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積丹、海の幸・同窓会ー2

ここは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

 

積丹での海の幸・同窓会-2

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)


前回に書いた八剣山ワインというのは、札幌の郊外でドイツ式に有機ブドウで栽培して作ったブドウでできたワインです。幹事の一人がこのワイナリーを支援していて、2016年10月にこの(株)八剣山さっぽろ地ワイン研究所(八剣山ワイナリー)でクラス会をしたことがあります。
札幌から車で約30分南に行った所にブドウ園がありパーティルームがあります。
そこで10月でしたから、ここのヌーボーワインとドイツワインでクラス会をしました。
まだ会社を立ち上げて何年もたっていないみたいで、ワインもまだ若かったですが、
そのワイナリーで、そこの地ワインを楽しむのもワインの味とは別な要素にあふれて一興でした。
またそのワインが今度は少しおいしくなって登場しました。
皆でその時の思い出にも花を咲かせました。

さて翌日の朝食は、前の晩に各自申告したウニ丼かウニとイクラ半々丼と普通の旅館の朝ご飯プラスいか刺でした。
そのウニ丼たるやごはんよりウニの方が多いくらいのウニに埋め尽くされていました。
もう一生分のウニを食べたと実感したくらいです。
さすがにミシュラン一つ星のホテルでした。
ぜひ皆様も積丹でウニを召し上がりたくなったら、このホテルはお勧めです。
昨日の予報通り雨でしたので、まず近くにある鰊御殿を見学することにしました。
正式名称「鰊伝習館ヤマシメ(山〆)番屋」といい明治末期頃に建造された建物とお蔵があり、鰊漁が最盛期だったころを彷彿とさせるような建物でした。

私たちが到着したところ前のお蔵でお茶会をしていて、私たちにもぜひ参加してくださいと誘われ、おいしい和菓子とお抹茶を頂きました。
ここに何故立ち寄ったかというと、この開運道の講師である小美濃さんの主催している幕末史研究会に私は所属しているのですが、その会員の中に札幌在住の福井さんという方がいらっしゃって、前日の午前中、久しぶりにお会いしました。
そこで私が美国にこれから行くと話したら、彼の実家が昔その美国で鰊(にしん)漁をしていて、その建物が現在NPO法人によって管理運営されているので、ぜひ時間があったら見学してほしいと言われたためです。

伝習館の中には昔の鰊漁に使った道具や衣類なども展示してあり、なかなか興味深かったです。
次に雨も止んできたので自動車2台に分乗して積丹岬に向いました。
ちょっと小雨にはなりましたが、なんとか「島武意(しまむい)海岸」という「日本の渚百選」の海岸を見下ろす岬に行きました。昔は鰊を運ぶために造られたトンネルを抜けるといきなり断崖絶壁の海岸と積丹ブルーの海が目の前に広がり、その美しさに思わず声がでてしまいました。
これが晴れていたらどんなにか積丹ブルーが美しかったのではないかと想像するだけでちょっと残念でしたが、十分この景色を楽しみました。
この後は余市に行きましたが、その報告は第3弾でいたします。


積丹での海の幸・同窓会-1


このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

 

積丹での海の幸・同窓会-1

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

私のでた札幌の高校のクラス会は1年毎に北海道と本州と交互に旅行します。今年は北海道でのクラス会旅行です。
昨年の秋のクラス会旅行の時、毎回次回はどこでいつにするか相談します。私がぜひ積丹(しゃこたん)に行ってウニを食べたいと提案したら、皆んなが賛成してくれたので、実行の運びとなりました。
6月30日の1時半に小樽駅に奈良、神奈川、千葉、埼玉、札幌から総勢9名集まりました。
路線バスに乗り美国(びくに)という町に行き、美国観光ホテルに泊まります。天気予報によると次の日は雨なので、次の日に乗船予定していた遊覧船に乗りこみ、シャコタンブルーを求めていざ出発!

