児童雑誌に比べて大判の厚紙を使用した上に、5色ほどの色刷りの絵が見開きいっぱいの画面になっている画期的なもので、それに賛同した多くの著名な作家や画家、音楽家らの参加を得て、児童雑誌を超えた芸術性の高い絵雑誌となり大評判となりました。
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その後、久太郎氏は編集者として活躍しながら、自らの出版社「東京社」を設立し、「婦人画報」「少女画報」「皇族画報」などで大成功、そこで得た資金を投入して創刊したのが冒頭で述べた絵雑誌「コドモノクニ」です。
わたしたち一行は、この鷹見久太郎の故郷にいて、これからその息子さんである鷹見本雄さんにお会いするのです。
これから古河のメインの古河歴史博物館に参ります。


碑を読む 〝碑のメッセージ〟 銷魂碑 2


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

碑を読む 〝碑のメッセージ〟 銷魂碑

        安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

前の回では、会津藩墓所の碑文を原文のまま掲載しました。ですので、今回はその漢文を書き下しました。正面上部の題字「銷魂碑」は松平容保の篆書です。両側面には戦死者おおよそ三百人の名前が刻まれおり、撰文は南摩綱紀です。

原文の銘はすべて漢字(漢文)ですので、今回は句読点のほか、カナを多くするなど試みました。何度も書き直したのですが、勉強中ですので間違いがあればご教示ください。

 

 

明治元年正月。我ガ旧藩主松平容保公、徳川内大臣ニ従ヒテ大阪城ニ在リ。内大臣マサニ朝ニ入ラントシ、我ガ藩士ヲシテ先駆セシム。

事齟齬ニ出デ、伏見ノ戦有リ。公、内大臣ニ従ヒテ江戸ニ帰リ、列藩ニ托シテ謝表ヲタテマツリ、命ヲ会津ニテ待ツ。

奥羽諸藩モマタ連署シテ朝廷ニ請フ。報ハレズ。大兵来タリ伐ツ。

ココニ於テ諸藩憤リテ曰ク、「コレ姦臣壅蔽ノ致ス所。ケダシ聖旨ニ出ズルニ非ザルヤ。兵ヲ挙ゲコレヲ拒マン」ト。

白河城ハ奥羽ノ咽喉ニ当タリ、必ズ争ノ地トナル。我ガ兵先ズコレニ拠ル。

閏四月二十五日。薩摩・長門・忍・大垣ノ兵来リ攻メ、相戦ウコト半日。我ガ兵大勝ス。四藩ノ兵退イテ芦野ニ保ツ。

五月朔、マタ、白坂・原方・畑諸道及ビ山林間道ヨリ来攻シ、前敗ヲ雪ガント欲ス。ソノ鋒甚ダ鋭シ。

我ガ将西郷頼母・横山主税各兵数百ヲ率ヒ、仙台・棚倉兵ト共ニコレニ当タル。

卯ヨリ午ニ至リ奮戦数十百合。火飛ビ電撃チ、山崩レ地裂ク。我ガ兵、弾尽キ刀折レ、三百余人コレニ死ス。

仙台・棚倉兵モマタ多ク死傷シ、城遂ニ陥ル。棚倉・平・二本松ノ諸城モマタ相継イデ守リヲ失ウ。コレヨリ東兵フルワズ。

後チ数月、上杉氏、使ヒヲ遣ハシ告ゲテ曰ク、「東征兵ハ聖旨ニ出デ且ツソノ請フ所ヲユルサン」ト。ココニ於イテ「ホコ」ヲ投ジ、出テ降ル。

朝廷スナハチ、一視同仁ノ詔ヲ下シ、藩ハ再造ノ恩ヲ荷ナイ、臣ハ骨肉ノ賜ヲ蒙ル。

ソノ鋒鏑ニ死スル者ハ冤ナルモ、冤鬼泣雨、遊魂迷煙シテ、独リ沛然ノ余沢ニ浴スルヲ得ズ。アア何ゾソノ不幸ナルヤ。然リト雖モ一死モテ主ニ報ジ、臣節ココニ尽シテ名声朽チズ。コレニ比ベ生キテ聞ナキハ、ソノ幸不幸果タシテ如何ゾヤ。

地ニフルク碑アリ。「戦死墓」ノ三字ヲ止刻ス。ソノ何人タルカヲ知ルベカラズ。コノゴロ有志ノ士アイ議シ、醵金シテ更ニソノウシロニ豊碑ヲ建テ、綱紀ヲシテコレニ銘セシム。

アア、綱紀コノ諸士トカツテ同ジク生キ、同ジク死スル能ワズ。今又朝官ノアトニ列シ、アニ能ク心ニ愧ジルコト無カランヤ。スレバ何ゾコレニ銘スルニ忍バン。然リト雖モ銘スレバ則チ顕ハレ、銘セザレバ則チ晦シ。思フニコレニ銘スレバ、或ヒハ死者ニ酬ヒルニ足ランカ。スナワチ涙ヲ揮ヒテコレニ銘シテ曰フ。

