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奥日光から華厳の滝まで

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

奥日光から華厳の滝までの旅.

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

湯の湖から中禅寺湖まで歩いたりバスに乗ったりで観光しました。
途中竜頭の滝で昼食をとり、中禅寺湖まで行きました。
途中の景色も素晴らしかったですが、今回初めて明智平ロープウェイに乗りました。
素晴らしい景色だったので、皆さまにご紹介いたします。
明智平からロープウェイで約3分。

日光で一番といわれる展望地点、明智平展望台。中禅寺湖・華厳の滝・男体山など雄大なスケールで見渡せます。
また東側には、切り立った断崖の連なる屏風岩や、はるかに続く山並みがご覧になれます。

私が行ったのは8月末でしたが、今行けば素晴らしい紅葉が見られることでしょう。


天狗のお山「迦葉山」

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

天狗のお山「迦葉山」

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

 過日、群馬県沼田市の奥山にある迦葉山(かしょうざん=日本三大天狗の一つ)に参拝してきました。
新幹線で上毛高原駅から車で30分くらいの所に位置します。
その縁起書によると
天狗のお山として知られる当山は、谷川連峰の東、沼田市より16キロに位置し、関東の霊域として名高い。春の新緑、夏は霊鳥「仏法僧」の声を聞き、秋には全山紅葉に染まり、冬は白雪に覆われる。
開創は嘉祥元年(848年)時の上野国の大守、桓武天皇の皇子葛原一品親王が比叡山三祖円仁慈覚大師を招き、国家繁栄、民主安泰の鎮守護国寺として開かれた。唐より帰朝まもない高僧慈覚大師は、大乗経中三会の法「迦葉仏鶏足山に出現し、不生不滅を示し、弥勒下生龍華院を期す」より、遠くお釈迦様の後を継がれた迦葉尊者が第一回の経典を作られた結集の地、鶏足山と山なみが同じであるとし、初の千人供養法会を開き、迦葉山龍華院弥勒護国寺となる。そして北関東黎明の基となり49院を擁し政治文化野中心として栄えた。
康正2年(1456年)改宗開山天巽慶順禅師行脚の途、弥勒中慈雲律師の高徳を慕い来山した。慈雲律師は天巽禅師の戒定慧の三学、座禅の徳風に感得して六百年の天台宗の宝燈を譲り入定せりという、これによりて曹洞宗となり迦葉山龍華院弥勒護国禅寺と号す。
天巽禅師に随身する神童に中峯あり、十年一日の如く禅師に師事し伽藍の造営から布教法にに尽くした。常に容顔変わることがなかったという。禅師が二世大盛禅師に譲られるや「吾、迦葉尊者の化身にて己に権化化業は終わったよって今後は永くこの山に霊し末世の衆生の抜苦与楽せん」と誓願して案山峰より昇天され、その後に天狗の面が残されていたという。

時が経つに従いその霊験は益々応所に現れ、参拝者の絶えることなく鎮守中峯大薩として祭られ迦葉山の信仰の中心となっている。
又、徳川初代将軍の祈願所となり朱印百石、十万石の格式を有し、七百十八町歩が下賜された。当時の面影を残すものとして、旧参道を上り切った右側に天然記念物馬隠れの杉がある。この杉より内は三蔵密教の霊域にて城主でも馬乗りを禁じ、馬が隠されても疑わずとして名付けられたものである。特に近年は霊鳥「仏法僧」の声を聞きつつ静かに座禅堂に坐し、古く迦葉尊者の禅風を慕う研修会や、一夜俗塵をはらい心静かに家内安全や開運を願う御参籠者にて賑わっている。
ということです。
写真のようにとっても大きな天狗の面が飾ってあり、全山がパワースポットのような所です。車でかなり上まで登れまれすので是非、いらしてみて下さい。