やはりお天気がすごく良かったわけではないので、なかなかシャコタンブルーには出会えませんでしたが、一枚だけいい写真が撮れました。
また水中海底がみえる船だったから、途中で海底にウニがたくさんあるのが見えたので、夕食への期待で胸が膨らみました。
このホテルはミシュラン一つ星で、なかなか予約が取れないホテルたそうで、幹事が必死で半年前に確保してくれました。
そして期待通りのコース料理、新鮮なお刺身にふんだんなウニという贅沢三昧の夕食でした。
二次会はお部屋で、札幌の八剣山ワインで盛り上がりました。
翌日のことはまた来週ご報告致します。
(注)写真は「美国のビアノ岬にある青い洞窟」です。


軽井沢散策ー2


このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

軽井沢散策ー2

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

それからは軽井沢千住博美術館、西武美術館(以前は池袋西武デパートの中にあった美術館)を見学し、後は石の教会と星野遊学堂という今結婚式をあげたいという希望が多く人気のスポットを見学しました。

石の教会は内村鑑三記念館で、無教会、非建築ということで有名な教会です。
内村鑑三については有名な人物なのでここでは説明を省略いたします。
石の教会のホームページによれば、「自然の中にいて、やがて自然の一部になったかのような何物にもしばられない自由、内村鑑三の無教会思想は何も規制することのない生きた建築、オーガニック建築によって蘇り、この地軽井沢で今も息づいている。」という説明です。
この教会ができたときは、建築界ではかなりのセンセーショナルになったそうです。

この日は結婚式が行われていたので、残念ながら中に入ることはできませんでしたが、外からは眺めることは許可されました。
実は私の従姉妹の二女が9月にこの教会で結婚式をあげることなっていますので、その時に内部をちゃんと見学することにします。
またその後にご報告できればと思います。
石の教会のすぐそばには星野遊学堂という教会もあります。
牧師さんは両方で6人いらっしゃって、当番で「石の教会」と軽井沢高原教会「星野遊学堂」とで結婚式をあげているそうです。

でも軽井沢高原は日本とは思いないようなすてきな高原でした。
こうして軽井沢の観光を終えてまたバスに乗り帰路につき、1泊2日のコンサートツアーが終わりました。


軽井沢散策ー1

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

軽井沢散策ー1

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

先週の続きです。
翌朝、長野県佐久郡小海町のホテル小海リゾートシティ・リエックスホテルを後に、軽井沢に向けて出発しました。
まず追分宿に行き街道を歩きました。この街道は「寛永12年徳川家光の代、諸大名の参勤交代の制度が実施され、ここを往来する諸侯のため、宿内には本陣、脇本陣、問屋、宿などを設置し、宿との西入口、この辺に枡形の道と土手(高さ役2.5メートル)を築いて宿内の警備取締りをした。」との案内板が出ていました。

途中に堀辰雄の愛した石仏(歯痛地蔵)というのがあったので、歯が痛いといっている友人とお参りをしました。
なんとも素朴なお地蔵様でした。

つづく・・・


佐久小海町フィンランドビレッジへの旅

このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

佐久小海町フィンランドビレッジへの旅

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

5月のさわやかな季節のなか、佐久小海町フィンランドビレッジに行ってきました。
とてもお天気が良く、東京駅から貸切バスに乗った瞬間から、どれだけ楽しい旅行になるかとわくわくしました。
あまり渋滞にあうこともなく、順調に長野県に入りました。
奥村土牛美術館に行きましたが、とてもすてきな和風のご自宅が記念館になっていました。
作品は代表的な絵がたくさんあり、100歳を越えた画家の一生を垣間見られました。
ちょっと不便な場所ですが一見の価値はある記念館でした。
お庭にもたくさんの花がきれいに手入れされていて、絵だけではなくお庭も楽しみました。
次に今フィンランドビレッジと言われている松原湖周辺に行きました。
景色をみてフィンランド村と名付けられた理由がわかりました。
周りには中央アルプスや南アルプスの山々が見え、松原湖というのは小さい湖の集合体だそうが、山脈、湖、畑のコラボが確かにフィンランドという感じです。

その中にヤルビーホールという町営のコンサートホールがあります。
多分、町おこしで建てたのでしょうが、シュタインウエイ&ソンのグランドピアノがあり、こんな山奥にとは思いましたが立派なホールでした。
その中で近藤沙織さんという桐朋大学出身の実力派のピアニストが下記の曲を演奏いたしました。

クロード・ドビッシー(1862-1918): 2つのアラベスク、仮面、版画
ジャン・シベリウス(1865-1957): フロレスタン
セリム・パルムグレン(1878-1951): 太陽と雲 作品102
フィンランド村にふさわしい曲目で、北欧のクラシックを堪能いたしました。
(注)写真は上から
・佐久小海町フインランドビレッジ、小海町音楽堂
・さながら、フインランドの景色
・フロレスタン演奏