危ヲ見テ命ヲ致シ、臣節ヲ全ウス。イヤシクモ主ニ忠ナラザレバ、何ゾ天子ニ忠ナラン。マサニ向フトコロ異ナルト雖モ烈士ト謂フベシ。

千載ノ下、頑奮懦起セシム。

 

明治十七年五月

東京大学教授 正七位 南摩綱紀撰

正四位 松平容保 篆額

成瀬温書

 


ウイーン・「ルーベンス展」

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ウイーン・「ルーベンス展」

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

ウィーンで一押しの美術館と言えば「美術史博物館」Kunsthistorisches  Museum です。
私たちが行った時は企画展で「ルーベンス展」をしていました。
教科書や美術書で見るような作品がゆったりと展示されていました。
常設展もとても充実していてブリューゲル、フェルメール、ラファエロ等が目白押しに展示されていました。また絵画だけではなく、古代ギリシャ、ローマ、エジプトの彫像や歴代の皇帝が収集した華麗で精巧な工芸美術品や珍品も展示されています。
いっぱい見すぎてどの絵が何だったか覚えられないくらいです。
またこの美術史博物館はウィーンの中心部にあり、王宮Hofburgが立ち並ぶ一角にあります。
そばには「自然史博物館」があります。
ここにも行ったのですが、入場の行列ができていて、パスしました。
展示物はマリア・テレジアの夫フランツ1世の大コレクションが基礎となっていて、自然科学全般にわたる膨大で貴重な物が展示されているそうです。
自然科学にご興味のある方はぜひ足を運ばれてはいかがでしょうか?
また女性に人気の「エリザベート」のシシィ美術館もあります。
このエリザベートについてはまた別の機会に書きたいと思います。
こにようにウィーンはパプスブルク家によって繁栄し、政治だけではなく芸術の花が開いた都市だと言うことがよくわかりました。
どこを見ても素敵な建物ばかりで、目印にしても似たような建物ばかりなので何度道に迷ったかわかりませんでした。


「ウィーンオペラ座」


このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ヨーロッパ三大オペラ座の一つ「ウィーンオペラ座」

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
 パリ、ミラノと並ぶヨーロッパ三大オペラ劇場の一つがこのウィーン国立オペラ座(Wiener Staatsoper)です。
1869年にモーツアルトの「ドン・ジョバンニ」でこけら落としが行われています。
第二次世界大戦で爆撃を受けましたが、1955年にカール・ベーム指揮のベートーヴェン作曲「フィデリオ」で再開しました。
音楽監督としてはマーラー、カラヤンなどそうそうたる巨匠が名を連ね、2002年から2010年までは小澤征爾が音楽監督を務めました。ちなみに小澤征爾は世界的に有名な指揮者ですが、2002年に日本人初の指揮者としてウィーン・フィルのニューイヤーコンサートを指揮しています。今朝(3月9日)の新聞に小澤征爾が大動脈弁狭窄症で入院したとの記事が出ていました。この原稿を書いていたところなのでびっくりでした。早く良くなられるといいですね。

このオペラ座は建物内部の写真を見てくださるとお分かりのように、華麗で荘厳な会場です。
私が鑑賞したのはプッチーニ作曲の「トスカ」で、古今オペラの代名詞的な存在のオペラです。
ウィーンのガイドブックを見ていたら、ウィーンに滞在している1月8日の夜にオペラ座で上演していることがわかりました。
早速インターネットで予約をしたところ席も確保でき、喜びさんで勇んでウィーンに行きました。
私たちの席は2階席の前から2列目で舞台に真正面でした。
両脇に歌舞伎でいう桟敷席が写真のように並んでいました。

休憩中に見学をしましたが、それぞれのコンパートメントにはドレスアップしたお客様が数人ずついらっしゃいました。
普段の生活とはかけ離れた夢のような光景でした。
日本ではオペラに行ってもこのような席はありませんものね。
またヨーロッパでオペラ鑑賞ができることを祈りながら、何度もカーテンコールに拍手をしました。