栃木市<蔵の街>に行きました。

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

栃木市<蔵の街>に行きました。

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
今回も秋のさわやかな日に栃木市に行ってきました。
栃木市は小江戸情緒あふれる蔵の街として観光に力をいれています。
先ず最初に巴波川の遊覧船に乗り込みました。
巴波川は浅い川で、鯉がたくさん泳いでいます。
船に乗る時に100円で鯉の餌を買い、まきながら乗船しているので、鯉も良くわかっていて船のそばに盛り上がるほど寄ってきて泳いでいます。
物凄くたくさんで、またまたとっても大きくというか太っていて、餌に食いつく顔はまるでナマズのようでした。
また鴨もいて上から餌をねらって的確に鯉の餌の上前をはねていました。
遊覧船は川が浅いので竿をさして進みます。
また乗客は船頭さんの指導の下に栃木河岸船頭唄に合の手をいれて盛り上がりました。
30分ぐらいでしたが、川岸の蔵の街並みで結構楽しめました。

次は「とちぎ山車会館」に行ました。
明治7年に神武祭典に山車をだしたことから始まり、現在は「とちぎ秋まつり」に勇壮な山車が10基くらい町ごとに繰り出しているそうです。
その山車は江戸・明治時代に造られた絢爛豪華なものです。
この会館にそのうちの3基が飾られていましたが、丁寧に保存されて素晴らしいものでした。
今度は実際にそのお祭りを見に行きたいと思もっています。
もし行きましたらまたご報告いたします。


甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談11

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師【右)の担当です。

 

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談11~
安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

京都黒谷の金戒光明寺は、幕末、会津藩が本陣とした浄土宗の本山です。会津藩の墓所を管理する塔頭西雲院の橋本住職は合同慰霊祭で白河の住職達とともに読経して下さいました。
橋本住職は、稲荷山に慰霊碑を建立する際の呼びかけに、「声かけをするのでパンフレットを送るように」と協力を申し出て下さり、西雲院とご自身のほかご家族や多数の知人からご芳志をいただいた経緯があり、初めての白河来訪となったのでした。
参加者にはもちろん歴史好きな方が多く、遠距離を厭わず福岡県・岐阜県・大阪府・京都府・愛知県・岩手県など津々浦々に及びました。

新選組にとっても、一番長い戦場となった白河との所縁によって、局長近藤勇と一番組隊長で白河藩士の子沖田総司、副長土方歳三の義兄で新選組を支えた佐藤彦五郎のご子孫達のほか日野新選組同好会など、新選組ゆかりの方達が参加されました。

ほかに、中世時代の白河を治めた白河結城氏の現当主や、最後の白河藩主阿部正外とその家老、勝海舟、木村摂津守など歴史上の人物のご子孫達もいらっしゃいました。

ここにご紹介できないその他大勢の方々のお陰様で、合同慰霊祭が盛会裡に終了したことをしっかりと心に刻み、感動の余韻を胸に感謝の気持ちを持ち続けたいと思います。

戊辰白河戦争で亡くなった人数は1,000人を超えます。
これは名前が分かっている戰死者の数ですが、実は、地元の人だけが知る「あそこには戊辰の時の戦死者が埋まっているので、決して土地をいじらないように」という先祖からの言い伝えや、「しびとぼり(死人堀)」などと呼ばれ、山あいの窪地に誰にも知られず眠っている戦死者もいるのです。

藩が消滅した白河は軍事的に空洞化しており、特異な状況にありました。これほどの犠牲者を出した「白河百日戦争」とも呼ばれる白河での戦闘は、これまで「白河口の戦い」と呼称され、会津の一つの出入り「口」と捉えられてきました。
なぜ知られることがなかったのか、どうして歴史の中に埋没してしまったのか、という疑問の回答はここにあります。

細かい行事を含め記念事業はまだ続きますが、来年3月10日に予定されている「海援隊トーク&ライブ2019」と、3月24日に行われる戊辰白河戦争をテーマにした楽劇「影向のボレロ」は、白河戊辰150周年記念事業の幕引きとなる大きなイベントです。
是非ご参加頂ければと思います。
この項はこれで一段落、改めて出直して参ります。長期のご愛読有難うございました。安司弘子。


甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演 余談~10

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師【右)の担当です。

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~10

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

2017年12月 「奥州白河からふるさとへ伝えた盆踊り『白河踊り』」を萩市の中原正男さんが出版。
白河市と萩市の交流は、まさに中原さんが萩周辺で踊られている「白河踊り」という盆踊りに関心を持ったことに始まります。
奥州への出兵後、帰還した長州兵は待遇の不満によるクーデターを起こしました。新政府から武力鎮圧された兵士らは、危険分子として注視され、妻子や孫達にすら諸隊士だったことを言えない人生を送りました。
そんな彼らにとって、年に1度「白河踊り」を踊ることが、仲間への慰霊であるとともに、自分たちは長州藩の兵士だったという矜持を感じる瞬間だったに違いないと、中原さんは考察されます。
「白河踊り」の研究に10年間もの時間を費やし、その成果の集大成として一冊の本を刊行されたことに心から敬意を表します。