演奏終了後、宿泊予定のホテル「小海リゾートシティ・リエックス」に行きました。
この日はこれで終わりました。
次の日の話は次回のお楽しみに・・・


新政府軍・白河役陣亡諸士碑-3


このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当します。

慰霊碑を読む〝碑のメッセージ〟

新政府軍・白河役陣亡諸士碑-3
捐躬報国(えんきゅうほうこく)
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

前回の・・・銘シテ曰ク】に続く碑文です。
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有尉佳城 白河之原 煌々烈士
爰留其魂 遺勲銘石 山岳倶存
【尉(うつ)タル佳城、白河ノ原ニアリ。
煌々(こうこう)タル烈士、爰(ここ)ニ其ノ魂ヲ留ム。
遺勲石ニ銘シ、山岳倶ニ存ス】

明治二十五年壬辰十一月
従四位勲四等文学博士 重野安繹撰
辨理公使従四位子爵 秋元興朝書
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これを要約しますと、
-・-・-・
「官軍」が奥羽ニ侵攻したとき、奥羽諸藩は軍事同盟を結び、幕府敗残兵も混じえ、天皇の軍隊に対し、「奥羽ノ咽吭(いんこう=のど)」白河城に拠って抵抗した。
官軍は、初戦では敗退したが、五月一日には、「会津・仙台・二本松・棚倉等ノ兵六百八十余人ヲ斃シ」、城を占領した。
白河進駐後、逆襲する数千人の「賊=奥羽同盟軍」を、六百余人の官軍が退けた。以来、官軍は兵力を強化し、反攻してくる賊軍と数十回交戦し、すべて撃退した。
六月二十四日には、「薩・長・土・大垣・佐土原・館林・黒羽ノ七藩ノ兵千余人」が、白河より出撃し、棚倉城を陥した。我軍はさらに進み、二本松と会津を討ち、賊軍すべてを掃討した。
この戦争で、官軍のうち「屍ヲ白河長寿院ニ?(うず)ムル者、凡ソ一百十五人。墓上唯其(ただその)氏名ヲ刻ス」。
二十五年を経た今、「当時ヲ追懐スルニ、恍トシテ世ヲ隔ツル如シ」。百年の後には、ここの「艱難の遺跡」も消滅してしまうであろう。ゆえに、七藩の旧藩主と、あの戦争に関わった者たちが、「躬ヲ損テ、国ニ報」いた「白河役陣亡諸士」の勲を不朽にすべく、これをたてる。
「煌々(こうこう)タル烈士、爰(ここ)ニ其ノ魂ヲ留ム」。

以上で碑文シリーズは一休みです。
ご愛読有り難うございました。安司弘子。

 


新政府軍・白河役陣亡諸士碑-2


このコーナーは安司弘子講師(左)
と宗像信子講師(右)の担当です。

慰霊碑を読む〝碑のメッセージ〟

 新政府軍・白河役陣亡諸士碑-2
捐躬報国(えんきゅうほうこく)
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

白河役陣亡諸士碑

捐躬報国  陸軍大将大勲位熾仁親王篆額

戊辰中興之元年春六師東征首収江戸城 徳川氏恭順謝罪而余賊尚東叡山不降乃撃殲之
【戊辰中興ノ元年春、六師(天皇の軍隊)東征シテ、首(はじ)メニ江戸城ヲ収(おさ)ム。徳川氏、恭順謝罪シテ、余賊、ナオ東叡山に拠リテ降ラズ。乃(すなわ)チ、之ヲ撃殲(げきせん)ス】

先是分軍転戦両総常野之間進徇奥羽
【之ヨリ先、軍ヲ分カチテ両総(上総/下総)・常野(常陸/下野)ノ間ヲ転戦シ、進ンデ奥羽ニ徇(めぐ)ル】

奥羽諸藩合従方命会津仙台実為之盟主 幕府逋竄之徒又往投之  共抗王師於白河城
【奥羽諸藩、合従(がっしょう)シテ命ニ方(さから)イ、会津・仙台実ニ之ガ盟主為(た)リ。幕府逋竄(ほざん)ノ徒、マタ往キテ之ニ投ジ、共ニ白河城ニ於テ王師ニ抗ス】