ウイーン少年合唱団ー2

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師が担当します。

ウイーン少年合唱団ー2

宗像 信子
ウィーン旅行の1回目にウィーン少年合唱団のことを書きました。
あの時は興奮さめやらずで何の説明も無しの報告でした。
今回は気持ちを落ち着けてウィーン少年合唱団と王宮礼拝堂をご紹介したいと思います。もちろん有名な合唱団なので皆さまご存じかと思います。
ウィーン少年合唱団(Wiener Sangerknaben )は、1498年に皇帝マクシミリアン1世により、王宮礼拝少年聖歌隊として創立されました。団員から音楽家になった人も多く、ハイドンやシューベルトも団員だったそうです。
ハプスブルグ帝国の崩壊とともに1918年にいったん解散したが、1924年に復活し現在に至っています。
入団を希望する少年たちは厳しい審査の結果、6歳から14歳までの声変わりまで在団できます。
約100 名のメンバーがアウガルテン宮殿を校舎兼寄宿舎として活動しています。おそらく世界で最も有名な少年合唱団であり、歌う親善大使として日本はもちろん世界で公演していることは皆さまご存じのことと思います。
ウィーンでは9月中旬から6月中旬の日曜日に王宮礼拝堂のミサで唄っています。
この王宮礼拝堂はハプスブルグ家が13世紀後半から1918年まで約600年以上にわたって住居としてきた王宮Hofburgの一角にスイス宮Schwaeizerhofがあり、その中庭にあります。
このスイス宮は13世紀末に建てられ、王宮最古の部分に属します。
マリア・テレジアの命で王宮の警護にあたったスイス傭兵が宿営していたことからその名前がついたそうです。この門をくぐると中庭に面して王宮礼拝堂Burgkapelle’があります。
この礼拝堂は日曜日や宗教的祝日のミサには、ウィーン少年合唱団、ウィーン・フィルの選抜メンバー、ウィーン国立オペラ座合唱団、名オルガニストからなる王宮礼拝堂楽団Hofmusikkapelleによる、格式高い教会音楽が演奏されています。
今回の写真はその中庭にミサを終えた少年たちが迎えにきた家族と会っているところです。普段は寄宿生活ですが時々休暇があり、自宅に帰るようです。
その表情を見ていると、やっぱり子どもでママと会えて、とても嬉しそうないい表情をしています。
かわいいですね。


慰霊碑を読む〝碑のメッセージ(3) 安司弘子


このコーナーは安司弘子講師(左)
と宗像信子講師(右)の担当です。

 

慰霊碑を読む〝碑のメッセージ(3)

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長、NPO法人白河歴史のまちづくりフォーラム理事)

銷魂碑

市内松並。激戦地稲荷山裾の会津藩墓所。
西軍の遺体は戦時中から長寿院などに埋葬されましたが、敗退した東軍の屍は遺棄されました。
「戦死墓」は戦後すぐに地域住民が建てた墓碑ですが、記録に〈官軍は人夫に集めさせ稲荷山から七番町へと超える坂の上へ六尺(百九十センチ)四方くらいの穴を三個と、現在戦死墓のある所へ穴二個を掘り、一穴へ百人内外を埋めさせ(略)土を盛って墓塚を作った。現在の墓石を建設するときに、坂の上の穴から骨を移して埋葬した〉とあります。
現在の墓石とは「銷魂碑」のこと。

今回は先ず碑文を原文のまま記してみようと思います。
私は漢文は全くダメなのですが、それでも、眺めていると、辞書を引きたくなるような興味深い文字や、馴染みの地名や人物、それなりに読み下すことが出来る箇所・・・等々に出会い、なかなか面白いのです。さらに目を凝らしていると読めなくとも何となく意味が通じるから不思議。
『漢文語彙辞典』も面白いです!

銷魂碑

明治元年正月我旧藩主松平容保公従徳川内大臣在大阪城 内大臣将入朝使我藩士先駆事出齟齬有伏見之戦 公従内大臣帰江戸托列藩上謝表而待命於会津 奥羽諸藩亦連署為請於朝廷 不報大兵来伐 於是諸藩憤日是姦臣壅蔽之所致盖非出聖旨也 挙兵拒之
白河城当奥羽之咽喉為主客必争之地 我兵先拠之 閏四月二十五日薩摩長門忍大垣之兵来攻相戦半日 我兵大勝四藩之兵退保芦野 五月朔復自白坂原方畑諸道及山林間道来攻欲以雪前敗其鋒甚鋭 我将西郷頼母横山主税各率兵数百与仙台棚倉兵共当之 自卯至午奮戦数十百合火飛電撃山崩地裂 而我兵弾尽刀折三百余人死之 仙台棚倉兵亦多死傷城遂陥 棚倉平二本松諸城亦相継失守自是東兵不振 後数月上杉氏遣使告曰東征兵出聖旨且聴其所請 於是投戈出降 朝廷乃下一視同仁之詔藩荷再造之恩臣蒙肉骨之賜 而其死鋒鏑者冤鬼泣雨遊魂迷煙独不得浴沛然之余沢 吁嗟何其不幸也 雖然一死報主臣節茲尽名声不朽 比之生而無聞其幸不幸果如何哉
地旧有碑止刻戦死墓三字不可知其為何人 項有志之士胥議醵金更建豊碑其後使綱紀之銘 吁嗟綱紀与此諸士嘗同生而不能同死 今又列朝官之後豈能無愧於心焉者何忍銘之 雖然銘則顕不銘則晦 銘之或足以酬死者乃揮涙銘之曰
見危致命臣節全矣 苟不忠主何忠天子 方向雖異可謂烈士 千載之下頑奮懦起

明治十七年五月
東京大学教授 正七位 南摩綱紀撰
正四位 松平容保 篆額
成瀬温書