『NHK俳句』4月号が、2018年3月20日発行され、これに先駆けての取材に同行しました。
『旅を詠む』のコーナーに、オールカラー6ページで紹介されたプロローグは、<戊辰戦争の激戦地でもあった白河はその昔、芭蕉が『おくの細道』で訪れたみちのくへのスタート地点でもあった。>
芭蕉が辿った「おくの細道」は、「戊辰の道」と重なり、まさに戊辰150年の節目にふさわしい目玉企画でした。

さて、ここまで、本年7月14・15日に開催された、白河戊辰150周年記念事業「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」に至るまでの余談を備忘録として書いてきました。
先に述べたとおりその概要は宗像信子さんがレポートして下さいましたので、余談を閉じるに当たって、このイベントに全国からご参加いただいた方々について少し触れたいと思います。

遠く長崎からご参加いただいた荒濱さんは、歴史研究会の運営委員で特別顧問です。
2009年7月、「天地人クライマックスin白河」というイベントに参加された際、白河には民間力があると捉え、歴史研究会の全国大会を白河で、と推薦して下さった恩人です。荒濱さんとの出会いはその前年で、白河訪歴は10回を超えています。
同じく、長崎在住で10回の来白を数える歴史仲間の工藤さんは、「会津と長崎をつなぐ絆」「白虎隊の会長崎支部」「長崎会津会」を率いる会津ファンです。長崎からは、会の仲間で山川健次郎のご令孫木下さんほか3名様をお連れいただきました。

下関市から来られた吉井さん一行5名様とは、美祢市で行われた「恩愛の碑」の除幕式以来の再会で、2日目には吉井さんと2人で稲荷山で新聞の取材を受けました。
同じ山口県の萩市からは来賓としての市長ほか、「長州と会津の友好を考える会」を主宰し、会津にはこれまで60回以上も足を運び、民間交流を進めている元萩市医師会長の山本さんが、前市長を含む40人のツアーを組んでお出でになりました。
このグループとは別に、「白河踊り」の研究家中原さんも、主宰されている「楫取素彦研究会」のお仲間たちと参加され、研究のための取材先や著書の販売店に挨拶回りなどもされました。
つづく


「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~9&墨田川巡り

 このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

隅田川の水上バスに乗りました。

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)

秋のさわやかな午後に、浅草から水上バスに乗りました。
いくつも橋の下をくぐり、進んで行くと聖路加国際病院が見えて、「年をとったらあそこで最後を迎えたいな」なんて思いながら、両岸の景色に見とれていました。
そこに何と前の日にお引越ししたとのニュースになっていた築地市場が見えてきました。
市場の中はもうガランとしていましたが、1台ターナーが走っているのが見えました。今回のお引越しのニュースでターナーという乗り物を知りました。
いつも道路から眺めていたのに、川からみると結構広くて立派だったんだなって思いました。
記念に写真を撮りました。

築地市場を過ぎたら、今度は江戸湾に面した浜離宮恩賜公園の船着き場に到着しました。
私は上陸はしませんでしたが、たくさんの観光客が乗降していました。
今から150年前に15代将軍徳川慶喜が会津藩藩主松平容保や弟の桑名藩藩主松平定敬らと共に、 大阪から開陽丸で逃げ帰って来ときに着いた船着き場でもあります。 その乗員の中には私の友人のご先祖、万延元年遣米使節の通詞見習いだった長野桂次郎もいました。イケメンだった桂次郎はアメリカに着くとたちまち注目され、ワシントンではトミーの愛称で親しまれ、使節団切っての人気者になり、トミーポルカという曲まで出来たそうです。そのトミーさんも、大阪から逃げ帰った将軍・慶喜のお供をしていて、この浜離宮の船着き場に着いています。それにしても、開運丸艦長の榎本武揚が知らない間に、将軍が出航させたというのですから、将軍に対する榎本館長の怒りも理解できます。しかも、将軍は逃亡寸前まで部下に徹底抗戦を命じていたのですから、指揮官の敵前逃亡は誰もが理解に苦しむものです。このような将軍弱腰な行動が、長く続いた徳川幕府の権威を大きく失墜させたことを考えると、戦いの勝敗以上に残念な出来事でした。
なお、この浜離宮は幕末まで、ずうーっと浜御殿として何百年も将軍家の別荘だったのに、海軍伝習所が浜御殿に移動してからは、優雅な御殿ではなく幕府崩壊へのきなくさい舞台にもなってしまったのです。
浜離宮を後に日の出桟橋に行き、そこで水上バスをおりました。
さわやかな約1時間半くらいの水上バスの旅でした。
たまには皆さまも乗船されて、昔は大川といわれた川の両岸を江戸時代を思い起こしながら、のんびり見学なさいませんか?