城当奥羽咽吭地勢険要賊極力拒守 官軍進戦不利退次芦野
【城ハ奥羽ノ咽吭(いんこう)ニ当タリ、地勢険要ニシテ賊極力拒守ス。官軍進ミ戦イテ利アラズ、退キテ芦野ニ次(やど)ス】

五月朔縦兵自三道往襲之鋒芒甚鋭 斃会津仙台二本松棚倉等兵六百八十余人 賊不能克棄城遁
【五月朔(さく=一日)、兵ヲ縦(はなち)テ、三道ヨリ往キテ之ヲ襲ウ。鋒芒(ほうぼう)甚ダ鋭ク、会津・仙台・二本松・棚倉等ノ兵六百八十余人ヲ斃ス。賊、克(か)ツ能ワズシテ城ヲ棄テ遁ル】

官軍乃入為根據畜鋭議進取 賊察我寡兵大挙来囲衆数千人 而官軍不過六百余人 備兵白坂駅使賊勿断我軍後
【官軍、乃(すなわ)チ入リテ根據トナシ、鋭ヲ蓄エ進取ヲ議ス。賊、我ガ寡兵ナルヲ察シ、大挙シテ来タリ囲ム衆数千人。而(しか)シテ官軍六百余人ニ過ギズ。兵ヲ白坂駅ニ備エ、賊ヲシテ我軍ノ後ヲ絶ツコトナカラシム】

爾来砲戦累昼夜大小数十合毎戦輒有利 既而官軍日益至賊勢日愈蹙退保其城砦
【爾来、砲戦昼夜ヲ累(かさ)ネ、大小数十合、戦ウ毎ニ輒(すなわ)チ利アリ。既ニシテ官軍日ニ益(ま)シ、賊勢日ニ愈(いよいよ)蹙(きわま)リ、退イテ其ノ城砦ヲ保ツ】

六月官軍別隊由海路達平潟攻平城抜之将以応白河軍也 二十四日発薩長土大垣佐土原館林黒羽七藩兵千余人 撃賊於関山乗勢下棚倉城
【六月、官軍ノ別隊海路ヨリ平潟ニ達シ、平城ヲ攻メテ之ヲ抜キ、将ニ以テ白河軍ニ応ゼントス。二十四日発シテ、薩・長・土・大垣・佐土原・館林・黒羽ノ七藩ノ兵千余人、賊ヲ関山ニ撃チ、勢イニ乗ジテ棚倉城ヲ下ス】

於是海陸諸軍悉会於二本松城下倶攻抜其城 乃分為二軍一由天狗角觝山一由猿嵓并保成本道 而三別遣一軍由三度己屋進共討会津 竟能得奏蕩平之功焉
【ココニ於テ、海陸ノ諸軍悉(ことごと)ク二本松城下ニ会シ、倶ニ攻メテ其ノ城ヲ抜ク。乃チ分チテ二軍トナシ、一ツハ天狗角觝山(すもうとりやま)ヨリ、一ツハ猿嵓(さるいわ=勝岩)并(ならび)ニ保成(ぼなり=母成)本道ヨリ。三ツハ別ニ一軍ヲ遣ワシ、三度己屋(さんどごや=三斗小屋)ヨリ進ミテ、共ニ会津ヲ討ツ。ツイニ能(よ)ク蕩平(とうへい)ノ功ヲ奏スルヲ得タリ】

是役也前後甚亡甚多而?屍白河長寿院者凡一百十五人 墓上惟刻其姓名未及録其事跡 於是七藩旧主及当時関其役者慨然会財以図其不朽徴文於余
【コノ役タルヤ、前後陣亡甚ダ多シ。白河長寿院ニ屍ヲ?(うず)ムル者凡ソ一百十五人。墓上タダ其ノ姓名ヲ刻シ、未ダ其ノ事跡ヲ録スルニ及バズ。ココニ於テ七藩ノ旧主、及ビ当時其ノ役ニ関ワリシ者、慨然財ヲ会ワセ、以テ其ノ不朽ヲ図リ、文ヲ余ニ徴ス】

嗚呼戊辰之変天下治乱之所判而勤王諸藩率先?厲諸士亦皆捐躬報国以賛襄鴻業 此雖国家隆運之所致而其烈亦可謂卓偉非常哉
【アア、戊辰ノ変ハ天下治乱ノ判カルルトコロ。而シテ勤王ノ諸藩率先?厲(てきれい=たちあがること)シ、諸士モマタ、皆躬ヲ捐テ国ニ報イ、以テ鴻業(こうぎょう)ヲ賛襄(さんじょう=助力し成功させる)ス。コレ国家隆運ノ致ス所ト雖(いえど)モ、シカモ其ノ烈タルモマタ卓偉非常ト謂ウ可キカ】

今二十五年矣 海内又安庶民謳歌追懐当時恍如隔世而百年之後物換星移艱難遺跡或将帰乎湮滅 此是挙之所以不可已也 銘曰 【今二十五年、海内(かいだい)マタ安ク庶民謳歌ス。当時ヲ追懐スルニ恍トシテ隔世ノ如シ。而シテ百年ノ後、物換(かわ)リ星移リテ、艱難(かんなん)ノ遺跡或イハ将ニ湮滅(いんめつ)に帰センカ。コレコノ挙ノ已(や)ム可カラザル所以(ゆえん)ナリ。銘シテ曰ク】
つづく

 


新政府軍・白河役陣亡諸士碑-1

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

慰霊碑を読む〝碑のメッセージ〟
新政府軍・白河役陣亡諸士碑-1
捐躬報国(えんきゅうほうこく)
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

 戊辰の「慰霊碑を読む」シリーズは今回を最終とします。
これまで読んでくださった方、よくぞお付き合い下さいました。
心から感謝申し上げます。
慰霊碑の前に佇み想いを向けて下さることに繋がったら何よりに存じます。
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白河の戦に参戦、あるいは会津・二本松方面などに出兵するために白河に駐屯し通過した「官軍=政府軍」諸藩は、三十数藩に及びました。今回は、官軍側の慰霊碑を読んでみました。
この碑が建つのは、白河城下の旧奥州街道沿い本町の「長寿院」です。この寺は町の人々から「官軍寺」と呼ばれていました。
入口には「明治二年」(1869)「慶応戊辰殉国者墳墓」と彫られた石柱。そこから進むと右手に盛り土された特別な一角があり、その壇上に白河周辺で戦没した官軍兵士を弔い讃えた「白河役陣亡諸士碑」が建っています。
篆額(てんがく)の「捐躬(えんきゅう)報国」は、官軍の最高長官だった有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王の文字。あの皇妹和宮の婚約者として知られていますが、この時は陸軍大将でした。
撰文は、重野安繹(やすつぐ)。旧薩摩藩士。薩英戦争の際には、談判委員として英軍と交渉。史学者。東京帝大教授。
書は秋元興朝(おきとも)。上州館林藩最後の藩主秋元礼朝(ひろとも)の養嗣子。外交官。子爵。

碑陰には、発起人二十二人の、氏名や爵位が列刻されています。
白河戦線に出兵した官軍諸藩の旧藩主家  毛利・島津公爵、山内侯爵、戸田・島津伯爵、大関子爵・・・や、白河での若き指揮官たちだった、明治政府の錚々たる高位顕官―川村純義・大山巌・板垣退助伯爵らです。
除幕式には、陸軍の軍楽隊も来て、政府の重鎮となっていた大山大将等、戊辰の役に関係した指揮官らも参列し、頗る盛大でした。
参道を挟んで向かい側は官軍墓地です。
ここには、長州藩三十名、土佐藩十八名、大垣藩十三名、佐土原藩十九人、館林藩十二人、薩摩藩二十七人、合わせて百十九人が埋葬されました。ただし、薩兵墓群は大正四年(1915)に白河城(小峰城)跡の鎮護神山丘陵に「戊辰薩藩戰死者墓」をつくり改葬しましたので、現状の被葬者は九十二人です。

次回は碑文を載せ、次々回は読み下し文に挑戦させて頂きます。


日本平と久能山東照宮ー2


このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師の担当です。

 