(注)村長の一言
上記コラムの筆者・宗像信子講師のご先祖は、この浜離宮に御浜奉行として屋敷をもち代々薬草の栽培などもしていました。福沢諭吉、勝海舟らを率いて咸臨丸提督として渡米した海軍奉行・木村摂津守喜毅(よしたけ・2千石)は宗像信子講師の祖祖父です。木村喜毅は、徳川幕府最後の勘定奉行として江戸城明け渡しにも立ち会っています。

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このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~9

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

2015年8月、最大の激戦地稲荷山に戊辰戦争白河口の戦い記念碑「戊辰の碑」を建立除幕。
97日間も続いた奥羽の要衝白河を巡っての争奪戦で、取り残された東軍の屍は地元民によって埋葬され、新政府軍により墓碑が作られた戦死者とともに等しく弔われてきました。
「戊辰の碑」は、東西を問わず同じ戦争の犠牲者として、現在に至るまで香華を手向け続けてきた、地元の人々の「仁」の心が反映されています。
そして、全国からも多くの「仁」の心が寄せられました。
感動するシーンや心温まるエピソードはいくつもありますが、除幕式には、ここ「開運道」の主宰者花見正樹さんのお姿もありました。花見さんは寄付をされたばかりか、テレビ局をお連れ下さり、ご自身もラジオで実況中継をして下さる形で、「仁」の心を示して下さったのです。

2016年10月に山口県美祢市にて行われた「恩愛の碑」除幕式にいたる経緯は『楢崎屋敷物語』の章で書きましたが、「白虎隊の会」設立時からのご縁が白河との交流にも繋がっています。

2017年10月、「戊辰役東軍殉難者慰霊祭」が開催されました。
この慰霊祭の主宰者で、150冊以上もの新選組関連本を世に送り出し、熱烈な新選組ファンと一大ブームの創出者となった元新人物往来社社長の大出俊幸さんから白河で開催したい、懇親会は是非とも黄檗宗 龍興寺(通称山の寺)でとのご希望がありました。大出さんはこのお寺で行われてきた手作りの田舎料理による懇親会の素晴らしさを何度か体験されていたからです。
因みにこの手作り懇親会は住職の手打ちそばが振る舞われ、料理は全て地元主婦たちの手作り、飲み放題・食べ放題・時間無制限で超安い会費なのですから、そりゃあ人気に決まっているのです!

少し内幕をいいますと、お料理から宴の後の後片付けまでの全てがボランティアですから、その協力者を確保するのはなかなか難しいこともあります。
でも、白河に来て下さる方々の顔を思い浮かべると、感謝の気持ちと喜んでいただきたい想いが募り、おもてなしの心が伝わるこの形をなんとか実現しようと頑張るのです。
さて、このお寺には会津藩の軍事奉行・海老名衛門の墓と慰霊碑と「44人同穴」と刻まれた会津兵の合葬墓があります。
住職の快諾で、場所の移動もなく慰霊祭と直会ができるまさに東軍の慰霊祭として相応しい会場となりました。
勝海舟の子孫・高山みな子さんが東軍の御魂に捧げる祭文を奉読。白河藩第22代当主阿部正靖さんの講演後、皆さんお待ちかねの手作り懇親会がくり広げられ、戊辰150年の前段として大きく貢献できました。
大出さんは「土方歳三忌」「近藤勇供養祭(勇忌)」のほか、白河藩阿部家の家臣沖田勝次郎の嫡男・総司の慰霊祭「沖田総司忌」を、彼が生まれた阿部家下屋敷近くの「専称寺」で毎年執り行っています。

つづく

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このコーナーは宗像信子講師(左)と安司弘子講師(右)の担当です。

ナイアガラ瀑布!

宗像 信子
(開運道芸術部門顧問、咸臨丸子孫の会幹事)
今年の夏はとても暑い日が続き、うんざりしてしまいました。
せめて旅行では涼を伴うところに行きたいと急遽思い立ち、カナダを選びました。
それも一度は実際に見てみたいと思っていたナイアガラの滝に行きました。
今回も娘と二人旅でした。エアーカナダに乗り、トロントまで直行便でした。空港からはバスに乗り時約1間半でナイアガラに到着しました。
ホテルに荷物を置き、早速ナイアガラの滝を見物に行きました。

途中カナダのビールで夕食をとり、坂をおりて10分くらいで滝にたどり着きました。
目の前で見る滝のなんと大きいこと、そして美しいのです。
夜でしたので、左のアメリカ滝は緑、右側のカナダ滝は青とライトアップされていてそれはそれは綺麗で雄大な景色でした。
また15分間でしたが、花火があがり、日本で花火大会に行っていませんでしたので、夏の風物詩をカナダで体験しました。

滝については皆様ご存じですので説明はいたしませんが、実物を目の前にするとその大きさ、水の量、勢いには圧倒されました。
テレビや写真では何度もみ見ていましたが、やはりそこに実際に立ってみるとその存在感はすごいです。
翌日は船に乗って滝までクルージングです。
カナダ側から乗った私たちは赤のビニールカッパを着て赤い集団です。
反対側のアメリカからの船は乗船者が青のビニールカッパを着ていて、赤の集団の船と青の集団の船が次々と滝のそばまでいきました。
右舷に乗ると水しぶきが浴びられるということだったので、早速右舷に行きました。
本当にカナダ滝のそばまで行ったら、滝のような(けっしてシャレではございませんが)水しぶきをたくさん浴びました。

水はそんなには冷たくありませんでしたが、とっても気持ちがよかったです。マイナスイオンも浴び、肺の中が洗われるようでした。
私たちは滝へのクルーズができたので、滝の裏側への観光入場はありませんでした。これは冬場の観光のようです。
この滝のそばには橋があり、その橋の真ん中がアメリカとカナダの国境で出入国検査をしているという珍しい橋でした。
まえからあこがれていた滝にお目にかかれて幸せな2日間でした。

 


甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演 余談~8

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~8

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

2014年9月、歴史仲間が率いる「白虎隊の会」長崎支部が白河・会津を訪問。市内の史跡を案内し、友人にとっては既に馴染みになった「山の寺」での手作り懇親会でおもてなしをさせていただきました。
友人は私からのイベント案内や自身の企画で、これまで10回も長崎から馳せ参じてくれている得がたく有難い同士です。

翌10月には「会津・白河慰霊の旅」として、吉井克也さんを中心に活動する「白虎隊の会」下関支部のご一行がお出でになり、長州藩士の眠る長寿院はじめ戊辰ゆかりの場所にご案内。
戊辰の時、東山道先鋒として長州藩の諸隊を率いたのは中隊長の楢崎頼三です。諸隊士たちは白河の民衆と盆踊りを楽しみ、帰郷後にも懐かしんでそれぞれの地元で踊りました。
150年の時を経たいま山口県内の80カ所以上で踊られつづけ、「白河踊り」と呼ばれているのは奇跡としか言い様がありません。楢崎は白河で右手に銃弾をうけ負傷しましたが、会津戦争後、自刃白虎隊士でただ一人蘇生した飯沼貞吉を自分の所領地に連れ帰り養育しました。
このとき楢崎から貞吉の世話を頼まれたのが、吉井さんの曾祖母に当たる高見フサでした。
この旅は、会津の長州に対する長恨が語られ続けて現代に至ることへの、ある種の警戒心を持った旅であり長年の懸案だったということです。

遡って、2013年2月には「白河踊り調査団」が萩市を訪問しています。調査団の一員だった私は白河踊りの研究家中原正男さんとお目にかかり、その研究成果をご教示いただき顕彰してきました。その一つとして歴史春秋社刊のムック本『白河』に中原さんの研究成果を寄稿していただくなどしています。