日本平と久能山東照宮ー2

    宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
 先週に続いての日本平観光レポートです。
日本平丘陵南側に位置する久能山(標高216m)の山腹には、徳川家康公ゆかりの久能山東照宮があります。私達従妹のご先祖様が徳川幕府の閣僚(軍艦奉行・勘定奉行)であった関係で、ここもまた目的地の一つです。
宿に着いて部屋に荷物を置き、お茶もそこそこに夕食の予約をして、早速、以前からずーっと行きたかった久能山東照宮へと出発しました。
その出発点となる日本平ロープウェイの乗り場までの往復は、ホテルの車で送迎して頂き、おおいに感謝でした。
そのロープウェイは、乗ってしまえばわずか5分ばかりですが、眺望は駿河湾、三保の松原を見下ろしながら進むのでかなりの絶景で、お腹は空腹でしたが目も心も存分に楽しめました。
久能山で下車してそこからは東照宮にまっしぐら、なんだか凜とした雰囲気になり、清清しい気持ちになりました。目の前の階段を息切れもなく元気に登り、家康公がご祭神である東照宮にお参りし、これで一つの目的は達しました。
この久能山東照宮は、家康公が亡くなられた後、久能城を廃止して建立されたものとお聞きしました。
本宮の裏手の階段をさらに上っていくと、家康公のお墓があります。
 昨年の秋、日光東照宮にはお参りしましたが、今回はさらに家康公がここを終焉の地にした久能山にもご参詣できて、すっかり気分は先祖帰りの幕臣でした。そこで博物館にも行き、家康公が駿府で実際に使用した道具等や、当時の武器・武具など2000点を超えて展示されているのを拝見し、これもまた感動でした。
名残を惜しみながらまたロープウェイに乗って日本平に戻り、富士山のビューポイントである展望台に立ち寄り、そこからも正面に見える美しい富士山をたっぷりと眺めることができ、同行全員が上機嫌でホテルへの帰路につきました。
ホテルに戻り、のんびりと部屋の全面ガラスのテラスから富士山を眺め、その素晴らしい景観を堪能しました。
夕食は、旬のサクラエビの天ぷらと地場のお魚のお寿司をShoo-setsu(由井正雪)という清水のお酒とともに頂き、さらに人生初の生サクラエビを頂き大満足でした。
こうしてほどよく酔って満腹となり、明日はどう行動しようかと考えながらも、今日は終わり、となりました。
それでも頭の片隅には、日本平の山頂には童謡「赤い靴」のモデルになった女の子とその母親(地元出身)の像があり、静岡県内の各放送局が共同で建設したという日本平デジタルタワー、日本平動物園、静岡県舞台芸術公園など、寄ってみたい場所はいくらでもあるのですが、美味しいお酒と素晴らしい景色に満たされた私は、もう欲も得もなく夢路につくのでした。


日本平と久能山東照宮ー1


このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)が担当します。

 

日本平と久能山東照宮ー1日本平と久能山東照宮ー1

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
この度、徳川家臣団大会2018(徳川みらい学会主催)への参加で静岡まで行って参りました。
従姉妹達と私は、咸臨丸総督で軍艦奉行から江戸城明け渡し時の勘定奉行・木村摂津守喜毅の子孫としての参加です。
大会前日の4月15日の午後、東京から新幹線で静岡駅まで行き、駅からは宿の送迎バスに揺られて長閑な茶畑やミカン畑風景などを眺めながらの観光気分です。有度山(307m)山腹の宿を目指して広葉樹林に囲まれた坂道をかなり登って、ようやく一夜の宿になる日本平ホテルに到着、早速、我々が泊る和風の豪華な部屋に案内されました。
その部屋から眺めた景色がこの写真通りです。
 午前中の雨が嘘のように晴れ、目の前にどーんと富士山がありまず。この見事な景観に接して同行者一同、まだご馳走を食べる前なのにすでに大満足の表情でした。
尤もこの写真は、ホテルで頂いたもので、さすがにプロが撮った写真です。私のスマホの写真とは大違いなのは当然です。
このホテルの売りである8割の部屋が富士山に面しているという言葉通り、それはそれは大きい富士山が雨上がりの青い空の中に美しく佇んでいました。
我が家から遠くに小さく見える富士山を垣間見るだけでも幸せと思っていましたが、目の前にある富士山は本当に高くそびえていて感無量でした。さrni,
さらに、その麓には駿河湾、三保の松原、清水港があり、さすがに世界自然遺産になっただけの景観の広がりで、1980年の日本観光地百選コンクールで第1位、2016年に「日本夜景遺産」に認定されたのも当然です。
それだけに、ごく普通の感受性の持ち主である私が、この素晴らしい景色を一望しただけで一瞬、日本人に生まれて良かった、と思ったのもごく自然の感情だったと言えるのです。
つづく・・・