同年4月、元萩市医師会長で「長州と会津の友好を考える会」代表の山本貞壽さんが野村萩市長の親書を携え「八重の桜・復興支援ツアー」と題し、20数名の一団を率いられました。
念願の吉田松陰が東北遊歴の折りに宿泊した旅籠(現旅館)を見学し、鈴木白河市長も列席した交流会では「白河踊り」をともに踊り盛り上がりました。前述の「調査団」が接待メンバーとしてお迎えしたのは言うまでもありません。
山本氏はこのとき差し上げた冊子『官軍戦没兵士の墓遍路』(金子誠三著)に強い関心を示されました。
山口県内で是非配本したいと切望されましたが、既に残部は無く急遽500冊を復刻。この500冊はすべて山口県下に配られました。
「白河踊り』の研究家中原正男氏とともに白河市と萩市の交流の下地を作られた山本氏の活動は、8月、「萩市民号」での公式訪問という形に結実し、市長を含む40名もの萩市民が来白されました。
9月、さらに山本氏は自身が所属する萩医師会の仲間たちをお連れ下さり、長州兵墓のある長寿院に再び参拝しました。

つづく


甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演 余談~7

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~7

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

司馬先生に関連する事項はまだ続きます。。。
2014年8月26日、BS朝日で『にほん風景物語 司馬遼太郎と会津・白河のみち〜「街道をゆく」を歩く〜』が放映されました。これに先駆けて、現地情報などで少しばかり協力させていただいたお陰で私は撮影時に居合わせることが出来ました。
このときの旅人は作家の山本一力さん。
忘れられない光景があります。
知らない方ばかりのところに駆けつけ場違いな感じがして戸惑っていたとき、野菜の詰まった大きなレジ袋を下げて一人の女性が現れました。
近くの産直で購入されたものでした。
福島県は、原発事故による風評被害のまっただ中で、福島の野菜を避ける風潮が地元住民にもあった頃です。
その女性の姿を見たとき、私は感情がこみ上げてきて思わず声をかけました。「白河で野菜を買って下さったのですか?有難うございます!」
そして、しばらくお野菜や料理の話など主婦同士のような会話をするうち、「もしかしたら山本に何かお話があったのでは?」と。

そう、一力先生の奥様だったのです。すっかりスタッフの一人だと思い込んでいた私は、もう本当にビックリしました。
さすがは作家の奥様、観察眼があるのですね。もっとも当時私は「戊辰戦争白河口の戦い」の啓蒙に携わる「桜プロジェクト」のスタッフでしたから、少しでも白河の特異な状況を知っていただけたらとパンフレットや資料を携えていたのでした。
撮影中の一力さんに代わって奥様がiPadに記録して下さったのは長州に伝わる「白河踊り」でした。
そして、数ヶ月後、奥様から思わぬご連絡が。
もっとお話を聞きたいのでまた白河に行きたいとのことでした。
ご夫婦で取材に来て下さったその日、ひとりで応対することに危惧を感じた私の傍には博識な白河の重鎮、人生の達人である金子誠三先生がいらっしゃいました。
お二人は金子先生のユーモアを含む会話に魅了され、すっかりファンになられて私の目論見は大成功。
そして、私たちもご夫妻の飾らず控えめなお人柄に心底感激しました。
さらに、ちかく萩市で講演予定があるとお聞きし、「白河踊り」の研究家中原正男さんと講演会の会場で面談していただけるおまけ付きとなりました。
その後白河図書館での講演会をへて、つい先日にも白河にお出でいただく機会があり、改めて素晴らしいお人柄を実感できました。嬉しいご縁がつづいています。

つづく


甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演・余談~6

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像信子講師(右)の担当です。

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~6

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

2013年9月、白河市民会館で講演会「八重の時代と新選組白虎隊」を開催。
作家で時代考証家の山村竜也氏が「八重の桜と新選組」を、白虎隊士飯沼貞吉の孫・飯沼一元氏が「八重の桜と白虎隊」の演題でお話しくださいました。

なお、山村氏は「八重の桜」の時代考証を担当されています。
また、近藤勇の生家子孫宮川清蔵氏と井上源三郎子孫井上雅雄氏らによる天然理心流の演武も併せておこなわれました。    このイベントに全国から集まってくれた歴史仲間たちは、前日、那須で集い、青木周蔵別邸や大山巌・捨松の別邸、大山家墓所を見学、土地の古老から板室の戊辰戦争についての言い伝えを聞くなどして白河に移動しました。

2014年1月から私は福島民報新聞の読者コラム欄「民報サロン」に6回連載の機会をいただき、うち2回は戊辰白河戦争をとりあげ「『八重の桜』のたまもの」・「白河踊りが結ぶ縁」と題して書かせて頂きました。
2014年2月、講演会「戊辰戦争と司馬遼太郎」を開催し、司馬先生の最後の番記者だった週刊朝日編集委員の村井重俊氏に語っていただきました。                      郷土史家の荒井忠秋氏も「戊辰戦争 歴史の裏通り」をテーマに、戊辰白河戦争のエピソードなどを披瀝されました。       この講演会は、かつて白河が経験したことのない積雪70センチという豪雪に見舞われた日でした。                地元の人たちは家から外に出られないほどの最悪の状況で、主催者側の私自身も色々と手を尽くしてやっと会場に辿り着くことが出来たのでした。
村井氏をはじめ、遠く関東方面や静岡などからの参加者が前泊さ
れたことでようやく開催に至ったという忘れられないエピソードとなりました。
したがって聴講者はもちろんわずか。ですが、少人数の参加者が集った懇親会は格別の一体感でした。                          余談ですが、前述の『司馬遼太郎の街道』や『週刊 司馬遼太郎』は村井重俊氏が主筆として記事を書かれており、また氏には著作『街道をついてゆく』がありますのでお読み頂けたらと思います。

つづく


甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演・余談~5

このコーナーは安司弘子講師(左)と宗像+信子講師(右)の担当です。

白河戊辰150周年記念事業
~「甦る仁のこころ 合同慰霊祭・特別記念講演」余談~5

安司 弘子
(歴史研究会白河支部長)

「八重の桜」が放送される中の2013年5月から週刊朝日が『司馬遼太郎の街道「白河・会津のみち」の世界』を連載。
戊辰戦争120年の節目に司馬先生に講演をしていただいたことから、当時のことにも触れています。
記事には白河城(小峰城)のはじめの主と終わりの主として、中世時代に約400年ものあいだ白河地方を領有した「白河結城氏」の末裔結城直樹氏と幕末の白河藩主阿部家の現当主阿部正靖氏を紹介しており、阿部家家老子孫の平田重樹氏も同席しての取材でした。
また、結城氏の居城だった白川城を、国重文結城家文書(90通)の研究家でもある佐川庄司氏と、私が私淑する白河の重鎮金子誠三氏にご案内いただき、石碑や祠が震災で倒れたままになっている状況も紹介。
坂本龍馬の従兄弟・沢辺琢磨が初代の司祭を務めた白河ハリストス教会には司馬先生も訪れており、管理人の大寺浩さんが説明されています。
さらに、西郷頼母の研究家で稲荷山に「蝸牛歌碑」を建てた堀田節夫氏と西郷頼母の弟の末裔である山本英市氏の話も掲載。
堀田氏が亡くなった今、時々思い出す取材の情景です。
週刊誌での連載はその後ムック本『司馬遼太郎の街道1』となり再び書店に並びました。

週刊朝日は以前にも白河を取材し、2009年『週刊 司馬遼太郎』~徳川慶喜の孤独~の章に掲載。
今『白河大戦争』の著作が売れている植村美洋氏(ペンネーム・白川悠紀)と、司馬先生招致に奔走した一人で『街道をゆく』の挿絵画家須田剋太氏から絵を貰ったという、ハリストス教会と向かい合う書店「昭和堂」の主人鈴木雅文氏にも会っていただきました。
この項では「白河・会津のみち」の文章から〈白河の庶民は戦争の時は息をひそめて済むのを待ち、戦闘がおわると、そのつど両軍の戦死者を埋葬してやった。以後、白河は、ほとんどが無縁仏になったこれら戦死者の墓を百二十年間まもってきたのである〉と引用し、司馬先生が白河を「人情敦煌の地」とまで表現していることを取り上げてくれました。
そのご、この記事も週刊朝日ムック『司馬遼太郎の街道Ⅴ』に修められました。

つづく